自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
萩野篤人(はぎの あつひと)
一九六一年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家、小説家。IT関係会社に在職中から執筆活動を続け、二〇二三年、相模原障害者殺傷事件をテーマにした評論『アブラハムの末裔』で第一四回金魚屋新人賞を受賞。論考『モーツァルトの声・裏声で応える小林秀雄』『九鬼周造と偶然性をめぐって』、小説『春の墓標』など。
■小熊秀雄の童話について■
池上 二年半にわたって戦後詩人の再評価を行ってきたこの対話も、いよいよ大詰めとなりました。最後は鶴山さんのご提案で小熊秀雄を取り上げるわけですが、小熊秀雄は詩史的には近代詩人ですね。なぜ小熊秀雄なのか、その意図をご説明いただけますか。
鶴山 小熊さんは戦前までのいわゆる〝近代詩〟の中でもよく読まれている詩人ではありません。しかし〝戦後詩〟に最も近い詩人は小熊秀雄だと思う。詩の質はほとんど戦後詩だと言っていい。過小評価されているのが不思議でならない。
小熊が過小評価というか敬遠された理由の一つは彼にまとわりつく左翼詩人のイメージではないかと思います。こんなことを言うとえっらい批判されるでしょうが日本人は基本保守的です。「お上の事には間違いはございますまいから」(森鷗外「最後の一句」)ではないですが、サイレントマジョリティは時の政権におおむね従順で平穏な生活を揺るがす反体制を嫌う。戦前の社会主義者や戦後の学生運動に対する社会の冷たさを見てもそうですね。シベリア帰りの石原吉郎は親類からアカではないことを証明しろと迫られ学生運動の闘士たちは就職などで非常に苦労した。現代のSNS時代は反体制的言説が溢れ返っていてそっちの方が目立つほどですが、大っぴらに活動するとよほど社会的力を持っていない限り家庭や学校、職場で白眼視されるのではないか。
小熊さんはプロレタリア詩人です。左翼詩人だと言ってもいい。これは彼の出自と生育環境を考えると致し方ない。ただ彼を社会主義革命を信奉した政治活動家とするのは間違いです。現在よりも遙かに厳しい貧富の差と社会システムの歪みに憤った詩人ですがそれを変える可能性があった社会主義に接近したに過ぎない。本質的に自由主義者でありよりよい社会を求めた。小熊さんにまとわりつくパブリックイメージを排して彼の仕事の意義をフラットに論じたいですね。
池上 小熊秀雄の詩は、いま読んでも古びていないことに驚きます。
鶴山 本当にそうですね。まず小熊秀雄の略歴を紹介しておきます。戸籍上では明治三十四年(一九〇一年)北海道小樽市生まれ。父三木清次郎、母小熊マツ。父母の苗字を別に記したのは清次郎とマツが入籍していなかったからです。また小熊は自筆略歴で生年を三十二年(一八九九年)と書いています。
実母マツは秀雄三歳(満年齢)の時に死去し父はすぐにナカを後妻に迎えました。この時親族会議が行われ秀雄はマツの私生児として入籍された。戸籍と自筆略歴で生年が違うのはそのせいかもしれない。秀雄は徴兵検査の際に戸籍を見て自分が私生児であることを知り、激怒してそれまでの三木姓を捨て小熊姓を名乗るようになった。また秀雄には七歳年上の異父姉ハツがいました。清次郎がナカと結婚するとハツは養女に出され養家から北海道の料亭に五〇〇円で身売りされた。秀雄は継母と折り合いが悪く父が亡くなったあと絶縁状態になりますが年季が明け結婚して旭川に住んでいたハツとは生涯仲が良かった。
明治四十五年(一九一一年)、一家は日露戦争後にロシアから日本に割譲された樺太に転居。秀雄の最終学歴は十五歲で樺太泊居町高等小学校二年卒。自筆略歴に「少年時代より殆ど独立の生活を営む」とある通り卒業後は漁師や農業などの雑役に従事した。パルプ工場で働いていたときに機械に右手を挟まれ食指(人差し指)と中指を失っています。
大正十年(一九二一年)に秀雄は旭川のハツの元に身を寄せていましたが暗い事件が起きました。父と継母には子がなくチエを養女にしていたのですがチエが妊娠してハツを頼って樺太から逃げてきた。どうやら父清次郎の子らしい。ハツはチエを引き取りハツ夫妻にも子がなかったので養子にしていた男子と結婚させた。
大正十一年(一九二二年)二十一歲の秀雄はハツの紹介で旭川新聞社に見習記者として入社。すぐに社会部記者となり文芸欄も担当した。秀雄は絵も得意でしたが当時の新聞はビジュアルに写真とイラスト(スケッチ)併用していたので記者時代にその腕を鍛えたようです。この頃から旺盛に詩や童話を執筆・発表し始めます。十四年(二五年)崎本つね子と結婚、十五年(二六年)一人息子焔誕生。秀雄は旭川新聞記者時代から上京を切望していて何度か試みていましたが昭和四年(二九年)に豊島区長崎町にあった芸術家村、通称・池袋モンパルナスに転居して晩年まで長崎町の貸家を転々としました。
