自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
萩野篤人(はぎの あつひと)
一九六一年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家、小説家。IT関係会社に在職中から執筆活動を続け、二〇二三年、相模原障害者殺傷事件をテーマにした評論『アブラハムの末裔』で第一四回金魚屋新人賞を受賞。論考『モーツァルトの声・裏声で応える小林秀雄』『九鬼周造と偶然性をめぐって』、小説『春の墓標』など。
■詩の書法について■
池上 小熊秀雄の代表作のひとつに「馬車の出発の歌」があります(『新版・小熊秀雄全集 第四巻』「Ⅰ 流民詩集」「漂白詩集」に収載)。
仮りに暗黒が
永遠に地球をとらへてゐようとも
権利はいつも
目覚めてゐるだらう、
薔薇は暗の中で
まつくろに見えるだけだ、
もし陽がいつぺんに射したら
薔薇色であつたことを証明するだらう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといへるだらう、
私は暗黒を知つてゐるから
その向ふに明るみの
あることも信じてゐる
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるやうな努力にさへも
大きな意義をかんじてくれ
幾千の声は
くらがりの中で叫んでゐる
空気はふるへ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光りと勝利をひきだすことができる
徒らに薔薇の傍にあつて
沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎へるために
馬車を仕度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しさうに
わだちの歌を高く鳴らせ。
この詩は「仮りに暗黒が/永遠に地球をとらへてゐようとも/権利はいつも/目覚めてゐるだらう、」と始まるわけですが、これは本当にすばらしい詩行です。現在でも世界中で人権問題は目の前で起っていて、これはもしかすると永遠になくならないかもしれない。けれどそういう状況でも「権利はいつも/目覚めてゐる」のです。この詩のアクチュアリティはすごいと思います。こういうふうに「権利」という言葉を詩に使ったのは小熊秀雄が初めてじゃないでしょうか。
『流民詩集』は小熊秀雄の没後、中野重治が編者になって昭和二十二年(一九四七年)にようやく出版されたんですよね。

鶴山 『流民詩集』は分厚い詩集で「通信詩集」「愚鈍詩集」「哀憐詩集」「漂泊詩集」「愛情詩集」の五詩集(五章)構成です。特高にマークされ検閲も厳しく詩集を刊行できなかった。小熊さんは「序文」で「自分は詩を書き初めたとき、こんな念願をたてたものであつた、それは一生の間に自分の身長だけの高さの、詩集の冊数をもちたいものだといふことであつた」と書いた。が、死後刊を含め生涯詩集三冊。『小熊秀雄詩集』『飛ぶ橇』『流民詩集』は一冊ごとにテーマを決めて詩をまとめています。未刊詩も一定のテーマで書いているものが多い。長生きしていれば相当な詩集の数になったでしょうね。
「幾千の声は/くらがりの中で叫んでゐる/空気はふるへ/窓の在りかを知る、/そこから糸口のやうに/光りと勝利をひきだすことができる」とあるように『流民詩集』のテーマは一貫しています。小熊が亡くなったのは昭和十五年(一九四〇年)十一月二十日でほぼ一年後の十六年(四一年)十二月八日が太平洋戦争開戦です。あらゆる面で国民生活を束縛し怒濤のように戦争に突き進む世相に抗い人間本来の自由を求めよ、そのために声をあげ続けよと歌っている。ただし社会主義革命のようなイデオロギー闘争のためではない。本質的には「しやべり捲くれ」の延長上にある。声をあげることで社会を変えよと歌っている。
今気づいたんですが池上さんが持ってこられた岩田宏編の岩波文庫本『小熊秀雄詩集』では「心の城」(流民詩集)になっていますね。さすが岩田さんだ、信頼できる。小熊は「夜の詩に就いて」というエッセイで「わたしはその詩集『心の城』の序文の後の方に、感想を附けてをいた」と詩集タイトルは『心の城』だと書いている。それを公刊時に中野さんが『流民詩集』に変えてしまった(小熊の「序文」には「心の城」のタイトルは明示されていない)。中野さんは優れた作家で転向小説五部作(「第一章」「鈴木 都山 八十島」「村の家」「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」)は今でも読むに値すると思います。しかしこういうところがダメなんだと言いたくなる。「小熊の詩と詩集の運命とは、日本の人民の経て来た苦痛と運命とをさながらにうつしてゐる」と微妙に戦後の政治活動に利用している。それは小熊について盛んに書いた遠地輝武や岡本潤、壺井繁治、平野謙らも同様です。小熊は確かにプロレタリア詩人で社会主義革命に共鳴していましたがそれを戦後の政治活動に利用することは彼の詩を矮小化することにしかならない。
吉本隆明は磯田光一に「思想のためには死ねないな。子どものためなら死ねるけど」と言いました。思想的な節を折らず官憲に撲殺された小林多喜二は偉いのかもしれない。しかしやはり疑念が残る。生きのびて「己は今暫く世の成行を見てゐようと思ふ」(森鷗外『大塩平八郎』)といった選択もある。社会主義革命は夢のような社会をもたらさなかった。ベトナム戦争が共産主義の進出を止めるためにアメリカが起こした代理戦争だということを鵜呑みにする人は今ではいない。政治的イデオロギーはそれが厳しい現実とぶつかった時にしかその本質を現さない。理論は理論に過ぎないんだ。
