No.096『福沢一郎-このどうしようもない世界を笑いとばせ』展
於・東京国立近代美術館
会期=2019/03/12~05/26
入館料=1600円(一般)
カタログ=2376円
おおっ、福沢一郎先生! 正直福沢先生の回顧展が開催されるとは思っていなかった。平成四年(一九九二年)に九十四歳の長寿でお亡くなりになったので、充分僕の同時代人である。二回ほどお会いしたことがある。もちろん大先生なので親しく言葉を交わしたことはない。一度は日仏会館で開かれたシュルレアリスムに関する討論会で、壇上に座っておられる先生を拝見した。
僕が学生時代を過ごした一九八〇年代には、シュルレアリスムはまだ現役の文化運動だった。日本のシュルレアリスムを牽引した瀧口修造は昭和五十四年(一九七九年)に亡くなったが、シュルレアリスムを初めて日本に紹介した西脇順三郎は昭和五十七年(一九八二年)まで生きた。西脇さんがお亡くなりになった時僕は大学二年生だったが、その頃はある肉体感覚を持って西脇さんの詩や評論が読まれていた。
シュルレアリスムは世界的な文化運動になったが、どの国でもローカライズされて受容されている。日本では瀧口が正統シュルレアリストの道を進み、師の西脇の方が早々と超現実主義、ではなく超自然主義を唱えてシュルレアリスムのローカライズを行った。どちらが優れているとか正しいとかではなく、西脇・瀧口の両輪で日本のシュルレアリスム運動は進んだのである。
戦後になって瀧口を中心に大岡信、飯島耕一、東野芳明のシュルレアリスム研究会が結成されたが、戦前の言論弾圧から解き放たれたシュルレアリスム研究会によって、一気にシュルレアリスムの理解と普及が進んだ。また一九八〇年代には大岡さんも飯島さんもバリバリの現役で、特に飯島さんは的確なシュルレアリスム理解に基づく詩を矢継ぎ早に発表しておられた。僕は日本で最も優れたシュルレアリスム詩を書いたのは飯島さんだと思う。それに大岡さんも飯島さんも西脇順三郎を尊敬していた。お二人は同人詩誌「鰐」の同人だったが、そこに属した吉岡実、岩田宏、清岡卓行らの詩人たちも、多かれ少なかれシュルレアリスムの詩法を使っていた。
吉岡さんは「鰐」という同人誌が大好きで、終刊してしまったのが心残りでブチブチ文句を言っていたが、それはともかく、彼だって若い頃からシュルレアリスムの影響を受けている。『液体』という戦前発表の詩集はモロにシュルレアリスムで、瀧口修造の影響が色濃い。その頃瀧口の詩集は一冊も刊行されていなかったが、吉岡さんは雑誌などで目にした瀧口詩に強く感化されたのだった。正確には春山行夫や北園克衛らの詩を素通りして、どうやら本物のシュルレアリスムは瀧口だという当りをつけたのである。一九八〇年代にシュルレアリスムはまだ現役の文化運動だったというのは、初期の熱気を肌身で知る作家たちが現役で活動していたからである。
で、福沢先生が出席していたシュルレアリスム討論会だが、いつ行われたのか正確には記憶していない。日本人とフランス人による討議だった。日本側では大岡信先生と福沢先生、それに針生一郎さんが出席しておられた。フランス側の出席者は覚えていない。アラン・ジュフロワさんがいらしたような気がするが、記憶違いかも知れない。
こういった討論会ではしばしばあることだが、議論はぜんぜん噛み合っていなかった。漢字と平仮名が入り交じる日本語ではシュルレアリスムの自動筆記は難しいのではないかという議論になった時、フランス側の出席者が「平仮名で書けばいいじゃないですか。日本の平安文学は平仮名で書かれたのだから、紫式部の『源氏物語』は自動筆記と言えるのではないか」という意味の発言をした。客席からひときわ大きな笑い声――ほとんど馬鹿笑いがあがり、見ると清水徹さんだった。大岡先生が本当に困ったような顔をされていた。
