No.141『生誕130年記念 北川民次展』
於=世田谷美術館
会期=2024/09/21~11/17
観覧料=1,400円(一般)
カタログ=3,500円
北川民次の回顧展は約30年ぶりである。過去最大規模の回顧展だろう。決してピカソや伊藤若冲のように一般社会で広く名の知れた大画家ではないが、日本の近・現代絵画史で重要な画家の一人である。民次の大回顧展は今後30年、50年は開催されないかもしれない。今回の展覧会はもちろん、同時刊行された図録『北川民次 メキシコから日本へ』はしばらく民次研究の基礎資料になるだろう。
北川民次は明治27年(1894年)静岡県榛原郡五和村牛尾(現・島田市牛尾)で生まれた。8人兄弟の末っ子で生家は地主農家で製茶業を営んでいた。早稲田大学予科を中退後、大正3年(1914年)20歲の時にアメリカのオレゴン州ポートランドに移住していた兄を頼って渡米した。ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働きアート・スチューデンツ・リーグに通って絵を学んだ。メキシコに渡ったのは大正10年(1921年)27歲の時のことである。
メキシコがスペインから独立したのは1821年(文政4年)だが、当時はディアス独裁政権を倒して民主化運動が盛り上がったメキシコ革命直後だった。民次はアメリカ時代と同様、庶民に聖画(ブリキの上に聖書の一場面を描いた絵でレタブロと呼ばれる)を売る行商などをして働きながらメキシコ社会に溶け込んでいった。やがて画家仲間の紹介で国営のトラルパン野外美術学校で絵を教えるようになった。当時のメキシコは識字率が低く、国の子ども向け情操教育の一貫として絵画が重視されていた。
民次は壁画運動で知られるディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ・シケイロスと交流し、独自の民族的抽象画を描いたルフィーノ・タマヨらとも親交を結んだ。メキシコやアメリカで個展を開きメキシコの美術雑誌『フォルマ』や革新的美術家集団の機関誌『¡ 30-30!』にも深く関わった。両誌に何度も作品が掲載されている。
美術家のフランシスコ・ディアス・デ・レオンは「北川民次の作品はわれわれにとって親しみを覚えさせ、メキシコ人が描いたと言ってもおかしくはないほどである。実際のところ、外国出身ながら、われわれを理解したうえで自分の見たものを誠実に表現した最初の画家であり、週末にソチミルコに出かけたり、お土産屋のショーウィンドウを覗いたりした程度で、メキシコの深奥を理解したと思い込むわけ知り顔の輩とは違う」(「メキシコの日本人画家」『フォルマ』掲載)と書いた。では民次のメキシコへの深い共感と理解はどういうものだったのか。
民次は4年間のニューヨーク滞在中に美術学校アート・スチューデンツ・リーグに通ったが先生は当時の下層階級を好んで描いたジョン・スローンだった。その画風はアッシュカン・スクール(ゴミ箱派)と呼ばれた。今見るとある種の現代アートより遙かに美しく洗練された絵だが、当時は社会底辺を描く絵は稀で嫌悪されたのだった。このジョン・スローンに師事した日本人画家に民次のほかに国吉康雄や清水登之がいる。民次は特に国吉と親しかった。
【参考図版】国吉康雄『帽子の女』
大正9年頃(1920年頃) 愛知県美術館蔵
大恐慌時代の暗い世相を背景としているが国吉の白を基調とした抒情的画風は今でも人気が高い。よく知られているように国吉は帰国せずアメリカ国籍を取得した。アート・スチューデンツ・リーグの教授にも就任している。また第二次世界大戦中は対日批判放送にも協力した。その内面は複雑だったがアメリカ人として生涯を終えた画家だった。その点では藤田嗣治と同じである。藤田の絵も白い。あえて言えば国吉の絵も藤田の絵も白人画壇に属していた。
『メキシコの男』
大正14年(1925年) 油彩/キャンバス 縦72・7×横60・6センチ 早稲田大学會津八一記念博物館蔵