小熊さんは思想のためには死ねなかったでしょうね。発表場所がなくても「しやべり捲く」ったと思う。実際そうした。また戦争になれば誰もが無傷ではいられない。生き残るための人々のエゴが剥き出しになる。国家が公然とした反体制を許すはずもなく多くの人はなんらかの形で戦争協力させられる。しかしどうしても譲れない人間の尊厳は残る。小熊の『心の城』です。それは従軍してお国のために奉仕した「荒地」派の詩人たちも同じ。戦前の彼らは確信的反戦・反体制ではなかった。戦争というどうしようもない巨大な世界の歪みに簡単に押し潰されそれでも失わなかった強固な個の尊厳が戦後詩の核になっている。
池上 先ほど紹介した「詩壇大歌舞伎春興行」のところでちょっと触れましたが、『小熊秀雄詩集』と長編叙事詩集『飛ぶ橇』を同時刊行した翌年の昭和十一年(一九三六年)に、小熊秀雄は新散文詩運動を展開していた北川冬彦を盛んに批判しています。北川冬彦の「新散文詩運動」というのは、小熊秀雄のような行分け口語自由詩は堕落している、これからの詩は民衆詩派の詩人のように歌う作品ではなく、緻密に構成されたいわば「目で読む」散文詩型でなければならないという主張です。例えば昭和四年(一九二九年)に刊行された北川冬彦の詩集『戰爭』に収載されている「絶望の歌」が新散文詩の代表作です。
がらんとした税関倉庫のつめたいコンクリートの上で、わたしは一人の男を介抱してゐる。この男は誰であるのか? わたしはそれを知らない。わたしの腕は、男の一本の脚の上で油のない歯車のやうな軋音をたててゐる。男の他の一本の脚はすでに堕ちて了つた。朝から夜中まで、夜中から朝までわたしはひつきりなしに、男の残つた一本の脚を撫でつづけてゐる。わたしは、何故この男を介抱しなければならないのか? 見知らぬ男を、屍のやうな見知らぬ男を。夜が更け月の光が燐のやうに流れても曇った硝子のやうな眼球をかすかに見開いて「絶望、絶望だ、絶望してゐなければ生きてはゐられない――」と呻きやめないこの見知らぬ男を。わたしには、判らない、判らない、判らない、判らない、判らない。
当時は実験的な作品だったわけですが、内容はともかくとして、このスタイルは田村隆一の戦後初期の詩篇やその後の現代詩にもつながっていると思います。現代詩の主流がもっぱら「目で読む」詩になった始まりとも言えるかもしれません。
北川冬彦は「語と語。句と句。行と行。これらががつちり結合される。煉瓦のやうに、セメントは強くきかせなければならぬ」「新しい詩の構成法がきびしく追求されれば追求されるほど、無闇に行をかえ、聯を切ることの心然性が失われてくる。そして外観は、散文と殆んど異らないものとなる。ここに真の自由詩への道の鍵が蔵われているのである」「『新散文詩運動』を『詩の散文化』と見るのは当らない。それは、あまりにも言葉の『音楽』を尊重しすぎた過去詩人の考え方である。(中略)日本の詩はすみやかに言葉の音楽には諦めをつけ、言葉の結合の生む『メカニズム』の力に、その本然の姿を見なければならぬ」(「新散文詩への道」)と主張しています。
一方、小熊秀雄は「日本のプロレタリア詩の発展がはばまれ、遅れた理由の一つは、北川冬彦君達の新散文詩型の運動が、われわれの行分け詩の運動の中に割り込み介在したからである。/抒情詩から行分けの叙事詩へ移る必然性を北川君達が見極めることができずに、散文的現実に屈服した結果として、ああした北川式な小説的な畸形児の詩の形式が生れたのである」(「叙事詩のつくり方」『新版・小熊秀雄全集 第三巻』)と批判しています。小熊秀雄の自由詩型というのは抒情詩ではなく、もっぱら叙事詩を念頭に置いているんですね。ここがちょっとわかりにくいところで、北川冬彦からすれば小熊秀雄のような口語行分け自由詩はルーズな自由詩に見えていたのだろうと思います。
この対立は、これからの自由詩を考える上で再検討に値する問題を含んでいると思うんです。ぼくの関心に引き付ければ、これは「書き言葉による詩」と「語り言葉による詩」の問題になります。田村隆一篇で詳しく論じましたが、『四千の日と夜』に収載された詩はまさに「書き言葉による詩」がほとんどです。それが中期から後期になるにつれ「語り言葉による詩」に変わったことで、表現の自由度がすごく広がるわけです。ぼくはこれからの自由詩の可能性は「語り言葉による詩」にあると思っているのですけれど、自由詩型について小熊秀雄はこんなことを言っています(「散文精神と韻文精神――韻文精神の優位に就いて」『新版・小熊秀雄全集 第三巻』)。
韻文は定型詩形の中でも成り立つことはできるが、詩形の枠が詩句の愚劣な繰り返しや、つまり押韻ばりの七五調へ復帰する位がをちである。自由詩型の中の自由は、詩人の認識に枠をもつものであつて、芸術形式に枠をもつのではない、尚且つ自由詩人の認識上の枠には、社会的な客観性をもつことがいちばん大切なことである、なぜ現代では自由な形式を与へられながら、尚且つ自由に歌ふことができないかといふ認識を百も承知の上でなければ、一見粗奔とも思はれ、デカダンとも思はれる自由詩型を採用することができないであらう。
「自由詩型の中の自由は、詩人の認識に枠をもつものあつて、芸術形式に枠をもつのではない」、つまり形式の問題じゃないと言っているわけです。しかし、詩法として考えると小熊秀雄の言う「枠」は、岩田宏篇で論じた「内的リズム」ということになるのではないでしょうか。