上京後は定職につかず文筆業で暮らしましたが当然極貧。プロレタリア詩人会、その後継の日本プロレタリア作家同盟(ナップ)に参加。昭和十年(一九三五年)『小熊秀雄詩集』と長篇叙事詩集『飛ぶ橇』を同時刊行。装幀は池袋モンパルナスの画家・寺田政明。十三年(三八年)に初めて喀血。詩集は出しましたが十二年(三七年)に勃発した日中戦争によりプロレタリア作家への締めつけが厳しくなりじょじょに発表の場がなくなってゆきました。十五年(四〇年)十一月二十日結核で死去。満三十九歲、自筆略歴によれば四十一歲。二十年(四五年)長男焔結核で死去、享年二十歳。生前にまとめていた第三詩集の原稿は戦後の二十一年(四六年)に中野重治の尽力で『流民詩集』として刊行されました。
ザッと小熊さんの人生を概観しましたが当時の最貧層の家の子どもとして生まれたと言わざるを得ないでしょうね。ただ高等小学校卒で新聞社に潜り込みすぐに頭角を現したことからわかるように大変頭のいい人でした。小熊のような出自の人が世の中理不尽だと思わない方がおかしい。しかし社会を激しく攻撃することはなく青年期までの辛い生活についてもほとんど語らなかった。荒れ狂うデーモンは抱えていましたが生涯陽気で前向きな人だった。
萩野 小熊のデーモンがもっともよく表現されているのはやはり詩だと思いますが、そこはお二人に委ねて、僕はまずかれの童話について語りたいですね。どれもこれも素晴らしいので。どこがいいかというと、童話って「めでたしめでたし」で終わる話が多いじゃないですか。子ども向けだと思って。子どもをバカにするな、と言いたい。グリム童話だって日本のわらべうただって、もともとは残酷な話だったり性的な隠喩があったりして、それが子どもにとってはリアルな世界なのに書き換えられたり、意味が隠されたりしていくわけです。子どもってそもそも残酷な生きものですし、大人が思うよりずっとリアリズムの世界を生きてますよ。それに対して「大人のメルヘン」なんて言われるものまであらわれて、もう二重にダメだと思いますね。小熊の童話にはそんな大人の眼っていうフィルターがありません。予定調和もありません。名作と言われる「焼かれた魚」は言うまでもありませんけど、僕の好きな「たばこの好きな漁師」、「緋牡丹姫」、「ある夫婦牛の話」、「ある手品師の話」といった作品は、どれも曇りのない子どもの透徹した眼差しによって、この世の絶望も恍惚も理不尽もそのままに描いていて、しかもそれが物語なのに詩になっていてね。「ある手品師の話」は老いた放浪の手品師がだんだん芸ができなくなって、それがある美しい街の人出でにぎわう橋の上で、さあ見てらっしゃいというところで、手品のネタをここまで乗ってきた船の中に忘れてしまったのに気づいた。それでとうとう橋から身を投げてしまうという話です。締めくくりはこうです。
――やあ、手品師が死んでいる。
青草の上に、冷めたくなった手品師をとり囲んで、河岸で子供たちがわいわい騒ぎました。手品師は、眠ったような穏やかな顔をして死んでいました。手品の種のはいった袋を枕にして、その袋からは、綿細工の髭の長い人形が、お道化た顔をはみだして、子供たちの顔を見ているようでした。
(「ある手品師の話」『小熊秀雄童話集』創風社)
何とも言えない余韻でしょう。天性の童話作家としか言いようがない。
池上 同感です。小熊秀雄の童話「焼かれた魚」をアーサー・ビナードさんが英訳して、市川曜子さんが銅版画を付けた『焼かれた魚 The Grilled Fish』という本が出版されています。これは、もう詩画集と言ってもよいもので、小熊秀雄の童話とアーサー・ビナードさんの英訳と市川曜子さんの銅版画が響き合った、すばらしい作品です。
とても不思議なご縁なんですけれど、安東次男篇でお話しした、ぼくが子どもの頃に英語を習っていた市川信子先生のお嬢さんが銅版画家の市川曜子さんなんです。市川先生のご自宅があったのが豊島区の長崎で、池袋モンパルナスの画家たちが住んでいたエリアのひとつです。市川先生は小熊秀雄の妻の小熊つね子さん(明治三十七年[一九〇四年]~昭和五十七年[一九八二年])と親交があって、晩年のつね子さんが入院されていたときに、市川先生に連れられて高校生のぼくもお見舞いに行ったことがありました。詩を書いている若い人ということで紹介されて、がんばってくださいね、と言われた記憶があります。
その頃、詩人の木島始さんたちがやっていた小熊秀雄の会があって、市川先生から誘われて二回ほど参加しました。文芸評論家の小田切秀雄さんもいらっしゃいましたね。その会で小熊秀雄と仲がよかった画家の寺田政明の息子で俳優の寺田農さんによる小熊秀雄の詩の朗読を聴きました。俳優だけあって、朗々としたすばらしい朗読で、とても強い印象を受けました。そんなこともあり、当時は「荒地」派の戦後詩や現代詩しか読んでいなかったぼくが、例外的によく読んだ近代詩人が小熊秀雄だったんですよね。
「焼かれた魚」は、都会の家庭で食べられるために焼かれて皿に乗せられた秋刀魚が、海が恋しくなって逃げ出すというストーリーです。
ことに秋刀魚にとつて忘れることの出来ないのは、なつかしい両親と仲の善かつた兄妹達のことでした。秋刀魚が水から漁師に釣りあげられて、その時一緒に釣られた秋刀魚達と石油箱にぎつしりとつめられたまゝ、長い長い汽車の旅行をやりました、そしてやつとの思ひでうすぐらい箱の中から、あかるい都会の魚屋の店先にならばされました。
そこには海の生活と同じやうに、同じ仲間の秋刀魚や鯛や鰈や鰊や蛸や、其他海でついぞ見かけたことのないやうな、珍しい魚たちまで賑やかにならべられてゐましたので、この秋刀魚は少しも寂しいことはなかつたのでしたが、魚達は泳ぎ廻ることも、話しあふことも出来ず、みな白らちやけた瞳をして、人形のやうに、病気のやうに、じつと身動きの出来ない退屈な悲しい境遇にゐなければなりませんでした。
