自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家。編集者として医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の制作に携わる。著書に、文学金魚で連載した「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」に書き下ろしを加えた『ザ・バンド 来たるべきロック』(左右社)。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
萩野篤人(はぎの あつひと)
一九六一年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。批評家、小説家。IT関係会社に在職中から執筆活動を続け、二〇二三年、相模原障害者殺傷事件をテーマにした評論『アブラハムの末裔』で第一四回金魚屋新人賞を受賞。論考『モーツァルトの声・裏声で応える小林秀雄』『九鬼周造と偶然性をめぐって』、小説『春の墓標』など。
■自由詩におけるロシア詩の影響■
鶴山 「日本の詩の原理」も今回の岩田宏篇と次回の小熊秀雄篇で終わりです。岩田さんは微妙ですが小熊さんは左翼系プロレタリア詩人です。なので今回は吉本隆明篇に参加していただいた、思想に詳しい萩野篤人さんに再び加わっていただいています。まず岩田さんですが詩の仕事は『岩田宏詩集成』(平成二十六年[二〇一四年])にまとめられている。が、略歴は「現代詩文庫」裏表紙の簡単なものしか見つからなかった。
池上 『現代詩大系⑦』(昭和四十二年[一九六七年])に自筆略歴が掲載されていますよ。ちょっと長いですが引用します。
岩田宏(いわた・ひろし)一九三二年二月北海道虻田郡東倶知安村ワッカタサップ番外地で生まれた。番外地といっても刑務所ではない。羊蹄山の裾野の寒駅の鉄道職員のための官舎。父親は岩手の農村に生まれ幼い頃両親とともに北海道へ渡った人。母親の祖先は奈良県十津川の郷士で北海道の新十津川へ渡ってきた人たちだそうだ。
昭和十三年、一家は東京へ移転した。大森区馬込町東四丁目三十番地。馬込第一小学校から馬込第三小学校へ移った。東洋音楽学校の秋月先生の自宅(大森山王)でピアノを習った。昭和十九年、都立第八中学校に入学し天文班に入った。昭和二十四年四月、父親の遠縁を頼って岩手県和賀郡二子村字小鳥崎(現北上市内)に疎開し、黒沢尻中学校に転校した。二十一年冬から二十二年夏頃まで黒沢尻町のアマチュア楽団「ふるさと会」に参加した。二十三年、旧制の府立高等学校理科に入った。翌年、新制の東京外国語大学ロシア語科に入学し、演劇部に入った。一九五二年、彰考書院から「マヤコスフキイ詩集」を出した。その年か、あるいは翌年、数カ月間、劇団「七曜会」の研究生だった。五四年、「詩学」に作品を投稿し始めた。五五年、青木書店編集部に勤務した。翌年、書肆ユリイカから最初の詩集「独裁」とプレヴェールの訳詩集を出した。五七年、ハヤカワ・ミステリの翻訳を始めた。以後、詩集「いやな唄」「頭脳の戦争」「グアンタナモ」。詩誌「今日」「鰐」「現代詩」などに所属した。今は何にも所属していない。気楽なもんだ。
岩田宏は詩だけではなく小説を何作も書いていますが、本名の〝小笠原豊樹〟名義で翻訳した作品はすごくたくさんあって、レイ・ブラッドベリやロス・マクドナルドなんかの翻訳家として知られているんじゃないかと思います。ロシア語のほか、フランス語、英語にも堪能でした。詩のほうで言えば、ロシア未来派の詩人マヤコフスキーの作品はほとんど翻訳しています。評論も書いていて、マヤコフスキーについては第一人者と言っていいでしょうね。今回は鶴山さんのご提案で岩田宏と小熊秀雄を取り上げるわけですけれど、小熊秀雄もマヤコフスキーにすごく影響を受けていますし、岩波文庫の『小熊秀雄詩集』は岩田宏編なんですよね。
鶴山 ああそんな年譜があるんですね。「今は何にも所属していない。気楽なもんだ」と書いていますから『現代詩大系⑦』に自筆略歴を書いた昭和四十二年(一九六七年)には同人詩誌を始めとする文学集団に所属するのがイヤになっていたんでしょうね。
同人詩誌は同世代が集まって刊行することが多いので自ずと詩人たちの世代区分になっています。太平洋戦争が挟まるので旺盛に活動し始めたのは一九五〇年代ですが「荒地」派は従軍詩人が多く実質的に四〇年代詩人の詩誌だった。五〇年代を代表するのは「今日」「鰐」「櫂」といった詩誌です。「鰐」は大岡信、飯島耕一、吉岡実、岩田宏、清岡卓行さんの五人が同人で吉岡さんを除けば終戦時に中高生の戦中派で勤労奉仕世代でした。
「鰐」全十冊は吉岡さんからお借りして通読したことがありますが僕が持っているのは第6号だけです。わずか十六ページの薄い雑誌で印刷製本は伊達得夫さんの第一次ユリイカに委託していた。当初は月刊で刊行されていました。一九五〇年代から六〇年代の詩誌の多くは非常に刊行ペースが早かった。矢継ぎ早に雑誌が出ていて詩集も二十代前半で刊行した詩人がほとんどです。

同人詩誌「鰐」第6号表紙 昭和三十五年(一九六〇年)二月十日発行 書肆ユリイカ発行 鰐の会編集

同 裏表紙
日本は島国で外国からの刺激がないと文化が停滞してしまうので、文字はありませんでしたが古代古墳時代から中国文化を積極的に移入していた。江戸時代まで外国文化は中国文化だったわけで日本人は漢文・漢詩を通して新たな文化を受容していた。短歌・俳句のいわゆる国風詩以外に文化を泡立たせてくれる刺激が必要だったのです。明治維新以降は漢文・漢詩に代わって欧米文学がその役割を担うことになった。その最も先鋭な表れが自由詩で、歴史を振り返れば明らかなように自由詩はずっと日本近・現代文学における前衛の役割を担ってきた。
五〇・六〇年代の詩誌の刊行ペースが早く詩集も若い時期に上梓されているのは戦前・戦中の抑圧から解放された詩人たちが爆発的に書き始めたからです。第一次世界大戦後に欧米でダダやシュルレアリスム、未来派、モダニズムなどの新たな芸術運動が起こりましたが日中戦争から太平洋戦争の影響でその受容は不十分なままだった。それが戦後に一気に進んだ。五〇・六〇年代詩人には未踏の前衛的表現を模索する余白がたくさん残されていたということでもある。それが当時の詩の活況になった。
池上 なるほど。これが、「鰐」ですか……初めて見ました。一九六〇年二月十日発行かぁ。『荒地詩集』は一九五八年版が最後で、時代的にはそれほど離れているわけではないけれど「鰐」のデザインは洗練されていますね。『荒地詩集』のいかにも戦後という文字だけのデザインに比べると、もう戦後っていうイメージじゃないですね。
岩田宏の評論では、読売文学賞を受賞した『マヤコフスキー事件』(平成二十五年[二〇一三年])が代表作ということになりますか。
鶴山 そうなりますがあまり評論・エッセイを書くのはお好きではなかったようです。詩を読むと岩田さんは左翼系と言いますか反体制的な匂いがプンプンします。しかし批評でそれを直裁に表現しなかった。ただ岩田さんに限りませんが五〇年代から八〇年代半ば頃まで詩人たちは同時代人のちょっとした詩や評論にビビッドに反応していた。詩人たちの中に詩に関する共通認識があった。今ではほとんど失われてしまった社会批判意識です。それが戦後詩・共通認識だった。
池上 でも、ご本人は雑文と言っているエッセイや評論を集めた『同志たち、ごはんですよ』(一九七三)というちょっと変わったタイトルの本は七〇〇ページ近い大著ですよね。
岩田宏は晩年に土曜社から、マヤコフスキー叢書を新訳で刊行していますね。刊行途中で亡くなったので、それ以降は既訳を使っていますが、全十五巻に別巻という構成です。マヤコフスキーには特別の思い入れがあったんでしょう。全十五巻と聞くと重厚な感じがしますけれど、実際に本を見ると一冊一冊は小さくて薄くて軽い。
