『東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展
於・板橋区立美術館
会期=2018/2/24~4/15
入館料=650円(一般)
カタログ=1300円
池袋モンパルナス関連の展覧会ということで、板橋区立美術館まで展覧会を見に行った。池袋モンパルナスがあったエリアは豊島区が中心なので、豊島区が毎年のように展覧会やイベントを開いている。しかし以前からモンパルナスに注目して定期的に展覧会を開いてきたのは板橋区立美術館である。
ちょいと脇道に逸れたことを書くと、日本には各地に公立私設を問わずたくさんの美術館がある。頂点は東京国立博物館なのは言うまでもないが、日本の美術の表玄関ということもあって、けっこう政治力学に沿って展覧会が開催されている気配がある。私設美術館はたいていコアとなるコレクションがあって、それを定期的に展示し、その合間に企画展を行っているのがほとんどだ。ルーティーンが決まっていることが多い。
ただま、どんな組織だって人次第である。美術館も人次第。優秀で熱心な人がいれば美術館の企画展示も面白くなる。もっとストレートに言えば、美術館だからすんばらしい作品を集められてすんばらしい展覧会が開かれるとは限らない。もうだいぶ長いこと金魚屋で美術展時評をやっているが、首都圏の私設美術館で「ああ、いい展覧会をやっているなぁ」と感じるのはサントリー美術館が多い。予算は限られているだろうが、独自の視点を持つ人がいるのだろう。
板橋美術館は申し訳ないが滅多に行かないが、昔の図録などを読むと熱心な学芸員が常にいらっしゃるようだ。今回の『東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展もそうだった。それほど注目されない展覧会だったろうが、力が入っていた。また図録の出来も良かった。美術展の図録解説は大学の紀要論文みたいになりがちだが、学術性を保ちながら資料的価値が高い図録になっている。池袋モンパルナス関連の基礎資料の一つとなるでしょうね。
池袋モンパルナスに興味のある方にはいまさらなのだが、池袋モンパルナスは東京の池袋から落合エリアに戦前から戦後にかけて存在した画家たちのアトリエ村である。画家だけでなく詩人の小熊秀雄なども住んだ。池袋モンパルナスの命名は小熊だ。ただ池袋モンパルナスは画家たちの住居兼仕事場だったわけで、〝それは絵画運動と呼べるのか?〟という疑問がずいぶん前からある。
フランスのエコール・ド・パリはモンマルトルやモンパルナスという地名と結びついているが、モジリアーニやザッキン、キスリング、ピカソ、シャガール、フジタなど、二十世紀前衛芸術の出発的になった。その意味で重要な絵画運動として認知されている。それに比べると――小熊秀雄はエコール・ド・パリに憧れ彼の地と同様に日本でも新たな絵画・芸術運動が起こるのを期待して命名したわけだが――池袋モンパルナスの、集団的絵画動向という面は弱い。なるほど初期にはシュルレアリスムの先駆的画家を生んだが戦後までそれを貫いた画家はいない。池袋モンパルナスの画家たちの画風は多種多様である。
ただ池袋モンパルナスは、様々な意味で二十世紀日本美術にとって非常に重要な絵画動向である。この点はちょっとペンティングにしておくとして、まず池袋モンパルナスの成立から見てゆきましょう。
『アトリエ村地図:落合・池袋』
『東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展図録より
図録巻頭で学芸員の弘中智子さんが、とてもスッキリしたイントロダクションを書いておられる。弘中さんは、一九二〇年代の大正時代に遡って池袋モンパルナスの起源(発端と言うべきかな)を探っておられる。
関東大震災(大正十二年[一九二三年])によって、下町から郊外への移住が進んだ。JR目白駅のエリアでは、堤一族の西武グループ(後の名称だが)による目白文化村の造設・分譲が進んだ。当時は自然豊かな丘陵地帯で佐伯祐三や中村彝、それに松本竣介らが住んだ。松本竣介は池袋モンパルナスを代表する画家の一人だが、画風もライフスタイルもモンパルナスの画家たちより垢抜けている。半分ハイブロウな目白文化村に足を突っ込んでいた画家だと言っていいでしょうね。
