俳優、声優・ナレーター、エッセイイスト、東海大学特任教授。1942年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部中退。
洋画家・寺田政明の長男として東京の旧池袋モンパルナス芸術家村に生まれ、早稲田大学中退後、文学座附属演劇研究所に第一期生として入所して俳優の道を歩み始める。岡本喜八監督の『肉弾』に主演し毎日映画コンクール主演男優賞受賞。実相寺昭雄、相米慎二、石井隆監督作品の常連俳優でもある。エッセイイストでもあり、著書に『寺田農のみのりのナイ話』(淡交社)、『寺田農のノウ・ガキ』(風塵社)がある。美術にも造詣が深いことで知られる。
今年(二〇一三年)二月十四日から三月三日まで、池袋モンパルナスを代表する画家、寺田政明画伯の生誕一〇〇年記念展覧会が、豊島区立熊谷守一美術館で開催される。金魚屋では第3回 Interview of Gold Fishes でご子息の農氏に池袋モンパルナスを巡るインタビューをさせていただいたが、画伯の展覧会が開催されるのに合わせて、文学金魚で美術展時評を連載している山本俊則さんをインタビュアーとして、改めて画伯の画業についてお話をうかがった。展覧会や図録で絵を見ることはあっても、生身の画家に親しく接する機会は少ない。政明画伯の息子である農氏は、肉体感覚として画家という存在を深く理解しておられる。〝画家の息子〟ならではの示唆に富んだお話をお楽しみいただきたい。
■生誕一〇〇年 寺田政明展■
会期 二〇一三年二月十四日(木曜日)から三月三日(日曜日)まで(二月十八日、二十五日は休館)
会場 豊島区立熊谷守一美術館
アクセス JR池袋西口、国際興業バス乗り場2番または4番系統にて「要小学校」下車、徒歩5分/東京メトロ有楽町線・副都心線「要町駅」2番出口より徒歩8分/西武池袋線「椎名町駅」北口より徒歩13分
(金魚屋編集部)
―――今年(二〇一三年)の二月十四日(木曜日)から三月三日(日曜日)まで、豊島区立熊谷守一美術館で、『生誕一〇〇年 寺田政明』展が開催されます。寺田さんは講演会や対談などで、お父様である政明画伯についてお話されることも多いですが、回顧展が開催されるこの機会に、改めて政明画伯の画業についてお話をおうかがいしたいと思います。
今回の回顧展開催に際して、北九州市立美術館でカタログが制作されましたが、今日は寺田さんが編集・発行人として刊行された、立派な『寺田政明画集』(平成七年一月三〇日・茅蜩社)も用意していただきました。これらの画集を眺めながらお話を進めていきたいと思います。
で、今、茅蜩社版『寺田政明画集』をパラパラ拝見していますが、この『灯の中の相談』は初めて見ました。有名な『灯の中の対話』と通じるところがあるような絵です。
寺田 『灯の中の相談』は、新潟市美術館が持っているんですよ。いまちょうど展示されていると思います。新潟の所蔵作品の中で、貸し出しナンバーワンだそうです。この間も横須賀美術館に来ていましたね。
―――『灯の中の対話』は、詩人・小熊秀雄さんの葬儀の思い出が元になっている絵だとか。
寺田 そうそう。電気代が払えなくて、ロウソクを灯して葬式を出したというね。
―――ネズミは小熊さんの葬儀とは関係ないですか。
寺田 両作ともに、中心に灯がありますから、関係はあるでしょうね。茅蜩社版『寺田政明画集』は、親父の七回忌の時に、母親がまだ元気だったもので、私がプロデューサーをやって、姉の旦那さんがデザイン関係だったもので、編集とか装幀とかを全部やってもらったんですよ。家族で作った画集で、七回忌の時の配りものにしたんです。美術館などにもずいぶんお送りしましたけどね。スポンサーは母親ですが、家族で好きな絵を選んだので、少し片寄ったセレクトになっているかもしれません(笑)。
上 北九州市立美術館刊『生誕一〇〇年 寺田政明』展図録
