1940年11月21日
Jeudi(木曜日)くもり/詩人 小熊秀雄昨晩死す。
1941年4月6日
Dimanche(日曜日)細雨/朝 寺田(政明)を訪ねる。長谷川利行、板橋養育院で昨秋発狂。今春早く死んだことを聞く。(中略)彼も天才だった。一寸感慨に打たれる。(中略)夕方、例会に行かうとしたところへ佐田(勝)君来る「福沢(一郎)さん持って行かれた」と云ふ。いささか驚く。(中略)瀧口アヤ子(修造妻・綾子)さんも来る。「昨日の朝、瀧口(修造)さん、杉並署に持って行かれたので原稿止める」と云ふ。(中略)前後の話を総合して判断すると、当局がシュールリアリズムの性格の研究をしたいのらしい。(中略)帰宅してオレも誤解を受けそうな本を処分する。当局にも我々の真意が解ったら何事もなく了解がつくだらうと云ふ。全くの誤解なのだから。
(『吉井忠の日記(1936-1945)』より。『ようこそ!アトリエ村へ!池袋モンパルナス展』板橋区立美術館2011年)
昭和15年(1940年)11月20日に小熊が結核で死に、吉井は「今春」と日記に書いたが、長谷川利行も同年10月12日に東京市養老院で亡くなっていた。三河島で行き倒れていたところを保護され、看取る人もない孤独な死だった。利行が死ぬまで手放さなかった画材やデッサンなどは養老院の規定で焼却処分された。利行は明治24年(1891年)生まれで池袋モンパルナスの若い画家たちよりも20歳近く年上だが彼らの仲間であり、その独自な画風で尊敬されていた。当時、利行は一部にその名が知られるだけの無名画家だったが、池袋モンパルナスの画家たちは勉強のために、乏しい懐から金を出して彼の作品を買っていた。
偶然といえば偶然にすぎないのだが、小熊と利行の死は、結局は池袋モンパルナスの一つの時代の終わりを告げる出来事になった。翌16年(41年)4月には池袋モンパルナスの若い画家たちの理論的指導者だった福沢一郎と瀧口修造が、治安維持法違反容疑で特高に検挙された。シュルレアリスムと国際共産党との関係を疑われたのである。同年12月には太平洋戦争が開戦し、芸術家たちにとっての暗黒時代が始まった。
【図4】長谷川利行『靉光像』(昭和3年[1928年])
瀧口修造は慶應大学在学中の大正15年・昭和元年(1926年)に、前年イギリス留学から帰国したばかりの西脇順三郎に師事してシュルレアリスムを知った。以後、自他共に認めるシュルレアリストとして活動することになる。昭和10年(36年)にはアヴァン・ガルド芸術家倶楽部を発足させ、シュルレアリスムを中心とする最新前衛芸術の紹介と研究を行った。福沢一郎は大正13年(24年)から昭和6年(31年)にかけてパリに留学し、当時の最新前衛芸術運動だったシュルレアリスムにじかに触れた。大正13年はシュルレアリスムの実質的な主催者アンドレ・ブルトンが、その最初の理論書『シュルレアリスム第一宣言』を出版した年である。帰国後、福沢はシュルレアリスム絵画の実践的指導者として活動し始めたが、やがて福沢主催の研究会に瀧口が講師として招かれるようになった。
昭和14年(1939年)、福沢は「広範な前衛芸術」を目的とする美術文化協会を発足させた。会員には靉光、麻生三郎、吉井忠、柿手春三、寺田政明、古沢岩美、小川原脩、井上長三郎、丸木位里・(赤松)俊夫妻らの池袋モンパルナスの画家たちが名を連ねた。瀧口もアドバイザーとして参加した。美術文化協会は翌15年(40年)4月に第1回展を開催し、16年(41年)4月27日に第2回展を予定していたが、その直前の4月5日に福沢と瀧口が検挙されたのである。
池袋モンパルナスの画家たちが受けた衝撃は大きかった。彼らはシュルレアリスム絵画が当局の弾圧を受けるかもしれないという予感を抱いていた。そのため福沢は美術雑誌などに寄せた文章で、美術文化協会に政治的な意図がないことを表明していた。第1回展では自主規制まで設け、反戦・厭戦的だと受け取られかねない絵の展示を見合わせてもいた。にもかかわらず福沢と瀧口は検挙された。結局彼らは起訴猶予のまま釈放されるのだが、それは芸術家であろうと国家総動員の戦時体制に協力しない者は、容赦なく罰するという国家の強い意思の表れだった。
