新年号は恒例の「歌人大競詠」です。ちゃんと歌を取り上げますがその前にちょっと寄り道を。
SNSの普及で年賀状の発行枚数が減り続けていますがこのところ再びその効用が見直されています。〝生存確認〟が大きな理由のようです。年を重ねると「そのうち会おうよ」と電話で話したりしても実際に会うのは年に一度くらいになってしまいます。若い頃は長電話好きでもだんだん電話嫌いになりますからそのうち電話すらしなくなって年賀状のやり取りだけになる。生きているのか住所は変わっていないのかなどを確認する手段が年賀状だけになってしまうんです。しかし歌人はそんな心配が少ないでしょうね。作品から近況がわかります。
たつたひとつの月はとこしへわたくしはたつたひとりの夫をなくしぬ
指さして虹みし日はあれつくづくと二人月みし思ひ出あらず
頼られてゐるとおもひし賢しらや夫あるはすなはち力なりしに
出で入るはひとつわが身とわが影とわづかな風とのみ知る扉
遠富士も見えゐむ高みのビルの縁さもはればれと啼く鴉をり
(蒔田さくら子「扉」より)
蒔田さくら子さんは旦那様を亡くされた歌を詠んでおられます。同じテーマを俳句で詠むともっと突き放した表現になるはずです。またエクストリームな口語歌人を含め短歌を文学として考える方はこういった歌をベタで掟破りと感じるかもしれません。しかし短歌という表現を選びながら自ら課した制約で感情の高みをストレートに歌えなくなってしまうのも問題です。絶唱が短歌の大きな富であるのは間違いありません。
最初の「たつたひとつの月は」が印象に残ります。この歌が響くのは平仮名が多いからです。作家の虚脱感が平仮名の多用になって表れているように思えます。ただ作家が意識と無意識の狭間でその効果を最大限に引き出しているとは言えない。もちろん蒔田さんは「扉」連作で素直に夫を悼んだだけで作品意識が薄かったのかもしれません。しかし一方で最愛の人を亡くした悲しみを短歌で表現するのは歌人の業です。そこを歌人は読み取るべきでしょうね。
蒔田さんの歌を読むと平仮名多用の歌から漢字交じりの歌を書いてゆくと精神が再構築されてゆくような効果が得られると気づく歌人はいるでしょうね。また「扉」はこの場合外に出るための開口部ではなく永遠に出入りする敷居の喩の方が効果的だと気づくはずです。意識しなければ技巧は身につきませんが本当に技巧を活かすのは作家の無意識です。他者の優れた作品を読むのは技巧を上達させてそれを無意識的に使えるようになるためです。
一面に白き花咲く丘を過ぎ落日に向かい遠く行く者よ
冷えながら輝く冬の朝焼けの川を渡りて遠く行く者よ
雨近き空に微光の残りいるこの世を過ぎて遠く行く者よ
昇り来る朝日に祈る人がいる爪を剥がされ鼻削がれても
沈み行く夕陽に祈る人がいる息子を殺され家焼かれても
行くためにただ行く旅の苦しみは眩しくて見えぬ向こう岸まで
大河を越え草原を越え生きてゆく苦楽を越えて遠く行く者よ
(谷岡亜紀「遠く行く者よ」)
谷岡亜紀さんの短歌は作家の実人生で起こった事柄を詠んだわけではなくテーマは抽象的観念です。それは「行くためにただ行く旅の苦しみは眩しくて見えぬ向こう岸まで」の歌にはっきり表現されています。苦しみ多く先の見えない人生をひたすらに歩まざるを得ない人間存在の本質がテーマになっています。
しかしこの連作で読者が一番魅力を感じるのは繰り返し出て来る「遠く行く者よ」という言葉でしょうね。自由詩では谷川俊太郎さんの「悲しみはむきかけのりんご」など「悲しみは○○」といった形でリフレーンを効果的に使う手法があります。詩行の頭か終わりで同じ表現を使うわけです。
短歌は自由詩と違い一首一首独立していますからリフレーンといっても使い方に工夫が必要です。ただ「遠く行く者よ」という言葉を繰り返すならその効果を最大限に引き出す方法はアリです。テーマを直截に表現するよりある言葉の繰り返しの方がテーマの魅力を引き出す場合もあるのです。ネタバレするような歌ではなくリフレーンでテーマを限界まで引き伸ばすわけです。そうすると思いがけない作品が生まれたりする。
もちろん谷岡さんの意図は別にあるわけですが他者作品に魅力を感じたらその理由がどこにあるのか考え自分の表現にしてしまうのはとても大事なことです。たとえば「遠く行く者よ」で二十とか三十首書けば間違いなく表現が苦しくなる。そこを抜け出そうと歌が暴れ出す。その苦しい瞬間にテーマが露わになり次のテーマに移るという手法は歌集などを編む時に必要なテクニックになるでしょうね。