もうだいぶ前ですけれど鶴山さんは「文学金魚」で叢書第一巻の『ズボンをはいた雲』の書評を書いていましたよね。その中の「『ズボンをはいた雲』はペーパーバックのような簡素な造りだ。一般的な基準では粗末な本だと言ってよいだろう。しかしこれほど内容と装幀がピッタリと合った本は久しぶりに手にした。マヤコフスキーはできれば街中の喫茶店で、あるいは公園のベンチに座って読みたい詩人だ。ジーンズのお尻のポケットから、よれよれになったペーパーバックを引っぱり出して活字に目を走らせるのがいい。あなたが詩を愛する人なら、世界の喧噪に包まれながら、世界そのものと均衡を保つかのような崇高で猥雑なマヤコフスキーの詩を生きることができるだろう」というところがすごく印象的でした。簡素な形の本に価値ある詩が印刷されているのが「詩集」の理想だよって言われているように感じたんです。
谷川雁篇で鶴山さん所有の谷川雁の第一詩集『大地の商人』を見せてもらいましたよね。白い紙に詩集のタイトルと著者名だけを小さな文字であしらったシンプルな装幀で、センスはいいですけれど現在の詩集に比べれば簡素な造本でした。鶴山さんの持っているのは再版で「三〇〇部限定」と印刷されていましたが、調べたら初版はわずか二〇〇部限定でした。しかしそこに収載されている詩は、いまに至るまでずっと読み継がれています。本当にいい詩であれば、たとえ粗末な造本だったとしても、わずかな部数であったとしても時代を超えて残る。谷川雁の『大地の商人』は、そのことを証明した詩集だと思います。小説は商業主義の中で売れなければ作品が残るのは難しいですけれど、詩は詩集が売れなかったとしても、詩そのものの価値で残っていくことができる。これが詩のアドバンテージだと思います。

池上晴之
鶴山 マヤコフスキーの詩は本当に疾走していて素早くページをめくってどんどん読み進んでゆく方がいいので、土曜社版の小さくて軽いペーパーバック的造本はピタリと内容に合っています。
日本の自由詩はフランス象徴主義詩の影響を強く受けています。最初期の上田敏、蒲原有明の時代からそうで明治末から大正時代初期の北原白秋、三木露風の白露時代になるとすっかり象徴主義に染まった。象徴主義は現代まで続く日本の自由詩の表現基盤だと言っていい。現代詩を代表する詩人はフランス文学の学者が多かったですよね。ハードコアな現代詩は別ですが堕落した現代詩にはモヤモヤとした抽象表現が非常に多い。乱暴に言えば象徴主義とシュルレアリスムの喩的表現の混交です。一方でそれを活性化するカウンターカルチャー詩として呆れるほど露骨で単純な英米詩とロシア詩があった。
「荒地」派が新鮮だったのはエリオットやオーデンらの英米詩から強い影響を受けたという背景が確実にある。ロシア詩、特にマヤコフスキーについていえばその影響を最も受けたのは小熊秀雄と岩田宏さんが双璧です。マヤコフスキーはロシア革命時代の詩人ですからマヤコ好き詩人は社会主義革命支持者の左翼だというイメージが強い。実際小熊さんはプロレタリア詩人でしたし岩田さんにもその気配があります。でも小熊や岩田さんを社会主義者だと言うのはちょっと違うんじゃないか。彼らが最も惹きつけられたのはマヤコフスキーの苦しさだったのではないかと思います。
マヤコフスキーは共産党員ではありませんでしたがツアーリの帝政ロシアを倒した世界初の社会主義革命を誇りにしていました。多くのロシア人作家と同様に熱狂的愛国者だった。ただマヤコフスキーの時代、社会主義革命がどう進んでゆくのか、それがどんなふうに社会を変えてゆくのか不透明だった。
マヤコは歯に衣着せぬ政治批判詩をたくさん書いています。『会議にふける人々』という詩では官僚主義的な無意味で冗長な会議を厳しく批判し揶揄しました。反発は大きかったのですがレーニンは「詩のことはよくわからないが、政治的な点については全くこの詩の言う通り」とマヤコを擁護した。レーニンのNo.2で失脚してメキシコに亡命した後にスターリンの秘密警察に暗殺されたトロツキーは詩の愛好者でした。マヤコフスキー論で「一国で社会主義を建設するのが不可能であるのと同じ理由で、マヤコフスキーはいわゆる〈プロレタリア文学〉の直接の創始者にはならなかったし、なれなかった。だが、移行期の戦いにおいて、彼はだれよりも勇敢な言葉の戦士であり、未来社会の文学の疑う余地なき先駆者の一人となったのである」と書いた。レーニンとトロツキーは政権には煙たいマヤコフスキーの詩に一定の理解を示していた。しかしスターリン時代になると大きく変わってしまう。
ボリショイ劇場で開催されたレーニンの六回忌追悼式典でマヤコフスキーは長篇詩『ヴラジミール・イリイチ・レーニン』の一部を朗読しました。スターリンら共産党幹部が出席していてラジオで生放送もされた。
すると、はるか彼方、赤らむ夜明けの空から、ぼくらの
きびしい寒さ、沈黙の護衛にむかって、誰かが言った、
「進め、足並みそろえて」。
この命令は要らなかった。いっそう烈しく、淀みなく、
大きく息づきながら、重さそのものの体を、やっとのこと
で引き剥がし、ぼくらは広場に足音を打ち込む。
たくましい腕にささえられ、いちどきに頭上高くひるが
えった旗々。足音の洪水が波紋のようにひろがって、世界
中の頭脳にしみこむ。
労働者、農民、兵士らの考えは、鎖でつなぎ合され、た
だ一つ。「レーニンがいないと共和国はくるしい。誰かを
レーニンの代わりにしよう。誰を? どうやって?」
マヤコフスキー『ヴラジミール・イリイチ・レーニン』小笠原豊樹訳
レーニンの死を悼み彼が成し遂げた革命を礼賛した長詩ですが非常に鋭い感覚を持っていたマヤコフスキーの作品です。革命の先行きを不安視する詩行がかなりある。マヤコがレーニンを不世出の政治家で革命家と捉えていたのは確かです。朗読が終わるとスターリンは立ち上がって拍手したそうですが、マヤコフスキー研究者の一人はこの拍手が彼が自殺(?)に追い込まれる運命を決したと書いています。『ヴラジミール・イリイチ・レーニン』にレーニンとトロツキーは登場しますがスターリンへの言及はない。
スターリンの粛清には自分より力のある者、力を持ちそうな者を徹底排除してゆくという以外の理由はありませんね。スターリンの後を継いだフルシチョフらの指導者も右に倣った。ゴルバチョフのペレストロイカで一瞬風向きが変わりましたがプーチンの現代に至って復活している。これは中国も同じで習近平はプーチンと同様、大国の実質的皇帝です。最高権力者の周囲はイエスマンだらけ。前任者らが粛清によって権力基盤固めを行ったのを見て来てそれしか権力掌握方法を知らないのだから当然ですね。社会主義政治体制はそうやって腐敗・堕落していった。
それはともかくレーニンやトロツキーは演説の名手でしたがスターリンは下手だった。が、ライバルを排除する権謀術策に長けていた。岩田さんは『マヤコフスキー事件』でマヤコは秘密警察に暗殺されたのだと書いています。真相はわかりませんよ。現在に至るまでマヤコの自殺(?)を巡る資料は全部公開されていないのですから。ただ謀殺の可能性はじゅうぶんあると思います。政治家でもないたかが詩人を暗殺するなどどうかしているわけですがマヤコはスターリンにはない言葉を持っていた。なぜマヤコを微罪であれ流刑にして黙らせずに自殺偽装という手の込んだことをしたのかと言えば、一般大衆に非常に人気のある詩人だったからでしょうね。自殺で消えてくれた方がスターリンには都合がよかった。弾圧死だと反権力の象徴になってしまう。
マヤコフスキーは社会主義革命によりよい社会への希望を見出していた現実主義的理想家だった。初期から晩年へと順番にマヤコの詩を読んでいくと表現が苦しくなってゆくのがわかります。それは日中戦争から太平洋戦争にかけて言論を抹殺されていった小熊さんの姿に重なる。岩田さんは戦後の詩人ですが戦後民主主義社会に強烈な違和感を抱いていた。
詩人としてのすぐれた資質を持ち、わずかですがとてもすぐれた詩を書き残して沈黙していった詩人の代表は岩田宏、谷川雁、堀川正美さんの三人です。谷川さんは大上段に社会主義革命を掲げそのボロが出る前に歌舞伎役者のように見得を切って詩をやめた。堀川さんを沈黙に押しやったのは六〇年安保です。革命を目指したとは言えないですが彼は安保闘争に自己と社会の変革を夢見て挫折した。岩田さんの詩の沈黙には谷川雁や堀川正美のようなきっかけはありません。しかし谷川や堀川さんより誠実な生活詩人だったと思います。
