ウナギイヌの何が面白かったのかニャロメやケムンパスはともかく
穂村弘さんで真っ先に思いつくのが「ウナギイヌ」の歌です。ずいぶん前にクレーンゲームでウナギイヌを釣ったことがあるせいかもしれません。丸々とした三次元のウナギイヌはちょっと感動的でした。穂村さんは「ウナギイヌの何が面白かったのか」と書いておられますがこれは逆接ですね。ニャロメは猫でケムンパスは毛虫だけどウナギイヌは鰻+犬だと言うと理に落ちてしまいますが赤塚マンガを読んだ人が微かに抱く違和感が拡大表現されています。これがのらくろに登場するキャラなら「?」で終わったでしょうね。のらくろの全盛期は戦前です。
穂村さんの歌が面白がられ始めたのは一九九〇年代頃からでしょうか。正直なところ最初は「楽しい冗談だなぁ」と思っていました。俵万智さんが大賞を受賞した角川短歌賞で穂村さんが次席入賞なさったことはよく知られています。杓子定規ですが口語短歌の機運が満ちていた時期だったのでしょうね。
その後俵さんは『サラダ記念日』を出版なさり今でも歌壇で語り草になっている百万部を越えるベストセラーになりました。『サラダ記念日』が口語短歌のメルクマールになったわけです。ただ意味的にも視覚・聴覚的にも現代人になじみやすい口語だから『サラダ記念日』が一般読者に受け入れられたわけではありません。
初期の口語短歌はライトバース短歌とも呼ばれますが本当にライト=軽かったのは俵さんだけかもしれません。日常を歌っても恋愛を歌っても俵さんの短歌は軽い。「ふーんそうなんだ」で通り過ぎてゆくような軽さです。恋愛を詠っていわゆる女の情念がまったくといっていいほど表現されていないのは俵さんくらいでしょうね。
また俵さんは口語短歌の旗を振り続けたわけではありません。文語交じりの歌も詠みますし子育てやご近所付き合いや時には大震災などの社会事象もお詠みになります。それに対して俵さんは弁明めいたことをほとんどおっしゃいませんし口うるさい歌人たちから批判が上がることもほぼありません。俵さんにとってはごく普通のことであり歌人たちもそれを受け入れています。つまり当初は口語短歌の旗手とみなされましたが誰もがすぐにそうではないと気づいたわけです。俵万智短歌の本質は口語とは別のところにあるということです。
端的に言うとそれは〝俵万智的感覚欠落症〟になると思います。俵万智短歌には一種独特の透明感があります。それが口語ととても相性が良かった。俵万智短歌の爽やかな透明感が一般読者を惹き付けたわけですが〝期せずして〟でしょうね。
俵さんは今も歌壇の顔として各方面で活躍なさっていますが驕ることなく淡々とそれを受け入れています。また歌壇は実質的に〝俵万智抜き〟で動いています。俵さんは対外的な歌壇の顔ですがいわばお飾りです。そしてそれを気になさっている気配はやはりない。最初からそうだったと言うべきかもしれませんが俵さんには成熟も変化もありません。永遠のおかっぱ少女俵万智さんは「ふーんそうなんだ」で通り過ぎてゆく。
こういった〝感覚欠落症〟的な気配は穂村さんにも感じ取れます。主に「かばん」を拠点として数々の口語短歌歌人が現れライトバースやニューウエーブと呼ばれるようになりました。口語短歌の動きだけに注目していれば今では百花繚乱の様相を呈しています。しかし少し歌壇から距離を置いて遠目に見ると最も気になる歌人はやはり俵さんと穂村さんです。なぜか。
〝感覚欠落症〟の〝感覚〟が最も重要なのです。俵万智的な抒情の爽やかさは基本的に現在形です。現在形だから口語と相性がいい。抒情詩はすべからくそうですが過去の痛切な出来事を現在から振り返ってドラマチックな言語表現に仕立ててゆく手法です。しかし俵さんの感覚欠落は痛切なはずの出来事を上澄みを掬うように現在形で表現する。深みはないが爽やかなのです。
このような抒情のあり方を頭で理解して歌を詠むとなるほど口語短歌の抒情詩――ライトバースになります。既存の短歌と比較すれば相対的に新しくも見える。しかしそれは理知で理解した抒情のあり方でありほとんどの歌人は相変わらず過去の痛切事をドラマチックに仕立てる従来的抒情から離れられない。口語現在形のライトバースを書いても必ずと言っていいほど昔ながらの抒情が顔を覗かせてしまうのです。
