高嶋秋穂さんの『詩誌時評・歌誌』『角川短歌』の2連投です。『特集 新春79歌人大競詠』と『特集 短歌のさじ加減』を取り上げておられます。ですます文体ですが高嶋さんの批評は厳しいですね。でも歌壇は俳壇と違ってリベラルですから、「そういう考え方もあるよね」で受け入れられるのではないかと思います。
今回はニューウェーブ短歌について少し論じておられます。ニューウェーブは俵万智さん以降の口語短歌の流れを更に極端に推し進めた一連の短歌運動(集団)です。面白い動きなのですが危なっかしいところもありますね。すんごく俗な危険性を言うと、セクショナリズム化が進んでいる気配があります。これはよろしくない。
ニューウェーブ歌人が理論を求め一定の表現様式があるかのように振る舞うのは技術的に未熟だからだとも言えます。高い技術を持っている作家は自ずからそれを壊すようになります。作品に書かれていないことまで読み取るのはいつの時代でも業界インサイダーだけです。新たな何かを求めて動き出す人間の思想感情がはっきり表現されていなければ読者がそれを読み取ることはない。茫漠とした表現を高く評価するのは単純に悪しき深読みです。
(高嶋秋穂)
文学批評を書く際の絶対的な掟に〝作品に書かれていない事柄は絶対に読んではいけない〟という不文律があります。よく作品の余白ということを言いますが、文学作品は隅から隅まで作家の意識で統御されています。言語表現は作家意識の言語化ですから当然ですね。そして作家の意識はいわゆる意識と無意識に分かれるわけで、作品に無意識が反映されていることは当然あります。それを作品の余白と言ったりするわけですが、そういった余白は作家意識の延長上にある無意識表現として読み解くことができます。しかし作品がまったく表現していない事柄を読み取るのは余白でも何でもない。たいていは批評家が表現したい事柄を作品に仮託して語っているだけです。それをやると作品批評からどんどん外れてゆきます。
ニューウェーブ短歌を巡る批評には批評家の牽強付会的な見解がとても多い。ただ詩の世界では実作者が批評家を兼ねるのが普通です。実作者で批評家でもある作家が牽強付会的な読解を行う場合、批評対象とした作品に決して満足していない場合が多い。ある意味理想とする作品を追い求めているから他者の作品には書かれていない事柄を批評で書いたりするわけです。その意味でニューウェーブ短歌にはまだ着地点が見えませんね。理想を追い求め続ける限り、牽強付会的な批評もムダではなかったということになるかもしれません。
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.059 特集 新春79歌人大競詠』(角川短歌 2019年01月号)■
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.060 特集 短歌のさじ加減』(2019年02月号)■
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