萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評 No.010 浅田優真「親切な殺人」(文學界2025年5月号)、連載小説『春の墓標』(第15回)、連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第04回)をアップしましたぁ。
文芸誌時評は暴力についてです。『(暴力は)わたしたちの欲望や意志、愛憎や快楽と強く結びついています。だから表も裏もあり、つねに潜在しながら、あるとき必然性をまとって露出する。一方で嫌悪しながら、それを欲せずにいられない。それが「暴力」です』と批評しておられる。嫌悪されながら求められている、というより突然析出し露わになると、そこから筋道が見えて来る。
モーツアルト論では声が論じられます。『モーツァルトにとって作曲といういとなみは、世界がたえまなく発する形なき〈声〉をすくい取り、呼吸とリズムに乗せ、和声を与え、〈歌〉の中にひそかに差しはさむことだった』。この声は『亡霊たちのうめき声』とあるように原初は混沌としています。しかし混沌の中から唐突に歌が生まれることがある。歌が生まれて初めてその筋道が見える。混沌に溯行できない者は歌を聴き取れないということでもあります。
小説『春の墓標』の主人公は追いつめられています。『この前は、やせ細ってちょっと捻ればたやすく折れそうなこの首にゴム紐を巻きつけようとした。じぶんの父親だからだ。だからこそひと思いに楽にしてやろう、その後でじぶんも天井からぶら下がろうと思ったのだ。蛍光灯を根元から外して金具とネクタイを引っかければ、じぶんの重みならじゅうぶんぶら下がれる。そこまでたしかめていた。けれど実行におよぶべくベッドを覗き込んだときにぼくが見たものは、父親ではなかった。もはや誰でもなかった。主(あるじ)のないただの肉体がむき出しで横たわっていた。それはしずかに呼吸していた』とある。
宗教者は反発するでしょうがわたしたちの世界に〝救済〟はありません。地獄という奈落の極点がないように天国や極楽といった至福の極点もない。絶望するのは勝手ですが人間存在について本質的に考えるなら絶望もまた極点的逃避です。暴力や音楽、介護であれその原初の混沌から一つの人間的終着点までをじっと見つめること。それが人間的救済というものです。萩野文学は一貫しています。
■萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評 No.010 浅田優真「親切な殺人」(文學界2025年5月号)■
■萩野篤人 連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第04回)縦書版■
■萩野篤人 連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第04回)横書版■
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