自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
■詩のレイヤー(層)について■
鶴山 今回から黒田三郎、茨木のり子篇です。「日本の詩の原理」で取り上げる詩人のラインナップは僕が素案を出して池上さんのアイディアで最終的な形になっているわけですが、今回は「荒地」の詩人の中で黒田三郎を独立させて、そこに茨木のり子を加えた回です。この二人をカップリングさせた意図はどういったものですか。
池上 初期「荒地」派には女性詩人がいませんね。『荒地詩集1954』から佐藤木実が、『荒地詩集1955』からは牟礼慶子が参加していますけれど、二人ともほとんど一般には知られていない詩人です。「荒地」派以外で言うと、年齢的には一九二〇年生まれの石垣りんが鮎川信夫と同い年なんですけれど、後に有名になった「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」が収載された同名の詩集でデビューしたのは一九五四年です。この詩集の冒頭の作品「原子童話」はこういう詩です。
戦闘開始
二つの国から飛び立った飛行機は
同時刻に敵国上へ原子爆弾を落しました
二つの国は壊滅しました
生き残った者は世界中に
二機の乗組員だけになりました
彼らがどんなにかなしく
またむつまじく暮したか――
それは、ひょっとすると
新しい神話になるかも知れません。
これは一九四九年に書かれた作品で、戦争をテーマにしてはいますが詩法的には非常に素朴で「荒地」派の戦後詩とはまったく異質というか、もう無関係と言っていいと思います。石垣りんは戦前のモダニズムも通過していないですし、同時代の詩人たちの文学的な営為とは無縁な場所で孤独に詩を書いていたのでしょう。少なくともわれわれがこの対話で論じている戦後詩の文脈には入らない詩人だと思います。
茨木のり子は一九二六年生まれで、吉本隆明が一九二四年生まれですから世代的には「荒地」派の詩人たちに近いと言えます。茨木のり子が一九五二年に「詩学」に投稿した「魂」はこういう作品です。
あなたはエジプトの王妃のように
たくましく
洞窟の奥に坐っている
あなたへの奉仕のために
私の足は休むことを知らない
あなたのへの媚のために
くさぐさの虚飾に満ちた供物を盗んだ
けれど私は一度も見ない
暗く蒼いあなたの瞳が
湖のように ほほえむのを
水蓮のように花ひらくのを
(中略)
くるいたつような空しい問答と
メタフィジックな放浪がふたたびはじまる
まれに…
私は手鏡を取り
あなたのみじめな奴隷をとらえる
いまなお〈私〉を生きることのない
この国の若者のひとつの顔が
そこに
火をはらんだまま凍っている
先ほどの石垣りんの「原子童話」と比べるとよくわかると思いますが、この詩は「荒地詩集」に載っていたとしてもさほど違和感はないですよね。だから、茨木のり子の作品は戦後詩の文脈で論じられるんじゃないかとぼくは思ったんです。
難解ではない言葉を使って詩を書いた戦後の詩人の代表格として、黒田三郎と茨木のり子を挙げることができると思いますが、ふたりとも戦後詩や現代詩の詩法をよく知ったうえで、あえて意識的にやさしい言葉を使っているんです。石垣りんのように、本当に素朴にやさしい言葉を使っているわけじゃない。例えば黒田三郎にはこんな詩があります。
白い
巨大な
建物
建物の群れ
建物と建物の間の長い長い谷間
その谷間の底を
無数の
黒い
小さな
蝙蝠傘が
流れてゆく
死に絶えた音
鉛色の空
葬列のように
ゆるやかに
無数の黒い小さな蝙蝠傘が
流れてゆく
(後略)
これは一九五四年に「詩学」に発表された「白い巨大な」という詩の最初の連です。一見すると、やさしい言葉で書かれている何でもない詩に思えるんですけれど、まったく難しい言葉を使わずに強いイメージの喚起力で作者の心象風景を表現しているテクニックは非常に高度です。
黒田三郎と茨木のり子の詩は教科書に載っていたこともあって、ぼくらが学生の頃もよく知られた詩人でしたよね。ただ黒田三郎は一九八〇年ぐらいまでは一般の読者にも読まれていたと思うんですが、いまではあまり読まれていません。対照的に茨木のり子はいまでも人気があって、よく読まれていますよね。その違いはあるんですけれど、いわゆる戦後詩や現代詩とは違う言葉の使い方で平明な表現を意識的にして生涯詩を書き続けた戦後の詩人ということで、黒田三郎と茨木のり子をカップリングしたらいいんじゃないかと思って鶴山さんに提案したんです。
