No.129『寺田政明・生誕111年展』展
於・始弘ギャラリー (電話 03-3400-0875)
〒107-0062 東京都港区南青山5-7-23始弘ビルB1
会期=2023/04/16~29(寺田農さん不在日17・18・19・22日)
寺田政明は大正元年(一九一二年)に福岡県八幡市で生まれ平成元年(一九八九年)に七十七歲で没した洋画家である。初期シュルレアリスム絵画の実作者の一人で晩年は日本独自の〝具象抽象画〟を描いた画家である。また戦前から戦後にかけて東京池袋周辺に存在した芸術家村「池袋モンパルナス」の中心人物でもあった。ご子息に俳優の寺田農さん、元女優の寺田史さんがおられる。
その寺田政明さんの生誕111年を記念して、東京青山の始弘ギャラリーで個展が開催されている。初期絵画から晩年の風景画まで約100点が出品された。リトグラフや陶器に絵付けした珍しい作品もあった。制作年代順に並べられているわけではないが、初期シュルレアリスム絵画も数点あり貴重である。晩年を代表する風景画の大作もあった。寺田農さんが在廊されているので、質問すればいつ頃描かれた作品か教えてくださる。小規模な個展だが政明画伯の全貌をうかがい知ることができる良い展覧会である。
「池袋モンパルナス」は日本絵画史においてとても重要な芸術運動だった。代表的画家に熊谷守一、長谷川利行、靉光、松本竣介、麻生三郎、古沢岩美、丸木位里・俊夫妻らがいる。変わり種では戦後円谷プロダクションで怪獣のデザインをした高山良策、セツモードセミナーの創始者・長沢節、版画家・藤牧義夫も一時期モンパルナスに住んでいた。文学者では詩人・小熊秀雄が寺田政明とならぶ村長格であり、日本で最初の正統シュルレアリスト・瀧口修造が画家たちに大きな影響を与えた。枝葉まで辿ってゆけば戦後に活躍することになる画家の多くが池袋モンパルナスに関わっている。
ただ池袋モンパルナスはダダイズムやシュルレアリスムのように理念で統一された芸術運動ではなかった。池袋芸術家村は一人の老女が孫の画学生のためにアトリエ付き住居(貸家)を建てたのが始まりだと言われる。それが評判になり、戦前の池袋周辺はその名の通り低湿地が多く家賃が安かったので、次々にアトリエ付き貸家が建てられ画家の卵たちが住むようになったのだった。モンパルナスを代表する画家に東京藝術大学の学生は少ないが、山手線は開通していたので当時の絵の中心地上野まで近いということも画学生たちに人気の理由だったようだ。
統一されたイズムを持たない池袋モンパルナス村が重要なのは、この芸術家村が日本の〝洋画〟の光と闇を鮮やかに体現しているからである。当たり前のことを言うようだが日本の洋画は明治維新と共に生まれた。御維新から昭和初期(昭和十年として)まではわずか六十七年である。この間に画家たちはあらゆる試行錯誤を重ねた。
幕末に横浜居留地にいたイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに師事した高橋由一が日本洋画の嚆矢だが、すぐにヨーロッパ留学して実際に印象派ラファエル・コランに師事したエリート画家・黒田清輝らの外光派が主流になった。黒田は日本画重視だった岡倉天心が去った後の東京藝術大学で、洋画家育成のための教育システムを確立した美術官僚でもあった。初期洋画は、まあ言ってみれば裕福な良家のボンボンたちが主導したのだった。実家が裕福でなければ画家などという浮世離れした仕事ができない時代があった。それが大正デモクラシーから昭和初期にかけて大きく変わってくる。
池袋モンパルナスの画家たちのほとんどは庶民の子弟である。今と同じように画家になりたいという強い意志だけで絵描きを目指す芸術家が生まれたのが大正から昭和初期だった。その貪欲な表現欲求が当時のヨーロッパ前衛だったダダイズムやシュルレアリスムの吸収に向かわせた。それだけではない。ダダやシュルはいわゆる直輸入の舶来品である。モンパルナスの画家たちにとってそれらは一時の流行風邪のようなものだった。
寺田政明、熊谷守一、長谷川利行、靉光、松本竣介、麻生三郎、古沢岩美らといった中心画家たちはやがて欧米芸術の影響を抜け出して日本独自の洋画を描き残していった。実在の人物や風景を丹念に描写しながら、それを洋画独自の抽象表現にまで高めた。〝具象抽象絵画〟の誕生である。それがいかに日本独自の洋画であるのかは、欧米コンプレックがまだ色濃く残っていた二十世紀が遠ざかるにつれ、いよいよハッキリしてくるはずである。欧米と日本では芸術の、洋画の成り立ちが違う。日本画表現とは明確に異なる洋画を確立したのがモンパルナスの画家たちだった。