鶴山 そう思います。小熊の言う「枠」は「内的リズム」とも「書法」とも言い換えることができる。詩は原理的に自由詩で散文でも行分けでも定型、縦書き横書き小説のような物語でも成立します。一切制約がない。岩成達也が定義したように詩人がこれは詩であると提示して読者が詩であると認知すれば一瞬で詩は成立する。ただし詩の成立には一つの書法が対応していなければならない。この書法は詩人ごとに違います。書法は詩人の思想そのものだと言ってもいい。またこの書法は現代に対応していなければならない。これも岩成達也の定義ですが「一つの新しい世界把握には一つの新しい書法が対応する」。戦後詩や現代詩の書法はそのようなものでした。
今どうしようもなく詩が衰退しているのは戦後詩や現代詩が終焉したというよりも二〇世紀的芸術の在り方そのものが力を失い、詩人たちが二十一世紀の高度情報化社会に対応した新たな書法を見出せていないからです。この新たな書法を見出せない限り自由詩の復活はない。詩人たちの書法は個々の思い入れ以上のものではなく現代に対応した共通認識になり得ないからです。この書法を見出した者が詩人たちの共通認識としての実質的詩壇になる。共通認識が、軸がなければ詩人たちの努力が一定の方向性を持ってまとまる詩壇は成立しようがない。詩の商業誌や賞などが詩壇であるわけではない。詩人が詩壇を作る。
小熊さんの書法は喋り言葉に近い口語体ですから乱暴に見える。詩に形式美を求める詩人たちが反発したのは当然だと思います。しかし小熊の書法には思想がある。小熊の〝しやべり捲くれ書法〟はなんでも書くことができます。日常の些細な出来事から政治批判まで表現できる。形式美を表現することもできます。戦後詩では強固な自我意識を核として田村隆一が自在な書法に移行しました。しかし鮎川信夫を始めとする戦後詩人たちの書法はじょじょに苦しくなっていった。現代詩の詩人たちがほぼ自分たちの日常的喜怒哀楽を書くことができなかったのは言うまでもありません。小熊の書法は自在。学ぶべきものが多い。
■叙事詩について■
池上 あと、もう一つ大きな問題は「叙事詩」についてですね。いま日本の現代詩で「叙事詩」を挙げてみてと言われてもイメージが湧かないと思うんですけれど、小熊秀雄の第二詩集『飛ぶ橇』は「長篇叙事詩集」と銘打たれています。「序」で「叙事詩は、小説の面白さのもつてゐない、面白さ、良さがあり、感情的な高さに於いても、詩は散文の比ではありません。日本には古来から短い形式でなかなか完成された表現形式をもつて、俳句短歌などがあるだけにこの根強い短詩形の伝統をうち破るといふ叙事詩の仕事は形式が長いだけそれだけ長さの量を質的に充実させてゆくといふ企ては一層仕事の困難さを伝へます。僕はいま日本に叙事詩が生まれなければならない現実的な環境と必然性とを考へ当分この長詩の形式を追求していきたい考へです」と書いています(新版・小熊秀雄全集 第三巻)。
『飛ぶ橇』には七篇の長篇叙事詩が収録されていて、中でも「――アイヌ民族の為めに――」というサブタイトルのある表題作「飛ぶ橇」が有名です。24章から成る長詩で、こう始まります(引用は岩波文庫版『小熊秀雄詩集』に拠る)。
1
冬が襲つて来た、
他人に不意に平手で
激しく、頬を打たれたときのやうに、
しばらくは呆然と
自然も人間も佇んでゐた。
褐色の地肌は一晩のうちに
純白な雪をもつて、掩ひ隠され
鳥達はあわただしく空を往復し、
屋根の上の烏は赤い片脚で雪の上に
冷めたさうな身振りでとまつてゐた、
そして片足をせはしく
羽の間に、入れたり出したりしてゐる。
きのふまでの樹の葉はしきりに散りつづけ、
寒い風は、海から這ひあがり、
二十数戸の小さな漁村の
隅から隅まで邪険な親切さで
――わしはもう明日から秋の風ではないよ
わしは明日から冬の風だよ、
とふれ廻った、
村の人々は風の声を聴いた、
街の祭日が終つて、
見世物小屋の大天幕を取り片づける時のやうに
華やかさの後に来る、寂寥さをもつて
めいめいが河岸へ降りてゆく
積まれた焚木の上に厚いムシロをかけたり、
村の背後の林の中から
細い丸太ん棒を引きずりだしてきたり、
自分の小屋の倒れかけた壁へ
その丸太をもつて倒れないやうに支へをつくる、
子供の習字の紙を小さく切つて、
部屋や、物置小屋の窓といふ窓へ目貼りをして
風と雪との侵入に備へた。
この作品は樺太(サハリン)の小さな村に住むアイヌの権太郎と若い山林検査官(山林官)の交流を描いた物語的な長篇詩ですが、前半の4章にはこんな詩行があります。
北海道へ出稼ぎに行つたアイヌ人の
イクバシュイ日本名で『四辻権太郎』
村へ帰ると彼の様子が変わつてゐた
彼は人々の前に突立ち
どこかに隠してゐたアイヌ人の
民族的な激情性をぶちまけて
――シャモ(和人)たち、
彼はさう叫んで節くれ立つた握り拳で
かなしげに鼻の頭を横なぐりにこすり、
――シャモ、おら社会民衆党に入つたテ、
アイヌ、アイヌて馬鹿にするな、
アイヌも団結すれば強いテ、
人々はどつと声を合して笑つた
権太郎の本名はイクバシュイなのですが、この詩の中では権太郎という日本名で書かれています。小熊秀雄は少年時代に樺太で暮らしたことがあったから、この詩にはその時の経験が反映されているのでしょうね。村に入った若い山林検査官は旧知の権太郎の小屋を訪ねます。
10
若い山林官とアイヌとは炉を挟んで
さまざまな世間話を始める
権太郎の息子が町の酌婦と駈落ちをしてしまつた話
そして息子は女に捨てられて
北海道の或る都市の活動写真館の
楽手になつてラッパを吹いてゐるといふ話