吉井は日記に当局の検挙は「全くの誤解」だと書いたが、確かに福沢や瀧口のシュルレアリスムは政治とほとんど無縁だった。本家フランスのシュルレアリスムはダダイズムを母体としていた。ダダイズムは第一次世界大戦後にヨーロッパの荒廃から生まれた芸術運動で、既存概念をことごとく打ち毀すことを目的とするラディカルなものだった。それは芸術の刷新に一定の効果を上げたが、シュルレアリスムは破壊のための破壊に傾きがちなダダイズムにあきたらないフランスのアンドレ・ブルトンらが始めた芸術運動だった。ブルトンらは悲惨な現実(レアル)の上位審級にある超現実(シュルレアル)によって、よりよい世界を作り上げてゆくことを目的としたのである。そのためフランスシュルレアリスムは現実政治に深く関わることになった。アンドレ・ブルトンはロシア革命の立役者の一人であるトロッキーに接近し、ルイ・アラゴンは共産党に入党した。日本の特高はそのようなフランスシュルレアリスムの動向を知っていた。しかし福沢や瀧口のシュルレアリスムには本家にはあった政治性がすっぽりと抜け落ちていた。簡単に言えば彼らのシュルレアリスムは、かつてない自由な表現を約束してくれる魔法の「技法」だったのである。
これ以降、池袋モンパルナスの画家・詩人たちは多かれ少なかれ戦時体制に協力していくことになる。瀧口修造はたった一篇だが『春とともに-若鷲のみ魂にささぐ』という翼賛詩を書き、雑誌『みずゑ』昭和16年(1941年)2月号に「大政翼賛の根本精神や国際時局に直面した国防国家精神については、国民として、もはや何人も疑ふところがないはずである」という文章を発表した。福沢一郎は戦争絵画を描き、寺田政明は自ら志願して従軍画家となった。丸木(赤松)俊子も翼賛的な童話の挿絵を描いた。靉光と古沢岩美は兵隊に取られ、古沢は帰還したが靉光は戦病死した。小川原脩は戦争中に軍部への目立った協力姿勢があり、戦後、仲間たちからのバッシングを受けて故郷北海道に逼塞して孤独な創作を続けることになった。両耳が聞こえなかった松本竣介は招集されなかったが、16年に雑誌「みずゑ」に掲載された3人の軍人たちの座談会での「言ふことを聴かないものには(絵の具やカンバスの)配給を禁止してしまふ。又展覧会を許可しなければよい。さうすれば飯の食ひ上げだから何でも彼(か)でも蹤(つ)いて来る」という発言に、『生きている画家』という文章を書いて反論した。しかし彼も数点の戦争絵画を残している。
これらの戦争協力が池袋モンパルナスに暗い影を落としているのは確かである。そのためもあって美術界における池袋モンパルナスの画家たちの評価は現在に至るまで低調である。初期洋画の高橋由一、黒田清輝、岸田劉生、青木繁、萬鉄五郎らと、戦後に欧米の前衛芸術の影響を真正面から受容した画家たちの間に挟まれ、埋没してしまった感がある。しかしそのような評価はそろそろ再検討されるべき時期にさしかかっているのではないだろうか。
日本では通例としてどの芸術ジャンルでも歴史を戦前と戦後に分ける。だが目に見える時の切れ目などありはしない。また洋画は自由詩と同様、明治維新以降に初めて日本の芸術界に登場した新しいジャンルである。その歴史はわずか150年ほどであり、現在の指標で過去の作家たちの仕事を評価するのは早計である。文学の世界では戦後文学や戦後詩、現代詩といった文学潮流(エコール)がその役割を終え、ほんの2、30年前までは第一級と見なされていた作家たちの仕事が人々の記憶から消え去りつつある。彼らの仕事はいったん忘れ去られ、近い将来、本当に価値あるものだけが再び評価されるようになるだろう。美術の世界でも恐らく同じことが起こると考えられるのである。