下 茅蜩社刊『寺田政明画集』編集・発行 寺田農
―――非常にクオリティの高い画集だと思います。今日は一九八八年にフジヰ画廊で開催された『寺田政明展』のパンフレットも持ってきましたが、お亡くなりになる前年なのに、まったく衰えを感じさせませんね。この時期の政明画伯は、どんな状態だったんでしょうか。
寺田 亡くなったのが一九八九年七月なんですが、それまで大きな持病があったとかではなくて、患ってから半年くらいで亡くなりました。だからこの時期はピンピンしてましたよ。
―――政明画伯の絵を見ていて感じるんですが、一九五〇年代までの絵は暗い色調が多いですね。中でもデッサンですが、一九四四年、つまり終戦の前年に描かれた『絶命』などはとても暗い主題だと思います。どうしても体制批判ということを思ってしまうのですが、そのあたりはどうですか。
上 『灯の中の相談』一九五〇年
下 『灯の中の対話』一九五一年
寺田 僕が言うのもなんだけど、そういった体制批判意識っていうのは、当時の画家にはないと思いますよ。まず思想があって、それを絵に結び付けようという意図は、ぜんぜんなかったと言った方がいいかな。単純に、ニワトリを描いたらこうなったということだと思います。それが後に、批評家さんによって反戦とか反体制の絵だと読み解かれることになるわけです。もちろん、この絵だって検閲に引っかかることが明白だったから、発表されなかったという時代状況を背負っているわけですけどね。でも画家本人は、そういった思想的な主張とは無縁だったと思います。それはうちの父親だけじゃなく、靉光や松本竣介さんとか、あの年代の人はみんな同じだったと思いますよ。
『絶命』一九四四年
―――池袋モンパルナス全体の話になりますが、モンパルナスというと、どうしてもシュルレアリスム絵画と結び付けられて論じられる傾向があります。しかしそれはそろそろ見直されてもいいんじゃないでしょうか。
寺田 そうですね。当時はパリ留学から帰ってこれられた福沢一郎先生が、新しいシュルレアリスム絵画を広めた時代で、みんなそれに飛びついたという状況が確かにあるわけです。でもそれだけじゃないですね。
―――政明画伯は動物はお好きでしたか。
寺田 好きでしたね。動物だけじゃなくて樹木とかもね。弱者に対する視線といいますか、世の中で弱いと思われているような存在に、惹き付けられていたと思います。
―――人間中心主義というか、人間が自然を支配するんだという感覚はなかった、と。
寺田 なかったですね。家の庭に柿の木が二本あったんですが、実がなっても自分は食べないんですから。熟して、そこに鳥がわーっと群がって啄むのを見てるのが好きでした(笑)。
―――政明画伯の晩年の絵を見ていると、非常に色も造形も研ぎ澄まされています。うまい具合に戦前のシュルレアリスムと戦後の具象画の技法が昇華されたように感じるんですが。
寺田 それが一人の画家の成長というか、到達点なんでしょうねぇ。
―――政明画伯の絵に現れる動物は、ご本人かもしれませんね。
寺田 うん。松本竣介は風景画でも、いつも彼がいるような感じを与えるような絵を描いたけど、それが父親の場合は、鴉だったり虫であったりしたのかもしれません。遺作になった『樹炎』(一九八八年)という作品があります。これなんか本当に、具象と抽象画がミックスされたような絵ですね。
『樹炎』一九八八年
―――政明画伯の取材旅行というのは、寂れた所ばかりですよね。小樽、硫黄島、房総、新潟とかの、淋しい漁村なんかが多いです。
寺田 父親は福岡の八幡市出身で、八幡製鉄所があったから、全盛期を終えて廃れていくものに絵のモチーフを感じるということを、自分でも書いていますね。
―――終戦直後の一九四五年に八幡製鉄所を描いたのが、政明画伯の戦後のスタートですね。
寺田 戦時中、八幡製鉄所は軍事工場で描けなかったからね、それもあるんでしょう。