話し終ると権太郎は
――ほんとに餓鬼は、旦那、アイヌの面汚しだて、とつけ加へる
――権太郎、まあ息子は楽手になつたんだから出世したと思へ
と云へば彼はうんとうなづく
アイヌの父は社民党の演説をきいて
ついフラフラと単純に加盟し、
息子は街へでゝ映写幕の前の
暗いボックスの中でクラリオネットをふく、
すべて和人なみになつたことは
二人にとつて出世であり誇りにちがひない。
ただアイヌの仲間が死に、村を去り、
住居を孤立させられ、………………、
同時に山にはだんだんと熊の数が
少なくなつてくるといふことが
最大の彼等の悲しみであつた、
そしてアイヌ達は…………………
山の奥へ奥へと、林の奥へ、奥へと、
撒きちらすために入つてゆく。
山林官は権太郎の小屋に泊まっていましたが、ある時、夜中に雪崩が村を襲い、権太郎の小屋も押し潰され、山林官は屋根の梁に左手首を挟まれてしまいます。火事が迫って来るのに梁は重くて動かせないので、権太郎はある決意をします(22章)。
武器をもつてゐなかつたアイヌが
熊に嚙みつかれた瞬間
熊の舌を摑んで手離さなかつた
遂に武器なしに熊を倒した話がある。
真の勇気とは
何時も直截な手段を選ぶものだ、
権太郎は自分の帯をほどいて
山林官の腕をかたくしばりだした
傍の鋸をみつけると
梁を伐るのではなく、
山林官の二の腕に鋸をぴたりとあてた。
――シャモ、がまんしれよ、
――シャモ、がまんしれよ、
暗から聞えるのは
人間の骨を切るゴシゴシという鋸の声
山林官の苦痛の悲鳴にもまして
『我慢しれよ』の権太郎の
繰りかへしの言葉は
悲鳴を帯びてゐた、
そして血に塗れた鋸と
山林官の腕を梁にのこして
山林官の体は地上に運びだされた。
そして権太郎は樺太犬のリーダー太郎を呼び寄せると、十二頭の犬を集めさせ橇を付けます。最終章は、こうです。
24
権太郎はその時倒れた犬小屋から
橇を曳きだしてきて
山林官の体をその上に横たへ、
犬たちの首輪を海豹製の
引綱にそれぞれつなぎ
すべての準備が終つたとき、
先頭犬太郎を最後に綱につけ、
己れも橇にまたがつた。
皮の鞭をビューと空にふると
犬達は一斉にひきだした、
犬は矢のやうに
海岸に添つて走りだした、
トウ、トウ、トウ、トウと絶えず叫び
アイヌは橇の上で
犬達を適宜に激励し、勇気づけ、
橇は十里の路を隣り村まで
負傷者の手当と救援を求めるためにとんでゆく、
二度三度この軽快は橇は
雪の上に転覆した、
すると犬達はピタリと停まる、
先頭犬はたえず神経を昂揚させ
驚ろくべき神経の緻密さを示しながら
主人の意志を正しく
犬たちに伝へる、
アイヌは犬の訓練の
技術のありつたけを傾け
負傷者の苦悶の声をのせて
橇は海伝ひに雪明りの路を飛んでゆく。
すばらしい詩ですよね。アイヌ民族の英雄譚として叙事詩の条件を備えています。こういう叙事詩が昭和初期の日本で書かれたのは驚きです。岩波文庫版『小熊秀雄詩集』の「編者あとがき」で、岩田宏は小熊秀雄の長篇詩を高く評価しています。
Ⅴ(註:岩波文庫『小熊秀雄詩集』の章立て)は、昭和十年に出た長編叙事詩集「飛ぶ橇」からの四篇と、その後に書かれた長詩からの二篇である。これらの長詩の主人公たちは日本のルンペン、中国の兵士、ソビエトからの亡命者、アイヌ人、朝鮮の老婆、ロシアのテロリストである。前のセクションで小熊が否定する者への叱咤や反論や説得や激励を打ち出していたとすれば、ここでは小熊のほとんど全面的で熱烈な共感が語られている。単に昭和十年代の思想や感情を披瀝しただけではなく、人間的な熱気によって時代に逆らいつつ時代を越えて生きた詩人の、これは最高の作品群であろう。愛読したと言われるプーシキンやネクラーソフやマヤコフスキーの影響は、小熊の野太い肉声の蔭に隠されてあまり目立たない。「小説の苦手な小熊は或る日こんなことを言いました。『日本の浄瑠璃は叙事詩だ』と」(夫人の回想記より)。
ぼくはこの十数年、文楽に凝って大阪の国立文楽劇場まで通ったりしているうちに、日本の文芸の本流は語り物だと考えるようになりました。これは現在もそうだし、これからもそうだと思っているんです。小熊秀雄の『日本の浄瑠璃は叙事詩だ』という指摘はとても鋭いし、重要ですよね。
鶴山 重要です。小熊は本当に勘がいいね。「飛ぶ橇」について言えば小熊さんは少年時代に樺太で雑役に従事しており旭川では新聞記者をしていたので実際にアイヌと交流があったんでしょうね。樺太にも旭川にも多くのアイヌが居住していましたから。誰とでもすぐに仲良くなれる人だったからアイヌの友人もいたんじゃないかな。
小熊は〝叙事詩〟と言っている。単に長い詩のことではない。明治維新以降にヨーロッパ詩(正確にはギリシャを含む東方詩)が入ってくると抒情詩・叙事詩論争が起こりました。ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ウェルギリウス『アエネーイス』、ダンテ『神曲』、ミルトン『失楽園』などに相当する日本の叙事詩はあるのかという論争です。『古事記』や『平家物語』などを挙げる人もいましたが結論を言えば存在しないと言っていいと思います。理由は簡単でギリシャ・ヨーロッパ叙事詩には神――人格神で人間がその審級を仮想できる――を頂点とするピラミッド型の〝構造〟があるのに対し日本の歌謡・物語的詩にはないからです。