引用は『新版・小熊秀雄全集 第二巻』に拠りましたが、魚屋さんの店頭に並んでいる様子を秋刀魚の視点に立って描いているのが非凡です。
主人公の秋刀魚は、腹を空かせた猫に、自分の肉を報酬として食べさせるという交換条件で海まで運んでもらうようにお願いするのですが、肉を食べた猫は途中で秋刀魚を打ち捨ててしまいます。その後、通りかかったドブネズミや野良犬、カラスにその都度、報酬として自分の肉を食べさせ、海に運んでもらうように頼むのですが、やはり途中で打ち捨てられてしまいます。しかし、親切な蟻の王様が部下の蟻たちに命じて秋刀魚を崖から落とし、海に戻してくれます。秋刀魚は狂ったように泳ぎ廻りますが、体の肉がないので苦しく、眼を食べさせてしまったので何も見えないままにさまよいます。この話はこう終わります。
それから幾日かたつて、魚は岸にうちあげられました、そして白い砂がからだの上に、重たく沢山しだいにかさなり、やがて魚の骨は砂の中に埋もれてしまひました。
さいしよは魚は頭上に波の響きを聴くことができましたが、砂はだんだんと重なり、やがてそのなつかしい波の音も、聴くことができなくなりました。
これは「ある手品師の話」と同じ終わり方ですね。残酷な話なんだけど、あっさりした書き方で終わっています。これがかえって読む人の心に悲しみと慰めの入り混じった感情を引き起こすわけで、萩野さんがおっしゃったとおり天性の童話作家だとぼくも思います。

『焼かれた魚 The Grilled Fish』小熊秀雄(文)アーサー・ビナード (英訳)市川曜子(画)(平成十八年[二〇〇六年]パロル舎刊)
鶴山 もし「焼かれた魚」を虐げられたプロレタリアの文脈で読み解こうとする人がいたら、それは違うと思います。海へと運んでもらう対価に秋刀魚は自分の身体を食べさせますが食い逃げした者はいない。みな一定の仕事をした。そのおかげでボロボロになったけど秋刀魚は海に帰ることができた。オスカー・ワイルドの『幸福の王子』と同様に目的を果たして死んだ。現実に即した残酷で、ほんの少しの救いのある小熊さんらしい童話だと思います。
文学批評の場でこういうことを言っちゃダメなんだけど、小熊さんの詩や童話を読むと魂の美しさ強く感じる。高貴な詩人だったと思います。本当に社会の最下層から現れた詩人だということが影響しているんでしょうね。無一物のような潔癖さを持つ人は極端な社会上層か下層の人が多い。中途半端な中流家庭の人の方がこれも欲しいあれも欲しいの物欲にまみれやすい。社会の底辺を見たことが決して厳しい現実から目をそらさない小熊さんの姿勢になっている。また画家たちと深く交流し実際に絵を描いたことも影響しています。
さきほどから池袋モンパルナスの話しが出ているので簡単に説明しておきます。池袋モンパルナスは今の池袋西口から板橋、練馬方面に拡がっていたアトリエ村の総称です。ある老女が孫の画学生のためにアトリエ付き住宅を建てたのが始まりだと言われています。池袋はその名の通り戦前は湿地帯で地価が安かったんですね。広いアトリエが欲しい画家たちのニーズに応えてどんどん貸家が増えていった。命名は小熊秀雄。靉光、松本竣介、麻生三郎、寺田政明、古沢岩美、難波田龍起、小川原脩、北川民次、丸木位里・俊夫妻らが住みました。熊谷守一、長谷川利行らの先輩画家たちも仲間だった。
ただモンパルナスの画家で東京藝術大学(旧・東京美術学校)卒は熊谷さんだけです。熊谷以外は私塾で絵の基礎を学んだだけ。これは明治時代にはなかったことです。黒田清輝や原田直次郎、梅原龍三郎、藤田嗣治らはボンボンで私費でパリ留学できるほど実家が裕福だった。大正デモクラシー時代になって初めて今と同じく普通の家の子が画家を目指すようになった。小熊も最低限の教育を受けかなりジャーナリズムが発展していた大正時代だから詩人などという浮世離れした仕事でなんとか生活できた。
日本の自由詩と洋画には共通点が多い。ともに明治維新後に生まれた新たな芸術ジャンルです。詩は短歌・俳句、絵は日本画(維新後の名称ですが)がありましたが欧米芸術がお手本だった。小熊命名の「池袋モンパルナス」がそれをよく表しています。御維新から大正時代までは五十年ほどですがこの間に詩人や洋画家は無理に無理を重ねた。五、六百年に渡る欧米詩や絵画の成果を短期間で吸収しようとしたのだから当然です。
モンパルナスの画家たちは初期に第一次世界大戦後にヨーロッパで生まれたダダイズムやシュルレアリスム、未来派風の絵を盛んに描いています。小熊も旭川新聞時代に「悪魔詩社小熊愁吉(醜吉)」を名乗りダダ風の詩やオブジェを作ったりした。当時最新の前衛芸術に惹かれていたわけで画家たちと話しが合ったと思います。
初期の池袋モンパルナス最大の成果は靉光の「眼のある風景」です。シュルレアリスム絵画の傑作と言われますが欧米シュルレアリスム絵画とは何かが決定的に違う。実際靉光を含むモンパルナスの画家たちにとってダダやシュルレアリスムは一過性の流行に過ぎなかった。「眼のある風景」は昭和十三年(一九三八年)、日中戦争勃発の翌年の制作です。〝眼〟は不安な世相をじっと見つめているとも言える。のちにそれは靉光が出征前に描いた自画像三枚にハッキリ結実します。

