自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
■受難化した体験■
池上 今回から三回にわたって石原吉郎と黒田喜夫という、ある意味戦後詩の極北のような詩人を取り上げます。石原吉郎はシベリア抑留、黒田喜夫は肺結核治療の後遺症により後半生の大半を病床で過ごすという過酷な体験をした二人です。この組み合わせは鶴山さんのアイデアですが、どういう意図があるのでしょうか。
鶴山 この討議は「荒地」の鮎川信夫から始めたわけですが、言うまでもなく「荒地」の詩人たちにとって戦争体験は決定的でした。従軍したかどうかは別に彼らは戦争協力したことで本来自由で誇り高くあるべき個の思想や感情をへし折られた。それが戦前と質的に変化したにせよ戦後も多かれ少なかれ個を抑圧し続ける社会的権威に対する激しい批判・否定精神となって表れた。「Xへの献辞」に表現されているように鮎川信夫は詩の直観的真理表現によって社会を変えられると信じた。あるいは詩が混濁した社会の上位にある、あるべきだと考えた。ある意味初期シュルレアリスムの理念に近い文学理論で信念です。
鮎川の思想に最も敏感に反応したのが田村隆一です。ただ田村さんは鮎川さんのような現実上位にある(あるべき)詩を媒介とした理想的精神の共同体を信じなかった。「おれは垂直的人間」(「言葉のない世界」)に端的に表現されているように純粋に孤立した杭のような個人として社会を否定し対立した。田村詩には自由と平和が所与のものだと信じて疑わない戦後社会を厳しく批判し揶揄する〝黒い嗤い〟が満ちています。田村さんの個の垂直性は強靱でした。だから鮎川さんがじょじょに理想的精神の共同体を見失い詩を書き止めてしまったのに対し田村さんは死ぬまで質の高い詩を書き続けることができた。鮎川さんより田村さんの方が遙かにペシミストだった。鮎川さんが戦後社会をよりよくするために親身な社会批評を書き続けたのに対して田村さんは隠者や超越者のようにひたすら戦後社会を相対化し批判し続けた。
鮎川・田村の思想を受け継ぎ「荒地」派の掉尾を飾ったのは言うまでもなく吉本隆明です。詩人としては鮎川・田村のような仕事を残せなかったですが思想家としては突出しています。間違いなく戦後で最も偉大な思想家です。吉本さんは欧米思想の借り物ではなく自力で考え的確な用語を生み出して日本社会(文化)の本質を明らかにしようとした。初期の『転向論』からしてそうです。戦前・戦中のなし崩し的転向は神との契約が精神基盤になっている欧米社会では起こり得ない。『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論序説』の初期三部作も基本的に日本社会に即している。戦後社会は大きく変容してゆきますが吉本思想は『初期歌謡論』『最後の親鸞』といった原理論から『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』『重層的な非決定へ』と一九九〇年代以降のポスト・モダン社会論にまでアップデートしていった。批評の世界には各時代にスターがいますが戦後七十年に渡って日本社会の変容を理論化し得た思想家は吉本さんだけです。
極論を言えば僕らは戦後詩や戦後思想を鮎川―田村―吉本ラインで捉えています。ただ僕らはそれらを抽象観念として継承している。なぜなら彼らの出発点となった戦争体験自体は共有できないからです。彼らもまたいつまでも戦争体験にこだわる作家たちではなかった。戦争体験はあくまで出発点でありそこで確立された揺るぎない個が戦後社会を批判・相対化し、日本社会や文化の本質を明らかにする方向に進んでいった。戦争体験が決定的だったのは間違いありませんが彼らの詩と思想はそれを超える射程を持っていた。
しかし石原吉郎は違う。戦争体験と言ったとき、一番ヒドイ目にあった詩人の一人が石原吉郎です。彼のシベリア抑留体験は悲惨です。ちょっと筆舌に尽くしがたい。で、詩はかなり優れている。そうするともし石原詩こそ戦争体験に裏付けられた正統戦後詩だと言われると困ったことになる。体験を共有できない以上、僕らは最後のところ石原吉郎の詩と思想を正確に理解できないことになる。石原さんの戦争体験は特権的で詩も不可知的特権性を帯びてしまう。
黒田喜夫についても同じようなことが言えます。黒田さんは石原さんより年若い戦中派で従軍していないので戦争体験はありません。しかし彼の詩は戦中あるいは終戦直後の体験に基づいている。そこから一歩も出ていない。そういう意味では石原さんと同様に絶対化されてしまった体験から詩を書いた詩人です。石原と黒田という詩人は絶対的体験の定点に留まっている。
もちろん石原さんも黒田さんも優れた詩人であり、その詩は体験を超えた観念的上位審級に昇華されています。先に結論めいたことを言えば石原詩は文字通り虚空に抜けますし黒田詩は残酷で美しい夢を描き続けた。悲惨かつ屈辱的体験からの救済としての詩です。