北原白秋までの文語詩は短歌的五七・七五調と抒情を引きずっていましたが萩原朔太郎以降の口語自由詩はそれと切れました(完全ではないですが)。ただ短歌や俳句とは違う形で私の思想や感情を表現する短い詩が多かった。それを乱暴に広義の抒情詩と呼ぶとすると天から地上を俯瞰するような視線である人間の冒険や遍歴、歴史と文化の変遷などを表現する叙事詩はほとんど作られなかった。しかし小熊さんはそれをやろうとした。
短詩集『小熊秀雄詩集』と長篇叙事詩集『飛ぶ橇』を第一、第二詩集として同時刊行したわけですから小熊の叙事詩はたまさかの思いつきではありません。早世しなければ抒情詩と叙事詩を平行して刊行していったと思います。自由詩は明治維新以降の日本文学における前衛文学でありそれがアイデンティティだと何度も言って来ましたが小熊さんは「根強い短詩形の伝統をうち破るといふ叙事詩の仕事」を為そうとした前衛詩人です。僕は『飛ぶ橇』を「最高の作品群」だとは思いませんが続けていれば金脈を見つけた可能性はあると思います。
意図して書かれた日本独自の叙事詩の成功作は本当に少ない。まず思い浮かぶのは西脇順三郎『失われた時』一五〇〇行と『壤歌』二〇〇〇行です。西脇さんは朔太郎と並ぶ日本の詩の基礎を固めた偉大な詩人ですが『失われた時』と『壤歌』は本当に優れた仕事です。彼は真の前衛詩人だった。
最近では小原眞紀子さんが『メアリアンとマックイン』で一四〇三行の叙事詩を書いた。僕も――別に小熊さんに倣ったわけではないですが抒情詩集『おこりんぼうの王様』と長篇叙事詩『聖遠耳』二一七三行を同時刊行しました。僕の意図は小熊さんとほぼ同じです。日本の詩では完全には達成されていない叙事詩を書きたかった。小熊さんはマヤコフスキーの長詩を参考にしたと思いますが僕はエズラ・パウンド『詩篇』を規範にした。しかし欧米叙事詩とは質が違う。西脇も小原、小熊さんも僕の叙事詩もそうです。
北園克衛は西脇の詩を「牛の涎のようだ」と批判しました。西脇へのライバル心の棘を除けばこれは当たっている。要するに構造がないということです。僕の叙事詩は西脇『壤歌』をわずかに越えて二一七三行になりましたが日本語で叙事詩を書くと二〇〇〇行くらいが限界になる。パウンド『詩篇』二万七千行、ハーマン・メルヴィル『クラレル』一万八千行には遠く及ばない。数えていないですが小熊さんの叙事詩はもっと短くてせいぜい三、四〇〇行くらいだと思います。日本語(日本文化内)で叙事詩を書くと二〇〇〇行が一つの壁になる。これは書いてみれば分かります。
日本語で叙事詩を書こうとする者はまず欧米詩のような構造を探すと思います。しかし断言しますが絶対に見つからない。詩だけではありません。日本の純文学小説は私小説で本来三〇枚からせいぜい一〇〇枚くらいの短編だった。純文学小説の衰退というか堕落は出版社が芥川賞を受賞した私小説系小説をそのまま一冊の本にして出版しようとしたところから始まっていると言っていいところがある。
ハードコアな私小説を長くすることはできないんです。やれば混ぜ物だらけの恐ろしく退屈な小説になってしまう。長篇小説は当然エンタメになります。ただエンタメ小説の構造は胸躍る起承転結であり日本文学の本質としての〝純文学〟から離れてしまう。エンタメの面白さは小説独自のものではないので当然ですね。古井由吉さんがエッセイズムを提唱して私小説的長篇小説を書こうとしましたが成功したとは言えない。彼の長篇はムージル『特性のない男』などを参考にしていると思いますがあれはポストモダン小説です。消えかかった神性が全体を統御している。死にそうで死なない衰弱では限界がある。では詩でも小説でも短くまとまってしまう日本の純文学――最も純粋な日本文学――を長篇にするための突破点はどこにあるのか。
小熊さんの『日本の浄瑠璃は叙事詩だ』という言葉は大変示唆的です。人形浄瑠璃の語りは決して抽象観念に飛躍しませんから。池上さんは人形浄瑠璃にお詳しいですが台本はメチャクチャですね。大団円はありますがそこに至り着くまでに迷子になりそうになる。関係ないような挿話的物語が始まりなんのこっちゃと思っていると突然本筋に繋がる。盛り上がりは口説き。いつまでやるんだいと見ているとつい引き込まれて泣いたりする(笑)。長々とした掻き口説きがなぜ生じるのかと言えば救済がないからです。もちろん心中などの死が待っているわけですがそれは救済ではない。とりあえずの終わりに過ぎません。能楽と同じです。
人形浄瑠璃や能楽では死や成仏が物語の大団円ですが本当のクライマックスは口説きにある。現世の逃れがたいしがらみや妄執の極みにしか救済はないということです。観客は死んでしまったはずの登場人物たちが生き返り現世の苦しみを永遠に繰り返すのを見に来る。それがカタストロフ。まだるっこしい言い方になりますがこの構造とは言えないような構造を構造化し、相対化して上位審級から把握できれば日本の純文学を長篇にできる可能性がある。仏教的ですが救済のない現世の物語で枝葉の挿話を含む『源氏物語』も近しいものがある。
その現代文学の一例は唐十郎の戯曲でしょうね。唐戯曲は〝こんがらがったアリアドネの糸〟です。大勢の登場人物が舞台に現れ突然本筋とは関係のない劇中劇が始まる。そのいくつかは途中で糸が切れてしまい本筋につながらない。しかし必ず一本あるいは数本の糸がクライマックスに導いてくれる。日本を含む東アジア文化は本来的にポストモダンです。フーコーが狂喜したボルヘスの『シナのある百科事典』のようにすべてを含みながらセリーはない。意識的に為されたとも傑作揃いとも言い難いですが唐戯曲は参考になる。