ただ今回改めてふたりの詩を読んでみて、かなり性質が違う詩人だなという印象を持ちました。それぞれすぐれた詩人ですけれど、当初考えたほどにはペアで論じる意味がないかもしれません(笑)。
鶴山 黒田さんは戦争体験によって絶望を抱えた人ですから「荒地」派を代表する詩人の一人です。一方で「荒地」の中で唯一の抒情詩人だった。抒情は人間の嬉しい悲しい寂しいといった基本的で強烈な感情のことですから戦後詩や現代詩といっても抒情表現と無縁ではありません。詩の重要な構成要素の一つです。黒田さんを「荒地」派から独立させて茨木さんとカップリングさせたのはいいアイディアだと思いますよ。「荒地」派の検討が終わってそれ以外の戦後詩人に移れば戦後詩もじょじょに複雑になりますから。
二項対立は単純過ぎてポストモダニズム哲学にかぶれた現代では嫌われがちですが、僕は意外に有効だと思っています。特に今のように詩が曖昧で混沌とした状況に置かれている時代はそうです。対立項をハッキリさせないと灰色の部分が見えてこない。そこで個の思想で世界を表現しようとした一連の詩を戦後詩、新たな修辞で複雑な世界に比肩し得るような言語世界を構築しようとした一連の詩を現代詩と分類したわけです。前者の代表が「荒地」派、後者の代表が入沢康夫・岩成達也です。乱暴なようですがこれは間違っていないはずです。文学の世界で真に新たな試みを為した作家は常に個人でほんの数人が創始者です。「荒地」派なら鮎川、田村がその中核で現代詩は入沢、岩成が創始者です。
いわゆる〝戦後の詩〟は「荒地」派戦後詩と入沢・岩成現代詩をマージすることで新たな表現領域を開拓していきました。ただ細かく見ていけば飯島耕一や吉岡実は灰色で、その最大の特徴が新たな修辞面にあるので現代詩に分類できるかなと言える程度です。X軸に戦後詩、Y軸に現代詩を置いて考えてみた場合の傾向ということですね。彼らは現代詩の側面が強い。それは同時代の石原吉郎や黒田喜夫、堀川正美、谷川雁、岩田宏らと比較してみれば一目瞭然です。彼らだって現代詩の影響を受けているわけですが明らかに戦後詩の影響の方が強い。作家主体の個の位相が決定的に違う。
で、黒田さんは正統戦後詩人であり他の「荒地」派詩人と同様にモダニズム系です。特に黒田さんは戦前はバリバリの北園克衛の「VOU」同人でしたからね。ただそこに抒情詩の系譜が重なって来る。三好達治、中原中也らの系譜です。重なりというよりレイヤーと言った方がしっくり来るかな。フォトショップやイラストレーターで線や色を重ねてゆくことをレイヤー(層)と呼ぶでしょう。日本語は新たな用語と概念をどんどん取り入れていく言語ですから吉本隆明的に「重層的」というより今はレイヤーと言った方がわかりやすいかもしれない。
「荒地」派は思想詩として突出したので前時代までの詩とは明らかに違う新たな戦後詩として認知されました。しかしレイヤーとして見ればモダニズムとプロレタリア詩の弁証法的統合です。吉本さんが『戦後詩史論』で論じた通りですね。三好豊一郎篇で言いましたが三好さんは尾形亀之助、金子光晴、高橋新吉、草野心平らのプロレタリア詩からも強い影響を受けています。プロレタリア詩というより生活派かな。プロレタリア詩は明治末の大逆事件を機に社会主義思想の浸透と貧富の格差拡大によって生まれたわけですが杓子定規な政治詩を書いた詩人は少ない。それが戦後詩の思想性と微妙に繋がる。こういった複数の詩派、レイヤーの重なり合いが〝戦後の詩〟ではどんどん重要になります。
茨木のり子さんについて言えばいわゆる戦後詩は数篇しかありません。しかし社会批判的な姿勢は一貫していた。また茨木さんは女性詩の系譜としても捉えなければなりません。
古い話ですが自由詩の嚆矢となった明治十五年(一八八二年)の『新体詩抄』は外山正一らの学者の手になるものです。明治維新の文明開化で文化規範(お手本)が中国から欧米に大転換されたので、漢詩に代わって欧米の詩を日本に移入しようとした試みでした。自由詩の始まりですね。以後日本の自由詩は大局的に見れば大きく立ち後れていた欧米〝現代〟に追いつけ追い越せのパイロット文学として推移しました。前衛文学、モダニズム文学(現代化文学)だったと言っていい。頭でっかちの男たちが主導し続けた文学でした。日本語表現としてこなれていて安定的な詩を必死に模索していましたが、萩原朔太郎前後までのいわゆる近代詩は無理に無理を重ねた力業です。そんな状況もあって明治・大正期の女性詩人の数は少ない。