吉本隆明は『戦後詩史論』で思想を失っていった六〇年代から八〇年代にかけての詩を「修辞的現在」と総括しました。高度経済成長期以降の詩人たちは鮎川信夫や田村隆一のように強固な個の自我意識と思想で強大かつ膨大に膨れあがってゆく戦後社会に対峙できなかった。戦後の詩の基礎になったのは「荒地」派「戦後詩」と入沢康夫・岩成達也の「現代詩」です。六〇年代以降の〝戦後の詩人たち〟は戦後詩と現代詩をマージさせた手法で詩を量産しましたが戦後詩・現代詩を超克した新たな詩の書法を見出だせなかった。
岩田さんは五〇年代詩人でシュルレアリスム系の雑誌「鰐」同人だった。この討議では取り上げませんが的確なシュルレアリスム理解に基づいた大岡信や吉岡実、飯島耕一さんらの詩は戦後詩や現代詩とはまた別の戦後の詩の基盤になりました。岩田さんも戦後の詩の設立者の一人であるわけですが彼は「荒地」的精神を継承しそれを怒涛のように押し寄せてくる戦後の日常に鋭く対峙させた。
ちょっと奇妙な言い方になりますが最も真摯な〝修辞的現在の詩人〟は岩田さんでしょうね。彼は自己の戦後社会への違和感を蝕み、なし崩しにしてゆく日常を嫌った。厳しい現実を描き続けたマヤコの詩に通じる苦悩がある。〝修辞的現在の詩人〟で沈黙したのは岩田さんだけです。岩田さんは堀川正美のよき理解者でもありましたね。

鶴山裕司
池上 ちなみにマヤコフスキーは一八九三年(明治二十六年)生まれで一九三〇年(昭和五年)に亡くなっています。小熊秀雄は一九〇一年(明治三十四年)生まれで亡くなったのが一九四〇年(昭和十五年)です。小熊秀雄は同時代の詩人としてマヤコフスキーに影響を受ている。一方、岩田宏は一九三二年(昭和七年)生まれで二〇一四年(平成二十六年)に亡くなっていますので、マヤコフスキーも小熊秀雄もひと世代上の詩人として影響を受けたわけですね。小笠原豊樹の訳でマヤコフスキーの詩を読んでいると、ほとんど岩田宏の詩じゃないかと思えるくらい。
鶴山 自在さで言うと小熊さんの詩の方がマヤコに近いかな。
池上 そうかもしれないですね。萩野さんは岩田宏についてはどんな印象をお持ちですか。
萩野 岩田宏は僕の亡くなった父親より一つ下なんですね。終戦時は中学生で勤労奉仕に駆り出され、疎開した世代です。小熊秀雄より三十歳年下、鮎川信夫だと一回り、田村隆一より九つ、吉本隆明より八つ年下です。かれらのように自己形成を終えて、敗戦を迎えたときはプロレタリアートだったり皇国青年だったりしたわけじゃない。自己形成の入口でしたからね、上の世代のようにそれまで信じていた世界がひっくり返るような衝撃を全身で受け止めたのではなく、かと言って下の世代のように戦後の新しい価値観を素直に吸収したのでもない。ちょっと屈折したところがあるんですね。大人たちのウソに気づかされた、戦後になったからといってかれらの言うことなんて易々と信用できるかってね。僕の父親はサラリーマンでしたが、上司や権威に対してはつねに断固たる反抗者でしたね。あれで出世できたのが不思議なくらいで。岩田宏もね、そういうところが詩にも表れているんじゃないかな、と。後で触れますけど、この屈折したところが詩ではいい方向に昇華されたように感じますね。
鶴山 中学生で確信的反戦の子はいないわけで男の子はほぼ全員皇国少年でした。しかも昭和二十年(一九四五年)の敗戦を機に墨で黒塗りの教科書を使って勉強させられた世代です。その違和感は長く残ったでしょうね。ただ岩田さんは戦前に東洋音楽学校の先生に本格的にピアノを習っている。小熊さんのような最貧層の家の子どもではなさそうです。そんな彼がすんなり民主主義を受け入れひたすら豊かになってゆこうとする戦後社会に憎悪に近い感情を抱いたのは面白いですね。
岩田さんの詩集の数は少ない。『独裁』(昭和三十一年[一九五六年])、『いやな唄』(三十四年[五九年])、『頭脳の戦争』(三十七年[六二年])、『グァンタナモ』(三十九年[六四年])の四冊に『岩田宏詩集成』では『最前線』(四十七年[七二年])が独立詩集として収録されている。ただ単行本『最前線』は奇妙な本で冒頭と真ん中あたりに詩が収録されているほかは小説です。詩と小説の合本で『最前線』を最後に岩田さんは詩を書かなくなった。文字通り詩から小説に移行することを示唆した本です。
また『岩田宏詩集成』には「その他(一九四六―一九六五)」の章に未刊詩集が収録されています。かなりの篇数で『詩集成』の三十パーセント近くを占める。詩集にまとめなかったのはこれらの詩篇に通底するテーマを見出だせなかったからでしょうね。しかし習作ではない。詩の出来不出来に厳しく意に染まない詩はスパッと詩集から排除した気配です。
■岩田宏の詩について■
池上 岩田宏はロシア語、フランス語、英語など語学に堪能だっただけじゃなく、音楽家を目指した時期があったくらい音楽の才能もあった。作曲家の林光とも親交があって、二人で作った混声合唱曲『動物の受難』(一九六一年)という作品もあります。現在では岩田宏の詩「動物の受難」だけが代表作のひとつとして知られていますが、元々はNHK大阪放送局の委嘱で、岩田宏が詩を書き、林光が作曲したという成立過程だったわけです。
あおぞらのふかいところに
きらきらひかるヒコーキ一機
するとサイレンがウウウウウウ
人はあわててけものをころす
けものにころされないうちに
なさけぶかく用心ぶかく
ちょうど十八年前のはなし
熊がおやつをたべて死ぬ
おやつのなかには硝酸ストリキニーネ
満腹して死ぬ
さよなら よごれた水と藁束
たべて 甘えて とじこめられて
それがわたしのくらしだった
(中略)
象はなんにもたべなかった
三十日 四十日
はらぺこで死ぬ
さよなら よごれた水と藁束……
(中略)
ニシキヘビはお夜食で死ぬ
お夜食には硝酸ストリキニーネ
まんぷくして死ぬ
さよなら よごれた……
ちょうど十八年前のはなし
なさけぶかく用心ぶかく
けものにころされないうちに
人はあわててけものをころす
するとサイレンがウウウウウウ
きらきらひかるヒコーキ一機
あおぞらのふかいところに。
第三詩集『頭脳の戦争』(一九六二年)に収載されたこの「動物の受難」という詩は、書かれた一九六一年から「ちょうど十八年前のはなし」だとすると一九四三年(昭和十八年)、つまり第二次世界大戦中の話ということになります。実際、戦時中に食糧難を背景に「猛獣が逃げ出すと危険だ」という理由で上野動物園を皮切りに「戦時猛獣処分」が行われ始めたのは一九四三年です。ゾウは餌に毒が入れられていることを気取って食べなかったので餓死した。この作品はすぐれた戦後詩だと思います。だけど、ぼくらが生まれた一九六一年からわずか十八年前の出来事なんですよね……。
林光はエッセイで、酔っ払って岩田宏にピアノを連弾しようと誘ってブラームスを弾いたと書いています(『楽師の席から 私の戦後音楽史』)。岩田宏は舌がまわらないくらい酔っていたのに暗譜で見事に弾いて林光を驚かせます。それならバルトークを初見で弾いてみろと言って楽譜を渡すと全部弾いてしまった。これは相当の腕前ですよね。
岩田宏の詩には独特のリズム感があります。例えば第二詩集『いやな唄』(一九五九年)巻頭の表題作「いやな唄」を読むとわかると思います。
あさ八時
ゆうべの夢が
電車のドアにすべりこみ
ぼくらに歌ういやな唄
「ねむたいか おい ねむたいか
眠りたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
眠りたくても眠れない
眠れなくても眠りたい
無理なむすめ むだな麦
こすい心と凍えた恋
四角なしきたり 海のウニ
ひるやすみ
むかしの恋が
借金取のきもの着て
ぼくらに歌ういやな唄
「わすれたか おい 忘れたか
忘れたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
忘れたくても忘れない
忘れなくても忘れたい
無理なむすめ むだな麦
こすい心と凍えた恋
四角なしきたり 海のウニ
ばん六時
あしたの風が
くらいやさしい手をのばし
ぼくらに歌ういやな唄
「夢みたか おい 夢みたか
夢みたいのか たくないか」
ああいやだ おおいやだ
夢みたくても夢みない
夢みなくても夢みたい
無理なむすめ むだな麦
こすい心と凍えた恋
四角なしきたり 海のウニ
海のウニ!