小熊さんは『飛ぶ橇』以外にも長篇詩を書いています。「長篇叙事詩 魔女」や「きのふは風けふは晴天(抒情詩劇)」は戯曲に近い。最も長い「託児所をつくれ」はシェイクスピア『から騒ぎ』のようなファルスだな。作品ごとに様々な書き方を試している。いつか独自の日本的叙事詩の書法に達したでしょうね。つね子夫人は小熊は小説が苦手だったと書いていますが小熊の意図は「現代小説は」という意味だと思います。優れた童話や戯曲的長詩を書き残していますから彼はモノ・カタリの本質を理解していた。物語の初源は詩です。小説がそれを専売特許にしただけのこと。自由詩の申し子の小熊は躊躇なくそれを詩に取り戻した。それでじゅうぶんで型にはまった現代小説を書く必要を認めなかったんでしょうね。

■『心の城』について■
池上 宮沢賢治が亡くなったのは一九三三年(昭和八年)ですけれど、中原中也は一九三七年(昭和十二年)、立原道造は一九三九年(昭和十四年)に亡くなっています。小熊秀雄は一九四〇年(昭和十五年)、つまり太平洋戦争が始まる前年に亡くなってるんですよね。もし彼らがもう少し生きて太平洋戦争を経験していたら、どのように身を処してどんな詩を書いたのだろうかと時々思うんですけどね。みんな若くして亡くなっているからずいぶん昔の詩人のように錯覚しちゃうけど、長生きしていたら、ぼくらが高校生ぐらいまでは生きていたかもしれないんです。立原道造と石原吉郎は一歳しか違わないわけだから、戦後詩人になっていたかもしれないですし。
鶴山 中原さんは優しい抒情詩が代表作だけど実生活は血気盛んだったからねぇ。盟友・小林秀雄の太平洋戦争中の言動を見てもなんらかの形で戦争協力した可能性は高いだろうな。宮澤賢治は浮世離れした人でしたがちょっと常軌を逸した法華経信者で国柱会に入信していた。国柱会は戦中に八紘一宇のスローガンを生み出した教団でね。満州事変を主導した石原莞爾も信徒でした。当時は農村が国家の礎だから危うさが漂うね。ただ戦中に戦争協力したかどうかは決定的問題ではない。生涯を通して思想的一貫性があるかどうかです。
デモシカを言えば戦中だったらコイツ、絶対文学報国会とかに入って威張ってただろうなって詩人、すぐに何人か思い浮かぶよ(笑)。そういう詩人は力を持っている組織や有力者に臆面もなく媚びる。今、力を持っていて利用できるのならどこでも、誰でもいいんだよ。そうかといって声高に政府批判を繰り返している有名文学者もあまり信用できない。平和時の反体制ってたいてい愛国者だから、いったん事が起こって同胞が無惨に殺され始めればあっけなく揺れ始めるだろうね。官邸に呼ばれて「どうぞご協力を」と雲の上の偉いさんに頭を下げられたら簡単に転ぶさ。
小熊さんは瀧口修造みたいにどうしても逃げられなくて強制的に翼賛詩を書かされたかもしれないけど、積極的に戦争協力することはなかったでしょうね。
私は地獄に陥ちたのだと
人々に噂されてゐる
ほんとうだ私は救い難い奴だ、
救い難いところへもグングン這入りこむ
私は乱暴で、奇怪な、感情をもつてゐる
私はそしてあらあらしい風のやうな呼吸をする。
だが、さまよふ私の心は誰も知らない
私は野原を行くが、
自然の野の中に、もうひとつ私の野をもつてゐる、
私は町をあるくが、
人々の町の外に、もうひとつ私の町をもつてゐる、
あゝ、地球の中にもうひとつの私の地球をもつてゐる、
人々は私の孤独を、私の地獄と呼んでゐる
近よりがたい敬遠と
引き離された距離にわたしは立つてゐる、
人々は私を悪魔のやうに嫌がる
地球の中に地球がある、
人々の愛の中にではなく、
人々の愛の外に、私の愛がある、
『心の城』所収の「地球の中にもう一つ私の地球がある」です。この詩は『心の城』というタイトルをよく表現しています。小熊の代表作の一つでもある。「自然の野の中に、もうひとつ私の野をもつてゐる、」「地球の中にもうひとつの私の地球をもつてゐる、」という表現は絵画的です。具体的な描写はありませんが言語が現実から別の審級に読者をつれていってくれる。
また『心の城』という詩集では句読点が非常に繊細に使われています。この詩は読点(、)で終わっている。言い切れていない。続きがあるということですがその続きはもはや書けない。追いつめられていますね。この世に居場所がないわけですがそれでも「人々の愛の外に、私の愛がある、」。そんな人間と社会への愛だけが残った。不定型の〝しやべり捲くれ書法〟の詩人ですがこの詩は定型詩に近い美しさを持っています。
時代背景を考えれば「地球の中にもう一つ私の地球がある」は言論統制が厳しくなり沈黙してゆく小熊さんの心情が表現された詩だと読むことができます。実際死去の年に「かつてあのように強く語った私が、勇敢と力を失ってしだいに沈黙勝ちになろうとしている。私は生れながらの啞ではなかったのをむしろ不幸に思いだしたもう人間の姿も嫌になった」と書いた。ただそんな時代背景とは別にこの詩は小熊秀雄という詩人の強い矜持が表現された詩だと読むこともできます。
小熊は頭が高い詩人だと言いました。作品をちゃんと読めばわかりますが自由自在に詩を書き、当時誰も書こうとしなかった長篇叙事詩を手がけた小熊の詩人の能力は非常に高い。〝頭が高い〟というのは同時代の詩人に比べて自分の方が優れているという矜持です。それは創作者を孤独にする。〝表現者として高い位置にいる俺の仕事を低い位置にいる奴らが理解できるはずがない〟ということです。小熊の仕事が本当にそうなのかは議論があるでしょうがこういった矜持は創作者に必須だと思います。