昭和一桁の一九三〇年代になると、落合・池袋エリアに続々とアトリエ付き貸家が建てられた。目白文化村と違い、貧乏な画家たちのための貸家だった。小熊秀雄が昭和十三年(一九三八年)にサンデー毎日に発表したエッセイと詩、「池袋風景」が池袋モンパルナスの名称が定着したメルクマールである。その後日本は太平洋戦争に突入し、画家たちは前衛的絵画表現を禁じられた。戦局が厳しくなると絵具やカンヴァスなどの画材も配給制になったので、体制に協力姿勢を見せなければ絵すら画けない状況になった。「言うことを聞かない画家には画材の支給をやめてしまえ」という軍部の発言を、松本竣介が「生きてゐる画家」という文章で批判したのはよく知られている。
しかし戦局は悪化の一途を辿った。昭和十五、六年くらいからは、一切の体制批判ができないほど言論の締め付けが厳しくなった。小熊は昭和十五年(一九四〇年)に病死した。新詩集が組版まで終わっていて印刷するだけだったのに、刊行されなかった(できなかった)。戦後の昭和二十二年(一九四七年)になって、ようやく畏友中野重治によって刊行された。小川原脩や靉光らのモンパルナスの画家たちは召集され、靉光は戦地で病死した。寺田政明らは従軍画家として戦地に派遣された。
その後、戦後になって熊谷守一や長谷川利行を中心に、池袋モンパルナスの画家たちの評価が上がっていったのは衆知の通り。戦争を生き延びた画家たちも、それぞれに才能を伸ばしていった。ただ池袋モンパルナスの画家たちがより大きな注目を浴びるようになったのは最近のことだと思う。戦後アヴァンギャルド芸術の影響力が低下し始めてからだろう。
一九六〇年代から八〇年代くらいまでの美術動向を肌身で知っている方には説明の必要もないだろうが、この時代の日本美術のスターは前衛だった。もちろん二科など伝統があり、有力画廊との結び付きも強い画家たちの絵が実際には売れていたわけだが、ジャーナリズムの表舞台に立つのは団体などの後ろ盾のない前衛画家たちだった。瀧口修造が深く関わった読売アンデパンダンや洲之内徹の現代画廊の時代である。
しかし日本だけでなく世界的にも前衛(アヴァンギャルド)芸術への視線が変わってきた。未踏の雪原に足跡を残すような前衛芸術が頭打ちになったと言ってもいいし、前衛が前衛の素振りに形骸化していったと言ってもいい。そんな時代状況の中で伝統に根ざした前衛への評価が高まっていった。海外ではバルテュス、ベーコン、ジャコメッティらの評価が八〇年代後半からうなぎ登りに上がっていった。日本でも熊谷守一、長谷川利行らの評価が高まったのは八〇年代くらいからだろう。
それと同時に絵を見る際の視線がより細かく繊細になってきた。日本美術が海外前衛美術の〝追っかけ〟であったのは紛れもない事実である。洋画というジャンル自体が御維新後に生まれた新しい絵画ジャンルなのだ。たかだが一五〇年くらいの歴史しかない。日本美術の目は一九八〇年代前半くらいまで海外の新たな動向に釘付けだった。しかし九〇年代に入ると完全に追いつき、追いついたことすら忘れるようになった。この大きな時代変化が視線の変容をもたらした。海外美術に追いつけ追い越せと切磋琢磨していた画家たちの作品の中に、海外美術の影響を探すのではなく、外部から大きな影響を受けても変わらない、あるいは変わりようのなかった部分をこそ見るようになったのである。
難波田龍起『ヴィナスと少年』昭和十一年(一九三六年)
油彩、カンヴァス 縦六〇×横七二センチ 板橋区立美術館蔵
寺田政明『芽』昭和十三年(一九三八年)
油彩、カンヴァス 縦一一六×横九〇・三センチ 板橋区立美術館蔵
難波田龍起は戦後に完全な抽象画に転じるので、『ヴィナスと少年』はいわゆる前作ということになる。「抽象画を長いこと描いていると、絵が抽象的になって困る」と言った人である。彼は抽象画を具象画のように描いていた。ヨーロッパ絵画史的な、具象絵画の解体といった絵画動向とは本質的に無縁なのだ。物や風景や人をじっと見続けると抽象的な色と線と形に解体してゆく。この道行きは麻生三郎らも同様である。
寺田政明は最も池袋モンパルナス的な画家の一人で、戦前は頭からシュルレアリスム絵画にのめり込んでいた。ただ寺田も靉光も物や人の形にこだわった。完全に抽象化してしまうことはなかった。『芽』に関しても、植物の芽をそのまま描くのではなく、シュルレアリスム的解釈によって描くとどうなるのか、といった画風である。それが戦後の寺田の、具象抽象と呼ぶべき独自の画風に繋がっている。
ここでは詳述しないが、池袋モンパルナスの美術的および美術史的な大きな意義は、戦争と深く関わっている。戦争との関係は画家によって様々であり、丸木位里・俊夫妻のように、戦後に『原爆の図』などを描いて激しい体制批判を行った画家たちもいる。ただほとんどの池袋モンパルナスの画家たちはノンポリだった。松本竣介を含めほぼすべての画家たちが戦争協力画を描いている。しかし戦後の歩みまで視野に入れれば明らかなように、池袋モンパルナスの画家たちは生粋の絵描きであり、政治とは無縁だった。