―――戦後は八幡製鉄所から始まって、最晩年の淋しい漁村風景になる、と。
『八幡製鉄所』一九四五年
寺田 人工的なものを嫌っていたからね。自然のままの姿がいいんじゃないでしょうか。
―――今回の生誕一〇〇年記念回顧展のカタログでは、一章を割いて、政明画伯の『装幀・挿画の仕事』がまとめられています。これを見ていると実に器用ですね。依頼された本の内容に合った絵を描いておられる。
寺田 だから十年くらい、新聞連載小説なんかの挿絵を描く生活が続いたんです。尾崎士郎、檀一雄、司馬遼太郎さんと、当時の売れっ子作家の挿絵を次から次に描いたわけだけど、ある時母親の、『もうええかげんにせんね』という一言でやめてしまった(笑)。新聞連載は毎日だから、けっこうお金も入ってくるし、父親もその気になっていたんでしょうね。それが母親の一言で、はっと我に返って、ぴたっとやめちゃうんです。もちろん挿絵を描いていた期間も、いい油絵を描いていますが。
―――独特の挿絵だと思います。
上 司馬遼太郎『城をとる話』のための挿画一九四五年
下 尾崎士郎『雷電』単行本の表紙画
寺田 最初に手掛けたのが、尾崎士郎さんの『雷電』という週刊誌の連載小説だったんだけど、尾崎さんから挿絵を頼まれたときに、父親は自分は挿絵は描けないと言ってお断りしたんです。ところが尾崎さんも俺だって書けないんだ、と(笑)。俺が書けない時は、絵でもたせてくれと言われて、不承不承始めたのが最初です。でも始めてみると、だんだん調子が出て来て、十年近くそういう仕事をすることになった。
―――油絵の画家とは思えない挿絵です。
寺田 父親は若い時から色紙とかに墨絵を描いていますから、和筆を描くことに慣れていた。だから洋画家でありながら、比較的スムーズに挿絵が描けたんじゃないでしょうか。
―――政明画伯が挿絵を依頼された時に受けるかどうか迷ったのは、尾崎さんの作品が時代小説だったってこともあるでしょうね。時代小説の挿絵は難しい。現代小説の方が描くのは楽です。
寺田 時代考証があるしね。父親が書いているんだけど、尾崎さんに最初にお会いした時に、岩田専太郎さんのような絵は描いてくれるな、と言われたようです。あんな絹の着物を着た力士の絵は嫌だと。僕が言ったわけじゃなくて、尾崎さんが言ったんですからね(笑)。尾崎さんは父親に、生身の力士の絵を描いてほしいと依頼したそうです。そういう絵はあなたにしか書けないだろうから、お願いしたいってね。だから最初に尾崎さんと挿絵の仕事をしたことは、父親にとって非常にラッキーだったと思います。
―――小説家だったらお願いしたくなる挿絵だと思います。主張がないようであるんですね。目立ちすぎないけど、作品にピッタリはまる。
寺田 後に野坂昭如さんが『骨餓身峠死人葛』って本をお出しになる時に、野坂さんの指定で父親の絵を装幀に使うことになったんです。作家という人たちもいろんな絵を見て、挿絵や装幀なんかに、ちゃんと自分好みの絵を選んでいるよね。
―――で、童話は童話ですっきりとしたメルヘンタッチの絵をお描きになる。政明画伯は意外と器用です。
野坂昭如『骨餓身峠死人葛』の表紙原画と単行本表紙 一九六九年
寺田 僕もそう思う(笑)。それとやっぱり、デッサンがうまいね。
―――生誕一〇〇年記念の図録で、寺田さんは『デッサンが出来とらんぞ』というエッセーをお書きになっておられます。政明画伯がデッサンを重視されていたという思い出です。でも政明画伯がおっしゃっていたデッサンは、必ずしも技術を指していないようです。この前の金魚屋のインタビューで、寺田さんは、技術的に上手いか下手かを言うと、洋画家よりも日本画家の方が上手いとおっしゃっていますね。とても印象に残っています。
寺田 日本画は独学じゃ無理だからね。筆の使い方一つだって、教えてもらわないと身につかない。良い悪いの問題ではなくて、洋画家よりも日本画家の方が技巧は持っていると思います。