なぜ彼らの詩が救済詩になるのかといえばその体験が受動的だからです。「荒地」の詩人たちは強制されたにせよ戦争に協力した。その屈辱的体験が能動的で激しい戦後社会批判となって表れた。しかし石原さんは自分から望んでシベリア送りになったわけではない。黒田さんはたまたま下層農民の子として生まれてしまった。彼らにはなんの咎もない。多くの人はそれを何らかの形で乗り越える。しかし彼らにとって体験は精神から肉体に食い込む受難になってしまった。乱暴に言えば石原さんはキリスト者であったことで、黒田さんは結核病者であったことによって受動的体験が受難化した。
戦後詩人の中でも体験の絶対性に留まった詩人は稀です。それはいっけん正統戦後詩のように見えますがそうではない。むしろ鬼っ子です。「荒地」を始めとする戦後詩人たちは戦争体験を相対化していますが彼らはあくまで個の特異な体験に留まっている。個の体験を相対化して通有性のある思想を生んだ詩人たちとあくまで個の体験にこだわりそれを昇華して通有性に達した詩人たちという違いがある。彼らのような詩人たちは厄介です。でもちゃんと論じなければならない。
池上 石原吉郎はシベリア抑留体験を書いた一連のエッセイで知られていると思いますが、黒田喜夫は現代詩に相当興味がある人でなければ知らないでしょうね。いずれにしても一般にはあまりなじみがない詩人だろうと思います。それぞれのプロフィールを紹介していただけますか。
鶴山 まず石原吉郎からですね。石原さんは大正四年(一九一五年)生まれ昭和五十二年(七七年)没です。享年六十二歲。「荒地」では黒田三郎が一番年長で大正八年(一九年)生まれですが黒田さんより四歳年上です。東京外国語学校(旧制)でドイツ語を専攻しています。昭和十四年(三九年)二十四歲の時に召集されました。大卒なので幹部候補生になれたのですがそれを拒否して戦地派遣の兵隊を志願した。このあたりからもう石原吉郎です。兵隊に取られたら死ぬものだと覚悟していた。ただ語学がものすごくできた人なので戦地には送られず北方情報要員第一期生として大阪でロシア語の習得を命じられた。一年半ほどでロシア語をマスターして満州ハルピンの特務機関(関東軍情報部)配属になります。優秀ですね。いわゆるスパイとして華々しく活動したわけではないですがパルピンにいた対日協力者のロシア人とは接触していた。
よく知られているように終戦間際の昭和二十年(一九四五年)八月九日にソ連軍が日ソ不可侵条約を破棄して満州に攻め込んできます。東京大空襲で皇居などを残して首都が焼け野原になり広島、長崎に原爆を落とされても戦争を継続した日本政府が無条件降伏を受け入れたのはソ連軍侵攻ゆえです。鮎川さんたち学徒動員された兵士たちは南方の激戦地に送られた捨て駒ですが、政府は従軍経験の長い最強軍団の関東軍を温存して本土決戦に備えていた。一億総玉砕ですね。しかし満州へのソ連軍侵攻によってそれが不可能になってしまった。
石原さんたちは八月十五日の終戦以降も満州に留まっていた。関東軍司令部が麻痺状態だったのでどう動いていいのかわからなかった。要するに逃げ遅れたんです。八月中旬にソ連軍が南下して来てパルピンで略奪暴行が始まり、同時に日本人狩りが始まります。日本の降伏後もソ連軍は軍事行動を続けていた。石原さんは十二月に拘束されソ連領に連行された。翌昭和二十一年(一九四六年)から厳しいシベリア抑留が始まります。日本帰還は二十八年(五三年)十一月三十日ですから八年間も極寒のシベリアで強制労働させられた。
なぜ日本人のシベリア抑留が起こったのかは石原さんの著作を読むとよくわかります。終戦後すぐにアメリカ中心の連合軍との戦争は終結しましたが、当時からアメリカと対立していたソ連は戦後の対日交渉を有利に進めるために満州に取り残された軍人・元軍人を人質に取った。ソ連がそんなことをするとは誰も予測していなかった。国際法で定められた戦争捕虜の扱いとしては違法なんですが、石原さんたちはソ連国民とみなされソ連の国内法で裁かれて終身刑に近い年月のシベリア強制労働を言い渡された。ドイツやルーマニアの捕虜も同様の判決を受けてシベリアに送られています。
石原さんはシベリア抑留中に日記や俳句などを書いていましたがそれらは残っていません。しかし帰国直後から詩を書きはじめていたようで、翌昭和二十九年(一九五四年)に「現代詩手帖」の前身である「文章倶楽部」に「夜の招待」という詩を投稿し特選として掲載された。選者は鮎川信夫と谷川俊太郎。その後も「文章倶楽部」や「文章倶楽部」投稿欄の常連だった詩人たちと刊行した同人誌「ロシナンテ」に詩を発表し続け三十八年(六三年)に第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』を刊行しています。既に四十八歲になっていた。この間に鮎川信夫に誘われて「荒地」同人にもなっています。なお石原さんと同じシベリア帰りの文学者に內村剛介がいます。画家の香月泰男もそうです。財界人では伊藤忠商事の会長を務めた瀬島龍三がいる。