靉光「眼のある風景」(昭和十三年[一九三八年]制作)東京国立近代美術館蔵

靉光 出征前に書いた自画像三枚(昭和十九年[一九四四年]制作)東京国立近代美術館・広島県立美術館・東京藝術大学大学美術館蔵
全盛期はまちまちですが池袋モンパルナスの画家たちは具象画に回帰しました。具象画といってもリアリズム絵画ではありません。〝具象抽象画〟とでも呼ぶべき独自の画風です。シュルレアリスムなどからの影響はあるにせよモンパルナスの画家たちが生み出したオリジナリティの高い〝日本の洋画〟でした。この具象抽象画は日本独自の前衛絵画でもあった。画家たちは画材にも事欠き自由な表現を奪われた苦しい戦中にじっと身近な人やモノを見つめ続けた。それが具体的な人やモノを題材としながらその本質を極度に抽象化して表現する絵になった。具象抽象画の代表は言うまでもなく熊谷守一です。

熊谷守一『豆に蟻』(昭和三十三年[一九五八年]制作)東京国立近代美術館蔵
熊谷は「蟻は左の二番目の足から歩き出す」と言いましたね。馬鹿馬鹿しいようですがこの〝発見〟は熊谷さんが世界初だそうです。昭和天皇は展覧会で熊谷の絵を見てお伴の者に「子供の絵か」とお聞きになった。しかし別の機会に岐阜県庁に飾ってある熊谷さんの絵を見て「この人知ってる」とおっしゃった。優れた絵は眼が記憶します。単純で稚拙と言っていい絵ですが確信を持って描かれた前衛絵画です。
ただでさえ絵は売れないものですが戦中はなおさらだった。極貧は詩人稼業の小熊さんも同じ。現実から眼を逸らさない創作者という点でも共通していた。小熊の油絵は『夕日の立教大学』くらいですが正統池袋モンパルナスの具象抽象画です。言語能力の高い小熊さんは池袋モンパルナスのリーダー格でもあった。明確なイズムで結ばれていたわけではありませんが池袋モンパルナスは近代と現代絵画を繋ぐ非常に重要な芸術動向です。戦前のプロレタリア詩が戦後詩に果たした役割と同じですね。小熊さんの詩も本当に追いつめられると現実を直視しながら抽象化してゆきます。

小熊秀雄『夕日の立教大学』(昭和十年[一九三五年]制作) 板橋区立美術館蔵
萩野 童話の話に引き戻しちゃってわるいんですけど、小熊が画を視たり描いたりするときのあの視力がいかんなく発揮されたのが童話なんですね。文章で画を描いているようなイメージ喚起力がすみずみまで行きわたっている。しかも童話という表現形式がはらまずにいない寓意性にみちていてね。いい童話って寓話でもありますから、解釈への欲求をうながす奥行きも童話の魅力です。お二人が言及された「焼かれた魚」なんてその最たるものですね。小熊の童話はさっきも言ったように荒唐無稽でありながら残酷さと優しさに蕩けるようで、しかもそれらすべてを突き放したようなリアリズムがつらぬいている。つまり童話に必要な要素をすべてそなえているんです。それはかれが子どもの精神の持ち主だったから可能になったと思うんですね。鶴山さんが言われたように、それを魂の高貴さと言ってもいい。こういう高貴さの持ち主は日本ではなかなかいないんですよ。これは僕の哲学の師匠が仰っていたんですけど、一神教の西洋では「神」の前で正直であれ、と。そうでない者、虚偽を語る者は「疚しさ」を抱えることになる。「疚しさ」とは「負い目」のことです。「負い目」とは聖書にあるように「罪」の概念の原義です。一方で「真理」の探究を後押しする存在が「神」でもあるわけです。対して日本で「神前」っていうと、西洋のようなスキームはもちろんありません。求められるのはその身の「清らかさ」「穢れのなさ」です。手を洗うやら沐浴するやらって。かれの精神性がそんな日本的スキームを逸脱しているのは、その出自とか辺境にあって底辺の世界を見つめてきたこととか、かれをプロレタリアートにした動機と無縁とは思えませんが、それだけじゃない。資質というほかありませんね。小熊の童話は、「焼かれた魚」のほか主要な作品を収めたものが『小熊秀雄童話集』として創風社から刊行されていてまだ入手可能です。ぜひ多くの人に読んでほしいですね。
それと、せっかくの機会ですからかれのマンガ作品のことも話させて下さい。いまオリジナル本が入手できなくて、『小熊秀雄全集』でも台本(文字)しか読めないんですが、ぼくは子どものころ、小熊が旭太郎というペンネームで原作を書いた『火星探検』というマンガを読んで、それがいまでも印象に残ってるんです。画は大城のぼるです。天文台の「火星研究室」に勤める星野博士の息子、星野テン太郎少年が、ペットで猫のニヤン子と犬のピチといっしょに火星探検をするって話です。それはテン太郎の見た夢だったわけですが、小熊らしいリアリズムで描かれた冒険譚です。人間が火星に行くのは今日でも不可能ですし、まして住むことなんてできっこない。そんなことは承知のうえで、つまり不可能ゆえのユートピアとその破綻の物語を書いたんだと読むこともできるでしょう。その意味では同じ冒険譚である『コドモ海洋丸』もそうですね。このマンガで小熊は原始共産制や空想社会主義的なユートピアを描き込んだのだと解することもできるっていうか、僕はそう思ってるんです。まぼろしではあるけれど、まぼろしの儚さに人間の尊さを重ねているのだな、と。まあそんな前提なしで楽しめる話ではありますけど、その思いを読み取らなくては、そりゃ生活の糧とはいえ、小熊がマンガを手がけた意味などありはしないと思うんです。子どもたちや動物たちの描きっぷりがいいんですよね。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で少年たちの群像を描いたでしょ、あれに通じるものがあるんですよ。小熊は最晩年にマンガ出版社である中村書店の編集顧問になってマンガの原作を書いたんですけど、『火星探検』のほかに四冊の画付きマンガ本が出版されています。『コドモ海洋丸』『コドモ新聞社』『不思議な国インドの旅、勇士イリヤ』はいまも入手可能なようです。ぜひ一度読んでみてほしいと思います。

