No.140『神護寺展』
於・東京国立博物館 平成館
会期=2024/07/17~09/08
観覧料=2,100円(一般)
カタログ=2,800円
『創建一二〇〇年記念特別展 神護寺 空海と真言密教の始まり展』だが、うだうだしているうちに会期が終わってしまった。東博からほかの美術館に巡回しないのでもう見ることはできない。しかしよい機会だから遅れついでにこのテの展覧会の見方を含めて書いてみたい。
美術展の楽しみ方は人それぞれである。言うまでもなく実物を見るのが最大の目的だ。お目当ての作品をじっくり見て満足する方もいらっしゃるだろう。ただ東博で開催される日本の古美術関係の展覧会はそれでは済まない面がある。誰が見ても審美的に美しいと感じる仏像や仏画も展示されるが古くて何が描かれているのかわからない絵もある。素人には簡単には読めない古文書類も多い。
こういった展示は東博の古美術系展覧会ではお馴染みだ。が、前回取り上げた『法然と極楽浄土展』のようにたいていは〝始まり〟のブロックの解説をじっくり読んでから物を見れば展覧会の概要は理解できる。しかし『神護寺展』はそうはいかない。まず創建時代が古すぎる。神話時代と隣り合わせだ。その後の歴史(展開)も複雑である。今回の図録は通常の古美術展より薄いと思うが(それでも文庫本一冊くらいの文字量がある)内容が濃い。面倒だが図録解説を通読しなければ展示品が有機的に繋がってくれないのである。日本画や洋画家の個人回顧展とはまったく質が違う展覧会である。
『観楓図屏風』狩野秀頼筆
六曲一双 紙本着色 縦一五〇・二×横三六五・五センチ 室町~安土桃山時代 十六世紀 東京国立博物館蔵
神護寺は京都の北西にある。行ったことのある方はおわかりだろうがかなり山の中だ。『観楓図屏風』は狩野元信の次男・秀頼筆で国宝指定されている名品である。室町時代から神護寺は紅葉の名所だった。庶民の遊興を描いた風俗図が現れるのは室町時代からだがその最初期の作品である。ただこういった見栄えのいい作品は『神護寺展』のほんのサワリに過ぎない。神護寺の歴史では室町時代は比較的新しい。
現・神護寺の場所には元々高尾山寺があった。官寺(定額寺)の神願寺が立地が悪いことなどを理由に、私寺だった高尾山寺に合併される形で官寺になったのだった。その際寺名が神護国祚真言寺(略して神護寺)に改められた。なお神願寺は河内にあったようだが場所は特定されていない。ただ神護寺となる際に、神願寺の寺宝も移動したようだ。高尾山寺も神願寺も和気氏が深く関わっている。また両寺ともその創建は奈良時代と恐ろしく古い。
まず合併された神願寺だがこの寺は神託によって創建された。女帝・称徳天皇時代に僧・道鏡が権勢をほしいままにし、ついには彼を皇位に就けるよう宇佐八幡の神託が下ったと天皇に奏上するまでになった。神護景雲三年(七六九年)のことである。天皇は真偽を確かめるために和気清麻呂を宇佐八幡に派遣し、清麻呂は改めて道鏡の皇位継承を否定する神託を受けた。併せて鎮護国家のための寺院を建立せよとの神託が下ったと奏上した。それにより道鏡の即位は阻止されたが清麻呂らは道鏡の怒りを買い流罪になった。しかし称徳天皇崩御と道鏡失脚によって政界復権し、桓武天皇の天応元年(七八一年)に清麻呂が受けた神託通りに官寺として神願寺が建立された。政争だがまだ母系社会の名残があり、神託が信じられていた古代日本の史実である。
元からあった高尾山寺は和気清麻呂創建の和気氏の私寺だが古くから山岳信仰の拠点だった。清麻呂を始めとする和気氏は深く仏教に帰依していた。この和気氏の仏教熱によってその後の日本の仏教の基礎を作った最澄と空海が交わったのだった。
延暦二十一年(八〇二年)に清麻呂の子・弘世が高僧として知られた最澄を高尾山寺に招き法華会を開いた。天台宗の教義を聞く会である。二十三年(〇五年)に最澄と空海は仏教修行のために渡唐したが、最澄は帰国後の元和元年(〇六年)に高尾山寺で日本初の灌頂を行った。仏弟子を仏菩薩に引き合わせる密教の秘儀である。ただよく知られているように最澄の密教の知識は不十分だった。それに対して空海は長安の恵果和尚から密教の奥義を伝授された。
空海は最澄に一年遅れて帰国したが官命で三年間太宰府に滞在することになった。帰京すると高尾山寺を拠点とした。弘仁元年(八一〇年)に嵯峨天皇公認の鎮護国家の修法を行い、三年(一二年)に金剛界・胎蔵界両部の灌頂を初めて行った。仏弟子と曼荼羅の仏菩薩たちを結縁させるこれも密教の秘儀である。
