大篠夏彦さんの文芸誌時評『文芸5誌』『すばる 2021年04、05、06月号』をアップしましたぁ。櫻木みわさんの「コークスが燃えている」、井上荒野さんの「錠剤F」、ミヤギフトシさんの「幾夜」を取り上げておられます。すばるさんは純文学誌の位置づけですが、三者三様の小説ですね。
大篠さんが書いておられますが、実態として純文学小説の定義はなかなか難しい。簡単に言えば1970年代頃までは純文学と大衆文学の区分がはっきりしていた。大衆文学は今よりうんと面白いエンタメ小説でした。情報化時代前ですから小説家が読者が知らない世界を小説で教えていたという面もあります。純文学は明らかに戦後文学――つまり広義の戦後思想に沿っていた。漠然としていましたが戦後思想という共通パラダイムの上に純文学小説が成り立っていたわけです。しかしそれは1980年代以降に見事なほど霧散してしまった。
問題があると思うのであえて書きますが、今の芥川賞に代表される純文学はかなりパッケージ化されています。これも大篠さんが書いておられましたが「リンゴかミカンかはっきりわかるように商品化されている」。最初の数ページを読むと「ああ、こりゃ例の退屈で読むのが座禅の修行のように辛い純文学か」と思ってしまうような書き方で書かれている。で、我慢して最後まで読んでもなにがなんだかわからない。物語がスッキリ何らかの結論に導かれることがないわけです。双六の最初に戻る的な小説が純文学になっているのですね。
じゃなんでそんな純文学がまかり通っているのかと言うと、読者が「わかんないのは自分が悪いんだろう。純文学って知的で高尚な文学なんだから、わかんないのは自分の知性や感受性が鈍いせいなんだろうな」と思ってしまうからです。そういう通念がまだ残存している。残存しているからステレオタイプ化した純文学小説がまかり通っている。
ただいずれメッキが剥げると思いますよ。あ、石川は別に今の純文学小説を敵視しているわけではぜんぜんないです。ただ大きな時代変化に合わせた大きな変化が小説にも求められています。今の時代、このままでいいという姿勢はとても危ういと思います。
■ 大篠夏彦『文芸誌時評 文芸5誌』櫻木みわ「コークスが燃えている」(すばる 2021年04月号)■
■ 大篠夏彦『文芸誌時評 文芸5誌』井上荒野「錠剤F」(すばる 2021年05月号)■
■ 大篠夏彦『文芸誌時評 文芸5誌』ミヤギフトシ「幾夜」(すばる 2021年06月号)■
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