池上 シベリア抑留体験をテーマにした有名な文学作品としては、高杉一郎の『極光のかげに』が昭和二十五年(一九五〇年)の刊行で、これがいちばん早い時期に出たものですね。高杉は捕虜として四年間シベリアに抑留されて昭和二十四年(一九四九年)に帰国するのですが、その翌年には本を出して、当時ベストセラーになりました。次に出たのが長谷川四郎の『シベリヤ物語』で、昭和二十七年(一九五二年)に出版されています。長谷川は捕虜として五年間抑留されて昭和二十五年(一九五〇年)に帰国しましたから、これも帰国後ほどなく書かれているわけです。
一方、内村剛介は十一年間と石原吉郎よりも長く、しかも独房に抑留された人で、昭和三十一年(一九五六年)に帰国、『生き急ぐ スターリン獄の日本人』を昭和四十二年(一九六七年)に刊行します。帰国してから本を出すまでに十一年かかっているわけですね。石原吉郎がシベリア抑留体験についてエッセイで発表したのは昭和四十四年(一九六九年)の「確認されない死のなかで」と「ある〈共生〉の経験から」が初めてで、昭和二十八年(一九五三年)に帰国してから実に十六年後です。一連のシベリア抑留体験のエッセイは、一九七二年に『望郷と海』というタイトルで筑摩書房から刊行された本に収載されて広く読まれるようになります。
ひと口にシベリア抑留体験と言っても、国際法上の捕虜として抑留された高杉一郎や長谷川四郎と、終戦後なのにもかかわらず不当に抑留され、ソ連の国内法で裁かれた内村剛介や石原吉郎とでは、ずいぶん抑留体験が異なったはずです。しかも捕虜は「お国のために戦った兵隊さん」ですが、不当に抑留された人は帰国後に「赤ではないか」とか「ソ連のスパイではないか」などとあらぬ嫌疑をかけられたりして、日本に帰ってきても不条理で苛酷な体験を強いられたわけです。内村剛介と石原吉郎が自身のシベリア抑留体験を散文作品として書くまでに長い時間が必要だったのは無理もないと思います。
鶴山 香月泰男が代表作の『シベリア・シリーズ』を初めて描いたのは昭和三十四年(一九五九年)です。香月さんは石原さんのような対ソ諜報部員ではなく単なる兵隊だったので二十二年(四七年)復員です。抑留期間は三年弱で石原さんより遙かに短いんですがやはりシベリア体験を描くまでに十三年近くかかっている。絵を見た方はおわかりだと思いますが恐ろしく暗い絵です。香月さんの画業を通覧すればわかりますが彼本来の資質は可憐な草花を好む抒情的なものだった。香月さんの花の絵は素晴らしい。しかしシベリア抑留体験が彼の画業に暗く重い影を与えた。
池上 それは石原吉郎にも言えますね。石原は大正四年(一九一五年)生まれですが、実は大正三年(一九一四年)生まれの立原道造と一歳しか違わないんですよ。石原吉郎が本格的に詩を書き始めたのは戦後なので文学史上は戦後詩人ですが、年齢的には近代詩人になっていてもおかしくはなかったわけです。石原は一九五三年の冬、つまり帰国後すぐに『立原道造詩集』を買って立原道造ばりの感傷的な詩を書き始めたと言っています。本来の資質としては、立原道造的な抒情詩人だったのではないでしょうか。
そして、これは石原吉郎の戦後詩を考える上で最も重要な点だとぼくは思っているのですけれど、石原が日本に帰って来たのは一九五三年ですから、終戦直後の日本の混乱期を体験していないわけなんです。「荒地」派の詩人たちの戦中体験はそれぞれに異なりますが、戦後の混乱期を体験した点は共通しています。一九五三年といえばテレビ放送が開始された年でもあり、日本は戦後混乱期からすでに戦後復興期に入っていました。石原吉郎の戦後詩の「戦後」は、「荒地」派の戦後詩の「戦後」とは時間的なズレがある。もちろん戦後詩もそれまで読んでいなかったわけで、石原吉郎はいわば「遅れて来た戦後詩人」なんです。しかも抑留されていた間はずっと日常的にはロシア語を使っていて、石原吉郎の詩的な日本語は戦前のまま「凍結」されていた。シベリア抑留体験と同時に日本の戦後混乱期を同時代として体験できなかったことが、石原吉郎の詩を独特なものにしたのだとぼくは考えています。
窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる
鮎川信夫と谷川俊太郎が特選に選んで一九五四年の「文章倶楽部」十月号に発表された石原吉郎のデビュー作「夜の招待」です。谷川俊太郎は選評の対談で「この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ出来ぬ確固とした詩そのものなんです」と言っています。確かに意味ははっきりしないのに独特なリズムがあって作品の世界に引き込まれて、読み終わると「詩を読んだなぁ」という感じがします。この詩は一九五三年十一月末の帰国後からさほど時を経ずに書かれたわけですけれど、「ぴすとるが鳴って」とか「せろふあんでふち取って」とか平仮名を使う表現は萩原朔太郎的で、いわゆる現代詩ともちょっと違う印象を受けます。
鶴山 詩法の骨格はモダニズムより古いでしょうね。ただ確かに平仮名が多く読みやすい詩なんですが表現内容は複雑。というか何を表現しようとしているのかよくわからない。