池袋モンパルナスは洋画美術史の上でも、日本の文化史という面でも大変重要な意味を持っている。一つは言うまでもなく戦争協力の問題である。死を覚悟して地下に潜行したプロの思想的闘士でない限り、一般市民が戦前・戦中の時期に一切の戦争協力を拒むことはほとんど不可能だった。画家たちだけでなく文学者たちも多かれ少なかれ戦争を翼賛している。しかし絵画と文学では芸術の質が異なる。単に戦争絵画を描いたというだけで画家たちの戦争責任を問うのは乱暴だろう。実際、池袋モンパルナスの画家たちは戦争賛美にも反戦にも属さない絵を描いている。
二つ目の問題は日本における前衛芸術の位置付けである。日本で初めて本格的なシュルレアリスム絵画を描いたのは福沢一郎だが、現在ではシュルレアリスムを日本に広めた功績はほぼ瀧口修造一人帰されている。瀧口の師・西脇順三郎が早々とシュルレアリスムから距離を取り、福沢を始めとする池袋モンパルナスの画家たちも、戦後になるとシュルレアリスムから具象画へと転向したからである。瀧口もまた池袋モンパルナスの画家たちと距離を置くようになる。戦後の瀧口は読売アンデパンダン展やタケミヤ画廊に拠り、なんの制約もなく欧米前衛芸術を受容した戦中・戦後の若い作家たちの指導者になっていった。ここに日本の前衛芸術の大きな分岐点があるのは間違いない。しかしそれは瀧口的前衛が日本の前衛芸術になったという意味ではない。
五月三日に/徴用出頭命令がありまして出頭しましたが召集/に決定してましたので至極簡単でした。/周囲の人等は応召、徴用と各方面に動いててる/現在小生一人取残された様な一寸変な気持/でおりましたが此れでどうにか戦時下の男になれそうです/広島の母も軍人、軍人、と云つてましたから自分/の召集で飛上つて喜こんでゐる事と思ひます
(『靉光 桃田吉五郎宛書簡』部分 昭和19年[1944年]5月4日。『生誕100年靉光展』東京国立近代美術館2007年)
靉光はノンポリ、というより政治に敏感に反応する資質を決定的に欠いていた。彼は絵を描くことにしか興味がなかった。残された作品を見れば一目瞭然だがその画風は短期間で次々に変わっている。後期印象派からフォーヴィズム、シュルレアリスムの画法を取り入れ、日本画やペンによる細密画も描き残している。靉光は努力の人である。様々な技法を吸収しながら独自の表現を模索していた。しかし絵を描くことと国民の義務は別だった。「此れでどうにか戦時下の男になれそうです」という靉光の言葉に裏の意味はないだろう。靉光は極めて謹厳な字体で皇室典範を筆写したことが知られている。戦時には何の役にも立たない芸術家だからこそ自ら進んで厳しい現状を認識し、求められれば粛々とそれに応じなければならないという心理が働いたのだと思われる。
【図5、6、7】上から『帽子をかむる自画像』(昭和18年[1943年])、『梢のある自画像』(同)、『自画像[白衣の自画像]』(昭和19年[44年])
靉光は出征前に3点の自画像を残した。画家は新しい技法を試したい時か、自己存在が危機に直面した際にしばしば自画像を描く。皮肉なことに、商品として描いた絵でないがゆえに画家の自画像や家族の肖像には傑作が多い(後年よほど有名にならない限り、画家の自画像や他人の家族の絵を欲しがるコレクターはいない)。確認は取れていないが靉光は左利きだったようだ。戦後の一時期、これらの自画像には体制批判的な意図が込められていると解釈されたが現在は否定されつつある。ただこれら3枚の自画像には、ほとんど寄りつきがたいほど峻厳で孤高な画家の姿が描かれている。その解釈は見る人によって異なるだろう。しかしそれが、沈黙を余儀なくされる状況の中で小熊秀雄が辿り着いた『心の城』に近いものであったのは確かだと思われる。人の心の奥底にまで体制は手を伸ばすことができない。また声高に叫び出さすとも孤独に佇む人の姿は、その存在感自体で時代への異議申し立てになり得るのである。
