角川短歌編集部は本当に目配りがいいですね。目配りがいいというのは特定の主義主張や流行に偏らずいろんな意見や立場を公平に取り上げているということです。もちろんそれはジャーナリズムとして冷酷という意味でもあります。平地に乱を起こすような状況を作らなければ月刊誌ジャーナリズムは立ちゆかない。ただ公平で冷酷でもある雑誌運営の五年十年の積み重ねによって新風と呼べる土壌が出来上がるのなら歌壇ジャーナリズムは健全ということです。ほとんどの月刊文芸誌は結局はムダな波風を立てるだけで終わりますから。角川短歌が作り出している歌壇ジャーナリズムは今のところとても健全です。
近代短歌は私性、則ち私の表現を主軸としたが、現代短歌においては必ずしもその事は言えなくなった。ある程度まとまった歌を読んでも作者像は現れはしない。その類の歌の方が多いはずだ。
さらに言うなら、こんにちはミックス短歌の時代である。大多数は文語を基調として一部に口語が斡旋される形でのミックス短歌。更に進むと、むしろ口語が基調となり、部分的に文語が交じるミックス短歌。更にこんにちでは完全口語歌が確実に進展し、広く行われている。つまり、旧人はミックス短歌。十代、二十代、三十代の若者は完全口語短歌で歌う。それがこんにちの現代短歌の偽らざる姿であるだろう。
(奥村晃作「果敢なる挑戦-現代短歌(字余りと句跨り)はかく拓かれた」
短歌の実作は別として奥村晃作さんは決して評論が切れる作家ではありません。特集で「果敢なる挑戦-現代短歌(字余りと句跨がり)はかく拓かれた」を書いておられますが句跨り(五七五七七の短歌定型を守っているが意味で切ると定型にならない歌)の例で塚本邦雄と奥村さんの短歌教室で詠まれた生徒の歌を並べておられるところで批評家としての力量は見切られてしまいますね。両者は質的に違う。
つまり奥村さんが論じておられるのは字余りや句跨りの歌が「かく拓かれた」内実ではなく塚本を始めとする優れた先輩歌人たちがそのような歌を詠み歌壇で秀歌・名歌として認知されたので今日字余りや句跨りがごく一般的な短歌の書き方の一つになったということです。要するに現状追認。
ただそれは決して悪いことではありません。俳句では有季定型以外の作風を蛇蝎のように嫌い排除するので俳壇は非常に息苦しくなっています。その点歌壇はリベラルです。ある傾向の歌を詠む歌人が増えると「そういう歌もあってもいいね」とあっさり現状追認します。歌人たちは新たな試みに目くじら立てたりしない。とても物わかりがいい。奥村さんの現状追認は歌人としてごく一般的です。
では現代はどうまとめることができるのか。奥村さんは「①文語中心で口語が交じる短歌」「②口語中心で文語が交じる短歌」「③完全口語短歌」の三種類があり①②はおおむね四十代以降の歌人であり十代から三十代の若手は③の完全口語短歌だと論じておられます。「それがこんにちの現代短歌の偽らざる姿であるだろう」と結論づけておられます。
ただ「偽らざる姿であるだろう」という強調は批評家がよく使う誤魔化しですね。別にある真理が露わになっているわけではない。今の短歌を①②③に大別できるは確かですが①②と③で四十代以降の歌人と十~三十代の若手歌人が分かれるわけではない。
もう三十年以上も前の俵万智さんの『サラダ記念日』の時代なら文語に口語が交じるのか口語に文語が交じるのかは大問題だったでしょうが今は違います。完全口語短歌を詠む歌人たちがいるわけですから①②はいずれも短歌保守派・王道派と呼んでいい。つまり今の短歌の「偽らざる姿」を強調するなら〝完全口語短歌は新しく面白い試みだがその行き着く先が見えない〟ということになるでしょうね。
簡単に言えば完全口語短歌はなんらかの変化を短歌にもたらしそうだがそれが何かはっきりわからない。もっと噛み砕くと「無視すると短歌の新たな富を失うことになりそうだし頭から加担すると痛い目に遭いそうだ」というのが今の完全口語短歌の危うくもスリリングな立ち位置です。
新しさは、多分に偶発的である。アクシデントなのだ。青天井で好き勝手にやったらよい。しかし、それでは継承されない。偶発的な事象を方法としなければならない。ニューウェーブは、偶発的な事象に名前を付けて方法としたのである。
以下のQRコードを読み取って世界にアクセスしてください 誤 住谷正浩
ことばかさねてもWebだねぼくたちは割られw砕かれw散らされ 内山祐樹
はやくなる呼吸に合わせてデジタルの分と時をわける:(点滅) 外川菊絵
毎日歌壇の入選作品から引いた。今、毎日歌壇には先鋭化した現代短歌が集っている。二〇一八年はニューウェーブ三十年に当たる年だった。そのレトリック〈表記的喩〉は継承されたと言えるだろう。新しさは止まらない。
(加藤治郎「ニューウェーブ三十年」)
加藤治郎さんは毎日歌壇選者です。ということは歌壇で一定の影響力を持つ中堅以上の歌人ということです。加藤さんによると「一九九〇年代のニューウェーブは、口語体を基盤として、解釈不能・音読不能の記号的表現を試みた。ニューウェーブを他と識別するのは「解釈不能・音読不能の記号的表現」が作品にあるかどうかである」ということになります。
ちょっと意地悪なことを言うと加藤さんのように視線が歌壇に釘付けになっていて毎月毎月ちょっとした差異を大仰に取り上げる作家がいるから歌壇ジャーナリズムは活況を呈して見えるのです。しかし短歌に限らす俳句・自由詩の世界でも月ごとに詩の状況が変わることはない。また批評家は自分一人で何事かにケリをつけようとする悪しき欲望を抱きがちです。急いで結論を断定しがちなんですね。