―――政明画伯のデッサンを見ていると、ああ、やっぱり洋画家だなぁと思うとことろがあります。
寺田 そうですね。正確に描くというより、裸婦のデッサンなんかが典型的だと思うけど、まず全体のフォルムを捉えてから細部を描き込むような感じですね。
―――そのあたりからも、池袋モンパルナスの画家の絵とシュルレアリスムとの関係は、再検証する必要がありそうですね。モンパルナスのリーダー的存在だった小熊秀雄は美術評論も盛んに書いていて、その中でシュルレアリスム的な絵をかなり批判しています。これは本当に君らの肉体に根ざした表現なのか、と。政明さんの絵に関しても、具象で行けということを書いている。実際、政明さんを含め、モンパルナスの多くの画家が、シュルレアリスムの影響を脱して具象抽象的な表現に向かうわけです。
上 『裸婦』一九七三年
下 『うしろむきの女』一九七六年
寺田 洋画は日本画に比べて圧倒的に歴史がないんです。明治維新から父親たちの時代までは、たかだか六十年くらいですよ。ヨーロッパの画家たちが長い時間をかけて培ってきた技法を、短期間で消化せざるを得なかった。だからシュルレアリスムのような新技法が紹介されると、わーっとそれに飛びつくということが起きる。でも一通り試すと、また具象の方に戻っていったりね。モンパルナスの画家で、最後まで抽象画を描いた人って、あまりいないですよ。
―――ただ短期間の割には、技法の消化は正確だったと思います。
寺田 豊島での展覧会のために、三月二日に平塚美術館館長代理兼学芸主管の土方明司さんと話すことになっているんだけど、前に話した時に、彼がうちの親父とか靉光、松本竣介さんの絵なんかは、この時代の作品にしては退色していないと言っていたんですね。父親の戦前のシュルレアリスム絵画の代表作に、『宇宙の生活』(一九三八年)という作品がありますが、ほとんど絵の具の退色も剥落もない。これは絵の具の配合なんかを、ものすごく研究したからでしょうね、とおっしゃっていました。
『宇宙の生活』一九三八年
―――洋画は日本画に比べると、写真図版に向いているところがあります。色や形の特徴が、日本画よりもはっきりしているせいだと思います。しかし現物を見ると、やはり図版とは違っていて、優れた絵は塗りが非常にしっかりしている。
寺田 上野の東京藝術大学の近くに、浅尾拂雲堂っていう画材屋さんが今でもあります。昔、僕が父親関連のドキュメンタリーの制作で行った時に、父親と同じ世代の先代のご主人がまだお元気で、政明さんは、ものすごくホワイトにうるさかったっておっしゃっていました。キャンバスの下塗り用のホワイトね。画家にもよるけど、まずホワイトで下塗りしてから絵を描く画家が多いでしょう。そのホワイトを、一つのメーカーの絵の具だけじゃダメで、自分で独自に絵の具を混ぜ合わせて工夫していたようです。
―――池袋モンパルナス内での切磋琢磨もあったでしょうね。芸術の世界では、あるコミュニティから、まとめて優れた作家が出ることがよくあります。池袋モンパルナスがまさにそうです。でも、モンパルナスの全盛期は十年くらいですよね。
寺田 昭和八年くらいから活気が出始めたようだけど、だいたい終戦とともに消滅するから、そう、十年ちょっとですね。
―――よく交流していますものね。板橋美術館の池袋モンパルナス展のカタログに、吉井忠さんの日記が再録されていて、それを読むと、頻繁に集まって話したりしています。
寺田 ほかにやることはないのかよ、って思うくらい、しょっちゅう会ってるね(笑)。
―――僕は池袋モンパルナスの画家たちが大好きで、それは彼らが〝絵描き〟と呼びたくなるような画家たちだからです。絵を描くのが本当に好きな人たちの集団だったと思います。絵に対する姿勢が非常にすがすがしい。この前、世田谷美術館で松本竣介展を見ましたが、あの方も描くのが好きですね。いろんな画風の絵を描きまくっている。