僕の気持ちは正直にいって、自分と関係のないことで死ぬのは嫌だ、何とかして身を避けたいという気持ちが強かった。当時、そんなことを終始考えていた。
理屈ではなく、感覚的にいっても人間の生命力を否定されるような状況から、人間として最少限の自己主張をしたいという仲間の気持ちが自然に集まって、美術文化もつまらないから我々でやろうではないかと当たり前のことを当たり前にやったまでだ。
(麻生三郎『美術グラフ』昭和37年[1962年]12月号)
昭和18年(1943年)に池袋モンパルナスの若い画家たちは新たな絵画集団を結成した。「新人画会」である。メンバーは靉光、麻生三郎、松本竣介、寺田政明、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男の8人で、18年4月に第1回、同11月に第2回、翌19年(44年)9月に第3回展覧会を開いた。引用は麻生が新人画会の結成経緯を回想した言葉である。麻生が「人間として最少限の自己主張をしたいという仲間の気持ちが自然に集まっ」たと書いているように、新人画会では翼賛戦争画は展示されなかった。人物や風景画ばかりで、靉光の自画像(【図7】)もこの時展示された。福沢一郎主催の美術文化協会では盛んだったシュルレアリスム絵画など、この時期にはもはや発表できるはずもなかった。しかし画家たちは具象画の形を取りながらも、内面性を強く喚起させる抽象的な表現へと進んでいった。
【図8】靉光『眼のある風景』(昭和13年[1938年])
【図9】松本竣介『Y市の橋』(昭和19年[1944年])
新人画会のメンバーのうち靉光と松本竣介は夭折した。靉光は終戦の翌年の昭和21年(1946年)に上海郊外でマラリアとアメーバー赤痢が原因で39歳で死亡し、松本竣介は23年(48年)に持病の気管支喘息がもとで死去した。36歳だった。奇妙なことにこの二人の画家の作品は、その短い人生を予感させるかのように非常に完成されている。竣介の静謐で理知的な画風は晩年になるほど研ぎ澄まされていく。竣介は13歳の時に脳脊髄膜炎により両耳の聴力を失ったが、彼の絵は色と形だけから構成される無音の世界のようだ。竣介が捉えた同時代は他の画家の表現とは明らかに異なる。靉光の『眼のある風景』は第8回独立美術協会展に出品され独立美術協会賞を受賞した作品で、彼の代表作の一つになった。この作品は日本のシュルレアリスム絵画の傑作とも言われている。しかし本当にそうだろうか。靉光の画業を通観する限り彼がシュルレアリストになろうとした気配はない。彼にとってシュルレアリスムは通過点に過ぎなかった。
靉光の絵を見る人は、『眼のある風景』と晩年の『自画像』連作に強い共通点を感じるだろう。そこに断絶はない。『眼のある風景』はシュルレアリスティックな抽象画だが、混沌とした風景の中で眼が何かを求めて蠢いているような気配がある。眼だけが具象的で風景は抽象的なのだ。その逆に『自画像』3点には眼がはっきりと描かれていない。画家が納得のゆく形と質感を持つ具体物を描ければ、もはや眼は必要ではないかのようだ。眼は閉じられ内面に向けられている。竣介も靉光もほぼ同じ絵画表現に達している。それは具体物の描写によって作家の精神性を表現する具象的抽象絵画である。
小熊秀雄は旭川の新聞記者時代から取材などのためにときおりペン画を描いていたが、寺田政明と知り合ってから本格的に絵を描き始めた。画家たちに混じってデッサン会などにも参加している。油絵は数点しかないが、ペン画は200点弱が確認されている。しかしそれはほんの一部で、生涯に900点近いペン画を描いただろうと推測されている。小熊は池袋のコティという喫茶店でペン画の個展まで開いた。個展に際しての文章で、小熊は自分はあくまで素人であり「参考画家」だと謙遜しているが、彼の絵のレベルは高い。寺田は小熊の画の特徴を「全体をこう、本質をだな、それをつかむんだ」と評した。