福沢先生が討論会に招かれたのは、彼がシュルレアリスム絵画の先駆者で、昭和十六年(一九六一年)に瀧口修造とともに治安維持法違反の嫌疑で逮捕されたからである。六ヶ月間も拘禁されたが容疑不十分で釈放されている。ただ当時特高に目を付けられるのは大変なことだった。その後先生はいわゆる翼賛絵画を描いている。瀧口修造も数篇だが翼賛詩を書いた。当局に協力しなければどんな災厄が降りかかるかわからない世の中だった。
八〇年代当時は吉本隆明さんも現役で、彼の処女作が文学者の戦争責任論であることを誰もが知っていた。飯島さんも瀧口さんの翼賛詩を題材にした小説を書いた。五〇年代六〇年代ほどではないが、文化人の戦争責任論も折に触れて蒸し返されていた。討議でも福沢先生に「なぜシュルレアリスム絵画だったのか」「特高に検挙されたのはどういう状況で、どういう思いを抱いたのか」という質問が向けられた。
福沢先生の答えはあっけないものだった。シュルレアリスムについては「流行だったから」、特高検挙に関しては「危険思想でもなんでもなかったんだから、なんかの誤解だよね」という意味のことを淡々と答えておられた。先生は文化勲章を受章されているが、かつて先生を検挙した国家から勲章をもらうのはどういう気持ちなのかという意地悪な質問もあった。先生は「あげるって言うからもらったんだよ」と答え、会場から薄い笑い声が洩れた。
ただ先生が韜晦している気配は一切なく、本当にそう思っているんだなということが客席にいた僕にも伝わってきた。僕はその後何人かの画家さんたちにインタビューしたりして、画家と物書きはぜんぜん違う人種だということを痛感するようになったが、その始まりが奇妙とも自然体とも言える壇上の福沢先生だった。画家の思想は絵を見なければわからない。ただし福沢先生はかなり厄介――というかわかりやすくてわかりにくい画家である。
『Poisson d’Avril(四月馬鹿)』
油彩、キャンバス 縦八〇・三×横一一六・五センチ 昭和五年(一九三〇年) 東京国立近代美術館蔵
福沢一郎は明治三十一年(一八九八年)に群馬県北甘楽郡富岡町(現・富岡市)に生まれた。祖父の常五郎は生糸や銀行経営に携わる実業家で県議会議員などを歴任した。家業を継いだ父・仁太郎も地元の名士。いわゆるいいとこの坊っちゃんとして生まれたのである。仙台第二高等学校から東京帝国大学文学部に進学したが、学業よりも朝倉文夫の塾で彫刻制作に熱中した。大学卒業後の大正十三年(一九二四年)に私費でパリに留学している。
明治初期ほど洋行は珍しくなかったが、それでも一握りの画家しか果たせなかった。たいていは一、二年で帰国しているが、福沢は昭和六年(一九三一年)まで八年間もパリで勉強している。福沢家の財力が潤沢だった証左である。パリで画家として認められ、絵を売って自活するのは大変だった。日本人画家たちの夢だったが藤田嗣治くらいしかそれを実現できていない。
パリで福沢は画家に転向したが『Poisson d’Avril(四月馬鹿)』は留学中の作品である。藤田嗣治が渡仏したのは大正二年(一九一三年)で黄金のエコール・ド・パリの時代だが、福沢が留学した十三年(二四年)のヨーロッパは不況の〝戦後〟だった。日本人にとって第一次世界大戦は対岸の火事であり二次大戦ばかりがクローズアップされるが、ヨーロッパでは第一次大戦の悲惨が決定的だった。王政の疲弊や貴族とブルジョワジーとの対立など十九世紀までの社会矛盾が一気に表面化し、世界経済の中心がはっきりとアメリカに移ってヨーロッパ人がヨーロッパの没落を強く意識するようになった時期である。
第一次大戦後にはダダイズム、シュルレアリスムという二十世紀最大の前衛芸術運動が起こった。簡単にまとめると、ヨーロッパは一次大戦で初めてほぼその全域が戦場となり多くの都市が廃墟となる悲惨を経験したが、ダダイズムは、ならばいっそすべて破壊してしまえという虚無的運動だった。それまでの芸術規範を白紙還元したのである。絵はキャンバスに描くものといった規範を破壊し、現代美術の源になったのはダダイズムである。