では口語体に真っ正面からこだわるとどうなるのでしょうか。頑なに文語体を使わないと決めれば歌を詠むのは苦しくなります。文語体は辞書的には現在形の用法でも昔の言葉ですから使うと現代の感覚では過去と受け取られる。表現が永遠に属すような距離感が出るんですね。口語で過去形を使っても文語体ほどの距離感は出ない。
この文語体の効果を捨てて過度に口語体にこだわる短歌はひたすら現代を横滑りしてゆくことになります。マンガやゲームやネットなどのサブカルを取り込み浮いては消えてゆく社会風俗を詠うことになる。しかしそれだけで表現が続くはずもなく従来的な短歌が仮想敵になります。私性や短歌定型に対する反発などですね。
こういったリゴリスティックに口語体表現を探求する実験短歌をニューウエーブと呼ぶわけですがそのほとんどが状況的なものに見えます。簡単に言えば変わった短歌を詠んで手っ取り早く歌壇で頭角を現したいあるいは賞の選考委員など歌壇で生殺与奪の権を握っている(ように思われる)長老歌人たちを困らせてやりたいといった意図が透けて見えるところがある。
もちろんニューウエーブが短歌表現の幅を拡げ短歌人口を増やした功績は大きいです。ニューウエーブ短歌が直面すべくして直面した困難に苦悩する歌人もいます。しかし作家はすべからく自らが書いた作品に復讐される動物です。作家は過去に発表した作品――ましてや歌集を上梓していればそこから決して逃げられません。当初の路線で活路を見出すか思い切った路線変更を行うしか道はないのです。当初の路線が思いつき程度のものであったなら当然「あの作家は崩れた」と批判されます。
口語短歌でもライトバースでもニューウエーブでもいいのですが穂村さんはその端緒に位置する歌人です。そして多くの極端な試みをする歌人に比べると〝あざとさ〟があまり感じられない。その理由は――俵さんとは質が違いますが――穂村さんもまた〝感覚欠落症〟的な資質を持った歌人だからでしょうね。
感覚欠落症的というとなにかディスったような響きをお感じになるかもしれませんがそうではありません。感覚が先行するということはそれが作家の肉体に根ざした思想であることを意味します。生まれながらの資質や才能と言うこともできます。この思想は必ずしも論理的に説明できるものではないですが作家の肉体が滅びるまで持続する強いものです。また文学での新たな試みは作家の肉体に根ざしたある執着――俗な言葉で言うと〝どうしてもそうなってしまう偏執〟から生まれることが多いのです。本当の思想は肉体的なものです。頭で考えただけの表現は弱い。
もちろん感覚に主導された新し味はそれだけでは脆弱です。普遍的思想にまで鍛え上げられ一つの表現基盤として確立される必要があります。
表現基盤確立(あるは拡張)の試みは盛んですね。俵さんや穂村さんの同世代はもちろん後続世代が次々に新しい試みを行っています。しかし普遍思想は少しハードルが高い。本来は作家固有のものである感覚を現代社会に接続する必要があるからです。穂村さんが特別な作家であるのはこの困難な仕事をある程度引き受ける覚悟があるからです。では穂村さんの現代短歌思想はどのようなものなのでしょうか。
――現在、ここ十年くらいで新しい、得体の知れないとも言える世代が出てきているのではないでしょうか。
穂村 その幻想は共同体が常に必要とするものだから、今年の新入社員は得体が知れないという話が毎年のように繰り返されるんだろうね。ただ、この間笹井宏之さんの『えーえんとくちから』(ちくま文庫)の解説を書きながら、これはステージそのものが変わったのかもなと感じました。(中略)「魂の等価性」と書いたんだけど、〈私〉の特権性が希薄で、すべてが等価になっている。〈みんなさかな、みんな責任感、みんな再結成のバンドのドラム〉みたいな感覚。(中略)これまでは、近代の和歌革新運動の担い手も、戦後の前衛短歌の旗手も、九〇年代のニューウエーブと呼ばれた歌人たちも、「〈私〉は新結成されたバンドのボーカル」という意識で歌を作っていたと思う。笹井さんの「みんな再結成されたバンドのドラム」はそれを裏返すものじゃないか。