「日本の詩の原理」も今回が最後なので余計なことを言いますが、冗談ではなく、今の詩のレベルは明治維新以降で最低のレベルにあると思います(笑)。頭の悪い中高生が教科書の余白に走り書きするような低レベルの詩が溢れている。しかし戦後詩や現代詩などの詩の言語的高みを知っている詩人たちは沈黙している。この愚劣な状態を肯定している。だけど文学の世界では必ず誰かが現れてちゃぶ台をひっくり返す。僕が二〇世紀的文学パラライムが失われた一九八〇年代後半から現在に至る詩人の作品は将来全部消え去る可能性があると言っているのはそれゆえです。二十一世紀に対応した新たな詩の書法を見出した者が現在の堕落に終止符を打つでしょうね。現状は必ず変わる。詩に関する高い矜持を持った者が変えると思う。
萩野 僕は十代で戦後詩や現代詩に出会い、読んで来た世代です。その表現がどんな必然性をもって紡がれ、何を意味しているのか肌で理解できるところがある。でもいまの若い人たちにはその感覚がわからないんじゃないかな。そもそもいま、詩を読んでいる人がどのくらいいるんだろうか、と危惧します。谷川俊太郎を読んでる人はいても、その前はいきなり萩原朔太郎まで遡ったりしてないか。あるいはパウル・ツェランとか海外の詩に飛んだりしてないか。そういう意味では「日本の詩の原理」は戦後詩や現代詩に馴染みのない人たちに、こういう詩があるんだ、いや詩ってのはこういうものなんだよ、こんな表現も可能なんだよと、具体的に気づきを与えてくれる、その一点を取っても意義のある試みだと思います。
ただ一方で、詩をずっと読んだり書いたりしてきた熱心な人たちは、いま行きづまりを感じているかもしれません。うんと行きづまったほうがいい。その中から鶴山さんの言われた「ちゃぶ台返し」ですか、閉塞した状況をひっくり返すような詩人がきっとあらわれると僕も思いますね。これは詩とか文学の世界に限った話じゃなくて、哲学や思想、他の学芸の世界だってそうだと思うんですよね。
西洋哲学はプラトン、アリストテレスを頂点としたギリシャ哲学から始まっています。それがイスラーム世界を経由して中世ヨーロッパに伝播すると、キリスト教世界と合流して、近代にかけて「ちゃぶ台返し」をくり返しながら西洋哲学が大きく華開いた。とりわけカントとヘーゲルが世界を包括的に説明するような哲学思想を生み出しました。それをひっくり返したって言われるのがマルクスで、二度の世界大戦を経る中でマルクス主義全盛時代に入るわけです。けれどそれも一九七〇年代をピークに下火になっていく。八九年のベルリンの壁の崩壊はその意味でも象徴的な出来事でした。一方、とりわけ戦後の荒廃した社会の中で人びとの心をつかんだ思想がハイデガーやサルトルの実存主義です。ハイデガーのナチス協力問題っていうのも他方にはありましたけどね。で七〇年代に入ると、学生運動のうねりとともに構造主義がフランスを中心に急速に台頭しましたが、いわゆる政治の季節が終わり、八〇年代を迎えて欧米と日本で経済が成長から成熟の時代に入ると、同期するようにポストモダニズム思想が流行りました。これらはみなそれぞれ「ちゃぶ台返し」の思想と思われるかもしれません。けれど、たんなる流行思想などでなく、哲学の世界で真の「ちゃぶ台返し」を行ったのがウィトゲンシュタインという超弩級の天才です。かれの哲学は主に英米系の哲学にはかり知れない影響を与えましたが、どんな意味で「ちゃぶ台返し」だったのかを正しく見積もれるようになるには、日本では戦後しばらくして直接かれの著作を読んだり、英米系の分析哲学を本格的に学んだりする人があらわれてからです。プリンストン大学に在籍したこともある江藤淳は、さすがに早くからかれの名を知っていましたね。ウィトゲンシュタインや分析哲学の影響というより、自身の力で屹立して、自らの哲学を実践した先達が大森荘蔵です。その意味では戦前の西田幾多郎や僕が論じた九鬼周造のような人もそうですね。そこからさらに世界の水準に伍すような、いやそんな比較なんて意味ないよと言えるような域に、いまの日本の哲学は達していると思います。文学もせっかくそこからインスピレーションを得られると思うのに、交流はあまりないよね。とはいえ哲学の世界ではいまや「ちゃぶ台返し」しようにも、「主流」と言えるものがないという状況かもしれません。すくなくともかつてのヘーゲルやマルクス主義のように、世界を一手に収めるような体系性をもった思想は、二度とあらわれないかもしれない。あらわれたからどうだっての、という反問もありますね。ただそういう状況って文学もそうだし、ジャンルを越えて似ているように思えるのがふしぎです。そして閉塞すれば必ず「ちゃぶ台返し」をする哲学や思想が出てくるものです。詩の世界もね。だからいたずらに絶望するのも、歩みを止めてしまうのもいけないってことですね。この「日本の詩の原理」のような地道な試みがやはり大切だというのが、僕の結論ですかね。

池上 いま短歌ブームですけれど、「五・七・五・七・七」のリズムの魅力というか魔力は強力で、どんなに前衛的な表現をしても、この伝統的なリズムは揺るぎません。自分の作品は千年経っても残ると内心思っている歌人は結構いるんじゃないでしょうか。和歌は千年以上残って来たわけだからね。だけど自分の書いている詩が千年残ると自信を持っている詩人はまずいないでしょう(笑)。
鮎川信夫や田村隆一には短歌や俳句に潜む無意識のナショナル・アイデンティティとは切れた表現で詩を書くという明確な意志があったと思います。短歌や俳句では絶対に表現できないことを表現できなければ自由詩が存在する意味はありません。伝統的な定型詩では絶対に表現できないことが何なのかを考えるところから出発するしかない。単に詩法の問題じゃないんです。小熊秀雄が言ったように「自由詩型の中の自由は、詩人の認識に枠をもつものであつて、芸術形式に枠をもつのではない、尚且つ自由詩人の認識上の枠には、社会的な客観性をもつことがいちばん大切なこと」なんです。いま忘れ去られようとしている戦後詩人たちの詩を読んでほしくてこの対話を続けて来たわけですけれど、そのことは改めて強調しておきたいと思います。