大前提として女性詩人の系譜を概観しておくと明治三十九年(一九〇六年)生まれの永瀬清子さんが生涯詩を書き続けた女性詩人の嚆矢かもしれない。その意味でパイオニアです。ただ後期の詩集『あけがたにくる人よ』が話題になったりしましたが、佐藤惣之助に師事して高村光太郎に詩集の序文をもらった方ですから近代詩と地続きの抒情詩人です。
左川ちかさん(明治四十四年[一九一一年]生、昭和十一年[三六年]没)もいますね。モダニストとして知られ自由詩の世界で定期的にブームになったりしますが虚心坦懐に読めば独自性は低い。女性でなければ皮相なモダニズム詩の模倣者の一人として顧みられなかったのではないか。二十四歳の若さで亡くなったので仕方ないかもしれませんが。いずれにせよ永瀬さんと左川さんが女性詩人の嚆矢で女性詩第一世代だと思います。
いわゆる戦後詩または戦後の詩としても捉えられる女性詩第二世代は石垣りんさんと茨木のり子さんです。お二人とも大正生まれで「荒地」派詩人たちと年齢が近い。石垣さんが大正九年(二〇年)、茨城さんが十五年(二六年)生まれです。
煩雑なので第三世代以降は敬称略で行かせていただきます。第三世代は新川和江、岸田衿子、牟礼慶子が昭和四年(一九二九年)生で、多田智満子五年(三〇年)生、白石かずこ六年(三一年)、吉原幸子、高良留美子七年(三二年)生です。戦前昭和一桁生まれが多い。
第四世代は富岡多恵子昭和十年(一九三五年)、山本道子十一年(三六年)、吉行理恵十四年(三九年)生になる。昭和二桁生まれですがやはり戦中派です。
第五世代は金井美恵子さんでしょうね。彼女は昭和二十二年(一九四七年)の戦後生まれです。
次の第六世代は詩の世界を一世風靡した〝女性詩〟の世代です。大勢詩人がいらっしゃいますが井坂洋子さんと伊藤比呂美さんが代表だと思います。井坂さんは昭和二十四年(一九四九年)で伊藤さんは三十年(五五年)生まれ。井坂さんは金井さんより二歳年下なだけですが新たな女性詩時代の詩人と言った方がしっくり来る。洩れている詩人も多くて恐縮ですが、とりあえず主な女性詩人を表にまとめておきます。
こういった世代分類は僕の独断と言えば独断です。しかし女性詩を通読すればある程度の裏付けはある。永瀬・左川の第一世代と石垣・茨木の第二世代の間にはハッキリとした断絶があります。石垣・茨木さんは「荒地」派詩人たちとまったく同じ精神状況で敗戦を受けとめた。数作ですが優れた戦後詩を書きました。また明瞭に女性詩の特徴が表れた詩を書いた。それは〝根源的生命力〟だと言っていいと思います。大げさに言えば紫式部『源氏物語』から続く女性作家のテーマです。
戦前昭和一桁生まれの女性詩人たちは百花繚乱です。多田智満子は独自の象徴主義詩を書きましたし、白石かずこの「VOU」以来の斬新な用語と自在な詩法は画期的でした。吉原幸子・新川和江は抒情詩系ですが女性だけの詩誌「ラ・メール」を創刊しましたね。
ただこの世代は鮎川信夫に私淑して「荒地」に参加した牟礼慶子以外はほとんど社会批判詩を書いていません。また日の出の勢いだった戦後詩時代の女性詩人たちです。戦後詩・戦後文学は従軍派の男たち中心の文学ですが、この世代には男性系の戦後詩・戦後文学からの抑圧の気配が濃い。「ラ・メール」がそれを象徴していると思います。重要な文学動向として評価されなければなりませんが伊藤比呂美さんらの世代とは温度差があった。男性的戦後詩に反発し続けた世代とそれとは無縁の世代との温度差があったと思います。
戦前生まれですが富岡多恵子を第四世代に分類したのは富岡さんによって女性詩が一つの型を得たからです。富岡さん以前の女性詩に型がなかったわけではありませんが彼女の詩の端正なフォルムは画期的だった。ハッキリと戦後詩や現代詩のフォルムを吸収した上で女性独自のテーマを表現した。それは富岡さんが最初だと思います。
金井美恵子さんは「ハンプティに語りかける言葉についての思いめぐらし」一作で詩史に残ると思います。第一世代から第四世代までの女性詩人たちが多かれ少なかれ男性系の戦後詩の抑圧を受けていたのに対し金井さんにはそれがまったくない。山本道子さんと同じく当時はポスト戦後詩(戦後詩の継承者)と見なされていた同人詩誌「凶区」同人だったことが逆接的に金井さんの詩を自由にしたのかもしれません。
また富岡、山本、金井さんは詩から小説へ表現を変えてゆきましたが、金井さんの小説『愛の生活』はさらに画期的でした。詩か小説かを問わずマルグリット・デュラス作品に比肩し得るエクリチュール・フェミニン小説です。『愛の生活』に決定的影響を受けた女性小説家は多いと思います。金井さんまで女性詩を読み進んで来ると明らかに異なる審級に〝表現が抜けた〟という感覚を得られるはずです。