民次はメキシコに出発する前に正体不明の日本人に現金はもちろん、ドローイングなどの作品も盗まれてしまった。そのためアメリカ時代の絵は確認されていない。『メキシコの男』はメキシコ移住後4年目の作品である。強い線、多色なのだがどこかくすんだ印象を与える画風はメキシコ人好みである。リベラ、オロスコ、シケイロスらの作風に近い。民次はメキシコ社会に溶け込んでいた。ただそれだけではない。
今も昔もアメリカは自由の国でありそれゆえ超格差社会だが、民次はそれに嫌気が差してメキシコに移住したようだ。アメリカに比べれば遙かに貧しいが革命直後の活気に惹かれてもいた。メキシコ絵画の表現様式が彼の表現欲求に合っていたせいでもある。絵には社会的使命があるというのが民次がメキシコ絵画から受けた最大の影響だった。
『踊る人たち』
昭和4年(1929年) 油彩/キャンバス 縦78・8×横73・2センチ 郡山市立美術館蔵
『踊る人たち』もメキシコ移住初期の作品である。美術展時評の『古代メキシコ展』で書いたが、メキシコを中心とする中央アメリカには古代からマヤ、アステカ、テオティワカン文明などが花開いた。メソ(核)アメリカ文明である。このメキシコ独自の文化は1519年から始まるスペインの植民地化によって徹底的に破壊され、先住民の多くがキリスト教に改宗させられた。しかし民次の『踊る人たち』を見ればキリスト教文化とメキシコ伝統文化が混交していることがわかる。
民次の絵に限らないがメキシコ現代絵画は平面的だ。日本の浮世絵のように遠近法を知らなかったからではない。遠近法を使っているがあまりそれを感じさせない。ジャポニズムの影響を受けたゴーギャンら後期印象派の平面性とも微妙に異なる。
メキシコ絵画は様々な要素を一枚の絵の中に詰め込む。そのため壁画を含めて大きな絵が多い。『踊る人たち』にしてもキリスト教の祝祭に民族衣装や楽器、踊る人たちなどが配されている。中世までのキリスト教会の絵やステンドグラスのように文字が読めない人でも見れば内容が分かる絵である。ただ決して説明的ではない。キリスト教の聖画のように題材が『聖書』に限定されることもない。政治経済から庶民の暮らしに至るまで幅広い題材の絵が描かれた。
『作文を書く少女(慰問文を書く少女)』
昭和14年(1939年) 油彩/キャンバス 縦73・1×横60・5センチ 名古屋市美術館蔵
民次は昭和11年(1936年)にメキシコから帰国した。アメリカに渡ってから23年ぶりの帰国だった。すでに結婚して娘・多美子をもうけていたが、娘の教育のための帰国だったのだという。またメキシコで培った児童美術教育を日本で行いたいという希望も抱いていた。ただ日本では軍国主義が台頭し、太平洋戦争への道を一直線に突き進んでいた。当時は国民総動員体制であり民次も画家として戦争に協力(翼賛)させられることになった。
『作文を書く少女(慰問文を書く少女)』は戦意高揚のためのいわゆる聖戦画として描かれたようだ。日中戦争に従軍している兵士に宛てた慰問文を書く少女を描いている。しかし広げた原稿用紙は白紙で書きあぐんでいるようにも見える。
『出征兵士』
昭和19年(1944年) 油彩/キャンバス 縦78・5×横63センチ 東京都現代美術館蔵
『出征兵士』は終戦前年の昭和19年(1944年)10月に描かれた。図録解説によると発表を前提とした作品ではないということだが、当時は厳しい物資統制の時代でキャンバスや絵の具も不足していた。比較的大きな作品を描けたということは、藤田嗣治ほどではないが、民次がそれなりに軍部から優遇されていたことを示している。
画題は学徒動員で出征する若い兵士を描いたものだ。兵士は拳を握りしめ決意を固めたように顔を上に向けている。前方の少年2人は日の丸を振って出征を祝っているが、後方に控えた女性や年長らしき男たちの表情は沈鬱だ。当時の状況は簡単なものではなかった。民次は出征兵士の悲壮な覚悟といずれ兵隊に取られるはずの少年たちの鼓舞、戦死を予感して沈鬱な表情の人々を等価に描いている。
