北村匡平さんの映画批評『創造的映画のポイエティーク』『No.014 コミュニケーションの不可能性と距離の映画学―フェデリコ・フェリーニ『ジンジャーとフレッド』』をアップしましたぁ。北村さんの映画批評においてフェリーニ映画はとても重要です。『コミュニケーションの不可能性と距離の映画学』は連作フェリーニ論であり、『道』、『甘い生活』についても批評しておられます。是非この機会にまだお読みになっていない皆様は、目をお通しになってみてください。
『ジンジャーとフレッド』はフェリーニ晩年の作品です。つい昨日のやうに感じますが、公開からもう30年も経ってしまったのですねぇ。不肖・石川、年を取るわけだ(爆)。北村さんは「『ジンジャーとフレッド』(1985年)以降、テレビを中心としたマスメディアが記号を動かしていくようになるのと重なるように、フェリーニ映画は登場人物や物語内部の象徴的媒介性を使って物語を描くのではなく、映画というメディア自体を意識するようになる」と書いておられます。つまりフェリーニは時代に追いつきながら映画を制作していたわけです。初期から彼の作品を見るとそれがはっきりわかりますね。巨匠と呼ばれる由縁です。
この映画のクライマックスについて北村さんは、「ジンジャーとフレッドは・・・破局し、別々の道を歩んだ。このテレビ番組の企画による再会は30年ぶりのことであった。・・・踊り始めようとした瞬間、スタジオは停電し、照明が落ちてしまう・・・。テレビの放送は中断し、スタジオは闇に包まれる。ピッポとアメリアは真っ暗になったスタジオに腰を下ろし、お互いのことを話し合う。・・・二人はテレビの断絶の間に、光と光の狭間に、30年分の時空を超えた真実を伝えあう。・・・このテレビの背後の「物語」において一方通行だった二人の会話は、初めて真実の対話になる。この純然たるコミュニケーションは、テレビの不在、すなわち、フェリーニの「映画」により可能となったのである」と批評しておられます。見事な読解です。ごゆっくりお楽しみください。
■ 北村匡平 映画批評 『創造的映画のポイエティーク』『No.014 コミュニケーションの不可能性と距離の映画学―フェデリコ・フェリーニ『ジンジャーとフレッド』』 ■