高嶋秋穂さんの『詩誌時評・歌誌』『角川短歌』の4連投です。文壇・詩壇でも、それぞれ質は違いますがグレーゾーンは存在しています。歌壇の場合、高嶋さんが廣野翔一さんの歌壇時評「平成の終わりに」を引用して論じておられるように、宮中歌会がそれに当たるのかもしれません。
石川も時々角川短歌を読みますが、読み物としてとても面白い。歌壇は非常に健全に機能していると思います。これに対して兄妹姉妹である俳壇は失格ですね。ほぼ毎号初心者俳人向けのテニオハ手直し講座。俳人は対外的には俳句は日本独自の文学だと喧伝しますが、俳壇内でやっていることは〝習い事芸としての俳句〟です。これが俳壇のグレーゾーンの70パーセントを占める。それから29パーセントは結社セクショナリズム。力のある結社に所属していなければ俳壇ではガン無視される。年齢が高くなればなるほど結社無所属は無視されることが多い。残り1パーセントが文学としての俳句ですが、これをやっているのは俳壇冷や飯食いの俳人が多い。まあ絶望的な〝壇〟です。外から見ていて、俳人たちはよくこんな壇で我慢しているなぁと思うことしばしばです。
歌壇では〝文学としての短歌〟が70~80パーセントを占めます。もちろん結社の力は無視できませんが、歌人はおしなべてリベラルです。そうでなければ口語短歌とかニューウエーブといった新たな動きは出てきませんね。ただ宮中歌会にはちょいと引っかかる所があるのも事実です。
高嶋さんが書いておられるように、宮中歌会選者になったり宮内庁御用掛になったとしても、歌人が政治利用されたとまでは言えない。むしろ歌壇を代表する歌人が歌壇全体の振興のためにそういう役回りを引き受けている面もあります。しかし太平洋戦争前後の歌壇の動きは今も歌人たちのトラウマになっているわけで、もそっとはっきりさせた方がいいかもしれない。
もち〝壇〟に限らず作家個人を見ても純粋な文学者なぞ存在しないと言っていい。誰もが現世の俗事に捕らわれています。しかし健全な○○壇というものは、可能な限り文学に対して純粋である作家を頂点にして形作られるのが理想です。文学よりも俗事活動の方に熱心な作家は壇の頂点に立たせない方がいい。これについても歌壇は実質的にそうなっていると思います。今のところですが。
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.061 座談会 歌壇・結社のこれからを考える』(角川短歌 2019年03月号)■
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.062 特集 穂村弘 世界の更新』(角川短歌 2019年04月号)■
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.063 特集 ヘビーヴァース 人間を差し出す歌』(角川短歌 2019年05月号)■
■ 高嶋秋穂 詩誌時評『歌誌』『No.064 廣野翔一 歌壇時評「平成の終わりに」』(角川短歌 2019年06月号)■
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