これは岩田宏の代表作のひとつですけれど、非常にリズミカルでユーモラスでもある。「ジャジャンカ ワイワイ」という変なリフレーンがある入沢康夫の「失題詩篇」を想起するんですけれど、「眠りたいのか たくないか」というフレーズも読んだ時から頭にこびりついっちゃって、時々無意識に口にしていることがあるんです(笑)。
「いやな唄」という詩は、そもそもはシャンソンにするために岩田宏が詩を書いて、林光が作曲したのだそうです。岩田宏はプレヴェールの詩集も翻訳していますけれど、プレヴェールの詩の多くはシャンソンになっています。歌詞ではなくて「歌える詩」なんですね。
鶴山 でも軽い詩ではないな。「無理なむすめ むだな麦/四角なしきたり 海のウニ」という詩行は未刊詩集の「未婚」という詩でも使われています。このリフレーンはそう簡単に生み出せない研ぎ澄まされた言語表現だったわけで、自在に書いているようで岩田さんはマヤコフスキーや小熊秀雄ほど奔放ではない。むしろ苦しげな書き方の方が多いと思います。
詩は「ゆうべの夢が/電車のドアにすべりこみ/ぼくらに歌ういやな唄」とサラリーマンの通勤風景から始まります。これは自己をサラリーマンに擬したペルソナ表現ではないと思う。岩田さんはサラリーマン生活が本当に嫌だった。二連三連も同じです。「忘れたいのか たくないか」「夢みたいのか たくないか」も強い実感表現でしょうね。軽くリズミカルな表現に包まれていますが忘れたいのに忘れられない、夢みたいのに夢見ることができないという詩行は生活への呪詛だと思う。
岩田さんは最初のエッセイ集『同志たち、ごはんですよ』でサラリーマン時代について書いています。「この出版社は「左翼出版社」と呼ばれ、「勤労者むきにやさしく」書いた唯物弁証論や組合活動の本などを出しておりましたが、おどろいたのは、民主主義や独立という概念とはほど遠い空気が全社内にたちこめていたことです。(中略)昼休みにバドミントンやバレーボールをやっても、それはそれだけのこと。私たちの精神は無意味に疲労し、それにつれて肉体も疲労し、やがて私たちが退社するとき、行手の坂の上の空はおそろしく暗く見えたのです。(中略)それはどんなキリスト処刑の背景の空よりも陰惨だった。そして帰りの電車のなかには疲労の匂いが充満しておりました。解放されたこの時間に、人はかえって束縛の状況をひしひしと感じるもののようです」(「白い絶望」)とある。会社勤めの苦痛を「キリスト処刑の背景の空よりも陰惨」「解放されたこの時間に、人はかえって束縛の状況をひしひしと感じるもののようです」と表現したのは尋常ではない。この文章は岩田さんの社会批判思想をよく表していると思います。
岩田さんの評論・エッセイ・小説はほぼすべて草思社から出ています。マヤコフスキー叢書の版元は土曜社です。草思社も土曜社も社会学系出版社、俗に言えば左翼系出版社です。社内に強力なシンパがいたのでまとまって本が出たんでしょうけど岩田さんが社会主義系左派だったとは思えない。乱暴なことを言えば全体主義でも民主主義でも人々の生活はそれほど変わらない。権力中枢から日々の生活に至るまで人間を束縛する力は網の目のように張り巡らされている。吉本隆明は「社会主義は人間の意識が生み出した悪であり、資本主義は人間の無意識が生み出した悪である」と書きましたが岩田さんの目は日常のささやかな悪意や偽善に注がれてしまうのではないか。
すぐれた詩人ですから最初のエッセイ集『同志たち、ごはんですよ』のタイトルにも意図がある。「同志」は共産党員が互いを呼び合う際の「◯◯さん」のようなものですね。出版は安保闘争直後の昭和四十八年(一九七三年)ですから共産党や社会党を想起した読者は多かったはず。しかし「ごはんですよ」がくっついている。また通読しても社会主義への言及はほとんどない。「同志」(イデオロギー)を「ごはん」(生活)で骨抜きにしようとしたのではないか。ユーモラスですが棘がある。『同志たち、(革命や政治的イデオロギーよりも)ごはんですよ』でしょうね。
池上 そういう意味では、岩田宏の評論やエッセイは直接的に現実政治やイデオロギーとリンクしていないので彼がどのような思想を持っていたのかは捉えにくい。だけどマヤコフスキーにこれだけ心酔していたんだし、社会主義思想に興味を持っていなかったはずはない。
鶴山 理解が深かった、深すぎたと言った方がいいかもしれません。石原吉郎もそうですがロシア語が堪能でスターリンのソビエト時代を知っている文学者は革命を美化したりしません。しかし革命の矛盾や悲惨を絶対悪と指弾することもない。人は苦しく厳しい現実がなんらかの形で変わってくれることを生きる希望にします。ロシア革命は人類史上最大の革命の一つで簡単に変わらないはずの現実を大きく変えてしまった。それは当初はよりよい社会を目指していた。岩田さんは人間存在の原罪のようなものがロシア革命の理想を蝕んでいったと捉えていたのではないか。石原吉郎がシベリアで見たのもロシア兵と同じくらい醜くて卑屈な自己を含む捕囚仲間の姿です。
1
いっせいに頭上をゆびさした
街灯を消した
ちいさな提灯をかざした
半鐘を叩きはじめた
なにごとですか
なにごとですか
知らないの?
革命だよ
今晩
頭上を
通過する!
(中略)
光った!
どこ
どこ
どこ
ただの飛行機だ
ただの人工衛星だ
ただの宇宙ロケットだ
ただのホタルだ
一人が空めがけて盃を投げた
盃は黒雲にひっかかり落ちてこない
一人がアスファルトに唾を吐いた
唾はぴしゃり 雲の切れ目の月を汚した
今夜もどうやら来ませんね
お疲れさまでした
おやすみ おやすみ
奥さんによろしく
5
(前略)
ああ 一度でいいから
勇気を出して
革命なんか来やしないと言ってくれ
それが
きみたちには
絶望の終りなんだ
おれたちには
革命の始まりなんだ
こうやって冷静に興奮して
すこしづつ温度を上げる
それしか手はない
まだ寒いか?
すこしはあったかいか?
ありがとう!