空海は弘仁七年(八一六年)に朝廷から高野山を下賜され金剛峯寺に移るがそれまで高尾山寺拠点とした。高尾山寺と神願寺が合併して神護寺になったのは天長元年(二四年)のことである。ただ正式名称が神護国祚真言寺であることからもわかるように、神護寺は現在に至るまで空海真言密教のお寺である。
『薬師如来立像』
一軀 木造 像高一六九・四センチ 平安時代 八~九世紀 神護寺蔵
『薬師如来立像』は神護寺の本尊で平安時代初期作の傑作である。しかし薬師如来は大乗仏教の仏様で密教の仏様ではない。合併前の高尾山寺か神願寺にあったのだろうが神願寺説が有力のようだ。合併の際に官寺の神願寺の正統性を引き継ぐために本尊として祀られたのだろう。そこに空海密教美術が加わったのである。
『灌頂歴名』(部分)
空海筆 一巻 紙本墨書 縦二八・八×長二六六・一センチ 平安時代 弘仁三年(八一二年) 神護寺蔵
『灌頂歴名』は空海が弘仁三年(八一二年)に高尾山寺で金剛界・胎蔵界両部の灌頂を行った際の受法者の名前を記したものである。灌頂は三回に渡って行われたが一度目は金剛界灌頂で最澄を筆頭に和気真綱(清麻呂五男)ら三人の名前が記されている。二度目は胎蔵界灌頂でやはり最澄を筆頭に一九四人の名前が並ぶ。最澄は空海の弟子として密教を学ぼうとしていた。空海の備忘録(メモ書き)だが宝物中の宝物の一つである。
これもよく知られているが空海帰京後の四年ほどは最澄との関係は良好だった。それは空海が最澄に宛てた書簡『風信帖』や、最澄が空海の元にいた弟子の泰範に宛てた『久隔帖』からもわかる。しかし弘仁六年(八一五年)に最澄が密教経典『理趣釈経』の借覧を申し入れたが空海が拒否したことから両者の関係は断絶した。人間的好悪の問題では恐らくない。宗教観の違いである。
密教はその名の通り秘密の宗教である。禅とは質が違うが厳しい修行によって仏の境地に至るのを至上とする。秘儀が奥義なのであり仏経典の解釈や修行はそこに至るための手段に過ぎない。これに対して最澄の天台宗は顕教だった。修行によって悟りを得ようとするのは同じだが、それだけでなくわかりやすい教義で衆生を導き救済するための宗教である。経典はそのために必要不可欠なのだ。
『崔子玉座右銘断簡』(部分)
空海筆 一巻 紙本墨書 縦二八・四×長一〇五・七センチ 平安時代 九世紀 東京・太師会蔵
空海は能筆として知られ後世になって「弘法も筆の誤り」という諺まで生まれた。もちろんそんなことがあるはずもない。空海が真書、草書、行書用の筆を嵯峨天皇に献上する際に付した文章『理毛筆奉献表』が遺っているが筆の良し悪しや作り方についてまで述べている。空海が能書として有名なのはその迫力ある独特の書によってである。
『崔子玉座右銘断簡』は後漢の崔瑗の座右銘五言二十句を空海が筆写したものである。見てわかるように〝字〟ではなく〝書〟である。もっと言えば密教の奥義が反映された書だ。密教は人仏一体の境地を至上とするがそれは口伝でしか伝えられない。そのため密教では意味伝達の経典よりも図像を重視する。書もまた図像化するのである。
『両界曼荼羅(高雄曼荼羅)』
二幅 紫綾金銀泥 [胎蔵界]縦四三七・二×横三八八・七センチ [金剛界]縦三九九・九×横三五〇・五センチ 平安時代 九世紀 神護寺蔵
『両界曼荼羅』
二幅 紺絹金銀泥 [胎蔵界]縦四四〇×横四一〇七センチ [金剛界]縦三九八×横三六五センチ 江戸時代 寛政六年(一七九四年) 神護寺蔵
最澄も空海も留学先の唐から多くの文物を持ち帰った。空海が持ち帰った文物は『御請来目録』(空海筆の原本は失われ最澄の写本が最古)でわかるがその中に『両界曼荼羅』がある。今回の展覧会の目玉出品物である。目録に唐の宮廷画家李真ら数十人が描いたと記されている。空海が優れた僧侶だったのは言うまでもないが中国宮廷画家の作品を与えられたのは尋常なことではない。しかも滞在期間約二年である。古代とはいえ空海らの留学はあらかじめ中国側に報されており国賓待遇だったのだろう。今も遺る空海請来品はいずれも一級品揃いである。