鶴山 岩田宏さんも天文台好きでしたね。奥さんのつね子さんの回想によると小熊は死去直前に中村書店社主と印税のことで言い争った。「書店主と小熊と印税のことで激論となり、足も立てなくて衰弱している小熊が、背すじを真すぐ伸ばし身を乗り出して、大声で怒鳴りました。私はまだ小熊にこんな力があったのかと驚きました。店主が帰られた後、その夜の十二時頃、小熊の容体が急変し、夜中に医者を呼びましたが、朝五時に息を引き取りました」(「最晩年―小熊回想(8)」)とある。
マンガ台本にはお金のことなんて出て来ないですが実生活は別。稿料で喧嘩した書店主は急逝に驚いて小熊の死後、マンガ本の印税をたくさんくれてそれが戦後までつね子さんの生活を支えた。小熊の絵の遺作展でも一番高い絵を買ってくれたそうです。対価と善意が入り混じる「焼かれた魚」そのまんまだな。小熊はつね子さんを殴ったし女癖は悪い、貧乏なのに生活費まで飲んでしまう最低の夫でしたが回想を読むと彼女は小熊の魂の美しさを感受していました。黒田三郎・光子さん夫妻にちょっと似ている。
■小熊秀雄の初期詩について■
池上 鶴山さんが小熊秀雄の代表作と思う詩は何ですか。
鶴山 初期だと「しやべり捲くれ」でしょうね。昭和十年(一九三五年)刊の第一詩集『小熊秀雄詩集』所収です。『小熊秀雄詩集』は長篇叙事詩集『飛ぶ橇』と同時刊行ですが「序」の日付けは『小熊秀雄詩集』一九三五年五月で『飛ぶ橇』は六月です。
私は君に抗議しようといふのではない、
――私の詩が、おしやべりだと
いふことに就いてだ。
私は、いま幸福なのだ
舌が廻るといふことが!
沈黙が卑屈の一種だといふことを
私は、よつく知つてゐるし、
沈黙が、何の意見を
表明したことにも
ならない事も知つてゐるから――。
私はしやべる、
若い詩人よ、君もしやべり捲くれ、
我々は、だまつてゐるものを
どんどん黙殺して行進していゝ、
気取つた詩人よ、
また見当ちがひの批評家よ、
私がおしやべりなら
君はなんだ――、
君は舌足らずではないか、
私は同じことを
二度繰り返すことを怖れる、
おしやべりとは、それを二度三度
四度と繰り返すことを云ふのだ、
私の詩は読者に何の強制する権利ももたない、
私は読者に素直に
うなづいて貰えばそれで
私の詩の仕事の目的は終つた、
(中略)
読者よ、
薔薇は口をもたないから
匂ひをもつて君の鼻へ語る、
月は、口をもたないから
光をもつて君の眼に語つてゐる、
ところで詩人は何をもつて語るべきか?
四人の女は、優に一人の男を
だまりこませる程に
仲間の力をもつて、しやべり捲くるものだ、
プロレタリア詩人よ、
我々は大いに、しやべつたらよい、
仲間の結束をもつて、
仲間の力をもつて
敵を沈黙させるほどに
壮烈に――。
『小熊秀雄詩集』刊行二年前の昭和八年(一九三三年)に小林多喜二が築地警察署内で撲殺されました。プロレタリア作家への締めつけが厳しくなっていましたが多喜二撲殺事件は確信的弾圧ではなく特高と警察の暴発という面が強かった。警察発表の心臓麻痺死で揉み消されたのですが誰も信じておらず批判が巻き起こった。当時はまだ大正デモクラシーの雰囲気が残っており比較的自由な言論活動が許されていた。日中戦争勃発(十二年[三七年])から太平洋戦争開戦(十六年[四一年])までの短期間に急激に言論弾圧が進むのですが『小熊秀雄詩集』は戦前最後のよい時代に刊行されたことになる。もちろん当時から検閲はあった。
「しやべり捲くれ」は一義的にはプロレタリア作家仲間に向けて言論弾圧に負けずに喋りまくれ、社会の矛盾や理不尽を批判しまくれと歌った詩です。しかし政治闘争を煽った詩ではない。本質的には沈黙するな、自由で活発な言論で社会を変えよと歌っている。小熊は「政治と文学」(『小熊秀雄詩集』所収)で「単なる政治はまだ私の詩より汚ない、/政治も文学も/今は一つの桶に入つてゐる/二つの汚れものだ、/クリーニング屋は/まだ開業わずか一年だ。」と書いている。文学は政治闘争の道具ではないということです。
「クリーニング屋は/まだ開業わずか一年だ。」という詩行からわかるように『小熊秀雄詩集』は言論弾圧の風潮に抵抗するために一年ほどでまとめられた。
きみらが考えること、
ふやけた脳味噌でぼんやり考えること、
垢じみたソファで寝てる脂肪太りの召使にも似たそいつを、
ぼくは焦らしてやる、心臓の血みどろの襤褸にぶつけて。
飽きるまで嘲り蹴ってやる、鉄面皮に、辛辣に。
ぼくの精神には一筋の白髪もないし、
年寄りにありがちな優しさもない!