詩集『頭脳の戦争』所収の「夜半へ」の抜粋です。5章から成る長詩のほんの一部ですがユーモラスで物語性のある岩田さんらしい詩です。夕涼みしているような普通の庶民が空を見上げ流れ星を待つように「革命」を待っている。でもあっさり「今夜もどうやら来ませんね/お疲れさまでした/おやすみ おやすみ」とあきらめる。2から4章は革命党の会議室の描写で「なにゆえ革命は来なかったか」と所長が党員たちから批判されいたたまれなくなりこっそり逃げ出す。5章は岩田さんの革命解釈です。「ああ 一度でいいから/勇気を出して/革命なんか来やしないと言ってくれ/それが/きみたちには/絶望の終りなんだ/おれたちには/革命の始まりなんだ」とある。
岩田さんのいう「革命の始まり」がなにを指すのか判然としませんが「夜半へ」では普通の生活者が杓子定規な革命を茶化しまくっている。生活に根ざした変革しか真の革命にならないという思想だと思います。軽く読めてしまいますがこの詩の内容も重い。ただ同じく革命を主題にしていますが「夜半へ」が谷川雁「ひとすじの苦しい光のように/同志毛は立っている」(「毛沢東」)や黒田喜夫「おかあさん革命は遠く去りました」(「毒虫飼育」)ほど有名ではないのは岩田さんがポスト革命を模索した詩人だったからでしょうね。魂極る短歌と同じで革命の夢敗れた際の絶唱の方が目立つ。
池上 でも谷川雁や黒田喜夫の詩に比べると岩田宏の詩は読みやすいですよね。独特のリズムがあって、メロディのような流れもある気がします。
鶴山 あるでしょうね。でも音韻中心の日本の詩は難しい。戦中に江戸っ子の中村真一郎さんらが『マチネ・ポエティック』詩集を出して押韻詩を提唱しました。あれは白秋文語詩時代くらいまでは五七・七五調が残存していて日本の詩にリズムや音楽性があったのに、萩原朔太郎以降は書き文字黙読中心になっていったことへの反発だと思います。〝待ちねぇポエティック〟運動だったわけですがやはり音韻中心にはならなかった。漢字平仮名カタカナ混じりの表記複雑な日本の詩は声で聞いても意味が伝わりにくい。もちろん欧米詩も耳で聞いて全部意味がわかるわけではないですが朗読にリズムがあることが多いですね。
一昔前の詩論を読むと「内的リズム」といった批評用語が頻出します。これがまあ曖昧なんですが一応の解釈としてどうしても表現したい内容があれば自ずと詩にリズムが生まれるということだと思います。岩田さんの詩もそう。しかし谷川俊太郎『よしなしうた』のように意識して朗読できる詩を書かなければたいていの日本の詩は朗読してもつまらない。大仰なパフォーマンスで聴衆を楽しませてもそれは詩の良し悪しとは関係ありませんしね。
第一部
1 ふえる岩
ひとつの
巨大な岩が
すこしずつこわれて
たくさんのちいさな岩がうまれた
どの岩にもひつの顔が描いてある
ひとみを守るために垂れ下がったまぶた
充分に空気を吸いこむための二つの鼻の穴
噛みくだくための歯 聴くための耳
割るための額
これはだれだろう
これはどこの人だろう
焼き払われた初めての森に
初めての麦のたねをそっと埋めた
これはひとりの農民の顔だ
かれには名前がない かれには妻がない
かれには鋤も鎌もない かれにはたべものがない
かれはただの顔だ 岩のなかの顔だ
この岩は雲母のように剥がれる
方解石のように割れる ふしぎなふえる岩だ
けれども朝から昼まで 昼から夕暮まで
あなたがその岩のかたわらにうずくまっても
岩はそのままだ 変化なし 異常なし
あなたが監視に疲れてうつらうつらする
岩はもうふえている! 初めに女の顔
それから子供の顔 それから犬の顔
羊や牛はもう岩のなかで啼いている
岩のなかから牛乳の汗が滲み出てくる
やがてあなたはだしぬけに肩を叩かれ
おどろいてふりかえる
とりいれをすませた農民が
酒を一ぱいあなたに差し出す
かれの顔は焚火よりも赤い
岩には踊りの絵が刻まれた
音韻などを使った詩ではありませんが「ショパン」(『頭脳の戦争』所収)には岩田さんの音楽への強い関心と彼の主題がハッキリ表現されています。第一部と二部から構成される最も長い岩田詩です。「ひとつの/巨大な岩が/すこしずつこわれて/たくさんのちいさな岩がうまれた」で始まるわけですがこれはその後の言語増殖による長詩を示唆しています。内的リズムとはそういうこと。また初めて現れるのは名もない「農民の顔」。庶民にこだわる岩田さんの主題です。後半に現れる「あなた」は詩のテーマから言えばショパンですが音楽家や詩人のように大地の営みから離れた市民でもいい。そんな「あなた」に農民が「酒を一ぱい」差し出す。音楽家や詩人と名もない農民が交流し始める。
長詩「ショパン」は熱烈な愛国者だったにもかかわらずウイーンやパリでロシアによる祖国ポーランドの蹂躙を傍観せざるを得なかったショパンの生涯を描いています。ショパンの手紙なども引用されている。しかしそれが表現主題だとは言えない。
第二部
8 モスクワの雪とエジプトの砂
(前略)
街角を誰かが走って行く
いちばん若い伝令がわたしたちに伝える
この世界はすこしもすこしも変っていないと
だが
みじかい音楽のために
わたしたちの心は鼓動をとりもどすと
この地球では
足よりも手よりも先に
心が踊り始めるのがならわしだ
伝令は走り去った
過去の軍勢が押し寄せてくる
いっぽんの
攻撃の指が
ピアノの鍵盤にふれ
あなたはピアノを囲む円陣に加わる。
「ショパン」最終部の抜粋です。内容から言って最終部の時間軸は岩田さんが詩を書いた一九五〇年代末から六〇年代初めにまで進んでいるようです。「モスクワの雪とエジプトの砂」がなにを指すのか判然としませんが米ソ冷戦とスエズ紛争かもしれない。時間が経ってもショパンの時代と「この世界はすこしもすこしも変わっていない」。でも「みじかい音楽のために/わたしたちの心は鼓動をとりもど」し「心が踊り始める」。「ショパン」という詩は人間を苦しめる戦争や政治の暴虐よりもすぐれた音楽家が残した作品の方が、芸術の方が強いことを、それが人間精神の最後の砦になることを非常に繊細に表現した作品だと思います。芸術家は「攻撃の指」で世界に対峙する。
ただ「ショパン」はそのゆったりとした始まり方から言って、当初は詩集一冊分になるくらいの長い詩にするつもりだったんじゃないかな。これまで討議して来たようにパブリックイメージで左翼と思われている詩人でも詩や散文で意外なほどハッキリとした政治思想を表現していません。それが政治活動家ではない詩人である由縁なのですが政治に対する強いこだわりはやはり表現を抑制することが多い。
「鰐」同人で言えば飯島耕一さんも社会批判的な視線を持った詩人でした。しかし「ことばを 私有せよ/非打算的に ことば/をつかうことをせよ/巨大な 監視者 に/は 理解 しがた い/ことばを 私有 せよ」(「所有者と被所有者の時のエスキス」)と世界(社会)を上位審級から相対化した。それが飯島さんのシュルレアリスム(超現実)だった。しかし岩田さんは現実世界にこだわる。観念が地上に留まり上方に上がっていかない。岩田さんの詩が自在なようで苦しい印象を与えるのはそれゆえです。また同じ現実をベースにする詩でもマヤコフスキーや小熊秀雄のようなハチャメチャさはなく表現をグッと抑制してしまう。饒舌な詩ではない。
池上 詩という表現の本質は、リズムを通して意味が現れることだとぼくは考えています。日本の戦後詩は、伝統的な五七調や七五調とは異なる新しいリズムで、いわゆる花鳥風月や短歌的抒情とは切れたところで、個の思想に基づいた詩を表現しようとしました。鮎川信夫篇で論じましたが、戦前や戦中の権力とは切れたところに言葉の価値を見出そうとしたわけです。これはとても重要なポイントで、現在でもそうでなければ自由詩が存在する意味がないとぼくは思っています。
「荒地」派の詩人では田村隆一の詩は強力な内的リズムを持っています。岩田宏の詩にも強い内的リズムがあり、これが岩田宏の詩をすぐれた作品にしている最も重要な点だと思います。この内的リズムというのは、ぼくの考えでは個の思想に基づいた自由詩を表現するための生命線です。だけれども、内的リズムだから個人と切り離すことはできません。それぞれの詩人が自分の内的リズムを見出すしかない。そこに自由詩の困難さがあります。戦後詩人で、このことをいちばんよく理解していたのは岩田宏だと思います。
「詩論の試論」という一九六〇年の評論で、岩田宏は「短歌も俳句も、定型詩としてはすでに去勢されたリズムしか持っていない。わたしたちは今さら五音や七音を基調とした定型へ帰るわかにはいかないのである。しかし、さらに不幸な事態として、逆にリズムの貧困のために詩のイメージまでがさむざむとした風景を見せ始めるかもしれないということがある。なぜなら、詩のことばの本来的な性質として、一篇の詩のなかのイメージとリズムを切り離すことは不可能だからである。両者は、それぞれ単独では生きられない。こうして詩そのものが死滅の運命に直面することとなる」「解決策はただ一つ、詩のことばの本質であるイメージとリズムの、いわば生みの親である集団的本能を、詩人がさまざまな方法で詩人の内部に育成することしかない」「さしあたり、肯定的であるにしろ否定的であるにしろ、集団的本能が個人の意識をくぐりぬけ、烈しい牽引力となって働きかけるような作品を、わたしたちは支持しなければならないだろう」と言っています(『同志たち、ご飯ですよ』に収載)。