「まちかまえた時間が やってくる/夜だ」とあるので昼より夜が正しい時間として認識されているのは間違いない。しかし夜はすぐに終わり「朝が 約束をしにやってくる」。それまでの詩の流れから言えばこの〝朝の約束〟は夜の時間を打ち壊すものです。現実社会の時間が密やかで魔術的な夜の時間を踏みにじる、と理解できないことはない。しかしハッキリそう書かれていない。初期石原詩は「夜の招待」のように意味やイメージが反転しはぐらかされ、いたずらに難解になっている詩が多い。
選評対談で谷川さんが「純粋な詩というのは、えてして遊びになってしまうんですけど、この詩は純粋に詩として自足していて、そのためかえって遊びになっていない、そういう点が貴重なような気がします」と述べています。鮎川さんが「夜の招待」に何かあると感じたのは当然といえば当然ですが谷川さんの高評価はちょっと意外です。彼も戦後の詩人なんだなと思います。
僕は戦後詩に好意的な方ですが、それでも「夜の招待」は頑張って戦後詩の文脈を思い起こさないと評価しにくい。黒田三郎篇で自由詩は言語像の移り変わりが早いと言いましたが現代ではこういった詩を我慢強く読んでくれる読者は少ないでしょうね。日々膨大な情報にさらされている現代では一度読んでサッと理解でき、「ん?」という引っかかりが残って思わず読み返してしまうような詩でなければ恐らく読者を得られない。一九五〇年代には「夜の招待」のようなわかりにくい詩を「純粋な詩」として受けとめることができる精神的土壌があった。ところで池上さんはいつ頃石原吉郎を読みましたか。
池上 ぼくは一九七六年に『荒地詩集1951』に出会って戦後詩を読み出したのですが、高校一年生になった一九七七年には思潮社から出ていた全七巻の『現代詩体系』をノートを取りながら何度もていねいに読んだので、石原吉郎の最初の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』の主な詩はその頃読みました。だけど詩よりも、「自作を語る」という欄に書かれていた「詩へ駆立てたもの」(『現代詩体系①』)という短い文章に強い印象を受けたんです。
「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。
もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」
これは、私の友人が強制収容所で取調べを受けたさいの、取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、その言葉だけが重苦しく私のなかに残った。この言葉は挑発でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認である。そして私が詩を書くようになってからも、この言葉は私の中で生きつづけ、やがて「敵」という、不可解な発想を私に生んだ。私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるような、そしてその選別が全くの偶然であるような、そのような関係が不断に拡大再生産される一種の日常性ともいうべきものの中に今も生きている。そして私を唐突に詩へ駆立てたものは、まさにこのような日常性であったということができる。
『現代詩体系①』は一九六六年の刊行なので、この文章はシベリア抑留についての一連のエッセイより前に書かれたものです。当時のぼくはまだシベリア抑留のエッセイを読んでいなかったのですが、この文章には何か惹かれるものがあって、何度も読み返しました。そして「私たちはおそらく、対峙が始まるや否や、その一方が自動的に人間でなくなるような、そしてその選別が全くの偶然であるような、そのような関係が不断に拡大再生産される一種の日常性ともいうべきものの中に今も生きている」という言葉を詩の一行のように暗唱していました。
同時に「現代詩手帖」や「ユリイカ」などに掲載されていた最晩年の詩のいくつかも読んでいました。「相対」という短い詩を読んだことを覚えていますが、「おのおのうなずきあった/それぞれのひだりへ/切先を押しあてた/おんなの胸は厚く/おとこは早く果てた/その手を取っておんなは/一と刻あとに刺したがえた/ひと刻の そのすれちがいが/そのままに/双つの世界へふたりを向かわせた」という作品で、十六歳のぼくには大人の世界を理解するのはちょっと難しかった(笑)。それでも一九七五年刊の詩集『北條』は読んでいましたね。
そうこうしているうちに、この年の十一月に石原吉郎が亡くなって、その直後に詩集『足利』と『満月をしも』が次々刊行され、リアルタイムで読みました。でも石原吉郎の詩に特に関心があったわけじゃなくて、その頃刊行されていた主な詩集は片っ端から読んでいたんです。石原吉郎の詩はわかりにくいなぁと思っていました。シベリア抑留体験を書いた一連のエッセイを『望郷と海』で読んだのは、一九七八年になってからなんです。これは衝撃でしたね。当時は詩作品よりもこれら一連のエッセイのほうが文学的にすぐれているように思いました。内村剛介の『生き急ぐ スターリン獄の日本人』はすでに読んでいて、この本にも衝撃を受けていたのですが、石原吉郎のエッセイのほうがリアルに感じました。