【図10】小熊秀雄『自画像』(昭和13年[1938年])
小熊は「文学などといふ仕事は全く衛生的ではない」とも書き残している。小熊に限らず詩人で絵を描く者は多い。詩人たちは言葉による表現の限界を知り尽くしているからである。文学は本来は曖昧な人間の内面を、一定の論理と秩序を持つ言葉で表現する芸術である。そのため文学者は自分が書いた言葉に縛られる。有耶無耶な内面に比べれば言語の方が遙かに単純明快なので、自分が紡ぎ出した言葉を手がかりに不定形の内面を把握しようとするのである。
しかし絵画は文学とは逆である。絵画では明瞭な形と質感を持てば持つほど作品の意味は多義的になる。目の前にしっかしとした物として存在しているのに、絵画が喚起する意味性は人間の内面そのもののように曖昧になるのだ。この意味で原理的には文学者と画家の戦争責任は区別して考えられなければならない。文学者の言葉は多様な人間の内面を押し潰す体制側の武器となり得る。しかし絵画はたとえ戦争絵画として描かれても、画題とは違う意味性を喚起できる。たとえば戦争末期に描かれた藤田嗣治の大作『サイパン島同胞忠節を完(まっと)うす』や『アッツ島玉砕』はもやは戦意鼓舞絵画とは言えない。そこにあるのは厭戦意識である。
池袋モンパルナスの画家たちは、福沢一郎逮捕後の第2回美術文化展開催に際した声明文で、「皇国の道に則(のっと)り臣道実践の誠を致す可(べ)きは我等もとより深く自覚する所であり、その赤誠の一端を第二回展に披露して従前の誤解を一掃し」という露骨な体制迎合的文章を掲げた。この文章は古沢岩美が書いたのだという。その意図を『池袋モンパルナス』の著者・宇佐見承に、古沢は「会をつぶさないために、わざと当局が気に入る文章を書いたんですよ。つまり擬態なんです」と説明した。古沢の言葉はあながち自己保身から出たとは言えまい。文学者は混沌とした内面から言葉を絞り出すことで言葉に縛られる。しかし画家は絵を描き続ける限り、一定の表現の自由を得られるのである。
不幸なことに我国には、あまりに超現実派の立派な絵画が多すぎる。日本画の伝統は将にそれであって、日本画の中には、実にすぐれたシュルレアリズムの絵画が多い。現在の若い洋画家は、日本画の超現実性は勿論否定もするだろう。そして自分達の求めているシュルは東洋的なものではなくて、ヨーロッパ的なそれだというだろう。
私は超現実性なるものの理解が、東洋的なものでなくて、西洋的なものであるという画家があったら、それでは「君の仕事を全く唯物的基礎から出発し直し給え!」と言うだろう。唯物的であることが、超現実派の作品を描かせなかったとしたら、それは真個(しんこ)うの意味のシュルレアリストではないのである。そして日本の画家にせよ、詩人にせよ、この派の人には残念ながら、東洋的理解にも、西洋的理解にも立つことのできない、宙ぶらりんの、中途半端な存在であるということができるだろう。
(小熊秀雄『超現実派洋画に就(つ)いて-エコルド東京絵画展の感想-』昭和12年[1937年])
小熊は多くの美術批評を書き残したが、その言葉は絵画実作と日本絵画の歴史認識に裏付けられた実際的なものだった。小熊はシュルレアリスム時代の寺田の絵を「リアルな作風でゆくべきだ。自分の才能が惜しかったら、リアリズムをとるべき」だと評した。寺田は小熊の言葉通り、シュルレアリスティックな技法を残しながら具象画に転向していく。小熊と池袋モンパルナスの画家たちの仕事が重ね合わせて語られるのには理由がある。小熊が晩年に何人も侵すことのできない『心の城』に辿り着いたように、画家たちの多くは独自の具象的表現によって言語化不能な作家の内面を表現するようになった。また麻生三郎や難波田龍起は寺田らとは逆に具象から抽象画に進んだが、彼らの絵をシュルレアリスムと呼ぶ人はいないだろう。それは抽象画にシフトした具象画である。具象画を描くのと同じ姿勢で抽象画を描いているのである。画家が対象を凝視し続けると物の輪郭が崩れ抽象化し始めるのであって、そこに奔放な想像世界やヨーロッパ絵画史をなぞるような前衛意識はない。