その根っこにあるのは、自我の突出したエゴイズムは世界を滅ぼすという感覚じゃないかな。(中略)現代は獲得したばかりの〈私〉を謳歌する晶子や茂吉の時代とは違う。大袈裟な言い方をすれば、種としての人類が異なる段階に入っていて、突出したエゴの力はすべてを滅ぼしかねない。(後略)
だから、僕はやっぱりショックだったけど、角川『短歌』の「春日井健」特集(中略)の時の若者たちの微妙な反応はわかる気がする。春日井さんの〈私〉は選ばれた神話の主人公みたいな輝きを纏って、そのように振る舞う。でも、今は「みんな再結成されたバンドのドラム」だから、「はてな?」っていう感じになるんでしょうね。(中略)結果的に文学的な特権性は失われる。(中略)神話の主人公に憧れて、そうなれなかった我々の世代には厳しい状況になっている。
(「穂村弘インタビュー」)
現代において「〈私〉の特権性が希薄」なのはまったくその通りです。現代世界からはどんどん謎がなくなってゆく。秘儀と言われてきた思想や技法もその内実が白日の下に暴かれ誰もが――少なくとも頭では――理解できるようになっています。世界は根っこの方で網の目のように絡まっていてときおり芽を出し茎を伸ばすのですがその茎はいたる所で発生しています。〝ここが世界の中心〟と思っていても違う茎の下に集う人たちは自分たちの茎こそが世界の中心だと考えている。このような現代世界において「文学的な特権性は失われ」るのは当然です。〈私〉がいくら大仰な身振りで声を枯らして主張してもその声は別の〈私〉の声にかき消される。かつては唯一無二だった私性の特権性はもうないのです。
穂村さんが笹井宏之さんの「みんな再結成されたバンドのドラム」に引っかかっているのは面白いですね。再結成されたバンドはもちろん昔のヒット曲を演奏します。そしてバンドに参加する現代人はボーカルやギターなどのフロントマンではなくバンドに不可欠ではありますが地味なドラマーです。つまり「神話の主人公に憧れて、そうなれなかった我々の世代」がドラマーに象徴されている。強烈な自我意識の〈私〉による文学の試みはほぼ出尽くしたと言っていいと思います。
では私性の特権性を失った現代人はどのようにして表現を更新してゆくのでしょうか。特集タイトル「穂村弘 世界の更新」の〝更新〟をどうやって実現してゆくのか。
話は前後しますが文学理論はすべて後付けです。常に作品が先行しそこから理論が生まれてくる。穂村さんの場合も同様です。すでに更新の試みは為されていると言っていいわけです。
脱走兵鉄条網にからまってむかえる朝の自慰はばら色
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」
泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも
「神は死んだニーチェも死んだ髭をとったサンタクロースはパパだったんだ」
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
雪のような微笑み充ちるちちははと炬燵の上でケーキを切れば
ゆめのなかの母は若くてわたしは炬燵のなかの火星探検
生まれたての僕に会うために水溜まりを跳んだ丸善マナスルシューズ
宇宙船のマザーコンピュータが告げるごきぶりホイホイの最適配置
「うんこ」や「小便」などを挙げるまでもなく幼児性あるいは幼年期へのこだわりが強い短歌です。この幼児性が穂村短歌の大きな特徴であり彼の代表歌には今後も「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」などが含まれるはずです。