寺田 竣介さんは若くして亡くなるんだけど、奥さんの禎子さんが編集の仕事をしていたこともあって、非常に資料が良く整理されています。息子の莞さんは建築家になったけど、彼も俊介さんの資料を大事に守り継いだ。
―――三十六歳でお亡くなりになった画家としては、残っている絵画の数が多いですね。
寺田 画家の仕事って、奥さんとか息子、娘なんかの次の世代が整理しないと、散逸してしまうんですね。僕も父親の仕事の整理に関しては、来月の豊島の展覧会までに、できるだけのことはやろうと思っています。僕なんかの子供の世代までは、父親の仕事を整理することの意味がわかるけど、孫の世代になってしまったら、ちょっと距離ができてしまいますよね。僕がいろんな資料を整理しておけば、展覧会なんかをやるときに、役に立ったりするわけだから。
―――政明画伯の展覧会自体は、これで最後ということはないですが、残っている仕事は、できるだけ正確な評価ですね。いつの時代でも、まずイズムでくくれるような画家集団が見えてきて、その後に個人が見えてくる。池袋モンパルナスもそうで、これからは個々の画家に即してその仕事を見ていかなければなりません。
寺田 そうは言っても、生誕一〇〇年記念のような、大きな展覧会を開いてもらえることはなかなかないからね。父親の展覧会を北九州市立美術館がやることになって、それが豊島区での展覧会につながるわけだから、やっぱり露出ってことは大事ですよね。
―――政明画伯は七十七歳まで活躍され、寺田さんの努力もあって作品も資料もたくさん残っていますが、以前靉光展を見たとき、これは厳しいな、と思いました。確かに自画像三点と『眼のある風景』は傑作だと思いますが、ほかにめぼしい作品はほとんど残っていませんね。
寺田 戦災で焼けちゃったからね。
―――そう言えば、靉光さんが政明さんに贈った奇妙なオブジェがありましたね。あれはまだお持ちですか?。
寺田 いや、あれは板橋区立美術館に寄贈しました。あのオブジェのことを板橋に話したら、それはいつ出るんだってうるさくてね(笑)。
―――へぇ(笑)。あれを所蔵したいってことですか。
寺田 それがまた面白いオブジェなんだ。それにあのオブジェを張った板の裏に、父親がその経緯を書いてるっていう資料的な価値もあるからね。地下足袋の底のゴムの部分なんだけど(笑)。
『靉光さんのオブジェ』(地かたびのすりへったもの) 一九三五年
寺田政明が裏に『昭和十年/夏/靉光氏伊豆/海岸より持帰り/寺田政明に/土産として渡す//靉光さんの/オブジェ(地かたびのすりへったもの)』と書いている
―――政明画伯の絵に戻りますが、小樽では、十年くらい間があいているのに、同じ場所で絵を描いておられますね。
寺田 ここで描くんだってなると、そこは雪もあるし、足元も悪いんだけど、そんなことは言ってられない。どうしてもそこに行って描くわけです。同じ構図の絵が多いというのは、そのポイントでなければダメだったからですね。小樽で写生しているところの写真がありますが、足元に雪が積もっているでしょう。
寺田政明氏の小樽での写生の様子 一九八八年頃か
―――それは画家の勘ですね。同じ構図で描いていて、十年経つと絵が良くなっている。この場所だという勘が働くんでしょうね。
寺田 こっちの方が雪がなくて暖かくても、そんなことはどうでもいいわけです。スノーブーツくら履けよと思うんですが、比較的薄着で革靴のまま、自分が決めた場所に行って描いていますね(笑)。
―――セザンヌなども同じですね。だいたい決まった場所で写生しています。
寺田 そのかわり、描き終わったらびっしょり汗をかいていますよ。
―――政明画伯は足が不自由でしたが、歩き方とか、気になるくらいでしたか?。