『両界曼荼羅』は胎蔵界と金剛界曼荼羅の二幅だが各縦横四メートル近い巨大な作品である。ただ請来から十五年で損傷が激しくなり弘仁十二年(八二二年)に模写が制作された。弘仁本と呼ばれるがそれを元に制作されたのが現存の『両界曼荼羅(高雄曼荼羅)』である。淳和天皇の発願で天長年間(八二四~三四年)に制作された。高雄山神護寺に伝わったので高雄曼荼羅の名がある。原本も弘仁本も失われてしまい、かつ空海在世中の模写なので原本に忠実な日本で最古の両界曼荼羅である。
高雄曼荼羅が遺ったのは奇跡だ。しかし千年以上前の作品が無傷でいられるわけがない。平安時代から江戸時代にかけて勅命で三回、平成になって一回解体修理されている。実物を見た方はその大きさに圧倒されただろうがまあ何が描かれているのかよくわからない。それは平安時代からそうで当時から曼荼羅の各仏を正確に模写した白描図(紙に墨で書いた絵)が数多く作られた。
また江戸時代の寛政六年(一七九四年)には光格天皇の発願でほぼ原寸大の模本が制作された。こちらの方がずっと見やすい。模写だが空海が持ち帰った高雄曼荼羅がその後の日本の密教の基本図像の代表として綿々と受け継がれたのである。
曼荼羅はサンスクリット語のmandalaの漢訳で本質を得るという意味である。両界曼荼羅のほかにもさまざまな種類の曼荼羅がある。いずれも大日如来を中心に諸仏や真言が描かれている。きわめて大雑把な言い方だが大日如来(世界の核)を中心とした循環的かつ調和的世界観を表している。二次元の絵だが大日如来の回りの諸仏は動いている(回転している)と言ってよい。秘儀だから説明しようがないが、そういった世界観を腹の底まで肉体的に把握することが悟りである。
『山水屏風』
六曲一隻 絹本着色 各縦一一二・一×横四一・八センチ 鎌倉時代 十三世紀 神護寺蔵
『山水屏風』も神護寺を代表する秘宝の一つである。密教では灌頂儀式の際に『両界曼荼羅』を掛けるが平安時代末頃からそこに『山水屏風』が加わった。現存最古のやまと絵屏風であり国宝指定されている。山並の中に貴族の邸宅や男女の姿も見える。清浄な風景画とはいえ俗人が描かれているわけだ。
こういった屏風は密教とはなんの関係もない。宮中や貴族の邸宅で使われた調度の一つである。初期は灌頂儀式の際に貴族らが控える間に置かれていたようだ。それが次第に灌頂儀式の場に置かれるようになった。その理由はわかっていないがこれも広い意味での神仏習合だろう。仏教は外来宗教(思想)である。日本古来の神道となんらかの整合性を取らなければならない。それが『山水屏風』設置に表れたのではなかろうか。
なお『山水屏風』は平成の解体修理の際にその順番が入れ替えられた。以前とは大きく順番が入れ替わっている。研究によってはさらなる入れ替えがあるかもしれない。
『文覚上人像』
一幅 絹本着色 縦一一二・一×横九九・五センチ 鎌倉時代 十三世紀 神護寺蔵
平安時代後期に神護寺は二度の火災にあって荒廃してしまった。それを復興させたのが文覚上人である。上人は後白河法皇に復興支援を直訴したがその強引さで怒りを買い、伊豆に流刑になってしまった。だいぶ気性の荒い人だったらしい。しかし伊豆で同じく流刑の身であった源頼朝に出会いそれが鎌倉幕府による神護寺支援に繋がった。
また神護寺荒廃期には多くの寺宝が流失してしまった。伝空海筆の八幡大菩薩御影、高雄曼荼羅、梵鐘、五大虚空蔵菩薩、灌頂暦名などが他の寺院所蔵になっていた。文覚は返還を求め、その死後になるが後宇多法皇の院宣で多くが神護寺に戻された。文覚は神護寺中興の祖である。
『伝 源頼朝像』
一幅 絹本着色 縦一四三×横一一二・八センチ 鎌倉時代 十三世紀 神護寺蔵
『伝 平重盛像』
一幅 絹本着色 縦一四三×横一一二・二センチ 鎌倉時代 十三世紀 神護寺蔵
『伝 藤原光能像』
一幅 絹本着色 縦一四二・七×横一一二・三センチ 鎌倉時代 十三世紀 神護寺蔵
古刹寺院に開祖や高僧、出家した法皇(上皇)らの肖像画が所蔵されているのは自然である。ただ神護寺には極めて異例の肖像画三幅が伝わっている。伝源頼朝、平重盛、藤原光能像の神護寺三像である。この三人は俗人で三像とも等身大に近い大きさである。寸法もほぼ同じだ。こういった肖像画がたまさか伝来するはずがない。三像とも肖像画の傑作で国宝指定されている。似せ絵の名手、藤原隆信筆と伝えられてきたが現在では否定されている。
