於・北九州市立美術館 会期=2012/10/06~11/11、その後、豊島区熊谷守一美術館(2013/02/14~03/03)を巡回
入館料=無料
評価=総評・80点 展示方法・80点 カタログ・80点
僕のささやかな絵のコレクションの中に寺田政明の作品がある。小品で冬の小樽運河を描いた油絵である。夜の風景である。青みがかった雪景色の中に、ポツンと灯る黄と赤色の電灯がよく映えている。冬の雪国を旅した方は御存知だと思うが、月明かりや微かな外灯で照らされた雪は青みがかって見える。ただ画面左側に描かれたカモメらしき鳥は写実ではないかもしれない。夜にカモメの姿はめったに見かけないからである。いずれにせよ現実風景が抽象化された幻想的な絵である。
『雪の小樽 運河沿い』 縦21×横26センチ 昭和63年(1988年)頃 著者蔵
この絵は恐らく寺田最晩年の作である。手元に昭和63年(1988年)11月に東京銀座のフジヰ画廊モダーンで開催された『寺田政明』展のカタログがある。冬の小樽運河の絵が何枚か含まれており、絵のタッチもよく似ている。寺田の画集は美術展カタログを含め10冊以上刊行されていると思うが、僕はこの図録が一番好きだ。ここに収められた絵には統一感があり寺田が到達した表現の高みがよくわかる。
寺田は生涯に渡って大きく画風を変え続けた画家だが、『雪の小樽』と同系統の絵を珍しく何度も描いた。遠近法の消失点が画面上方にあり、そこから風景が溢れ出してくるような絵である。手元にある画集で確認できる限りということになるが、最初にそれが現れるのは戦後に描かれた『二つの道』(昭和29年[1954年])と『犬のいる道』(31年[56年])だろう。寺田は1960年代の末頃から頻繁に写生旅行に出かけた。51年(76年)に描かれた『雪の運河』は最初の小樽旅行で生まれた作品である。63年(88年)制作の『雪の小樽 運河沿い』は恐らく『雪の運河』と同じ場所で描かれているが、両者を比較すれば寺田がどのように現実風景を抽象化していったのかがよくわかるだろう。
『二つの道』 縦116.5×横91センチ 昭和29年(1954年) 広島県立美術館蔵
『犬のいる道』 縦90.9×横116.7センチ 昭和31年(1956年) 個人蔵
『雪の運河』 縦179.6×横180センチ 昭和51年(1976年) 北九州市立美術館蔵
『雪の小樽 運河沿い』 縦45.5×横60.6センチ 昭和63年(1988年) フジヰ画廊モダーン図録
寺田政明は池袋モンパルナスを代表する画家の一人である(No.001、【特別論考】池袋モンパルナスについて(前編)、(後編)、およびNo.019参照)。明治45年・大正元年(1912年)に福岡県八幡市で生まれ、昭和64年・平成元年(1989年)に77歳で世を去った。池袋モンパルナスの画家たちは、戦前の前衛美術、特にシュルレアリスム絵画を描いたことで知られる。フランス留学中に直にシュルレアリスム絵画に触れた画家・福沢一郎と、イギリス留学帰りの詩人・西脇順三郎を通してシュルレアリスムを知った瀧口修造が、好奇心旺盛な池袋モンパルナスの若い画家たちを導いたのだった。
しかし池袋モンパルナスのシュルレアリスム絵画の評価は、先駆者という美術史的な評価を受けているものの決して高くない。例外は靉光の『眼のある風景』くらいだが、靉光をシュルレアリストと呼ぶことはできない。モンパルナスの画家たちは確かに絵画の新しい表現を求めていた。だがそれはシュルレアリスムという思想におさまるものではなかった。これまで何度か書いたように、彼らは徹底して〝手の画家〟であり古典的な意味での〝絵描き〟だった。シュルレアリスムは絵画技法的な通過点に過ぎなかったのである。
ヨーロッパ絵画は印象派やフォーヴィズムの時代を経て、ダダイズムとシュルレアリスムによって本当の意味で写実(現実描写)から開放された。シュルレアリスムは人間の無限の想像力=創造力に形を与える〝魔法の技法〟と呼ばれることがある。だがそれがイズムとして多くの人々の心を捉えた背景には時代状況がある。第一次世界大戦後の現実があまりにも悲惨だったのである。ヨーロッパの芸術家たちは奔放な想像(創造)力の開放によって現実を変革しようとした。それがシュル・レアル(現実の上)というイズムの意味である。
だが日本の状況は違っていた。日本社会は自由で活気ある大正デモクラシーの時代を経て、ヨーロッパが第一次世界大戦で初めて経験した、あるいはそれ以上の悲惨に向かって突き進んでいた。シュルレアリスムは池袋モンパルナスの画家たちに、個の想像(創造)力に従って自由に絵を描くことを教えた。しかし戦時体制の締め付けが強まる中で、日本の同盟国・ナチスドイツが頽廃芸術の烙印を押した前衛的表現は厳しく禁じられていった。また島国の日本では国境を越える亡命などほぼ不可能で、獄死覚悟の政治的闘士でなければ体制にあらがうことはできなかった。この厳しい状況の中でモンパルナスの画家たちの実験的青春時代は終わり、彼ら本来の表現欲求が芽生えていくのである。