声の力で世界を完膚なきまでに破壊して、
ぼくは進む 美男子で
二十二歲。
マヤコフスキー『ズボンをはいた雲』小笠原豊樹(岩田宏)訳
小熊さんがマヤコフスキーから強い影響を受けたのは一目瞭然です。『ズボンをはいた雲』はいわばマヤコの未来派宣言です。ロシア未来派(アヴァンギャルド)のセオリーは今ひとつはっきりしませんがロシア革命に呼応して文化を刷新し、新時代の文学を生み出そうという運動だったと捉えて大過ないと思います。「声の力で世界を完膚なきまでに破壊して、」とあるようにマヤコは言葉の力を信じていた。あえてスキャンダルを呼ぶような旧世代への罵倒を口語体でまくし立てている(検閲で八十八行削られていますが)。ただ訳者の岩田さんはこの詩について「脚韻の踏み方や、行内のリズムに注目するなら、これはロシア古典詩の四行一連を視覚的に自由化したもの」だと書いている。当たり前ですが徒手空拳の前衛ではなかった。それは小熊さんも同様です。
『小熊秀雄詩集』「序」で小熊は「読者諸氏は私のこの詩集の読後感として、『ある特別なもの』を感じられることと信じる。従来の詩の形式、詩の概念に、何かしら新しいプラスを私の詩から感じられたことと信じる、それは他でもない私はその詩人としての力量と可能な力をもつて、これまでの日本の詩の形式へ破壊作業を行ひつづけてこれまで来たその幾分の収穫である」と書いています。小熊さんも新しい詩の形を模索していた。
お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべても物憂げなものを撥き去れ
すべての風情を擯斥せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによつて弾ねかへる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸郭にたゝきこめ
中野重治代表作の一つ「歌」です。小熊は中野さんと親友でしたが容赦なく批判もしている。『小熊秀雄詩集』の「なぜ歌いださないのか」では「中野重治よ、君はなぜ歌ひださないのか、/女達が味噌汁の歌をうたふことも肝心だが、/男たちは「力」の歌を/うたふことがより必要だから/君は君の魅力のある詩のタイプを/再び示せ」と書いています。
中野さんの詩のお師匠さんは室生犀星でした。中野の「歌」は「お前は歌ふな」の否定形で始まりますが彼本来の資質は「赤まゝの花やとんぼの羽根」などの自然を歌うことにあった。文語体詩以来の短歌的抒情を引きずっていた。そんな「ひよわなもの」を排除して「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ」と決意しているわけですが小熊はそれでは足りない、「君はなぜ歌ひださないのか、」――「厳しい韻律」まで突き抜けていないじゃないかと批判している。実際中野詩からウエットな短歌的抒情は消えなかった。
中野重治を含む大正・昭和初期の詩と比較して小熊の詩は他に類がない斬新なものです。当時すでに口語自由詩にはなっていましたがいまだ短歌的抒情が詩の主流に居座っていた。三好達知、中原中也、立原道造など多くの詩人に指摘できる。また口語体といってもそれは当時から現在に至るまで文章体です。しかし小熊の詩は喋り言葉、話し言葉に近い。さきほど池上さんがおっしゃったように小熊の詩がまったく古びない理由ですね。
もちろん喋り言葉体だからそうなるわけではない。マヤコフスキーと同様に小熊には詩で世界を変えてやろうという思想があった。この思想は一つのイデオロギーに収斂しない。世界に合わせて変化してゆく。世界を上位審級から睥睨するような視線があった。「気取り屋に与ふ」(『小熊秀雄詩集』)で小熊は「私は誇る/私が詩人であることを、/私がいちばん高い位置にあることを、/高さとは――私自身に犠牲を/要求する心理の階段の高さをいふ。」と書いています。「ぼくは進む 美男子で」と昂然と書いたマヤコはコサックで小熊はいわゆる〝流民〟出身ですが二人とも恐ろしく頭が高いんだな。

池上 小熊秀雄には文壇を風刺した詩篇があります。例えば初出は読売新聞に掲載された「中野重治へ」という詩はこんな感じです(引用は『新版・小熊秀雄全集 第三巻』「Ⅱ 文壇諷刺詩篇」に拠る)。
裾の乱れを気にばかりせず
気宇闊達の
小説を書き給へ、
『小説の書けない小説家』
『小さい一つの記録』
などと妙に遠慮ぶつた
標題をつけず、
誰かのやうに『風雲』と
大きく出るさ、
君も詩を掻き廻して
小説へ逃げて行つた前科者だ、
少しは詩の手土産を
散文の中で拡げるさ、
棒鱈のやうに突張らずに
田作の様にコチコチにならずに
少しは思想奔放症でやり給へ、
狭心症は生命を縮めるよ
釣銭のくるやうな
利口ぶりを見せないで、
馬鹿か利口か
けじめのつかないやうな
作品を書き給へ。
本当のことは言っちゃいけないのに、本当のことを書いてしまったような詩ですよね(笑)。

鶴山 同世代だけでなく文壇の大家を軒並み風刺しているのが小熊さんのいいところです。
志賀の旦那は
構へ多くして
作品が少ねいや
暇と時間に不自由なく
ながい間考へてゐて
ポツリと
気の利いたことを言はれたんぢや
旦那にや
かなひませんや
こちとらは
べらぼうめ
口を開けて待つてゐる
短気なお客に
温たけいところを
出すのが店の方針でさあ、
巷に立ちや
少しは気がせかあね
たまにや出来の悪いのも
あらあね、
旦那に喰はしていものは