いわゆる〝女性詩の時代〟の井坂さんや伊藤さんは当然第五世代までの詩の流れを受け継いでいます。意味伝達内容から言えば男性と対立しない衝撃的なまでの〝女性的極私表現〟が最大の特徴です。修辞的特徴を言えば現代詩の技法を完全に我が物としています。井坂・伊藤さん以降の女性詩は戦後詩ではなく現代詩的修辞をベースにするようになる。内容面を別にすれば詩の修辞としては男性詩人とほぼ横並びになった。優れた詩人たちですね。
ちょっと長くなりましたがこういった概観は過去の詩を正確に理解し未来の詩を考える上で必須です。かなり乱暴な概観なのでもっと細かく検討しなければなりませんけどね。最初に戻ると石垣・茨木さんが現代にまで続く女性詩の創始者だと言っていいと思います。
池上 確かに鶴山さんがおっしゃるとおり、「女性詩」という観点で見れば石垣りんも戦後の詩史に入れることができますね。ところで茨木のり子の詩の出発点はどの辺りにあったと考えればいいんでしょうか。黒田三郎の場合は、北園克衛の詩誌「VOU」に一九三六年、十七歳の時に参加して詩作を始めていますから、モダニズムが出発点だということはハッキリしていますよね。
鶴山 金子光晴に最も影響を受けたと書いていますね。「これ(金子光晴の詩)は戦前、戦中、戦後をいっぺんに探照燈のように照らし出している強烈なポエジイで、眩惑を覚えるほどだった」(「はたちが敗戦」)と回想しています。また村野四郎選の「詩学」に投稿して入選している。そのせいか第一詩集『対話』はモダニズムの影響が濃い。金子さんの影響が表れてくるのは第二詩集『見えない配達夫』からですが詩型には特にこだわりがなかった詩人だと思います。女性詩人には多いですよ。詩型より表現内容優先です。そっちの方が重要なんだ。第一詩集から堅固な詩型を感じ取れるのは富岡多恵子以降ですね。
さっきの女性詩人の系譜を補足しておくと、僕が「現代詩手帖」の編集をやっていた時(一九八〇年代)には女性詩人に原稿依頼した記憶があまりない。その理由は詩誌は状況誌だからです。小説誌は何十枚、何百枚の小説を掲載するのが仕事ですが詩誌は先月何があって今年はどんな収穫があったかを論じるのがメインになる。長編小説は一球入魂ですが断片的に発表される詩作品からはほとんど何も分かりませんから。
具体的に言うと戦後詩・現代詩の共通認識地平が存在した時代には「戦後詩はどこに行くのか」とか「現代詩の収穫、実験」といった特集を毎号のように組んでいればよかった。それが詩壇ジャーナリズムだった。そして執筆者のほとんどが男性。戦後詩は従軍派の詩人から始まり現代詩は男性学匠詩人が生み出したものですから当然ですね。女性詩人たちは戦後ずっと詩壇ジャーナリズムから冷遇されていた。吉原さんたちが女性詩人だけの詩誌「ラ・メール」を創刊した背景はそんなところにもあります。
もちろん「ラ・メール」創刊は八〇年代の女性詩ブームに呼応しています。しかし「ラ・メール」と女性詩ブームは本質的に連動していなかったと思います。北村太郎篇でも言いましたが戦後文学の消滅期に前衛でなければならない自由詩で新しい切り口は女性性くらいしか残っていなかった。そこで女性詩がもてはやされた面がある。女性詩ブームの時は確かに井坂さんや伊藤さんが詩作品のメインでしたがそれを論じたのはほとんどが男性詩人だった。当時はポスト現代詩の文脈で女性詩が捉えられていた。しかし女性詩はそれとは違う独自の流れとして考えた方がいい。
ついでに余計なことを言ってしまうと自由詩に限らず歌誌、句誌も状況誌です。しかし月ごとに詩の状況が変わるわけがない。詩史は最短でも十年、二十年単位でしか動かない。もちろん詩誌には高い社会的役割がありますが針小棒大に状況を論じる便利な詩壇ライターになってしまうのはとても危険です。どこかの時点で状況とは無縁に腰を据えた仕事をする必要がある。
池上 ぼくが高校生の一九七七年頃に読んだ女性詩人では富岡多恵子がおもしろかったですね。富岡多恵子はすでに小説にシフトしていましたけれど、岩田宏と並ぶとてもユニークな詩人だと思いました。「身上話」という詩があります。
おやじもおふくろも
とりあげばあさんも
予想屋という予想屋は
みんな男の子だと賭けたので
どうしても女の子として胞衣をやぶった
すると
みんなが残念がったので
男の子になってやった
すると
みんながほめてくれたので
女の子になってやった
すると
みんながいじめるので
男の子になってやった
年頃になって
恋人が男の子なので
仕方なく女の子になった
すると
恋人の他のみんなが