岩田宏が言う「集団的本能」の「集団」について、前回の対話で取り上げた詩人の鈴木志郎康は一九七七年の評論で「この文章が書かれたのが、一九六〇年であったのだ。日本の社会は、経済的にまた軍事的にアメリカの支配と保護のもとに日本を置こうとする支配的な勢力とこれに反対する勢力とがぶつかり合って、大きく揺れ動いていた時代であった。ここで岩田さんが、リズムと集団的本能とを結びつけて考えているのは、その揺れる社会の中で、詩が意識に働きかける力を持つことを考えていることなのである。岩田さんは詩を書くことで、現実の姿を言葉のリズムに乗せようとし、乗せたのであった。それは、戦時中の国家主義的集団ではなく、それとは全く別の社会集団を求めていたのだ」と書いています(「岩田宏さんの前衛性は自我の音楽的自覚にある」)。
この「社会集団」は、「荒地」派では「一つの無名にして共同なる社会」(「Xへの献辞」)ということになります。鮎川信夫が理念として打ち出したのは、詩を成立させる「精神の共同体」だとぼくは理解しているのですけれど、岩田宏が考えていた「集団」は鈴木志郎康が言うようにリアルな社会集団だったのか、それとも「一つの無名にして共同なる社会」だったのか……。岩田宏は鮎川信夫と仲がよかったんですよね。「荒地」派の「一つの無名にして共同なる社会」はユートピアだという見方もできます。岩田宏はユートピアを実現する「集団」を求めていたのかもしれませんね。
あと、今回岩田宏の詩を読み返してみて印象的だったのは、あれだけ外国語に堪能だったのに、外国文学の影響がストレートに作品に現れていないということです。
月の出てゐない祭の夜
農家の薄暗い庭でをどる
鹿をどり
ほのかな闇の中で
皆袴を着て太鼓を前につけ
せなかから長い二本の箔の様なものを出し
安政年間に彫られたといふ
古い鹿の角のある面をかぶって
撥を揃へ
単調なリズムを絶えず繰返しながら
怪物のやうに踊る
鹿をどり
体を前後に動かし左右に振り
上下に箔を踊らせその先を地につけ
その強い動作が
只太鼓の音のみによって支持され
色づけられてゐる
鹿をどり
周りでみている黒い人影
藁ぶきの屋根
がらんとしたやうな空
それらのぼんやりとした輪郭と
あたりの静かさと
全体の柔かさとに
少しも調和しない怪奇な踊り
烈しい太鼓の響き
鹿をどり。
「鹿をどり」という詩の全篇です。これは岩田宏が初めて書いた詩だそうです。「鹿をどり」という言葉をうまく使ってリズミカルな詩にしています。「鹿をどり」の様子を描写しているだけの詩ですが、農村共同体の不気味さを作者が感じていることがリアルに伝わってきます。リズミカルであることと、現実社会をクールな眼差しで描いているところに、岩田宏の資質がよく現れている作品だと思います。
鶴山 岩田さんは北海道生まれですが六歳のときに東京に転居したせいか江戸っ子の気っ風の良さのようなものがあります。乱暴なんだけど繊細なべらんめい調がある。僕が江戸っ子ですぐ思い出すのは荒木経惟さんです。江戸は将軍様のお膝元だから江戸っ子は表立ってお上に楯突いたりしない。権力の後ろ頭をスリッパで叩くようなことをする。「写真時代」の荒木さんがまさにそうで当時は女性のヌード写真で下の毛が見えてしまうのがご法度だった。だから荒木さんは毛を剃って写真を撮って現像し、その上からマジックで毛を書いて発表した。これが警察を激怒させて一悶着あった(笑)。岩田さんも似たところがある。大上段から政治批判・社会批判はしない。スカして痛いところを衝く。
書肆山田版『岩田宏詩集成』には収録されていませんが思潮社『岩田宏詩集』には『いやな唄』の最後に「おいらん物語」が収録されています。イラストは「鰐」の表紙にワニの絵を描いた真鍋博さんです。内容は廓の花魁と客の駆け引きから始まるんですがそれがいつのまにか現代にまで届く。

「おいらん物語」岩田宏詩・真鍋博イラスト(『岩田宏詩集』昭和四十一年[一九六六年]思潮社刊所収) 初版は『絵本 おいらん物語』で昭和三十四年(一九五九年)書肆ユリイカ刊 限定三〇〇部
ああ のろい呪い
さんしち二十一 さんく二十七
質屋の蔵の裏の草
腐った藁 笑う虻
油は黒い鍋より黒ずみ
炭を男は絶やさなかった
悪臭を雨戸がささえた
こんなふうに続く軽くてリズミカルな戯作調作品です。岩田さんはラジオドラマも書いていますが荒唐無稽で気楽な作品では池上さんがおっしゃったようなリズム感が出る。詩に物語性を持ち込むことも多かった詩人でもある。ただ力の入った詩になるとリズムは抑制されてしまう。後に詩をやめて小説を書き始めるわけですが、じゃあ小説がリズミカルかというとぜんぜんそうではない。基本、読みにくくて固い文体の純文学小説です。
■岩田宏の小説について■
池上 ぼくが読んだ岩田宏の小説集は『社長の不在』だけですが、ショートショートなんですね。星新一の作品を私小説にしたような感じというか、不思議なテイストの小説です。
鶴山 カフカ的でもあるかな。詩と小説が収録された『最前線』を含めると岩田さんは十冊小説集を出しています。初期は短編でしたが五冊目の『踊ろうぜ』(昭和五十九年[一九八四年])から最後の小説になった『九(ここの)』(平成十年[一九九八年])までは長編です。いい機会だから読んでみましたがうーん、小説としてはどうかな。
『正岡子規論』で書きましたが「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」が一つの典型的な詩の表現です。読んだ(聞いた)とたんに「ああそうありたいものだね」と多くの人が直観で真理のようなものを把握する。これに対して小説は「絶対雨に濡れたくないけど傘がない、買う金もない。あそこに傘を持ったいい女が立ってる。あの女に声をかけて口説いて……」といった形で進む。乱暴なことを言えば小説は金と男女を描くもの。いけないとわかっていても、それでももつれてしまう矛盾した現世の人間関係を抉り出す。
もちろん小説と詩はまったく違う表現ではありません。小説も直観真理を表現することがあります。が、それは現世の汚濁の果にほんの少しだけ顔を覗かせるものです。詩で現世の混乱を描く場合は必ずと言っていいほどそれを超脱した高次審級の観念が措定されている。
詩の直観表現に慣れた詩人が手慣れで小説を書くと現実遊離したファンタジー的小説になりやすい。岩田さんの小説をカフカ的と言ったのはそういう面があるからです。しかしカフカのような厳しさはない。カフカは律法を肉体的現世と捉えた作家です。抽象的に感じられますがカフカ小説は複雑で奥行きの深い律法を現世と捉え地上に留まっている。決して抽象観念に飛躍することがない。ただ岩田さんの小説が詩人ファンタジー小説かといえばそうとも言えない。
火の色、煙の色。突然、洋二は四畳半に駆け戻り、一つの本の束から数冊の薄い雑誌を引き抜いて、何かに急かされるように焚火へ取って返すと、揺れ動く炎に雑誌を投じる。燔祭には贄が必要だ。今日の供物は洋二自身の昔の戯曲だ。とうとうやってしまった。これでよし。(中略)しかし、考えてみれば、この火遊びもまた無駄なことだ。焼き払うべきものは、ほんとうはこの荒ら屋だったのかもしれない。それができないから、こんな儀式めいた遊びに逃げている。だが気分は悪くない。神経の末端に至るまで洗われたように清々しい。
荒い息づかいと生臭さに気づいて、洋二は振り向いた。斜めうしろ、すぐそばに、猟鬼が来ている。(中略)目頭の目脂を、口からはみ出た長い舌を、ぬめぬめと光る口角の黒い肉を、洋二はとくと眺めながら、巨大な犬に話しかける。
「どうした。火がこわくないのか」
(べつに)と、犬は答える。
「普段はここまで入って来ないのに。焚火を見に来たんだね」
(ええ)(中略)
会話が途切れる。洋二と犬は無言で火を見つめる。ややあって、犬が言う。
(もう行ってもいいですか)
「じゃ、さよなら」
猟鬼はゆっくりと尻を上げ、灰色の毛に覆われた巨体は生垣の切れ目に向かって動き出す。洋二は地べたから小枝を拾って、力の弱まりかけた焚火をつつき始める。
岩田宏『九(ここの)』(平成十年[一九九八年])
『九(ここの)』は文学青年の洋二が主人公の小説です。岩田さんの自伝小説を期待して読みましたがそういう面もなきにしもあらずというくらいです。小説は基本人間の内面描写中心です。地の文の独白だろうと他者との会話だろうと主人公の内面が表現されないと深みが出ない。特に私小説的自伝小説はそうです。しかし岩田小説には内面描写がほとんどない。地の文でも会話でも主人公の外面描写によって小説が進む。
引用は『九(ここの)』最終部ですが唐突に「猟鬼(犬)」が現れ洋二と会話する。自分が書き溜めた大切な作品を火にくべる洋二にはもはや現世で会話する人間はいないということだと思います。しかしやはり唐突ですぐれた展開とは言えない。彼は世界を焼き尽くしたかった。それが表現されておらず危ういバランスで現実世界でうずくまってしまう。徹底して内面描写を欠く岩田小説は平板になりがちです。
十代の頃、本を出す出版社という所は薔薇色に光り輝く存在だったが。……天文台も薔薇色だった。研究室、研究所のたぐいも。
*
そこでは、商品は本だ。なのに、そこでは印刷しない、製本しない、販売しない、校正さえしない。そういう下賤なことはすべて第三者がやってくれる。
*
永いこと大学にいると駄目になる。大学に長居は無用。同様に、出版社に長居は無用。天文台にも。家庭にも。人生にも?