寺田 僕は子供の頃から見慣れているからね。ただ友達からは、お前の親父、すごい足が悪いなって言われたことがあります。障害者手帳を持っていれば、かなり重度の方だったと思います。ただそういうことに、絵描き仲間はもちろん、当時の人たちはあまり気を遣わないよね(笑)。松本竣介だって、耳が聞こえないわけだけど。
『冬の小樽 運河沿い』 一九七六年頃か
―――同時代の画家たちの俊介さんに関する回想を読んでいると、耳が聞こえないということをあまり感じさせないですね。普通に交流しています。
寺田 竣介さんは、耳が聞こえなかったから、雑誌『雑記帳』なんかを出して、文章をたくさん書いたということはあると思いますが。
―――当時の画家仲間は、平気で障害をからかったりもしていますね。今だったら大変なことになってしまいますが。
寺田 そうそう(笑)。当時はあんまりそういったタブーがなかったんだ。
―――また池袋モンパルナスとシュルレアリスムの話に戻りますが、政明画伯の絵は、晩年から評価していく方がいいんじゃないでしょうか。さすがに最近は変わってきましたが、七〇年代くらいのモンパルナス関係の資料を見ていると、『シュルレアリスムのあだ花』と書いてあるものもあります。確かにシュルレアリスムを中心に考えるとそうなってしまう面はある。しかしモンパルナスにシュルレアリスム絵画を持ち込んだ福沢一郎さんからして、その影響から脱していくわけです。
寺田 シュルレアリスムを前面に出した方が、取り上げやすいんじゃないですか。池袋モンパルナスは戦前の前衛で、シュルレアリスム絵画を初めて本格的に描いたっていう切り口ね。それプラス、威勢のいい画家たちの青春の熱気があったってことになると、展覧会の企画を立てやすいんだと思いますよ。ただ、これからは個々の画家の仕事が見直されていくんじゃないかな。松本竣介と靉光さんは、もう評価が定まっていると言っていいと思いますが。
―――竣介と靉光さんは、早い時期に亡くなっていますから。
寺田 父親なんかは、これからいろんな評価が定まっていくんじゃないかという気がしますね。
―――政明画伯が亡くなってからまだ三十年くらいで、美術は息が長い世界ですからね。
寺田 絵は倉庫に入れておいても傷むばかりで、誰の目にも触れないわけだから、公の美術館に持っていただいた方がいいですね。
『冬の小樽 運河沿い』 一九八八年頃か
―――今回の展覧会では、是非、政明さんの絵の色やタッチをじっくり見ていただきたいですね。政明画伯の絵は、質感を見なければ、やっぱりその本質がわからないと思います。寺田さんの講演会は三月二日ですね。
寺田 そうです、土曜日ね。豊島区千早二丁目の、千早地域文化創造館一階の第一会議室で、午後二時から(笑)。
―――池袋モンパルナス資料室の本田晴彦さんと、アトリエ村があったエリアを歩くイベントも開催されるようですが。
寺田 本田さんはモンパルナスの専門家だから、彼と一緒に町を歩いてみると、いろんな発見があると思いますよ。
―――池袋モンパルナスの資料館は、豊島区が運営されているんですか?。
寺田 そう。今、建物を建て替えていて、新しい複合ビルの中に再入居するそうです。
―――何が財産になるか、わからないものですね。政明さんが住んでおられたときに、まさか池袋モンパルナスが、区の文化財産になるとは思わなかったでしょうね。
寺田 そうですね(笑)。
―――池袋モンパルナスには多彩な画家たちが集まっていて、文化史的にも非常に重要だと思いますので、これからも注目して、掘り下げていきたいと思います。
寺田 宇佐美承さんが『池袋モンパルナス』という大著をお書きになったけど、また新しい視点でいろいろ検討され、文章をお書きになられると面白いと思います。
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■池袋モンパルナス関連の本■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■