ニュースになったので覚えておられる方もいらっしゃるだろうが、一九九〇年代に像主と制作年代について重大な疑義が呈された。歴史の教科書などで長らく頼朝や重盛像として掲載されてきたがそれは間違いかもしれないのだ。この論争には決着がついていない。ただ図録解説で土屋貴裕氏は「頼朝像はやはり頼朝を描いているという結論である。そして平重盛像は足利尊氏(室町初代将軍)、藤原光能像は足利義詮(二代将軍)を描くもので、これら現存の神護寺三像とは別に、かつて足利直義像が存在していた可能性を提示してみたい」と書いておられる。そうすると伝平重盛、藤原光能像は時代が下った室町時代作ということになる。
神護寺中興の祖・文覚は頼朝の大きな支援を受けた。頼朝は神護寺に荘園を寄進してその経済基盤を盤石のものにした。そのため神護寺に頼朝像が伝わっているのは不思議ではない。また神護寺三像を見比べれば一目瞭然だが頼朝像の出来がずば抜けている。普通の似せ絵ではない。ある種の神々しさ、神格化が見て取れる。当時の鎌倉殿の破竹の勢いも反映されているのだろう。頼朝像と他の二点の似せ絵の作者が違うのも間違いない。
神護寺復興の立役者頼朝を神格化して描いた絵ならこれが最初に描かれた可能性が高い。伝平重盛、藤原光能像は頼朝像に倣って同じ大きさ、似た構図で描かれたのであり平重盛像は足利尊氏、藤原光能像は足利義詮像であり最初の征夷大将軍頼朝に倣った可能性もある。室町初期の南北朝動乱に神護寺も巻き込まれたが室町将軍が庇護した。神護寺三像は名品なので目に残るがたまさか神護寺蔵になったわけではない。その歴史と深く関わっている。文書資料に残されている以上に神護寺と武家の関係は密だった。江戸幕府もまた神護寺を手厚く庇護した。
『僧形八幡神像(互御影)』
一幅 絹本着色 縦一四八×横一一八センチ 鎌倉時代 十四世紀 神護寺蔵
どんな場合でも初源は重要である。神護寺の前身寺の一つである神願寺は和気清麻呂に下った宇佐八幡神の神託によって建立された。最古ではないが神仏習合の古い例でありかつ政治と深く関わっている。無視することはできない。それを如実に表しているのが『僧形八幡神像(互御影)』である。空海の元に八幡神が顕現したが、その際にお互いの姿(御影)を写し合ったという伝承がある。八幡神が僧形で表されている。
文覚は空海自らが描いた僧形八幡大菩薩像が神護寺にあったと書き残している。流出したが後宇多上皇によって神護寺に返還された。南北朝時代にはオリジナルの旧本と模写の新本が所蔵されているという記録がある。その後空海筆の旧本は失われてしまったが、新本が現存の『僧形八幡神像(互御影)』だと考えられている。比較的単純な絵なのでオリジナルは実際に空海が描いた可能性がじゅうぶんある。神仏習合は日本文化の特質をよく表す思想形態である。空海は神と仏のいわば弁証法的統合に意識的だった。
また空海の名は一般には最澄よりも知られている。しかしその後の仏教は最澄天台宗中心に普及した。いま多くの日本人が帰依している仏教(表面的にであるにせよ)は法然浄土宗、親鸞浄土真宗、日蓮日蓮宗、一遍時宗だがすべて最澄天台宗から派生した。空海の真言密教が秘密宗教で厳しい修行によってしか極楽浄土転生はできないと説くのに対し、最澄天台宗は誰にでもわかりやすい教義で衆生救済を目的とした顕教だからである。
宗派は別として平安時代までの仏教は密教系だった。人々は一心に祈り修行して自分一人が浄土に転生することをひたすら願った。それは凄惨な源平合戦で大きく変容し以後無常観を底に据えた顕教や禅が日本人の心性になっていった。しかし古代密教の伝統が失われたわけではない。日本文学は漱石が典型的で禅的な無常観を思想基盤に据えていることが多い。が、ときおり宮沢賢治のような鬼っ子が現れる。賢治は濃厚な想像・妄想空間で詩や物語を生み出した密教系作家である。
現在では色褪せてしまっているが神護寺伝来の仏画や仏像は制作当時は絢爛豪華なものが多かった。キンキラキンだった。無常観ではなく修行の果てに至り着く煌びやかな浄土のイメージを表現していた。空海真言宗の総本山は高野山金剛峯寺だが神護寺はその初発の姿を伝えている。神護寺は奥が深い。遺された物が千年以上の歴史の機微を語っている。
鶴山裕司
(2024 / 09 /24 18枚)
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