女の子になったというので
恋人の他のものには
男の子になってやった
恋人にも残念なので
男の子になったら
一緒に寝ないというので
女の子になってやった
(後略)
一九五七年の第一詩集『返禮』に収められている作品ですが、いま読んでもおもしろいですね。詩を書き続けていたらよかったのにと思ってしまうんですけれどね。実は茨木のり子の詩は高校生の頃はあまり熱心に読んだことがなくて、一九九九年の詩集『倚りかからず』が大ヒットして、改めて読んだんです。この生前最後の詩集で初めて茨木のり子を知った人も多いと思うのですが、元々は川崎洋とか谷川俊太郎や大岡信がやっていた同人誌「櫂」グループの詩人なんですよね。
鶴山 茨木さんと川崎さんが「櫂」創刊メンバーです。川崎さんが手紙で茨木さんを誘って「櫂」を創刊した。創刊号は二人だけで六ページの冊子です。茨木さんが発行人、川崎さんが編集人だった。その後川崎さんが谷川俊太郎さんを誘ってどんどんメンバーが増えていった。主な同人に吉野弘、中江俊夫、大岡信、飯島耕一、水尾比呂志、岸田衿子、友竹正則さんらがいます。いい時代だな(笑)。
池上 創刊号を送ったら、鮎川信夫から「いたましい気持であなたたちの詩を読んだ。詩学研究会で知ったぼくの最も好きな詩人であるあなたたちの詩が、これからどのような発展をし、どのような試練に耐えてゆくかに深い関心を抱いています。あなた達がすぐれた資質を持っておられるだけに、ぼくの不安も人ごとではなくなります」という葉書が来たんですよね。
鶴山 鮎川さんらしい激励だよね。詩なんてやめとけときゃいいのにと喉元まで出かかっている(笑)。でも「櫂」同人は戦後でも飛びきり優秀な詩人たちの集まりだったから幸いにして杞憂に終わった。「荒地」の総帥鮎川さんの話が出ましたから本格的に黒田三郎篇に移りましょうか。
■黒田三郎篇■
池上 黒田三郎でビックリしたのは、いま手に入る詩集がほとんどないんですよ。ネットで検索したら、岩崎書店から出ている薄いアンソロジーの『支度』という詩集くらい。文庫本も出ていない。ぼくらが学生の頃は広く読まれていたのに、なぜ読まれなくなったんだろう。
鶴山 どう読んでいいのかわからないからでしょうね。一九九〇年代初めのバブル崩壊期から二〇二〇年代までの日本経済の低迷を〝失われた三十年〟と呼ぶことがあります。それはインターネットをインフラとする高度情報化社会の始まりとほぼ正確に一致しています。またこの失われた三十年は経済だけでなく文学の世界でも起こった。
戦後文学が完全消滅したのは遅くても一九九〇年代です。それと同時に日本文学はそれまでかろうじて存在していた共通認識地平を失ってしまった。自由詩の世界で言えば戦後詩を継ぐと明言した詩人たち、あるいは現代詩の後継者と見なされていた詩人たちがまるで何事もなかったかのようにスーッと個々人にしか関わりのない趣味的世界に埋没していった。一人の詩人の作品史を追っても九〇年以前と以後では明らかな断絶がある。断絶前後に整合性は薄い。断絶後の表現の軸が見当たらないからです。
僕は何度も詩の世界はポスト戦後詩・現代詩のヴィジョンを見出せずに停滞していると言っていますが、それは詩で巨大で複雑な高度情報化社会を捉えられなくなっているということです。人間の認識系がかつてない形で変わり始めている現代を捉えるために、過去の詩の技法etc.がほとんど役に立たないと感じられてしまっている。現代社会に食い込む表現だとは思えなくなっている。読まれなくなっているのは黒田三郎だけではありません。多くの詩人たちが読まれなくなっている。だけど糸口が見つかればそれに沿って過去の詩が取捨選択され新たな古典の装いで読まれるようになると思います。
ただそう簡単に糸口は見つかりません。徒手空拳の表現はあり得ないですから地道に現代社会を分析しながら過去の詩の遺産を活用するしかない。黒田は「三好達治論」で達治第一詩集『測量船』(昭和五年[一九三〇年])巻頭の「乳母車」を引用しています。
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つている
この道は遠く遠くはてしない道
黒田はこの詩を「詩を書き初めた第一歩において、悲しみにもうれいにも溺れずにこれだけ淡く悲しい句を書けるということ」と高く評価しています。その一方で欧米詩の表現の厳しさに比べると「日本における詩人というものが、一種の風流人に過ぎぬということである」と批判してもいる。黒田は達治の「乳母車」が大好きで熟読した時期があった。しかしじょじょにそれでは飽き足らなくなった。では黒田は達治的抒情詩を彼の現代においてどんな形でアップデートしているのか。
もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてはなかったのだ
河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった
かつて僕は死の海をゆく船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある
今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの町を見下ろしているにしても
そこにどんなちがった運命があることか
運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に
落ちてきたのである
もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起してくれたのか
少女よ
そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差上げると
名詩集として知られる第一詩集『ひとりの女に』(昭和二十九年[一九五四年])収録の「もはやそれ以上」という詩です。黒田は徴兵検査に合格しましたが兵隊にはならず南洋興発株式会社の社員としてジャワ島に赴任しました。彼は戦前の日本に絶望していた。「熱帯の島で狂死した友人の枕辺に/じっと坐っていたことがある」は実体験でジャワ赴任は彼の絶望をさらに深めた。それは復員後の平和な戦後も変わらなかった。その意味で正統戦後詩です。
ただ『ひとりの女に』はそのタイトル通り一冊丸ごとの恋愛抒情詩集です。戦後黒田さんはNHKに勤務しましたが同僚の多菊光子と恋愛関係になった。後の奥さんの黒田光子さんです。黒田さんの絶望は決して癒えない。でも彼は恋愛によって微かな生きる希望を得た。光子さんが「失うものを/私があなたに差上げると」囁いてくれたからです。『ひとりの女に』は痛切な恋愛詩集です。
一方で表現史として見れば達治「乳母車」と黒田「もはやそれ以上」では愛の表現方法が大きく違っている。「乳母車」は母を詠った抒情詩です。同時代の「あゝ麗はしい距離(デスタンス) つねに遠のいてゆく風景……」の吉田一穂代表作「母」もそう。これらの詩で詠われている母(女性)賛美は恋愛詩にも援用できます。しかし近代の詩人たちは女性への強烈な恋愛感情を詠わなかった。「まだあげ初めし前髪の」の島崎藤村「初恋」や「をみなごに花びらながれ」の達治「甃のうへ」などには若い女性が登場しますが茫漠とした恋愛感情で終わっている。明治中期頃の文学者はキリスト教的恋愛に夢中で教会に通ったりしてたんですけどね(笑)。中原中也も茫洋とした恋愛詩しかない。しかし黒田はズバリと一人の女性に向けた恋愛詩を書いた。
ハッキリ実在の一人の女性に向けた恋愛詩、どころか一冊丸ごとの恋愛詩集は『ひとりの女に』が詩史上初です。その意味で画期的でした。「荒地」同人は黒田が抒情詩人だとわかっていたはずですが「ここまでやるかぁ」と驚いたのではないか。ただ表現史は残酷で当初驚きを持って受けとめられた斬新な試みもすぐにぶ厚い表現史に吸収されてしまう。多様な表現の一つになる。しかし表現史の更新という面で学ぶべきものが多い。
黒田が愛読した達治「乳母車」から黒田自身の「もはやそれ以上」までには二十四年が経っています。この二十四年間で愛の表現方法が変わった。達治「乳母車」と黒田「もはやそれ以上」を比較すれば詩の意味伝達内容が違うのはもちろん、文語体混じりと口語体の表記、詩法など様々な点が異なる。もっと言えば時代変化が詩の変化となって表れた。それを総体化して捉えると〝言語像が変わった〟と言うことができます。
吉本隆明は高度情報化社会、ポストモダン社会を論じた『マス・イメージ論』『ハイ・イメージ論』を書きました。僕も夏目漱石、正岡子規論を「日本近代文学の言語像」と総題した。各時代の詩は様々なレイヤーの重なり合いだと言いましたがそれを総体的なイメージ、〝言語像〟として捉えるわけです。
うんと単純なことを言うと達治「乳母車」は名作ですが黒田「もはやそれ以上」と比べると〝古い〟と感じる人がほとんどだと思います。それと同じことが今書かれている作品にも言えます。ある現代作を読んで〝古い〟と感じればそれはどこかで決定的に現代的言語像とズレている。そしてこのズレは過去から綿々と続いている。その超克の方法も同様です。極度に複雑化した現代社会を捉えるためには、過去に学びながら表現を直観的〝像〟として総体把握した上で分析・再構築する方法が有効だと思います。