幾人を殺めし男 川の辺に事の次第を語り始めぬ
草の間の雪衣が出でて悪漢の旅装束を整へゆけり
拍子木の音に夢よりわが目覚め遠き舞台の現にかへる
究極は悪が滅ぶる理を数段飛んでめでたしめでたし
寺山を追ひて迷路に入りゆきし小川太郎を思ひてゐたり
街頭の風に私を立たしめむ忘れしセリフ呼び戻すまで
一枚のベニヤが仕切る過去・未来霞む山並み夕陽が沈む
(内藤明「廻り舞台」)
内藤明さんの「廻り舞台」の基本は虚構=フィクション世界です。物語なら対話になるところですが短歌ですから「幾人を殺めし男 川の辺に事の次第を語り始めぬ」と独白になります。これ以降の展開は二通り想定できます。悪人である男の内面描写に赴くか現実に戻すかです。
「現にかへる」とありますから後者の道行きが選択されています。そして「究極は悪が滅ぶる理を数段飛んでめでたしめでたし」という魅力的な歌が続きます。これがフィクションで始まった連作の一応の大団円になります。虚構である以上なんらかの形で現実に戻らなければならないわけですがそこには飛躍があります。この虚構と現実の間にある断絶(飛躍)をより高みから見た勧善懲悪的な「数段飛んでめでたしめでたし」でまとめたわけです。この大団円の後は微かなフィクションの気配を引きずりながら歌は具体的な現実を描写し始めます。
内藤さんのようなわかりやすい形でなくても歌人がフィクションを援用することはしばしばあります。フィクションはこの場合作家が実際に体験していない事柄という意味ではなく明らかに架空の時空間を設定するということです。この架空の時空間というフィクションを設定すると歌は書きやすくなりますがやはりだんだん苦しくなる。どこかで現実の地平に戻してやらなくてはなりません。
もちろん読者が「これは苦しいね」と感じてしまうのは避けたい。ただフィクションで押し通すのは無理があり現実べったりだと表現やテーマが平板になってしまう。そこをどうバランスを取ってゆくのかが歌人の次のテクニックということになるでしょうね。最初からフィクションとネタバレさせてしまっているような形で虚構的短歌を詠むのが一番穏やかなテクニックかもしれません。
見透かされない顔で笑むとき水深はわたしも分からなくて心の
でも触れてあなたを噛んでわたくしを残す日の万華鏡のかたむき
この世の何処に眼はあるか くるりくるりと誰かのカレイドの中にいて
君もどこかの鏡に映る君であり両手で化粧水つけてやりぬ
疚しさから裂けて溢れるやさしさの、くらぐらと瞼も思考の裂け目
いつだって言葉の前に価値があり呼ぶたび君を彷れる我か
答えばかりを探してしまうね秋の穂におぉいと喚べりやさしき黙よ
(立花開「やさしき黙」)
最後は若手歌人の作品を。テーマは若い歌人というより青春期にいる男女誰もが強い興味を持つ〝君と僕〟です。つまり恋人あるいは恋人未満の異性との関係が表現されています。短歌の世界ではしばしば「孫の歌はもういいよ」と言われたりしますがそれは高齢者の場合で若い歌人については「男女関係はもういいよ」と言いたくなることが時々あります。ただほのぼのとしているので「まっいいか」になる。
もちろん立花さんは男女関係がテーマの短歌を修辞的に可能な限り複雑にしておられます。短歌定型は五七五七七ですが大半が定型になっていない。字余りではなく定型を無視したちょっと長い詩という感じです。
これがいいことなのか悪いことなのかは今後の立花さん次第です。テクニックは使っているようでいてそれが一回限りのものであり安定した表現を可能にする技法になっていないことは立花さんが一番感じておられるはずです。このあたりに定型文学最大の難しさがあります。
短歌を長くしても自由詩にはなりません。短くしても俳句にはならない。また型を意識しなければテクニックは表現の基盤として定着してくれません。
作家として生き残りたいのなら若いうちの男女関係短歌は絶唱として歌ってしまい通り過ぎる覚悟も必要でしょうね。恋愛と性は基本一過性のテーマに過ぎません。その先を見据えて歌を詠まないと多少生活が落ち着いたところで短歌から離れてゆくことになりかねません。
高嶋秋穂
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