*
何者かの巨きな足跡に水が溜まり……(中略)
*
すべての宗教に金は付きもの。なぜか。宗教が集団の形態しか取らないから。なぜ集団なのか。宗教が救済を主張するから。
*
救済を主張する瞬間から、宗教には独特のあわただしさが現れ、「教義」は疑似哲学、エセ哲学へと成り下がる。
*
ほんとうに救われたいのか。よく考えろ。
*
何者かの巨きな足跡に水が溜まり、そこに水草が生えて、魚さえ泳ぎまわり……
岩田宏「メモ帳から」(エッセイ集『渡り歩き』平成十三年[二〇〇一年]刊所収)
エッセイ集『渡り歩き』所収の「メモ帳から」は珍しく岩田さんの生の声が聞こえて来るような断片です。岩田さんは現世の虚偽や矛盾を激しく嫌った。それは出版などの実業から大学、宗教などのいっけん崇高そうな営為にまで及ぶ。人間世界でどうしようもなく生じてしまう汚濁を激しく嫌悪する潔癖な人だったと思います。
理論は論理としてはほぼ無矛盾に構築することができます。それがすぐれた理論というものです。しかし理論を現実に援用すると一気に矛盾が噴き出す。マルクス主義理論はその典型です。岩田さんは詩で崇高な理想であるはずの革命を普通の市民の視線で茶化しショパンなどの非―言語の音楽を人間精神の最高位に置いた気配がある。そういう意味で池上さんが岩田さんの詩の最もすぐれた点が内的リズムにあると指摘なさったのは大変鋭い。しかしそれが文筆家・岩田宏の特異で困難なポイントでもある。音楽(内的リズム)を言語化するのはほぼ不可能です。
高い詩人の資質を持っていた人ですから岩田さんは詩では世界を直観把握しなければならないことを知っていた。しかし岩田さんの方法(資質)は上位審級から世界を一気に相対化するものではなかった。同じく鋭い社会批判的視線を持っていた飯島さんと初期に論争しているのもそれが理由だと思います。岩田さんと飯島さんでは世界把握の方法が大きく違った。
詩は日常言語を使って日常言語以上の観念を言語化しようとする表現です。岩田さんは日常世界と同じ平面でその矛盾や汚濁に対峙した。詩を書かなくなった大きな理由はやはり彼の個の理想や倫理がじょじょに強大で巨大な世界に侵食されていったからでしょうね。微かな旋律のようなものを至高としましたがそれでは詩を支えきれなかった。
ただ彼は堀川さんのようにスパッと文筆活動をやめたわけではない。詩は書かなくなったけど社会批評は続けた谷川さんとも異なる。岩田さんが晩年まで小説を書き続けたのはそこに彼の〝救済〟のようなものがあったからではないか。岩田小説の主人公は普通の市民で大きな事件は起こらない。内面描写は乏しく人々が出会い別れてゆく淡々とした作品がほとんどです。しかしその漂白されたような日常を描くことが彼の救済だったのではないか。
池上 詩を書かなくなったターニングポイントはあるんでしょうか。
鶴山 さきほどあげた詩と小説集の『最前線』です。詩人は多かれ少なかれ精神先行型でぬらりとした資質の小説家とは異なる。詩をやめるにしてもその痕跡をまったく残さないということはない。あからさまではないですが軌跡を言語化します。

『最前線』(昭和四十七年[一九七二年]青土社刊)
売り買いの船が
海流のまんなかに
錨を下ろして動かない
理解もし乖離も
するが(ああ)決して
怒りには花を捧げぬ友らよ
諸兄の参集日は私の弔いの日だ
現し世ではもはや二度と逢えまい
麗しの諸兄の言葉は既にして
渦潮に没せんとする船の帆柱の
セントエルモの火だ。
『最前線』巻頭に置かれた「海難」です。自筆年譜で「今は何にも所属していない。気楽なもんだ」と書いたのは昭和四十二年(一九六七年)ですが『最前線』刊行は四十七年(七二年)です。世界の矛盾や汚濁を知りながら「怒りには花を捧げぬ友ら」を指弾している。友らが書く詩は「渦潮に没せんとする船の帆柱の/セントエルモの火だ」と批判している。「鰐」同人を始めとする親しかった詩人たちは間違いなく「海難」を岩田さんの決別の辞と受け取ったでしょうね。ただ「セントエルモの火」は同時代詩人たちとは違う文脈で岩田さんの詩にも及んだ。岩田さんは詩の世界から消えて小説を書き翻訳を仕事とするようになった。
池上 とてもいい詩ですね。結局、岩田宏が考えた「集団」を実現しようとする同志はいなかったということが、詩をやめた理由なのかもしれないと思いました。萩野さんはどう思われますか。
萩野 不勉強でお恥ずかしいんですけど、僕は岩田宏の小説って読んだことがないんです。「現世の虚偽や矛盾を激しく嫌った」と鶴山さんが仰ったような話を伺うと、さっきも言いましたけどやっぱり親父の世代の人なんだなと、そのあたりはよく腑に落ちるんです。そういう一種の高潔さは、小説家は持っていちゃダメだとは言わないけど、あまり役には立ちませんよね。どちらかと言えば品性下劣な人の方が向いてる(笑)。一方で高次な抽象や観念の世界に遊ぶのはいいんです。でもそれ以上か同じくらい矛盾や汚濁の中にどっぷり浸かっていないと気持ち悪くてしょうがないのが小説家じゃないですか。僕の親父は俳句をやってましたけど、花鳥風月に自己を溶融させる世界よりブラックを含めたユーモアのセンスの方があったのに気づかなかったから、それ以上先へ行けなかった。ちなみにいま僕は十九世紀デンマークの人で、実存主義の先駆けと言われるセーレン・キェルケゴールの『死に至る病』を読んでいて、それで思うんですが、この人はピュアで熱烈な信仰者でありながら卑俗な面が少なからずあってね、それをさらけ出すのを厭わないどころか、むしろ世俗から垂直に一足飛びに神へと向かっちゃうような人なんですね。その原動力は信仰ですけど、矛盾を乗り越える方法的論理としては弁証法です。ヘーゲルに張り合ってるんですね。詩人のつむぐ言葉にはどこか同じような垂直性を感じます。そこへ行くと小説家の言葉はどこまでも水平です。超越がありませんから。現実の泥沼が住処ですからね。キェルケゴールはそんな水平性と垂直性とを併せ持った作家です。さて、岩田さんて人の本質は詩人なんでしょうか。それとも小説家なんでしょうか。お二人の話を伺っていて、「漂白されたような日常を描くことが彼の救済」と鶴山さんが仰ったような岩田さんの小説世界をちょいとばかり覗いてみたい気持ちになりました。かくいう僕自身はですね、救済を求めるフリをしながら堕ちていきたい欲望を隠し切れないような人間ですけど。

萩野篤人
鶴山 作家は書いたものがすべてなので詩人でしょうね。ただ岩田宏論としては小説も重要です。僕はその意図を十全に理解できなかったですが岩田さんの小説を好む人はもっと突っ込んだアプローチができると思います。
池上 ぼくが岩田宏の詩をリアルタイムで読んだ詩が一篇だけあります。昭和五十三年(一九七八年)に発表された「会葬」という作品で、これは石原吉郎が亡くなったときに書かれた追悼の詩です。詩集には未収録の作品ですが、現代詩文庫『続・岩田宏詩集』で読むことができます。
会葬
いつか石原吉郎は私の娘のために小児用バーベルを買い、同じ日、酔ってフラメンコを踊った。
ぼくにはよく分らない
秋の花も 祭司のことばも
なぜ今ことばが要るのだろう
みんなは階段に列をつくっている
空は藍色で 石の建物は冷たい
高気圧はシベリヤ地方から
伊豆半島まで張り出している
日だまりに立って ぼくは思い出す
土は争いのたねで 土を拒む人は
外国のことばを学び スペインでは
内乱が終熄した どこの教会にも