ちょっと面倒くさい話になりましたが、下世話なことを言えば黒田さんが詩で女性を口説いた初めての詩人です。欧米ではロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』などがあるけど。あ、シラノも黒田さんも鼻が大きかった(笑)。ただ『ひとりの女に』は甘い恋愛詩集ではない。
僕は
僕の破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしずまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をひらいたのである
『ひとりの女に』の「賭け」末尾です。単純なようで複雑な詩です。黒田さんは結婚は「賭け」であり「破滅」だと書いている。絶望の中で野垂れ死にしなきゃならない男が一瞬であれ恋愛によって救済され、生の時間を引き延ばしたことが破滅なんだ。彼は多かれ少なかれ普通の小市民になる。でも光子さんはそんな厄介な黒田を真正面から受けとめた。
三郎死後に黒田光子さんは『人間・黒田三郎』を書いています。でも中桐雅夫の奥さんの文子さんほどには夫のことを批判していない。むしろラブラブです(笑)。黒田さんは田村隆一が逃げ出すほどの酒乱だったけどそれを苦にしていた気配がない。光子さんは『ひとりの女に』が自分のために書かれた正直な詩集で、かつ詩作品として傑作だとわかっていた。
池上 「荒地」で黒田三郎以外に恋愛詩を書いた詩人はいないですよね。
鶴山 鮎川さんに「小さいマリの歌」があるくらいかな。
池上 これはまた後で論じたいと思いますが、「小さいマリの歌」はストレートな恋愛詩とはちょっと異なる鮎川信夫としては異色作ですよね。それで、黒田光子さんの『人間・黒田三郎』なんですけれど、この本は「1 黒田三郎と三十年」と「2 書簡集『ひとりの女に』1948―1949」という二部構成になっています。今回改めてこの本を読んでわかったのは、光子さんは元々小説を書いていて、文学表現ということをよく理解していた人だし、ご自身も表現者だということです。『人間・黒田三郎』は妻が夫の思い出を素直に書いたエッセイ集じゃないんですよね。黒田三郎の詩集『ひとりの女に』対してラブレターで構成された「書簡集『ひとりの女に』」という黒田光子の作品を提示しているんです。これは極めて珍しいことだと思いますね。しかもこのラブレターが、普通の手紙というわけじゃなくて、双方が意識して文学表現としてラブレターを書いているんです。だから黒田三郎の詩集『ひとりの女に』がユニークな恋愛詩集として成立したのは、恋愛詩の対象である光子さんが、作品に表現されることになる「ひとりの女」という自分の役割を理解して、『ひとりの女に』のディスクールを共有してくれる女性だったからだと思います。普通の女性を好きになって恋愛詩を書いたというのとはまったく違いますね。
鶴山 黒田光子さんは優れた文学少女ですよ。
池上 『人間・黒田三郎』には、「かなしい西部劇 真夜中の凄絶なアトラクション」という、娘さんの須田ユリさんが詩誌「歴程」の黒田三郎追悼号に父親の思い出を書いたエッセイも収録されています。泥酔した黒田三郎が夜中に「インディアンが来る!」と言って騒ぎ出し、ユリさんも弟さんも母親の光子さんも巻き込まれて、黒田家で「深夜の西部劇」が演じられる様子をユーモラスな筆致でリアルに描いた名エッセイです。ちょっと引用してみましょうか。
ドアの覗き窓の蓋をおっかなびっくり持ち上げて、表をうかがっては「おいユリ、聞こえるか?」などと声をひそめて言う。私が「お父ちゃま、テレビの見過ぎよ」と否定し、弟も来てもう寝ましょう寝ましょうとせき立てると母も「そうよ、インディアンは石神井までは来やしませんよ」。父は耳も貸さずに、私にライフルを出せと言い出した。(中略)子供っぽくて、何でも面白がり、すぐお調子にのる母が、「ライフルがあっても、あなた第一、弾がありませんからね」。そんなことを言ったために激昂した父に「この糞ばばあ、そんな不用意なことでどうするンだ!」と髪の毛を摑んで引きずり倒された。仕方がないから弟と二人で右往左往、ライフルを必死に探す真似をしていると、耳を聾する大声で、「伏せろおーッ」と叫んだかと思った瞬間、私も母も弟も将棋倒しに床になぎ倒されていた。(中略)そのうち何だかホッホッホッと奇声を発しているので、見ると父は今度はインディアンの側にまわったらしい。片足とびに跳びはねる恰好が振っている。