【図10】寺田政明『冬の運河』(昭和51年[1976年])
【図11】麻生三郎『家族』(昭和34年[1959年])
小熊の絵画論に即せば、瀧口的前衛とは、戦前には「宙ぶらりんの、中途半端な存在」で終わった日本の前衛芸術を、戦後になって欧米前衛芸術を真正面から捉え直すことで始まった新たな芸術運動だと言うことができる。日本美術への視線が欠如していたわけではないが、瀧口的前衛が、未踏の表現領域を探し求める欧米前衛芸術を指標にしていたのは確かである。彼の試みは多くの成果を上げたが、本当の評価はこれからである。瀧口が主導した作家の晩年の仕事によって、その基盤の強さや日本美術に与えた影響の深さが測られることになるだろう。ただ日本の前衛は欧米美術を絶対的規範として考察されるべきではない。確かに瀧口的前衛から見れば、池袋モンパルナスの画家たちのシュルレアリスムは一過性の流行風邪に過ぎない。画家たちはシュルレアリスムの本質を理解していなかった。しかし別の見方をすれば、彼らはそれを風邪で済ませられるだけの基礎体力を持っていたのである。
池袋モンパルナスにはもう一人重要な画家が居住していた。モンパルナスの仙人、あるいは守護神として若い画家たちから尊敬されていた熊谷守一である。小熊は横山大観について「大観の偉さというのは、筆者に言わせれば、彼が日本画の伝統と運命を共にしてゆくという態度の偉大さだと思う」と書いた。同じことが熊谷にも言える。熊谷は同期で親友の青木繁をおさえて東京美術学校洋画科を主席で卒業したが、絵を描きあぐねて苦しみ続けた。熊谷が独自の画境を切り開くのは、戦後発表した『ヤキバノカエリ』以降のことである(昭和23年[1948年]から31年[56年]頃制作)。23年当時、熊谷は68歳である。熊谷は日本の洋画の伝統と運命をともにした画家である。日本の洋画の前衛は熊谷とともにあったと言っても良い。彼もまた具象的抽象画の画家であった。
【図11】熊谷守一『ヤキバノカエリ』(昭和23年[1948年]~31年[56年])
* 本稿の執筆にあたっては、宇佐見承氏のルポルタージュ大著『池袋モンパルナス-大正デモクラシーの画家たち』(集英社文庫・1995年)のほか、『ようこそ、アトリエ村へ!池袋モンパルナス展』(板橋区立美術館・2011年)、『池袋モンパルナス』(練馬区立美術館・2000年)、『小熊秀雄と池袋モンパルナス展』(市立小樽文学館・市立小樽美術館・1995年)、『豊島区小熊秀雄所蔵品目録』(豊島区・2011年)、『池袋モンパルナスそぞろ歩き 小熊秀雄と池袋モンパルナス』(玉井五一著・オクターブ・2008年)、『池袋モンパルナスそぞろ歩き 池袋モンパルナスの作家たち〈洋画篇〉』(監修 尾﨑眞人・池袋モンパルナスの会・2004年)、『東京人』(2006年4月号)、『小熊秀雄全詩集』(思潮社・1965年)、『小熊秀雄 詩と絵と画論』(三彩社・1973年)、『寺田政明回顧展』(板橋区立美術館・1979年)、『寺田政明展』(フジヰ画廊モダーン・1988年)、『寺田政明』(時の美術社・1986年)、『麻生三郎展』(東京国立近代美術館・2010年)、『生誕100年 靉光展』(東京国立近代美術館・2007年)などを参照させていただきました。
* また小熊秀雄の詩の読解に関しては、『東方の書』と『国書』の詩人・鶴山裕司氏との長時間にわたる議論でたくさんのヒントをいただきました。感謝申し上げます。
鶴山裕司
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■