鶴山 人間の能力の根幹は言語です。科学・経済・建築・美術などあらゆるジャンルの思考で言語が使われる。全ジャンルで言語を使って創造が行われているわけで言語がなければ人間と呼ばれる存在は消滅します。ただ世界中に様々な言語がありますが言語とは日常言語のことです。哲学や文学批評の文脈でメタ言語――日常言語を越えた審級にある言語――という用語を使ったりしますがメタ言語は実在しない。すべては日常言語で思考されそれを超えたわずかな部分をメタ言語と呼んでいるに過ぎない。この非在のメタ言語審級は大変重要です。文学で言えば詩がその試みを最も大胆に行えるジャンルです。
日本文学において自由詩は前衛の役割を担っていると言って来ましたがそれは世界中の詩に当てはまります。詩は日常言語を使って日常言語を超えようとする無謀な試みだからです。悲しい嬉しいでは足りない。その究極を言語を使って抉り出そうとする。人間の感情だけではありません。たった一人の詩人の力で同時代の世界把握を為そうともする。叙事詩はそういった試みです。なぜ長詩(叙事詩)なのかと言えば短詩ではできない世界把握を試みているからです。日本文学で言えばこれは短歌・俳句には不可能です。AIにもできないでしょうね。AIが既知を使って新たな創造を行うようになる日は近いと思いますが間違いなく詩人ほどの無謀さは持ちようがない。狂気と紙一重ですから。「日本の詩の原理」で取り上げた何人かの詩人はそういった狂気に憑かれていた。
詩における無謀な指向(前衛試行)は当然言葉(日常言語)を極端な形で使うことを促します。個々の言葉は日常言語なのに総体的に詩が非常に難解になるのはそのためです。この難解性には必ず理由がある。理由がない難解性は単に詩人がその浅い思考や感情を容易に読み解かれてしまわないよう武装している表層的修辞に過ぎない。だから優れた詩はパズルのように限界まで読み解かなければならない。またある程度まで必ず読み解ける。「日本の詩の原理」で行って来たのはそういう読解です。この読解法は今現在書かれている詩はもちろん未来の詩にも適用される。
日常言語を使って詩作品全体が上位審級の観念を示唆する。それが詩の優劣を決める。詩のパブリックイメージは茫漠と読んで感動すればいいというものです。しかし詩は絶対に雰囲気で読み解いてはならない。一字一句厳密に読む。詩では批評が非常に重要です。
私の楽器の調子は
半生は満足するほど敗けたから
残りの半生を満腹するほど勝ちたい
ふるさとでの少年時代は
一日中、草の葉のゆれるのをみて暮した、
人間はなんにも語つてくれなかつた
波が終日私にさゝやいた
淋しい生活ををくつた
私がこんなに多弁な理由がわかるだらう
愛にも飢えてゐたから
いや愛するといふ方法を知らなかつた
私は復讐戦にはいりたい
敗北者たちの泣ごとは
私の周囲に鳴る鈴のやうに
快感を覚えても決して苦痛ではない
智識がどんなに私にとつてワナであつたか
学問がどんなに私の足を挟んで
前に倒したか
私はそれを知つてゐる
私の望んでゐたもの――、
それはどんなに無内容にみえても
新しい現実の基礎となるものを求めた
他人が私の詩を無内容だとか、
単純だとかいつて批難してきた、
それらの批難者も、詩人も、批評家も
いまは一人も影を見せない、
私の詩は将に詩ではない
殊にあの人達の理解の中での
詩であつてはたまらない
私の陽気も、強情も、
私の快活も、多弁も、
もつとも低級な意味で
本質的であればと思ふばかりだ、
私は待つてゐる
古い人間ではない
古い智識や、古い学問ではない
待つてゐるのは新しい人だ
私は確信をもつて歌ひ
生活をつづける
私の詩は新しい人に理解されるだらう。
泣虫共はただ一瞬の流れの上の
木の葉のやうに過ぎるだらう
私の楽器は
古い人達の楽器とは調子が合はない、
小熊さんの「私の楽器の調子は」という詩は平明でありながら難解です。一行目の「半生は満足するほど敗けたから」から「学問がどんなに私の足を挟んで/前に倒したか/私はそれを知つてゐる」までは彼の少年時代の回想で実感叙述です。しかし「私の望んでゐたもの――、」から表現の審級が変わる。抒情詩が叙事詩に変わる機微を示していると言ってもいい。
少年時代の淋しさや弱者への共感は脱ぎ捨てられ「新しい人」に、新しい世界把握の詩に生まれ変わろうとしている。もちろんそれがこの詩で十全に表現されているわけではありません。しかし日常(言語)がメタ審級にふわりと上昇する機微をよく表している。詩は日常言語を使って日常言語を超えようとする表現だと言っても常に超難解な形を取るわけではない。
小熊さんの詩は朗読しやすいですが本質的には緻密に計算された文章体です。行切りや句読点の使い方を腑に落ちるまで読解しなければ何を表現しようとしているのかわからない。それは小熊さん以外の優れた詩も同じ。ハッキリ言えば優れた詩人の姿を見て声を聞くという以外に朗読会の意味はない。これ以上言うとさらに多くの詩人たちを敵に回すことになるのでやめます(笑)。小熊さんは別に僕の最愛の詩人ではないですがどうしようもなく惹かれるところがある。僕も「古い人達の楽器とは調子が合はない、」。
(金魚屋スタジオにて収録 後編 最終回 了)
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