加藤さんが書いておられるようにニューウェーブ短歌の特徴は「解釈不能・音読不能の記号的表現」にあるのでしょうか。違いますね。また「毎日歌壇には先鋭化した現代短歌が集って」おりニューウェーブ短歌の「レトリック〈表記的喩〉は継承され」「新しさは止まらない」のか。これも勇み足です。
俳人ほど頭が固くないですから歌人は詩が詩として成立するためには作家がこれは短歌であると宣言し読者がなるほど短歌だねと肯定する必要があるとおわかりでしょう。岡目八目で見れば毎日歌壇投稿歌人の歌は一般読者から短歌と認知されない可能性が高い。つまり歌壇内でのみ通用する鐚銭のようなものです。「わかるよわかるよ君たちのやりたいことはわかるよだから僕の所においで最低限の歌壇的援助はしてあげるから」の師・岡井隆さんの悪い影響を受けたのかな。若者は年長者に反発しがちですが誉めてくれる人には簡単になつく。しかしそんなことしてどうする。
加藤さんはまた「ニューウェーブが企てたのは、今まで開示されることのなかった意識をどう言語表現として見えるようにするかである」と論じておられます。その具体的方法は「直喩でも暗喩でもオノパトペ(擬音語・擬態語)でもない。記号を使ったレトリックが生まれる。これはレトリックの発見と同時に意識の有りようが目に見えるようになったということだ」と書いておられます。
しかし記号の羅列は詩にならないわけでそれを短歌の新しい試みとして評価するには批評家の主観的評価――つまり詭弁すれすれの批評レトリックが必要になります。ニューウェーブ短歌で「今まで開示されることのなかった意識」が開示されているわけではありません。実作を読めばむしろ〝表現すべき新たな意識などない〟ことが表現されていることがわかるはずです。
若い歌人は手軽に自分を表現する手段として口語で短歌を詠み始めます。しかしそれだけでは物足りなくなる。なぜ物足りなくなるのか。短歌に本気になると今生きている現代社会をドンピシャで表現した短歌を詠みたくなるからです。しかし同時代を見回しても戦後の近過去を見ても古典短歌を読んでもヒントすら見当たらない。かといって既存の結社には所属したくない。それには違和感がある。となると小さいながらも安全保障機構としてカテゴライズされたニューウェーブ短歌の枠組みに留まらざるを得ないことになります。消極的選択です。
しかし次々に後付け理論を考案するニューウェーブ短歌には強い閉塞感が漂っています。理論を重ねれば重ねるほど自縄自縛に陥ってゆく。いわゆる伝統短歌すらその原理的基盤がはっきしないのに新たに現れたニューウェーブ短歌を理論規定できるわけがない。思いついた順に状況的差異を理論化すれば混乱が増すばかりです。
また理論で難しいことを言ってもニューウェーブ短歌には歌としての絶対的魅力がない。ニューウェーブ歌人と呼ばれていようがいまいが意欲的歌人はそこから抜け出したいはずです。方法は二つ。ニューウェーブ短歌の代表者になり弱者たちの王になって一定の社会的満足を得るか本当に新らしい短歌を詠むかです。僭主の寿命は短く本当に新たな短歌を詠むには長い努力の時間が必要です。ニューウェーブ短歌が抱える本質的問題は技法といったレトリックにはないのです。
若いとか煽てられつつ歩むかな前置詞めけるポプラの脇を
黒鴉散歩のわれの横に来て歩いてみせてカアーと飛び立つ
向日葵のわが内に朽ち始め誰かゴッホを呼んできてくれ
暫定的季節だからこそ二月の北よりの風に吹かれてそのまま
家庭とはギリシア神話の時代より変わらぬものと納得納得
二本杖を友人として空を見る秋には秋のポリシーの溢れ
体内の一寸法師があばれ出す日本酒を少し飲んだせいかも
(疋田和男「納得納得」)
短歌は「私を歌う芸術だ」と言いますが揚げ足を取るように「私性が感じられない歌は故に新しいのだ」と言ってもなんの意味もありません。短歌に限らず創作は私的表現です。どんな場合でも私性がどこに向かうのかが問題です。それを明示せず単に私性の痕跡を消しただけの短歌は逃げに過ぎません。
疋田和男さんは「納得納得」で日常を歌っておられますが内容は社会や家族の間で起きた出来事ではありません。疋田さんの内面であり連作のテーマは抽象観念です。「吹かれてそのまま」「変わらぬものと納得納得」「秋には秋のポリシーの溢れ」と世界を肯定する意識が表現されています。その一方で消えかかった内面の火を再び熾すために「誰かゴッホを呼んできてくれ」と呼びかけます。「体内の一寸法師があばれ出す」も同じ表現ですね。決して現状に満足していない。
ニューウェーブ歌人が理論を求め一定の表現様式があるかのように振る舞うのは技術的に未熟だからだとも言えます。高い技術を持っている作家は自ずからそれを壊すようになります。作品に書かれていないことまで読み取るのはいつの時代でも業界インサイダーだけです。新たな何かを求めて動き出す人間の思想感情がはっきり表現されていなければ読者がそれを読み取ることはない。茫漠とした表現を高く評価するのは単純に悪しき深読みです。
高嶋秋穂
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