よく知られているように藤田は200号の大作『アッツ島玉砕』を描いた。死屍累々の描写は今見ると反戦・厭戦画のように見える。しかしその後の藤田の言動から言って彼にそんな意図はなかったはずだ。藤田は〝見たまま〟を描いた。戦争という新たな画題に刺激を受け玉砕も戦意高揚に繋がると思っていた節がある。軍部も大画家藤田の絵をそのまま公開せざるを得なかったのだろう。それに対して民次の聖戦画は銃後の人々の心情を正確に捉えている。民次はほかにも聖戦画を描いているがどの作品にも微妙な反戦・厭戦意識が表現されている。
民次はメキシコから帰国した後、昭和12年(1937年)から18年(43年)まで芸術家村〝池袋モンパルナス〟に住んだ。池袋モンパルナスの芸術家たちとの交流が密だったことは15年(40年)に詩人・小熊秀雄が死去し、翌年開催された小熊遺作絵画展に熊谷守一、寺田政明と並んで民次が発起人として名を連ねていることからもわかる。熊谷はモンパルナスの仙人と呼ばれて尊敬されていた。寺田は小熊と並ぶモンパルナスの主と言われた画家である。
池袋モンパルナスは現代日本絵画史で大変重要な拠点だった。拠点というのはシュルレアリスムのようなまとまったポリシーを持った芸術運動ではなかったからである。しかし池袋モンパルナスはそれまでの洋画の歴史の歪みを集約したような芸術家村で芸術家集団だった。戦後の洋画の礎となった重要な拠点である。
言うまでもなく洋画は明治維新から始まった。池袋モンパルナスが実質的に解体する終戦の昭和20年(1945年)まではわずか77年である。この間に日本の洋画家たちは千年近い欧米絵画の歴史と実作を貪欲に吸収するという無茶をやってのけた。また明治初期の洋画家たちは黒田清輝など裕福な家の子弟だった。しかし大正から昭和初期になって初めて今と同じように中流階級の青年が画家を目指すようになった。その集約が池袋モンパルナスである。
池袋モンパルナスの評価は今でも低い。その理由は彼らが印象派やフォービズムはもちろん、当時最新のダダイズムやシュルレアリスム絵画を積極的に模倣したからである。それは無惨な物真似絵画に見えないことはない。実際池袋モンパルナスという芸術村の名称自体、パリの芸術家たちの拠点モンパルナスに憧れて付けられたものだった。画家たちは西洋絵画から大きく遅れているというコンプレックスを抱いてパリを憧れ仰ぎ見ていた。しかし模倣というなら1950年代から70年代にかけての日本の現代アートの方がよりあからさまな模倣だったと言えないことはない。
確かに戦前に靉光や寺田政明、麻生三郎、松本竣介らの画家たちは狂ったように欧米前衛絵画を模倣した。しかしその多くが戦後に日本独自の具象絵画を描いている。また熊谷守一や長谷川利行といった画家たちは最初から日本独自の具象抽象画を目指していた。池袋モンパルナス的画風は確実にある。それは洋画家というより〝日本の絵描き〟の作品だ。貴族的画家たちに主導されたヨーロッパ絵画とはまったく違う。梅原龍三郎らを別格として日本的な洋画を確立し普及させたのは池袋モンパルナスの画家たちだった。外国の最新美術動向に精通していた画家たちではなく、いわば庶民の絵描きたちが試行錯誤の末に見出した画風だからである。
民次は静岡の地主農家の子どもだが実家がずば抜けて裕福だったわけではない。アメリカ、メキシコ時代、そして帰国後も生活で苦労している。メキシコ帰りの特異な画家として一目置かれていたが人気画家ではなかった。メキシコでの体験から常に弱い民衆に寄り添い、特定の政治的イデオロギーに属することなく民衆の力を信じた人だった。
民次の池袋モンパルナスの芸術家たちとの交流はほとんど研究されていない。わずかに宇佐美承さんの大著『池袋モンパルナス―大正デモクラシーの画家たち』に丸木(赤松)俊や野田英男、寺田竹雄らとの交流が書かれているくらいである。民次は戦時中にメキシコ流の児童教育実践のために良質の絵本の出版を企画した。『マハフ(魔法)ノツボ』と『うさぎのみみはなぜながい』の2冊を刊行している。しかし丸木(赤松)俊の『雪の子ども』と寺田の『わたしの人形』は原稿は完成していたが紙不足で戦後出版となった。