オケラの三杯酢に、
もつそう鍋、
へヱ、
お待遠さま、
志賀直哉様への
諷刺詩、
一丁、
あがつたよ。
「志賀直哉へ」という詩ですが、まあ、そのとおりですね(笑)。もし志賀さんがこの詩を読んだらムッとしたかもしれないけど、うまいもんだと笑っちゃったんじゃないかな。今こんな詩を書いたらディスられたと大騒ぎで恨まれるだけでしょうけど。
小熊さんは直観把握能力が高かった。作家や作品の全体像を捉えて痛いところをズバッとつく。評論もたくさん書いていますが詩の方が切れ味鋭い。評論で彼の批評能力が遺憾なく発揮されているのは美術批評だと思うな。
萩野 そう思います。たとえば『モヂリアニ論』を読むと、小熊がどんなにすぐれた批評家だったかがよくわかります。ちょっと紹介してもいいですか。
モヂリアニの場合は、ルノアール的なタッチの煩雑さがない。しかも七宝的な絢爛とした美しさは、洋画の材料としての油絵具を完全に生かしきったという美しさである。主としてこの華麗さは、彼の光りに対する理解の深さから来ている。[中略]モヂリアニの絵具の扱い方は、もっと決定的な、的確な意図の下になされている。
つまり光りの物質への肉化を行っている。「硝子かと思われるような」肉体の美しさは、彼の一筆毎のタッチに光りの消化と吸収を行っていることである。光線は彼にとっては物質に対する後から
の従属物ではない。現実的なイデー、光り及び生命の肉化のために彼は僅かなマッスの中に、驚くべき光の諧調の仕事を為し遂げている。
[中略]我々はモヂリアニの小市民的哀愁や、彼のもつ詩味などに共鳴を感ずるよりも、色彩に対する科学的処理の方法を学ばねばならない。
(「モジリアニ論」『小熊秀雄―絵と詩と画論』)
モジリアニの本質は光の画家だということを精確に視てとっています。画家論だけでなく美術展時評もそうです。そこで書かれている展覧会はもう観ることができないし、ふたたび観ることのできない画家や作品もあるわけですが、小熊の批評を読んでいるだけで、しかも短い寸評なのに、どんな作品でどんな絵描きだったかということが目に浮かぶようにわかる気にさせられる。その画家の作品ごとに一枚ずつ丁寧につき合って、意を尽くして書いている証拠です。かれは批評家でありながら自らも絵筆を握り、デッサン画を売って生計の足しにしてたわけで、創作者の立場とそれを評価する立場から二重に観る眼差しを持っていた。プロの画家にとっても、その画家を知らない一般の読者にとっても、公平に的確に論じられていると察せられるし、双方にそう読ませるだけの力がある。いい批評文です。それと、小熊のそんな美術批評を編んだ『小熊秀雄―絵と詩と画論』という本にはかれの油彩・水彩とデッサン画も一部挟まれてましてね、それがとてもいい画なんです。絵心があって。一人の人物の中に詩人と批評家と童話作家とマンガ家と画家が同居してるっていうのはね、やっぱり大したものだと思います。しかもそれぞれに高い水準を維持してるでしょ。自分を限定してないんだよね。むしろ溢れるようなパトスやエネルギーをそれ一つで満たし切れるような表現媒体もリミッターもなかったんでしょう。稀有な人ですね。小説だけは好かなかったみたいだけど。小説は魂の純粋な人には向かない(笑)。
鶴山 蓮實重彦・柄谷行人以降の文芸批評は作品をダシにして批評家が好き勝手に自分の思想などを書く〝創作批評〟一色になりました。自分は思想家だと勘違いして哲学や社会批評を手がけたりするんだけど行き詰まって文芸批評に戻ってくる。みっともないことだね。本物の文芸批評家でも思想家でもないんだよ。
それはともかくニッチな美術批評の世界は昔から創作批評が非常に多い。創作と批評は連動しているのが理想ですが創作批評は批評された創作者が読んでもピンと来ない。役に立たない。どうしようもない芸術オンチのドゥルーズのフランシス・ベーコン論などを有り難がってる人は創作批評家だけだな。オーソドックだけど小熊さんの美術批評は理想に近い。
日中戦争後に横山大観が展覧会を開いてその売上を陸海軍に寄付しました。お国に「赤誠を示した」わけです。ジャーナリズムは大観の赤誠礼賛で湧き立ったのですが小熊は「横山大観の赤誠礼賛はいゝが美術ヂャーナリズムが大観の芸術の正統な理解を同時にしなければ無意味であらうと思ふ。(中略)大観の偉さといふのは、筆者に言はせれば、彼が日本画の伝統と運命を共にしてゆくといふ態度の偉大さだと思ふ」(「時局と日本画――横山大観の場合」)と書いている。単純なようですがこれは僕が読んだ中で最も優れた大観論です。大観さんは毀誉褒貶の吹き溜まりですがその画家としての本質を捉えている。
萩野 いま絶滅に瀕しているのは文芸批評じゃないですか。〝創作批評〟がダメなのは、かれらが中途半端だったんで、べつに己れを語ったっていいんだけど、本当は己れの「哲学」や「思想」を持っていなかったからにすぎません。小林秀雄のいう〝様々なる意匠〟の一つにすぎなかったってことです。だからいっときはウケますがメッキはすぐに剥がれ落ちます。柄谷さんはクリプキやキェルケゴールを本当に理解して書いてましたか、ってことです。東浩紀さんだって凄いと思いますよ。でも文芸批評家じゃないよね。それにデリダだってそれほど大した人でしょうか。なのに読者をそっちに取られてしまったのは文芸批評家がかれらほどにも勉強してないからです。この世界の底の底まで降りていっていないだけです。地の底で這いつくばるようにしてつかみ取った自分のことばには、自ずから思想が宿ります。そういう人の行きづまりは、だからもっと本質的なものです。そういう人は、その気になれば文芸批評でも何でも論じられるんです。論じる相手の底まで降りてから語るだけなので。小熊のようにね。