シュルレアリスムはもっと現実的で、いつまでも破壊的虚無に留まっているわけにはいかないのだから、現実が悲惨だとしても、現実(レアル)の上位(シュル)にある超現実(シュル・レアル)によって、現実をよりよきものに変えていこうという運動だった。芸術運動であると同時に社会変革運動でもあった。日本の特高が敏感に反応し警戒したのは、後者の社会変革運動としてのシュルレアリスムの性格だった。
経済的活気は失われていたが、福沢はダダ、シュルレアリスム全盛期のパリにいた画家である。福沢がパリに着いた一九二四年にアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表している。当時は小さな芸術運動だったが前衛であり、若く意欲的な作家は多かれ少なかれ影響を受けた。福沢もその一人で『Poisson d’Avril(四月馬鹿)』もシュルレアリスム絵画として受けとめられた。しかしこの作品は本当にシュルレアリスム絵画なのだろうか。
『嘘発見器』
油彩、キャンバス 縦七二・七×横一〇〇センチ 昭和五年(一九三〇年) 群馬県立近代美術館蔵
福沢はシュルレアリスム・グループの画家で、最も刺激を受けたのはマックス・エルンストだと回想している。ダダイストやシュルレアリスト、それに彼らに先行するキュビストらの前衛作家は盛んにコラージュの技法を使った。美の基準、絵の描き方や使用する素材の規範を取り除いてしまえば様々な表現が可能になる。また一九三〇年代は第一次大戦の衝撃が残り、にも関わらず二次大戦へと突き進みつつあった不穏な時代である。混沌とした社会情勢を表現するのにコラージュはうってつけだった。新聞や雑誌の切り抜きなどの現実事物を作品の中に配置することで、無味乾燥でザラザラとした現代社会を表現しようとしたのだった。
ただ初期のエルンスト作品は審美的で美しかった。絵具以外の素材を使っていてそれがコラージュ的と言えないことはないが、超前衛ではなくオーソドックな画風を保持した。それは福沢も同様である。
『Poisson d’Avril(四月馬鹿)』や『嘘発見器』は油絵であり、絵具以外の素材を使っていない。また福沢一郎展図録で解説を書いておられる大谷省吾さんの研究によって、福沢が当時の雑誌に掲載された写真などをそのまま『Poisson d’Avril(四月馬鹿)』や『嘘発見器』で使ったことがわかっている。引用であり一種のコラージュである。
ただコラージュは意味的関連性の薄い人や物が雑然と集められているから世界の鏡像となる。福沢作品は違う。『嘘発見器』はパッと見るとデ・キリコ風の超現実的絵画だが、嘘発見器に繋がれた人間が二つに分裂している――つまり何かが暴かれ侵害されているという〝意味文脈〟で読み解くことができる。では福沢作品の真髄は社会批判にあるのだろうか。
『美しき幻想は至る処にあり』
油彩、キャンバス 縦一六二・一×横一三〇・三センチ 昭和六年(一九三一年) 岡山市立中央図書館蔵
『美しき幻想は至る処にあり』はパリ滞在中に描き始められ、帰国後に完成して昭和七年(一九三二年)の第二回独立展に出品された。中央の女性が落としたビラにはソビエトの国旗が描かれている。社会主義革命のアジビラかもしれない。左側の男性は裸で、頭に「peuple=人々・人民」というタスキのようなものを巻いている。人民は裸だというメッセージかもしれない。美術展の前に検閲があり、当局はこの絵の展示に難色を示したが、画家の三岸好太郎が「それはビラを投げ捨てているのです」と説明してすり抜けたのだという。
この絵を意味で読み解いてしまえば社会批判絵画ということになる。しかしタイトルの『美しき幻想は至る処にあり』がそれを裏切っている。タイトルに沿えばこの絵に散りばめられている社会主義的イメージは『美しき幻想』である。また実際、福沢は明確な社会批判絵画を描く画家ではなかった。
帰国後に福沢は、ファシズム全体主義の風潮を嫌い、自由な表現を求めた小松清、船橋聖一、阿部知二らの「行動文学」に共感して絵を描くなどして協力した。しかし当時のプロレタリア文学のような社会批判とは縁遠かった。福沢作品は現実を反映しており意味で読み解くこともできるが、それを一つの強い主張に絞り込むことはできない。