鶴山 僕は大学生になって「荒地」派からザーッと戦後詩を読んでいった時に石原吉郎も読みました。僕らはたまたま一九八〇年代半ばに青春期を迎えたわけですが、今から振り返ると八〇年代は戦後詩・現代詩を簡単に総覧できる時期だった。絶版になってしまいましたが田村隆一から始まる「現代詩文庫」「第一期戦後詩人篇」は人選も内容も信頼できた。今手に入る「現代詩文庫」を読むと読者は混乱するんじゃないかな。自由詩はこの程度の表現でいいのかって。誰も何も言わないけどさ。で、僕は石原さんを「現代詩文庫」で読んだのですが読後感は池上さんとほぼ同じです。詩はピンとこなかった。しかしシベリア抑留体験の散文には驚いた。あわてて『日常への強制』を買って読んだりした。
ただ大学が古本屋街の近くにあったのでたまたま百円均一のワゴンで「ユリイカ」の「現代詩の実験 1974」を買ったんです。『北條』収録の「さくら/北條/一條/常住/蕭条/都」が初出掲載された雑誌です。あれには驚いた。七四年当時の詩のレベルがもの凄く高かったのがよくわかるアンソロジーでもあります。現代詩と呼ばれる詩の潮流が現役だった期間は「ユリイカ」から「現代詩の実験」が出ていた間だろうな。誌名に「現代詩」がある「現代詩手帖」誌は現代詩を相対化しにくいから(笑)。
ユリイカ十二月臨時増刊号 「作品総特集 現代詩の実験1974」目次
一九七四年十二月二十日発行 青土社刊
■石原詩のわかりにくさ■
池上 石原吉郎はクリスチャンなんですよね。彼の文学を考える上では、キリスト教とのかかわりを無視するわけにはいかないのですが、正直言ってぼくにはよくわからないことが多い。細見和之さんの『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』と郷原宏さんの『岸辺のない海 石原吉郎ノート』という二つのすぐれた石原吉郎論を参考にして、ぼくが理解した範囲で簡単に触れておきます。
石原吉郎は東京外語を卒業して大阪ガスに就職し、召集されるまでの間に大阪で教会に通って、エゴン・ヘッセルというカール・バルトに師事した牧師の手で洗礼を受けました。最初石原が通っていたのは住吉教会で、高齢の牧師がいたのですが、ヘッセルは客員のような立場でかかわっていた。ドイツ語ができた石原はヘッセルと親しくなって、ヘッセルの勧めで住吉教会から姫松教会に移って洗礼を受けたんです。そのことが住吉教会の老牧師との間で思わぬトラブルを引き起こしてしまう。姫松教会で大阪南部地域の合同祈禱会が行われた時に、住吉教会の老牧師が突然立ち上がって「主よ、このなかに恥ずべき裏切り者、ユダの徒がおります」と言った。「ユダの徒が私を指してのことばであることは即座に分った」「一体私が何を「裏切った」というのか」「私はこの牧師を今に至るまで許していない」と一九七五年に執筆された「教会と軍隊と私」(『断念の海から』)というエッセイで書いています。こともあろうに牧師から一方的に「裏切り者」と名指されたこの体験は、終生石原吉郎の信仰心に影を落としていたのではないでしょうか。
このエッセイで石原吉郎は「戦争というものを、そのままに死へと短絡して行く考え方は、すでに牢固として抜きがたいものになっていたといっていい。運命としての死の受容。その激烈な様相が私にとっての戦争であったと、私は考える。これを訂正する立場には今もない。/戦争において受身の立場に終始したことは、現在の私の立場にそのままつながっており、その立場の継続においてこそ、今も生きているのである」と書いています。「受身の立場の継続」というのは、先ほど鶴山さんがおっしゃった「受動的体験」ということに繋がるかと思います。
それから、石原吉郎の生涯に決定的影響を与えた人に、一九四一年に東京教育隊高等科で出会い盟友となった鹿野武一という人がいます。「鹿野と私は、同じ部隊で教育を受けて満州へ動員され、いく度か離合をくり返しながら、ほとんど同じ経路を経て帰国した」「ある時期の鹿野にとって、私はほとんどただ一人の友人だったといっていい」と一九七〇年に発表された「ペシミストの勇気について」というエッセイに書いています。この鹿野武一が、先ほど紹介した、ぼくが高校生の頃に読んだ「詩へ駆立てたもの」という文章に書かれていた「友人」だったんです。
鹿野はシベリア抑留末期に絶食を始め、それが当局へのレジスタンスとして捉えられて厳しい尋問を受けました。が、答弁が嚙み合わず根負けした取調官から「人間的に話そう」と切り出されます。これは、もうこれ以上追及しないから情報提供に協力してくれという意味なのだそうです。鹿野は「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」と答えたと、このエッセイでは傍点を振って強調しています。石原は鹿野のことを「彼の姿勢を一言でいえば、明確なペシミストであったということである」と言っています。