加えてモンパルナスの画家たちは太平洋戦争に翻弄された。靉光は召集されて上海で没した。従軍する前に広島の実家に自信作を預けていたが、それも原爆投下で失われてしまった。池袋モンパルナスに特高(当時の秘密警察)が目を光らせていたのはよく知られている。モンパルナスの画家たちは絵を描くのが大好きな生粋の〝絵描き〟たちであり政治的にはノンポリが多かった。しかし特高の刑事たちは当時のインテリでありヨーロッパシュルレアリスム動向を杓子定規に理解していた。
アンドレ・ブルトンらが主導したシュルレアリスム運動は原理を言えば社会変革運動である。第一次世界大戦で荒廃したヨーロッパの復興を目指し、現実(レアル)の上にある理想的現実(シュルレアル)を表現することで社会的役割を果たそうとしたのだった。ブルトンらが社会主義に共鳴したのはそれゆえである。モンパルナスの画家や詩人らのシュルレアリスム受容はほぼ純粋な自由な表現に限られていたが、特高は彼らを危険思想の持ち主と見做した。瀧口修造や福沢一郎が検挙されている。
またモンパルナスの画家の中にも当時の政府に協力する者もいた。書きにくいが北海道出身の小川原脩などである。彼は戦後にモンパルナス村に居づらくなり故郷北海道に戻って寂しげな犬の絵を数多く描き残した。今になればそれも池袋モンパルナスの大きな遺産である。そういった明治維新から太平洋戦争までの素晴らしい日本絵画の歩みと、それと相反する無理に無理を重ねた日本文化の歪みが集約されているのが池袋モンパルナスと呼ばれる一連の絵画動向である。
長野の上田市に戦没者が描いた絵画を収蔵した無言館という美術館がある。館主は小説家水上勉さんのご子息の窪島誠一郎さん。この無言館と池袋モンパルナスもどこかで繋がっている。
窪島さんはインタビューで「無言館に政治的意図は一切ない」とおっしゃっている。決して上手い絵が収蔵されているわけでもないとも。ただ戦前には絵を描くのが好きで好きでたまらない青年たちがたくさんいた。彼らの多くが親の反対を押し切って絵を書き続けたわけだが、兄弟姉妹がそれほど好きなら援助してあげると応援してくれたのだとも語っている。池袋モンパルナスの画家たちの多くは戦争を生きのび戦後に活躍することができた。が、昭和初期には戦没して無言になったぶ厚い絵画青年たちがいた。戦後の華々しい洋画の時代は彼らによってもたらされている。
また日本の洋画の歴史が御維新から昭和十年までわずか六十七年なのと同様に、明治維新で生まれた自由詩もその歴史はほんの六十七年だった。その意味で詩人・小熊秀雄が池袋モンパルナスの中心人物だったのは象徴的だ。プロレタリア詩人として知られるが政治的イズムに納まるような作家ではない。極貧の家に生まれたので当時の社会主義に共鳴したのは半ば必然ではある。しかし小熊の詩を読めば、彼がひたすら自由な表現を求めた生粋の詩人だったことがよくわかる。
寺田政明さんは小熊の親友であり小熊の第一詩集、第二詩集などの装幀を手がけている。僕は政明さんの晩年の風景画がとても好きだ。特に海と雲を描いた作品は素晴らしい。日本画の世界では竹内栖鳳の青を〝栖鳳ブルー〟と呼んだりするが、政明氏の海の青は〝寺田ブルー〟と呼びたくなるような鮮やかさだ。しばしば画面に描き込まれるカモメなどの描写も素晴らしい。
政明さんは晩年頻繁に小樽に絵画旅行に出かけていた。子供の頃足を怪我して不自由だったが、足を引きずって港近くに行って描いていたようだ。画廊でご子息の寺田農さんとお話ししたが「父が小樽にしょっちゅう絵画旅行に出かけていたのは小熊の故郷だからですよ」と言われた。ああそうかと改めて思った。
池袋モンパルナスについて書き始めると尽きない。この絵画動向は面白い。多士済々の画家たち一人一人について書いても尽きることがない。ドラマのような面白さだ。その絵画遺産が数多く残っているのは幸いなことだ。小規模だが『寺田政明・生誕111年展』は池袋モンパルナスを知るための良い導入になるだろう。
鶴山裕司
(2023 / 04 /21 9枚)
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