『船舶兵基地出発』
油彩、キャンバス 縦一八二×横二五八センチ 昭和二十年(一九四五年) 東京国立近代美術館蔵
『船舶兵基地出発』は福沢の戦争絵画の代表作である。縦二メートル、横二・五メートル近い巨大な作品で、藤田と同様、パリ帰りの福沢が軍部に優遇されていたことがわかる。この作品は船舶特攻隊を描いていて、荒海を突っ切ってまさに敵艦に自爆衝突しようとしている場面である。藤田の『アッツ島玉砕』と同様暗い絵で、戦意高揚を目論んだというより、死をもって敵を叩けという軍部のメッセージが込められた絵だとひとまず理解できる。
戦争翼賛画を積極的に描いたのか、強いられて描いたのかは大きな問題である。文筆家の場合、三好達治のように戦争翼賛詩集を出せば強い覚悟で戦争に協力したと批判されても仕方がないが、瀧口のように短い作品でお茶を濁すこともできる。しかし画家は違う。不本意でも絵を描かざるを得なくなり、しかも『船舶兵基地出発』のような巨大な作品を求められればイヤイヤでは描けない。画家は思想家である前に手仕事の職人である。テーマに沿った絵を描かねばならないとわかっていても細部の表現に熱中してしまうところがある。
『船舶兵基地出発』に関して言えば、福沢は海と空の表現にそうとうに工夫を凝らしている。また操船している兵隊に悲壮感はなく、よく見ないと敵艦突入寸前だということがわからない。福沢は初期から晩年まではっきりとした表情の人物を描かなかった。リアルな人間の顔は戦争画くらいだ。しかしポーカーフェイス。表情がない。肝が据わっているとも生死に無頓着な兵士だとも捉えられる。どちらの解釈でもいいだろう。福沢の絵には現実世界を達観して、冷たく眺めるような虚無感が漂っている。
『世相群像』
油彩、キャンバス 縦一〇三・三×横一六二・一センチ 昭和二十一年(一九四六年) 富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館蔵
戦争が終わると福沢はすぐにダンテ『神曲』「地獄篇」を題材とした作品を描き始めた。裸で地上に密集して様々なポーズや仕事らしきものに従事している人々の姿に、戦後焼け跡の混乱が反映されているのは言うまでもない。では福沢は戦後の混乱を憎み、うとみ、批判的な視線を向けていたのだろうか。
そうではあるまい。画面下中央には白髪の男の頭が描かれ、何も書かれていない本を読んでいる。これは画家の自画像だと考えられる。福沢は白紙に戻った世の中を熱もなく読んでいる。白紙還元された世界に最初に現れるのは、地獄を想起させる混乱で良いのである。
福沢は一九五〇年代の初めまで、地上で睦み合い、いがみ合い、肩寄せ合う虫けらのような人間群像を描いた。連作と言っていい作品群は、画家が地獄の業を背負って地上で蠢く人間たちに魅せられていたことを示している。
初期はシュルレアリスムの画家として知られ、実際に影響も受けているが、福沢絵画にはシュルレアリスム運動の一つの根幹である現実変革を目指すような強い社会批判がない。思想まで行かない風刺と諧謔といったところだ。またシュルレアリストが超現実によって悲惨な現実を変えようとしたときに大きな武器とした、無意識領域(夢)の援用がまったく見られない。『世相群像』といった作品は夢幻的に見えるが明らかに現実の抽象化である。ダリ作品などを見ればわかるが夢ならもっと美しいはずだ。
『埋葬』
油彩、キャンバス 縦二五八×横一九三センチ 昭和三十二年(一九五七年) 東京国立近代美術館蔵
福沢は昭和二十七年(一九五二年)にヨーロッパ経由で南米ブラジルやメキシコを巡り、二年後の二十九年(五四年)に帰国した。福沢が魅了されたのは南米の強烈な色彩と人々の活気だった。『埋葬』は抽象的だが若い女性の葬儀を執り行う人々を描いた作品である。ディエゴ・リベラなどの作品の影響を指摘できないことはないが、福沢が絵を描く際の刺激として追い求めていたのは生命感――それも猥雑で混沌と紙一重の生命感だったのだろう。