鶴山 石原さんのキリスト教受容は極めて東洋的だと思います。神は徹底した懐疑の內におわす。受難の極北の中で沈黙している。それが石原のキリスト教理解だと思います。
一つの食器を二人でつつきあうのは、はたから見ればなんでもない風景だが、当時の私たちの這いまわるような飢えが想像できるなら、この食罐組がどんなに激しい神経の消耗であるかが理解できるだろう。私たちはほとんど奪いあわんばかりのいきおいで、飯盒の三分の一にも満たぬ栗粥を、あっというまに食い終ってしまうのである。結局、こういう状態がながく続けば、腕ずくの争いにまで到りかねないことを予感した私たちは、できるだけ公平な食事がとれるような方法を考えるようになった。(中略)さいごに考えついたのは、罐詰の空罐を二つ用意して、飯盒からべつべつに盛り分ける方法である。(中略)分配が行なわれているあいだ、相手は一言も発せず分配者の手許をにらみつけているので、はた目には、この二人が互いに憎みあっているとしか思えないほどである。こうして長い時間をかけて分配を終ると、つぎにどっちの罐を取るかという問題が起こる。(中略)もっとも広く行なわれたやり方では、まず分配者が相手にうしろを向かせる。そして、一方の罐に匙を入れておいて、匙のはいった方は誰が取るかとたずねる。相手はこれにたいして「おれ」とか「あんた」とか答えて、罐の所属がきまるのである。このばあい、相手は答えたらすぐうしろをふり向かなくてはならない。でないと、分配者が相手の答に応じて、すばやく匙を置きかえるかも知れないからである。
(石原吉郎「ある〈共生〉の経験から」)
戦後にサルトルの「飢えた子どもの前で文学に何ができるか」というテーゼが論争を巻き起こしましたが、石原吉郎的に言えばそれは無意味なヒューマニズムに過ぎない。食い物がなければ人は死ぬだけのこと。でも現実にはまったく食い物がなくなることなんてない。シベリアの強制収容所では二人で一食分に満たない飯が一日二回配給されただけだった。そんな極限的な飢えの中で奇妙な連帯が生まれたことを石原は「ある〈共生〉の経験から」で書いています。
この連帯は「お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからざるものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である」。強制収容所の極限状態の中では誰もが他者の生命のいくばくかを奪い他者に奪われている。誰もが加害者であり被害者です。その経験が石原の〝告発しない〟という姿勢になっている。
ペシミスト鹿野についても「彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。(中略)彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている」と書いている。
狭い収容所中で傷つけ傷つけられながら〈共生〉しなければならなかった者に〈告発〉が無意味なのはよくわかります。しかし石原は鹿野は他者の告発を峻拒することで「さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだ」と書いている。この〈空席〉を占めるのがキリストなんじゃないでしょうか。石原の信仰は徹底した神への懐疑の內にある。神はいかなる形でも人間に救済をもたらさない。沈黙したままです。ただこの沈黙には意味がある。人間の原罪を引き受けた沈黙の受難です。この受難を共有することが石原の信仰なんじゃないかな。ペシミストですが自殺を明確に否定していますしね。
またちょっと奇妙に思われるかもしれませんが石原の〈共生〉の思想は日本的、もっと思いきって言えば俳句的です。石原は戦後詩人としては珍しく本格的に俳句と短歌を書いた詩人です。俳句は現代日本ではお遊び習い事文芸ですが、その本質は日本文化の根底を為す循環的かつ調和的世界観を表現するためにある。そこに人間は介在しない。永遠に循環し続ける強固な世界観だけがある。人間の強固な意志や行動はすべてやがては循環的かつ調和的世界観に飲み込まれてゆく。その意味で俳句は虚無主義文学です。この俳句が持つ虚無主義的な世界観が微妙な形で石原文学に流れこんでいると思います。
池上 石原吉郎の初期の代表作を一つご紹介しましょう。
なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
(中略)
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
(中略)
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを
第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』に収録された「葬式列車」という、ぼくが好きな詩です。シベリア抑留についての一連のエッセイを読んでからこの詩を読むと、まるでシベリアの強制収容所から別の強制収容所に移送される際の汽車のイメージに思えるのですが、この詩が発表された時には、まだ石原吉郎がシベリア抑留を体験した人だと読者は知らなかったんですよね。石原吉郎自身もまったくシベリア抑留のことは意識していなかったと言っていますが、それこそ無意識にそのイメージが表現されてしまっています。
石原吉郎の初期の詩は、モチーフになっているシベリア抑留体験をなるべく隠そうとして書かれているものが多くて、それがわかりにくい理由だと思うのですけれど、「葬式列車」はシベリア云々は別にして、例外的にわかりやすい作品だと思います。ただ、「荒地」派的な戦後詩かと言われると、だいぶ異なるような気がします。「荒地」派の戦後詩は、主語が「われわれ」とか「おれ」とか主体がはっきり明示されている詩が多いですね。「葬式列車」にも「俺」や「俺たち」が出てきますが、「俺たち」はもう半分「亡霊」になってしまっている。ここには、「荒地」派的な戦後詩における主体はありません。
鶴山 石原さんは〈告発〉しないわけだから戦後詩的社会批判と無縁です。でも〈告発〉の拒否はシベリア抑留(戦争体験)で確乎たるものになった。〈告発〉しなければ基本沈黙するしかないんだけど、沈黙の内実を言葉で描こうとするから撞着的でわかりにくい表現になる。社会も他者もなく戦争の傷を自分一人で引き受けるような戦後詩ですね。
方向があるということは新しい風景のなかに即座に旧
い風景を見いだすということだ 新しい位置に即座に古
い位置が復活するということだ ゆえに方向をもつとい
うことは かつて定められた方向に いまもなお定めら
れていることであり 彷徨のただなかにあって つねに
方向を規定されていることであり 混迷のただなかにあ
って およそ逸脱を拒まれていることであり 確とした
出発点がないにもかかわらず 方向のみが厳として存在
することであり 道は制約されているにもかかわらず
目標はついに与えられぬことであり 道を示すものと
示されるものがついに姿を消し 方向のみがそのあとに
のこることである
それは あてどもなく確実であり ついに終りに到ら
ぬことであり つきぬけるものをついにもたぬことであ
り つきぬけることもなくすでに通過することであり
背後はなくて 側面があり 側面はなくて 前方があ
り くりかえすことなく おなじ過程をたどりつづける
ことであり 無人の円環を完璧に閉じることによって
さいごの問いを圏外へゆだねることである
第三詩集『斧の思想』収録の「方向」という詩です。この詩は石原吉郎詩の的確な説明になっていると思います。石原にとって「方向」は明確なビジョンです。すべての営みは、言葉はそこに向かう。でも「方向」はあるけど到達点は存在しない。詩の最後は「無人の円環を完璧に閉じることによって さいごの問いを圏外へゆだねることである」ですが、この「圏外」は鹿野が告発を峻拒して告発した〈空席〉と同じでしょうね。明確にビジョン=方向はあり、だけど中心(核)に近づくと言葉は弾き飛ばされ永遠の円環運動を繰り返す。それが石原吉郎の詩を難解にしている。
池上 この詩になると、もう主体どころか主語がなくなっている。こうなると、この詩をどう読んだらいいのか……まるで自分だけが理解できる独り言のようです。
鶴山 失語状態から回復するのに時間がかかったと書いてますね。シベリア抑留中はロシア語に囲まれていて、追いつめられ疲れ果てた日本人同士で言葉を交わすことも少なかった。
池上 でも一方でシベリア抑留体験を直截に書いた詩もあるんですよね。
そのとき 銃声がきこえ
日まわりはふりかえって
われらを見た
ふりあげた鈍器の下のような
不敵な静寂のなかで
あまりにも唐突に
世界が深くなったのだ
(中略)
われらは一瞬腰を浮かせ
われらは一瞬顔を伏せる
射ちおとされたのはウクライナの夢か
コーカサスの賭か
すでに銃口は地へ向けられ
ただそれだけのことのように
腕をあげて 彼は
時刻を見た
(中略)
われらは怒りを打ちすえる
われらはいま了解する
そうしてわれらは承認する
われらはきっぱりと服従する
激動のあとのあつい舌を
いまも垂らした銃口の前で。
(後略)
「脱走――一九五〇年ザバイカルの徒刑地で」という詩の部分です。「沈黙と失語」というエッセイで石原は、この詩は脱走しようとしたロシア人が目の前で射殺されるのを目撃した体験に基づいていると説明しています。「しかし事実のなまなましさ、さらにその場面を名指しての告発はこの詩の主題ではない。この詩の主題は〈沈黙〉である」「この光景の私自身にとっての意味は、自分の目の前で起った鮮烈な出来事とその衝撃を、はっきり起ったものとして最終的に承認し、納得したということである」と書いています。
鶴山 銃の前で卑屈に「服従」する、人間の尊厳を失って底の底まで堕ちた「われら」を描いた詩ですね。こういう消極的な姿勢が、同じシベリア抑留帰りですが不屈の意志の人であった內村剛介が石原吉郎を毛嫌いし批判した理由でしょうね。シベリア抑留を実体験として共有している人ですから近親憎悪ですが。