偽善者がいるし だれの心も
カスタネットと自動小銃のあいだで
すこしずつ冷えてゆくらしい
ぼくにはどうも分らない
自殺はひとつの贅沢だろうか
詩になりそこねたことばの群が
風に吹かれて商店街に散らばるのは
そんなに悲しい眺めだろうか
諦めて帰るのは会葬者だけではない
年上や年下のともがらを語らって
冷たい葡萄酒をぼくは飲む
黒いネクタイを締めたままで
むしろ屈託なく喋りちらす
人もまた冷えきって
一人で死ぬのだと。
すでに詩を書かなくなっていた時期の作品ですが、衰えは感じませんね。さらっと書いているようで「土を拒む人は/外国のことばを学び」とか「どこの教会にも/偽善者がいるし」とか「自殺はひとつの贅沢だろうか」という詩行にはいろいろな含みがある。石原吉郎の追悼詩は多くの詩人が書いていますが、岩田宏の「会葬」は、ただ詩人を悼むだけではなく、自分との距離を冷静に見つめつつ心がこもっていて、いちばんすぐれた詩だと思います。
鶴山 「自殺はひとつの贅沢だろうか」とありますが石原さんは自殺ではない。ただ「詩人もまた冷えきって/一人で死ぬのだと。」書いている。厭世的ですねぇ。ロシア文学好きはちょっとマゾヒスティックなところがあるけど岩田さんは石原さんに共鳴する部分が多かったんだろうな。
池上 「会葬」はこれまで紹介してきた岩田宏の代表作とはまた違った作風で、とても成熟した作品ですよね。「荒地」派の詩と言ってもいいくらいです。こういう感じでもっと詩を書いてほしかった。萩野さんが好きな岩田宏の作品は何ですか。
萩野 詩集『いやな唄』所収の「信じないで」という詩があります。
老婆が
ラーメンを鎌倉駅前の
レストランでたべてから切符売場へむかって
ロータリーを廻ったとき
ルーズなタクシーが
法律を無視して
あぶない! でも
実に立派な
立派な青年がとびだしたんだ
ぼくはそいつを好かない
服装そいつ清潔
ふけなんかないし
ことばはしっとり上品で
こどもも一人ぐらいはいるだろう
電車ではきっと老婆に席をゆずる たとえば
ぼくのおふくろにも
かあさん! どこへ行くんですか
知ってる かあさんは神も仏も信じなかった
神も仏もありゃしないこの世をこわがっていた
体がこわばるほどのぼくのやさしさを
信じないで
死んじまった……
かあさん!
電車でどこへ行くんですか
僕はかつて鎌倉に長らく住んでいましたから、駅前のレストランのラーメンの情景や味が具体的に浮かぶんですが、そんな日常的な表現の中に岩田さんの世界観がよく表れていていい詩ですね。この詩にはなんの希望も絶望もない。現実を冷ややかに見つめてそのままを書いています。たんなる正義などもちろん信じてないし、好青年がキライなんだなやっぱり(笑)。岩田宏という詩人は現実を真っすぐ見つめてピクリとも眼を逸らさないですね。「ぼく」はほんとは情の深い優しい人物なんだけど、そんなことは〈無〉意味だと透徹している。達観じゃなくて透徹してるんだな。死んだ「かあさん」のその死の行き先をじいっと見つめている。「電車でどこへ行くんですか」という最後の一行が効いてますね。「どこへ行くんですか」じゃなくて頭に「電車で」って。これがいい。「戦後社会」に乗り合わせることを拒み、それに根底からの疑義を差しはさみながら、抗ってもどうにもならない絶望のその先を、けっして届きえない〈無〉をただじいっと見据えている。こういう作品が書けるところが、小説家じゃなく詩人と呼ばれるにふさわしいんでしょうね。
池上 確かにおっしゃるとおり、現実をクールな眼差しで描くのが岩田宏の資質だと思います。岩田宏は現代詩的な詩的言語を追求するのではなく、いわゆる普通の日常的な言葉を使って、リズミカルでシニカルでウイットがある詩を書いたユニークな詩人でした。岩田宏こそ最後の戦後詩人じゃないかとぼくは思っているんですけどね。
鶴山 戦後の詩の転機になったのは一九六〇年代でね。今から振り返るとどっぷり戦後なんですが『経済白書』が「もはや戦後ではない」(一九五六年)と書いて高度経済成長が始まった時代です。「荒地」派が抱えたような戦争の傷が薄れ明るい未来に歩み出した時代だった。またこの時代に詩壇を含む文学ジャーナリズムが確立され六〇・七〇年代に全盛になった。
この時期、多くの詩人が詩壇ジャーナリズムに乗っかりました。「凶区」篇であの時代が詩人たちが独自のメディアを持つことができる最後の時代だったと言いましたが「凶区」の詩人たちは次々に文学ジャーナリズムに自分から取り込まれていった。はっきり言えば同人詩誌は未熟な詩人たちが詩壇デビューするための踏み台に成り下がっていった。見るべき同人詩誌が発行されていたのはおおむね六〇年代までです。その後の詩人たちはすぐれた詩を書くより詩人と呼ばれ文学ジャーナリズム世界で生き残ることを優先させた面が確実にあると思います。
もちろん「荒地」の詩人たちも文学ジャーナリズムで活躍しました。が、そこには詩壇ジャーナリズムを相対化するような投げやりな潔癖さがあった。それは岩田宏、堀川正美、谷川雁といった詩をやめていった詩人たちも同様です。別に詩を書かなくなったことを賛美しているわけではないですが彼らは意に染まない衰弱した詩を書き続けることよりも自己の思想に忠実だった。
この討議では毎回のように「この詩人は今では読まれていないですが」という言葉を枕詞のように置いています。ただ読まれていないのは時間が経って詩人にまとわりついていた付加価値のようなものが脱落しそれほど優れた詩ではないことが露わになった場合と、時代が大きく変化して過去詩の評価基準を当面見失ってしまった場合の二つがある。
この討議で取り上げる詩人たちは一流です。詩の評価文脈を再定義すれば将来も読み継がれると思う。それは詩人に強い思想があるからです。岩田宏は剣呑で潔癖。それがときに奇妙なユーモアになって表現された。戦後詩と現代詩をマージさせて生き延びていった〝戦後の詩〟とは明らかに違う。詩人はすぐれた詩を書くのが仕事。衰弱した現代詩よりも岩田宏の沈黙の方が学ぶべきものが多い。
池上 岩田宏は詩は書かなくなりましたが、晩年にマヤコフスキーの詩を新訳しました。すぐれた翻訳者は、翻訳を通して、つまり日本語を使って原作者の文学と同時に自分の文学を表現していく面があると思うのですが、岩田宏のマヤコフスキーの訳詩はまさにそうじゃないでしょうか。
鶴山 マヤコの詩は岩田さんの理想に近かったんでしょうね。マヤコほど自在になれなかったから。ただ岩田さんのマヤコ愛にも学ぶべきものがある。岩田さんは「物事の本質を見極める地点にまで立ち返ることは困難だが魅力的作業である。詩文芸の分野では、それは硬直した純粋言語の「極北」へ私たちが赴くためではなく、逆に私たちの現代地点へ極北や熱帯の言葉を奪還するために必要な手続きなのである」(「『詩とマルキシズム』あとがき」『同志たち、ごはんですよ』所収)と書いた。岩田さんは現代詩的修辞を嫌ったわけですがマヤコは徹底した現実主義だった。
現代詩は抽象的詩法に傾き過ぎた。英米詩やロシア詩がそのカウンターカルチャーになるわけですが、詩に現実を取り戻すには英米詩よりマヤコの詩の方が参考になると思う。ロシアは半分アジアだから。もちろん岩田さんの詩も詩の現実回帰の手がかりになると思います。
(金魚屋スタジオにて収録)
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