寅間心閑さんの連載小説『オトコは遅々として』(第12回)をアップしましたぁ。寅間さんの小説にはときおり男の子の悲哀が入り混じりますね。まあ男の子なら身に覚えがあるかも。
自分の娘がリッちゃんと同じくらいの歳になったら、と考えたが、すぐに俺はその頃四十歳だと気付いて落ち込んだ。靴屋の前には部活帰りらしき男子高校生が三、四人溜まり、スニーカーを指差しては何か言い合っている。全人類の中で一番役に立たない人種。それは中高生の男子だ。見た目は汚いし、話はつまらないし、欲望のコントロールが下手。OBが言うんだから間違いない。俺もあの時期は相当役に立たなかった。マンガとコーラとエロ動画で毎日生きていた。
あれから十五、六年。本質的には全く変わってないのかもしれない。そのものズバリではないが、マンガ的な物とコーラ的な物とエロ動画的な物で、俺は今も日々を生き抜いている。単純だし、何より滑稽だ。その点、女の子はいい。実は男子と同じく中身はマンガとコーラとエロ動画なのかもしれないが、それでもあらゆる点で優れている。
そんな風に思うのは、元男子中高生だった俺の買いかぶりだろうか?
女の子同士の間には、実は全く違う価値観が存在するのだろうか?
寅間心閑『オトコは遅々として』
ジェンダー(簡単に言うと社会的性差)では男女平等が当然です。ただま、それでは小説を含めた文学は成り立たない。エンタメだってとたんにつまらなくなる。社会的権利としての男女平等とは別に〝現実の〟性差を活用しなければ文学もエンタメも成り立ちません。人間はいい意味でも悪い意味でも差別化を求めます。自己は独自であり他者とは違うと思いたい。それが様々な抑圧を生む。自己差別化(特別化)という人間欲求がなくならない限り(そうなれば人類は人類でなくなっちゃうでしょうけど)、大きな社会問題から生活上の細々とした衝突に至るまで、人間世界の軋轢はなくなりません。それを活かさなければ文学は本当につまんない表現になってしまう。
この抑圧の描き方は様々です。自己の性別を基準として、男女性差を対岸的に描いてもいいし、積極的に対岸的性差を取り入れる方法もある。男が女性性を持っていないわけではありません。女も然り。とっかかりさえ得られれば、対岸の性差は案外すんなり理解できる。谷崎潤一郎を見よ、ですかね(笑)。ただあくまで性差を対岸的に捉える場合は中途半端な対岸的性差の理解は禁物。特に小説では残酷で傲慢なほどの自己の性への居直りの方が作品に迫力が生まれることが多いです。
■ 寅間心閑 連載小説『オトコは遅々として』(第12回) 縦書版 ■
■ 寅間心閑 連載小説『オトコは遅々として』(第12回) 横書版 ■
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