靉光が出征する前に残した3枚の自画像や〝音のない絵〟と呼ばれる松本竣介の戦時中の風景画は、具象画でありなんの説明的要素もない。しかし当時の彼らの心性を赤裸々に表現している。それは沈黙を余儀なくされる状況の中で、詩人・小熊秀雄が『心の城』と名づけたそれに近い。彼らの絵は体制が個を抑圧し、また社会的義務として個が粛々と体制に協力するとしても、何人も犯すことができない人間の尊厳を表現している。そこには確かにシュルレアリスム消化の痕跡がある。簡単に言えば超現実(シュルレアル)は悲惨な現実の上位審級にある理想的イデアである。しかしそれは現実描写から解き放たれた絵画でしか表現できないものではない。徹底した写実によって現実を超えた理想(イデア)を表現することもできるのである。
『絶命』 縦31.4×横44.2センチ 昭和19年(1944年) 個人蔵
『吠える』 縦44.1×横31.4センチ 昭和19年(1944年) 個人蔵
寺田政明は面白い画家で、考えるのではなく描くことで彼の〝絵画思想〟を育んでいった。寺田の画業を通覧すれば明らかなように彼の画風は多様である。しかしその変遷を時代状況に帰すことはできないと思う。寺田は昭和10年(1935年)刊の『小熊秀雄詩集』を皮切りに数多くの本の装幀や新聞連載小説の挿絵などを手がけた。それを見ると寺田は依頼された本の内容に沿って自在に画風を変えている。
寺田は描くことで対象の本質に迫ろうとする。シュルレアリスティックな想像的絵画やそれとは反対に見える写実絵画は、対象が有する本質から生み出されるのである。ただ寺田の絵には大きな特徴がある。風景や静物を描く時と動物を描くときでは絵のトーンがはっきり変わる。人間は風景や静物と同じタッチで描くが動物だけが違うのである。
寺田は子供の頃に足を悪くして召集されなかった。しかし戦時下の画家の義務として、自ら望んで昭和19年(1944年)4月から10月にかけて中国に絵画慰問に出かけた。兵隊たちに似顔絵などを描いてやる慰問旅行である。杓子定規に言えば戦争協力だが事はそれほど単純ではない。寺田は同じ年に『絶命』や『吠える』を描いた。そこには時代への異議申し立てがある。これらの絵は当局の検閲にあうことが明白だったので発表されなかったが、当然だろう。寺田が動物を描くとそのほぼすべてが擬人化されてしまう。寺田の場合、首を絞められた鶏や遠吠えする犬は人間の姿そのものだと言っていい。ただ風刺画のように人間を動物で表現しているというわけではない。
『灯りの中の対話』 縦65.5×横91センチ 昭和26年(1951年) 板橋区立美術館蔵
長男・農氏が本人から聞いたところによれば、『灯りの中の対話』の蝋燭は小熊秀雄の葬儀時の光景がイメージの源泉になっている。小熊の家で行われた葬儀は電気が止まっていたのでたくさんの蝋燭を灯して行われたのだ。しかし悲惨さはまったくなく、むしろコミカルなタッチの絵である。この二匹のネズミも擬人化されている。右側のネズミは立ち上がり両手を振って何かを訴えている。左側の鼠は座ったまま手を伸ばして冷静にそれに答えているようだ。このネズミが若き日の寺田と小熊だとは限らない。だが一本の蝋燭の灯りの下での二匹のネズミの対話は人間世界を相対化している。
寺田にはひっそりと世界に存在する小さな生き物たちへの偏愛がある。それは後期から晩年にかけての風景画の画題とどこかで繋がっている。寺田が訪れた当時、小樽は現在のように観光化されておらず寂れた港町だった。小樽は親友だった小熊秀雄の故郷でもあるが、寺田は朽ち果てて人々の記憶から忘れ去られそうになっているからこそ小樽を写生場所に選んだのである。佐渡、犬吠岬、房州、硫黄島と寺田は日本の繁栄から取り残されたような場所ばかりを好んで写生した。
『犬吠岬 外川』 縦45.5×横65.2センチ 昭和63年(1988年) フジヰ画廊モダーン図録
『海辺の鳥 「忍路」』 縦38×横45.5センチ 昭和63年(1988年) フジヰ画廊モダーン図録
寺田の晩年の作品は、現実の風景が一度内面化されて、しかるべき色と形を与えられてからするりと溢れ出したような印象を見る人に与える。抽象化された現実、つまり寺田の目のフィルターを通過した風景が、その痕跡を残したまま再び現実世界となって立ち現れているのである。そこにはしばしば鳥や猫が現れる。寺田作品では動物は擬人化されるということで言えば、『犬吠岬 外川』の鴉は彼の自画像かもしれない。しかし鴉は風景に、世界に溶け込んでいる。『海辺の鳥 「忍路」』のように三羽の鳥がいても同じことだ。彼らは世界の一部である。
恐らく寺田には人間中心的な思考がなかったのだろう。人も動物も風景も等価に描かれている。寺田が廃墟を好んで描いたのは、人間の営為が自然に還ろうとしている風景を最も美しいと感じていたからだと思う。寺田晩年の絵には調和があり、一枚の絵として過不足なく自律している。そこに絵を描くことで普遍(不可侵)のイデアを求めた〝手の画家〟、寺田の思想があると思う。画家にとってはあらゆる抽象的イズムは二義的なものである。本質的な思想は絵によって、手の跡によって表現されている。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■