小川原脩のように軍部に協力的だった画家もいるが、池袋モンパルナスの画家たちは戦争翼賛に消極的だった。もちろん靉光ら仲間が召集されたわけだからその心境は複雑だった。家族や友人知人が応召される状況で勝って早く生還してほしいと願うのは自然である。数は少ないが池袋モンパルナスの画家たちが書いた翼賛画も存在する。
ただ総じて戦争に対して冷ややかだった理由には小熊秀雄や民次の影響があるだろう。また民次が持ち込んだ絵画に強い社会的役割をこめるメキシコ流大作主義は藤田らに強い影響を与えている。丸木位里・俊夫妻も戦後に大作『原爆の図』を描いた。
絵画団体でもないのに大勢の若い画家が一つの場所に住んで相互影響を与えた例は池袋モンパルナス以外にない。しかも時代は日本近・現代史上最大の動乱期である。既に絵に対する強い信念を持ち画風を確立させていた民次は池袋モンパルナスの画家たちに大きな影響を与えている。
『瀬戸市立図書館壁画原画』
昭和45年(1970年)
(上)無知と英知 グワッシュ/紙 縦26×横58センチ 瀬戸市美術館蔵
(中)知識の勝利 同 縦25・5×横45・5センチ 同
(下)勉学 同 縦29・5×横62センチ 同
民次は昭和18年(1943年)に妻てつ子の実家のある愛知県瀬戸市に疎開し、戦後も瀬戸市を拠点として画業を続けた。民次がシケイロスやリベラらが提唱した民衆芸術運動の象徴である壁画制作を手がけたのは戦後になってからである。瀬戸市市民会館内にタイル・モザイク壁画『陶土の採掘夫』『ろくろ場風景』『登り窯』(34年[59年])を、名古屋のカゴメ本社ビルに『TOMATO』(37年[62年])などを制作した。45年(70年)制作の瀬戸市立図書館壁画は民次畢生の大作だ。外壁が『無知と英知』『知識の勝利』で飾られ内部に『勉学』が設置されている。子どもたちと民衆は民次の生涯に渡る大事な画題だった。
民次は絵本について「若し彼等が退屈な物を求めるなら、彼等の周囲にそれは山程あるのだ。彼等は、其の退屈から救はれる為めに、画本が要求される。(中略)それは私共が、子供に向つて、その活々とした感覚を萎縮させたり、深く強い現実の追究心を失はせたくないと希望してゐるからであつて、若し其の画本が全く生気を失つた童画で満たされてゐたら、この目的にはちつとも添はない事になる」(『童画への考察』昭和18年[1943年])と書いている。
壁画についてはリベラたちの作品を念頭に置いて「そこには、たくましい姿で時代と共に生きる人間が、実に生き生きと全力をあげ、自己を主張している。現実を把握し、縦横に批評し、人生に対する見解を明らかにし、しかも其れ等を美術でなければ云い現し難い言語と技巧とで表現する」(『新しい神様―壁画とタブローについて』昭和28年[1953年])と書いた。日本ではいまだに馴染み薄く、市民権を得ていない公共美術について考え実践した画家だった。
『バッタと自画像』
昭和52年(1977年) 油彩/キャンバス 縦53×横45・5センチ 島田市博物館蔵
民次は昭和53年(1978年)に画家を引退した。『バッタと自画像』は最後の自画像である。民次は絵に高い社会的使命を求め風刺画も手がけた。しかしあまり説明的ではない。必ずと言っていいほど言語に還元できない要素を絵で表現している。
バッタは民次偏愛の昆虫である。一匹では弱いが大軍になると農作物を壊滅させる大きな脅威になる。民次はバッタを民衆の力の象徴としていたようだ。ただ絵のバッタはのほほんとしている。ハンマーを振り上げた自画像の表情は悲壮と言えないことはないが頑固親父と捉えてもいい。画家が右手に振り上げたハンマーは政治的変革の意志ではなくあくまで画家=工人としての矜持だろう。民次らしい画業の辞世的作品である。
民次は特異な日本人画家である。外国、しかも日本では馴染み薄いメキシコで画風を確立したが行ったきりにはならなかった。日本に戻って画業を続けた。初期から戦中、そして戦後の晩年の作を通覧してもほとんど絵に対する信念が変わっていない。画風も一定している。こういった頑固で筋の通った画家は珍しい。
鶴山裕司
(2024 / 11 /15 17枚)
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