黒田三郎は酒乱だとは聞いたことがあったんですが、初めてこのエッセイを読んだ時はびっくりしました(笑)。でもさすがに黒田三郎の娘さんだったけあって文章も巧みだなと感心していたら、『人間・黒田三郎』には文章の最後に光子さんによる註がついていて、葬儀委員長をつとめてくれた三好豊一郎から「是非ともユリちゃんの文章を頂きたい」と話があって断り切れなかったので、「勝手に私が代筆してしまいました」と書いてあった(笑)。大した人ですよ。
しかし、黒田三郎が本当に好きだった人は、実は光子さんではなくてジャワに赴任していた時に恋人だった女性だとぼくは思っています。
二十五年昔の夏
ひとことも言わないで
別れたジャワの女を
僕はいまでも夢にみることがある
いつまでも
若く
美しいままで
詩集『羊の歩み』(『定本黒田三郎詩集』昭和四十六年[一九七一年]収録)の「なくす」という詩の最終連です。黒田三郎の心の中には終生「別れたジャワの女」がいたんだと思います。
黒田三郎と光子さんの往復書簡を読んでいると、最初は光子さんは結構つれない感じなんですけれど、途中から黒田三郎のことを「トワン」と呼ぶようになって急にラブラブになるんです。ぼくはよく知らないんですが、戦時中、現地の人が日本人に対して「旦那様」のようなニュアンスで使っていた言葉らしくて、鮎川信夫が新婚の黒田三郎の家に行った時に、黒田三郎が光子さんに「トワン」と自分のことを呼ばせていることに反感を覚えたと書いていた覚えがあります。
もちろん黒田三郎は光子さんを愛していたでしょうし、『ひとりの女に』に書かれたことはウソだとは思いませんが、詩に表現された黒田三郎の恋愛感情は陰翳があって複雑です。でも光子さんのほうも黒田三郎の心の中にはずっとジャワ時代の恋人がいると当然わかっていたんですよね。
鶴山 光子さんは「この狂暴な酒乱の男が、常にまた、純情な「恋の男」であったことを人は信じられるでしょうか? その恋心は繊細で、優しさに満ち、晩年に至るまで少年のような初々しさ失いませんでした。酔った彼が私の掌を握りしめながら、ジャワ語でブンガワンソロを唄うとき、それはジャワに残してきた美しい黒人女のスティーを偲んでいるのです」(「飲んだ、書いた、恋した、その生涯」)と書いています。黒田三郎最大の理解者ですね。黒田さんにとってのイデアは女性だった。
「荒地」派の詩や評論を読んでいると大正生まれの文学者と戦中に少年少女だった戦中派文学者の精神性がかなり違うことがよくわかります。大正生まれの文学者はある程度自由な社会を知っていましたが日本が狂信的軍国主義に傾いてゆくのを指をくわえて眺めていた。それどころか強制的あるいは自発的に兵士や銃後の人として戦争に加担した。それを拭ったように忘れ新たな戦後日本を生きた人がほとんどだったわけですが、「荒地」派などの文学者は自らの行為を心の底から悔い、恥じてほとんど呪った。その傷は恐ろしく深い。
ほかの「荒地」の詩人たちと同様、黒田さんの絶望は彼個人の生育環境と時代抑圧の混淆なのでその機微は最後のところよく分かりません。が、ほとんど生きる屍のように大酒食らって暴れながら正反対とも言えるような美しいイデアを希求した。またそれは恐ろしく冷たいリアリズムを生んでいる。
黒田さんは「詩は何処へ行くか」という評論で「疑いもなく、戦争は他の手段を以てする政治の継続であり、かかる社会的変動なくしては、社会における如何なる意識の進展も、意識の進展に伴わないあらゆる制度を、ひとつの桎梏として背負って歩む運命から免れ得ない。過去の制度はここに意識の到達した所に新しくつくり直されるべき機会を与えられるに至ったのであり、ここにひとつの違った段階がひらかれねばならぬのである」と書いています。
戦争に賛成しているわけではないですが、ほかの評論でも黒田さんは戦争のような悲惨は起こる時は起こるという冷徹な歴史認識を述べています。またそれは社会再生に必要なのであり「戦争は汚らわしい助産婦」だと書いている。田村さんも同じようなことを言っていましたね。黒田さんはロマンチストでしたが現実認識は冷徹だった。
(金魚屋スタジオにて収録 「黒田三郎篇Ⅰ」了)
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*『対話 日本の詩の原理』は毎月01か03日にアップされます。
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