池上 なるほど。まあだけど小熊秀雄のいいところは真面目になりすぎないところだと思うな。昭和十一年(一九三六年)に書いた「詩壇大歌舞伎春興行」ていう「文芸批評」があるんです(『新版・小熊秀雄全集 第三巻』)。
▼朝顔日記、大井川の場(北川冬彦丈)
北川『散文詩型で此処まで来たが、大井川の、川ドメとは、テモ残念なことであるわい』
駕籠かき『旦那、お気の毒だが、当分、水は引きませんや』
これ、読んで思わず吹き出しちゃったんですけれど、「生写朝顔話」っていう歌舞伎や文楽では有名な演目のクライマックスのシーンのパロディなんです。恋人を追って大井川までたどり着いた盲目の娘が、大雨で川止めになっちゃって恋人に追いつくことができずに絶望する場面です。北川冬彦は小熊秀雄ら民衆詩派の行分け口語自由詩を散漫で堕落していると批判して「新散文詩運動」と称して散文詩で「真の自由詩」を目指したんですけれど、数年後には行き詰まったのか、この当時には自分も行分けの詩を書くようになっていました。そのことを小熊秀雄は「大井川の場」のシーンを使って揶揄しているわけです。セリフや語り口が絶妙で、こういうユーモアこそ批評精神の真髄だと思うんですけどね。
詩だってさっき挙げた風刺詩もあるし、そのまま曲を付ければ歌詞になるようなものも書いていますよね。
池袋モンパルナスに夜が来た
学生、無頼漢、芸術家が
街にでてくる
彼女のために
神経をつかへ
あまり、太くもなく
細くもない
在り合せの神経を――
この詩は「池袋風景」というタイトルで『新版・小熊秀雄全集 第二巻』に「Ⅱ 風物詩篇」の「東京短信」という連作の中の一篇として収載されています。小熊秀雄は「池袋モンパルナス」というエッセイで「私は(中略)その詩篇を傍らの音楽をやつてゐる友人に手渡した。/音楽家M君は十九歲であつた、(中略)真面目な作曲の間に、フランス風なデカダンスを織り込んで退屈しのぎをしようとして、M君は喜んでものの三分とも経たない間に『池袋モンパルナスの歌』といふものを作曲した。/私達はこの歌を口ずさみながら、池袋へ向かふ立教大学前の広いアスファルト路をあるいてゐた」と書いています(『新版・小熊秀雄全集 第四巻』)。宇佐美承さんの『池袋モンパルナス』には「作曲者は(中略)台湾そだちの松井八朗」で、松井は戦後「映画音楽の第一人者として知られるようになった」とあるんですけれど、「八朗」じゃなくて「八郎」、松井八郎ですね。でも宇佐美さんの本によれば松井八郎の自筆譜は見つかっていないそうで、ということは『小熊秀雄と池袋モンパルナス』(玉井五一/編)に掲載されている楽譜は歌を覚えていた人から採譜したものではないかと。こちらも「八朗」とクレジットが間違っていますし、タイトルも「池袋モンパルナスの唄」となっていますしね……。いずれにしても、小熊秀雄がわざわざM君とイニシャルにしていることを考えると、即興で作曲して皆がよっぱらって歌っていた曲を松井八郎作として改めて自筆譜にするとは思えないんですけどね。
鶴山 ほかにも実際に曲をつけて歌ったと思われる詩はありますね。
ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
岩のしづくはアレ紫しづく、
ふつと見をろす、藍の淵、
誰れに飲ましよと、薬草とり、
ドン、この岩のぼり。
ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
海にうかんだアレ愛嬌もの、
ならぶアザラシ、海坊主、
恋にもつれて、水くぐり、
ドン、ヤレ、五連銃。
ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
流れ流れて、ホイこの海稼ぎ、
のぞき眼鏡で、底さぐり、
腕におぼえの車櫂、
ドン、この昆布取り。
ここは沿海州の波続き、ドン、ドン、ドン、
野草いちめん、花烟、
女ご忘れて暮らしはしたが、
丘の黒百合、悩ましや、
ドン、ソレ、春の風。
(註)ドン、ドン、ドン、は囃言葉、又は太鼓をもつて波の音を利かす。
初期詩篇の「樺太節」ですが小熊さんは少年時代に樺太で漁師をしていましたから仲間と歌うための詩だと思います。当たり前ですが社会底辺の労働者は苦しんでいただけではない。労働の後に酒を飲んで大騒ぎする楽しみやささやかな生活上の喜びもあった。その両面を捉えているのが小熊文学の大きな特徴です。そこが黒田喜夫さんなどと違うところ。風刺詩にも笑いはあっても憎しみはない。決して頭でっかちに現実を批判せず常に個々の人間を等身大で捉えその集団である社会が生むどうしようもない巨大な歪みを批判している。
(金魚屋スタジオにて収録 前編 了)
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*『対話 日本の詩の原理』は毎月01か03日にアップされます。
【美術展時評】 『東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展
【美術展時評】『福沢一郎-このどうしようもない世界を笑いとばせ』展
■鶴山裕司の本■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■