池上 内村剛介の『失語と断念 石原吉郎論』は石原の死の翌年の昭和五十三年(一九七八年)から「現代詩手帖」に連載されて、当時期待して読んだんですが、石原の詩の批評をあえて避けているような迂回した書きぶりで、話があちこちに逸れて行って、何を論じているのかがよくわかりませんでした。この「脱走」という詩についても、鳴海英吉という、やはりシベリア抑留を体験した詩人の同じモチーフの「列」という作品と比較して、「石原の「われらはきっぱりと服従する」はウソである。レトリックが走り出しているのだ」と批判しているのですが、なぜウソなのかの説明がないんです。
ただ、同じ時期に鮎川信夫と内村剛介が対談していて、「石原の初期のものにはロシア語に直してみるとよくわかるといった詩がある」「ちっともたいしたこと言ってないのに、日本語に訳して石原が提出してみると深刻なものになったりする」「詩人としての達成として、モチーフ以外に戦後詩になにを与えたかとなると疑わしいことになると思うね」(「拡散する閉塞状況」)と内村は言っています。これは内村剛介ならではの見方ですけれど、初期の石原吉郎の詩のわかりにくさに対する本質的な批判になっていると思います。
鶴山 石原さんはナチスの収容所体験を書いたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』をすり切れるほど愛読していた。エッセイ「強制された日常から」では『夜と霧』の一節をエピグラフに掲げています。それを内村さんは「フランクルの指摘に感じ入り彼の言葉をこのエッセイのはじめに引くのは、冷厳なフランクルに、被害の次元を直視してたじろがぬフランクルに、あやかろうとする弱い心をはしなくも示したものだとわたしには思われる。その意味で石原の思想の「抽象」性はフランクルにくらべようもない」(『失語と断念』)と厳しく批判しています。
内村さんは石原の告発しない消極性に我慢ならなかった。なぜ「強制された」という受動性に留まって理不尽な強制を告発しないのか、ということですね。內村の姿勢は戦後詩を含む戦後文学、戦後思想に共通しています。でも石原の確信的受動性も戦後思想としてとても重要だと思います。
アジア的思想というのは、神のいない世界で人はどう予期していなかった災厄に耐えるのか、どうすればエゴむき出しの凄惨な諍いを避けて秩序を保てるのか、という問いだと言ってもいいところがあります。石原はそれに一つの答えを与えた。互いに奪い合い傷つけ合いながらの共生です。そこには祈りもなければ救済もない。でもそれでも人は生き延びようとし何人かは必ず生き残る。あさましく醜い生への執着です。でも生き残った人は目を背けたくなる残酷の中にも秩序原理が働いていたことを知る。極限的悲惨の中にあっても人間世界には秩序原理が働いていたことを知る。それはフランクルの一神教的救済とはまったく質の違う剥き出しの現実に即した一種の救済だと思います。『日常への強制』は名著だと思います。決してフランクルの『夜と霧』に劣るものではない。また戦争や紛争は必ず起こる。起これば『日常への強制』で描かれたような凄惨に直面することになる。
ただそれは石原の散文の仕事の評価ですね。詩に即せば石原詩で本当に優れた詩篇は数編しかないと思います。すごく乱暴なことを言いますが石原さんは『北條』を書いたことで詩史に残ると思う。正確には『北條』の最初の十篇ですね。「一條」「北條」「さくら」「藤Ⅰ」「藤Ⅱ」「北鎌倉扇ケ谷」「蕭条」「流涕」「常住」「都」は傑作です。石原吉郎の全詩を読むと『北條』の最初の十篇の方が異質に見えると思いますが、あの表現レベルは尋常ではない。
詩がおれを書きすてる日が
かならずある
おぼえておけ
いちじくがいちじくの枝にみのり
おれがただ
おれにみのりつぐ日のことだ
その日のために なお
おれへかさねる何があるか
着物のような
木の葉のような――
詩が おれをやぶり去る日のために
だからいいというのだ
砲座にとどまっても
だからこういうのだ
殺到する荒野が
おれへ行きづまる日のために
だから いま
どのような備えもしてはならぬ
どのような日の
備えもしてはならぬと
第四詩集『水準原点』収録の「詩が」という作品です。奇妙と言えば奇妙な詩です。「詩がおれを書きすてる日が/かならずある」というのは一種の予言ですが、どんな形でそれが起こるのかは書かれていない。起こるかどうかもわからない。でも本当に起こった。
『北條』の最初の十篇で石原は詩に抜かれたと思います。石原吉郎という実存を詩の言葉が追い越してしまった。そうとしか表現できない。こういった形で詩に、言葉に抜き去られた、言葉の方が先に行ってしまった詩人は僕が知る限り石原吉郎だけです。石原の俳句の実作と俳句に対する思想もそんなことが起こった背景になっていると思います。
(金魚屋スタジオにて収録 「石原吉郎篇Ⅰ」了)
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