一九六〇年代になると公民権運動とベトナム反戦で揺れるアメリカに渡って画題を求めた。晩年には再び地獄を彷徨う人間群像を描いている。戦後の福沢は混沌とした活気を追い求め続けた。
東大卒、パリ帰り、それもダダ・シュルレアリスム全盛期に留学したイメージから言うと、福沢は理知的画家だ。しかしまったくそうではない。フランス人と積極的に交流した気配はなく、本格的にパリ画壇に打って出ようともしていない。なんやかんやいって日本人より理屈っぽいフランス人とはそりが合わなかったのだろう。フランス滞在中も福沢の目は日本に向きがちで、パリで描いた作品のほとんどを日本に送っている。
また福沢にはペシミスティックなところがあり、現実を斜に眺めていた。展覧会最初のコーナーのタイトルは「人間嫌い-パリ留学時代」と銘打たれていたが確かにそうだろう。しかし福沢の人間嫌いは一筋縄ではいかない。ペシミストになり切れないし、かといって現実を超脱した高踏派にもなり切れなかった。創作意欲を燃え立たせてくれる対象を求める作家であり、それが地獄や南米のプリミティズム、アメリカ社会の動揺などの取材に繋がっている。
とても言いにくいのだが、福沢が大画家として評価されることはないと思う。しかし実際にお会いすると、初対面でもなぜか福沢先生と言ってしまうような方だった。威張っておられたからではぜんぜんない。ごく自然体だ。しかし福沢には生まれながらの先生然とした雰囲気があった。育ちの良さからくる他者や社会的評価への無頓着が、かえって福沢を先生にしたような気がする。
展覧会を見て改めで驚いたのだが、福沢の作品はどれも大きい。初期から大作なのだ。売れない大作を描く画家はいないわけで、大作(当然値段が高い)ばかりということは、売れっ子作家だったということだ。画壇の花道を歩いた方である。生活で苦労なさったことはほとんどないだろう。
『牛』
油彩、キャンバス 縦一九二×横二六〇センチ 昭和十一年(一九三六年) 東京国立近代美術館蔵
福沢先生の代表作を一点あげるとすれば、やはり『牛』になるのではないかと思う。この巨大な作品は長らく日本のシュルレアリスムを代表する絵だと評価されてきた。摩訶不思議な絵で、具象画だが実景ではない。牛の身体の一部が透けていて、背景が見える。じゃあ今もこの絵は日本シュルレアリスム絵画の代表作なのだろうか。代表作でいいと思う。ただし現代ではその評価がダブルミーニングになっている。
福沢先生がシュルレアリスティックな意識で『牛』を描いたのは確かである。またこの絵を見た若い画家たち――福沢先生は池袋モンパルナスの画家たちと親交があった――が、その大きさも含め、当時としては斬新で大胆な画風に衝撃を受けたのも事実である。『牛』の表現に免罪符を得て、多くの若手画家たちがシュルレアリスム絵画を描くようになった。その意味で『牛』は日本シュルレアリスム絵画の始まりに位置している。
しかし福沢先生の画業を振り返ることのできる現在では、この絵を単なるシュルレアリスム絵画と呼ぶことはできない。福沢先生が描きたかったのは牛の存在感であり、後に地獄群像として表れるようになる芥子粒のような人々の営みである(牛の背後に描かれている)。シニックでありながら生命力を求めた福沢先生の画業の端緒に位置している絵でもある。
わたしたちは一九八〇年代頃までは、ヨーロッパ絵画史を規範に日本の絵を見ていた。当時の文脈では『牛』はシュルレアリスム絵画であり、それ以外の解釈は思い浮かばなかった。しかし現代ではヨーロッパ絵画的価値観が揺らいでいる。それによりわたしたちの目は、欧米シュルレアリスム絵画との類似点、共通点、影響関係を見つけ出すより、日本の絵としての特徴を見出すようになっている。絵画鑑賞は不変ではない。時代時代で変わってゆくのである。
鶴山裕司
(2018/05/13)
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