無頼で生活破綻者だった長谷川利行は別として、戦争を全く意に介せずやり過ごした熊谷守一が、意図的にそうしたのか一種の欠落によってそうなったのかは謎である。ただ彼のことだ、恐らく意図した部分があると思う。西脇順三郎も戦争をやり過ごしたが、熊谷と西脇には似た面がある。
図式的に言えば、利行・熊谷を静かな台風の目のような位置に置いて、池袋モンパルナスの画家たちはその周囲で多かれ少なかれ戦争い巻き込まれた。そこで何が起こったのかが問題の焦点だ。まず日本の洋画が一貫して仰ぎ見ていた西洋絵画(アバンギャルド芸術)の梯子が外された。それにより画家たちは自分自身の絵画表現に向き合わざるを得なくなった。それが戦後に池袋モンパルナスの画家たちの多くが、もはや前衛芸術には戻って来なかった大きな理由である。
よーく画家たちの作品と人物を見ていればわかるが、前衛に留まった画家には元々前衛でなければならない強い理由がある。アンディ・ウォーホールは自分自身が嫌いだった。自己イメージの複製の方が彼には心地よかった。ほとんどの場合、付け焼き刃の前衛は時間が経てばボロが出る。池袋モンパルナスの画家たちは、言ってみれば明治維新以降ずっと続いた無理くりのヨーロッパ絵画模倣(神聖化)の歪みの申し子のような存在であり、かつその影響を巨大な政治権力によって閉ざされた。池袋モンパルナスの画家たちの戦前と戦後の作品には、日本近代洋画の大きな歪みとそれを生き延びた日本的洋画表現が表れている。
『沖縄ニシムイ美術村』
『東京⇄沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』展図録より
さて、今回の美術展のメインである沖縄ニシムイ美術村である。沖縄が太平洋戦争の唯一の本土激戦地になったのは言うまでもない。戦後も米軍占領下に置かれ、返還されたのは昭和四十六年(一九七一年)である。現在の那覇市首里儀保町に芸術家村・ニシムイ美術村が建てられたのは昭和二十三年(一九四八年)のことだった。名渡山愛順、屋部憲、山元恵一、大城皓也、玉那覇正吉、安谷屋正義らが最初の住人だった。その多くが若い頃に本土で絵画を学んでいた。ニシムイ美術村の寿命は短かったが、戦後の沖縄美術の復興に大きく貢献した画家たちばかりである。
たたニシムイ美術村の画家たちも、ほぼノンポリだった。彼らは日に陰に米軍の協力を得ていた。最近になって、SNSの影響なのか、なんでもかんでも大上段の政治に結びつけてしまう風潮が強い。しかし画家も物書きも政治家ではない。そういった志向がある人は別として、そうでない画家や物書きは絵を描いて文字で作品を作っていたいのである。なるほど作品に政治状況が反映されることはある。しかし政治のために作品を作るのは芸術家の仕事ではない。ニシムイ美術村の画家たちは美術を愛する米軍関係者と親しく付き合った。ノンポリで根っからの絵描き。基本は池袋モンパルナスの画家たちと同じである。
安谷屋正義『塔』昭和三十三年(一九五八年)
油彩、カンヴァス 縦九一×横六一センチ 沖縄県立博物館・美術館蔵
安谷屋正義『望郷』昭和四十年(一九六五年)
油彩、カンヴァス 縦七三・三×横一〇七・三センチ 沖縄県立博物館・美術館蔵
ニシムイ美術村の画家たちの作品は初めて見るものばかりで、かつ画家の仕事全体を通覧したわけではない。あまりいい加減なことは言えないが、安谷屋正義(大正十年[一九二一年]~昭和四十二年[一九六七年])の作品には強烈な魅力があった。東京美術学校図案科で学んだが、繰り上げ卒業で従軍している。ニシムイ美術村の最初の居住者の一人だ。もっとたくさん作品を見てみたい画家である。いずれ機会があるだろう。
なお今回の展覧会の図録では弘中智子氏がそうとうに頑張っておられる。巻頭の論文はもちろん、手がかかる画家紹介や関連年表も弘中さんだ。大変だけど一人で納得のゆく図録を作り上げるのは楽しいだろうなぁ。区立美術館では手が足りないのかもしれないけど、図録の作り手としては理想的な仕事ができる環境かもしれませんね。
鶴山裕司
(2018/03/27)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
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