一方で批評活動を開始してからの穂村さんは歌人はもちろん短歌史についても的確な知見を持っていることが明らかになっています。付け焼き刃ではとうてい仕入れることができない知見ですから短歌に関する膨大な知識を持った上で幼児性の強い短歌創作を始めたことになります。彼の強烈な感性的資質が〝知識としての短歌の常識〟を上回ったということです。ではそれによって何が起こったのか。
狙い澄ましてというわけではないでしょうが穂村短歌の幼児性は長い長い歴史を持つ短歌文学における一種の〝白紙還元〟として作用したと思います。ある時代に絵画技巧や思想が頂点に達した際にそれまでの常識から言えば子供のような絵が活路を切り拓くのに似ています。その衝撃は俵万智短歌よりも鮮烈だった。穂村さんの白紙還元以降の短歌はある意味短歌史をなぞり直しているとも言えます。すべてが疑わしいわけですが常識的な短歌技法・思想すべてを一から試してみてもいいということです。
比喩的に言えば穂村さんや俵万智さんは子供だから年長者に愛される。実際お二人の短歌は子供のような楽しさに満ちています。それが読者を惹き付けた。読者だけではありません。若い歌人たちも雪崩を打って穂村・俵さん的な短歌を詠み始めた。口語短歌など様々な後付け理論が生まれましたが最大の理由は〝楽しそうだから〟でしょうね。簡単で楽しそうだから短歌でも詠んでみようかと思った。でも真似してもぜんぜん楽しくない。簡単でもない。その逆に深刻で苦しげになってしまう。
その理由は――これも比喩的に言えば――穂村さん以降のニューウエーブ歌人たちは反抗期に差しかかった少年少女だからでしょうね。大人をスポンと欠落させた子供ではいられない。子供っぽいところはあるのですが十分知恵がついている。それが無邪気で楽しげな雰囲気を壊してしまう。もちろん無責任にチヤホヤしてくれる大人もいるわけですがそういう大人がタチが悪いのはいつの時代も同じです。「生意気なこと言ってんじゃねーよ」と叱責する年長者の方が実は真摯で愛情深いものです。
また子供はいつか大人になります。従来的な意味で成熟するかどうかは別として加齢に伴う肉体の衰えに応じて精神も変わってゆかなければなりません。それにいつまでも若手ではいられないわけで次の世代が尻をつつき始めます。頭から口語短歌の可能性に突っ込んでいったニューウエーブ歌人の苦しげな姿を見たさらに若い世代はそこから距離を取り始めています。口語短歌の富を享受しつつ従来的な短歌技法も手放さない世代が現れ始めている。では一つの時代のフラグシップ歌人である穂村さんはどのように変わってゆくのでしょうか。
非常時に窓割るためのオレンジの斧を見つめて揺られていたり
眠ってるみたい以外に云う言葉みつからなくてくりかえす夜
病院が自分をたすけるところだとわからないからこわくてないた
ぽぽぽぽと口から小鳥を吐いてると思い込んでた空也上人像
八畳間ほどのプラネタリウムあり扉開ければ昼の花吹雪
冬の夜の星座を示す矢印のライトが僕の手のなかにある
推敲につぐ推敲に燃えあがる炎のなかの銀河鉄道
夢の国の王子が猫缶買っている海の近くのスーパーマーケット
教卓に置かれたテープレコーダーが喋りつづける遺伝子転写
教室の窓から垂らすトイレットペーパーの眩しい青葉のなかに
(穂村弘「新作30首 窓割るための」)
子供っぽいけど勢いのあるはしゃぎっぷりは影を潜めだいぶ落ち着いた短歌になっています。歌が詠まれた状況やそこに登場する小道具が永遠の時空間や幼年期的原初を感じさせます。スターウォーズがハイテク未来を描きながらオイディプス王の物語などの物語を下敷きにしているのにちょっと似ているでしょうか。今までの実績を引き継ぐならスターウォーズ短歌が一つの方向性になるかもしれませんね。
ただ「穂村さんはどのように変わってゆくのでしょうか」という問いを発しましたがそれは現在進行形ですからこれ以上の批評は控えます。一連の口語短歌運動の行き着く先についても角川短歌を読んで勉強させていただくことにします。短歌の世界はスリリングで楽しいですね。
高嶋秋穂
■ 穂村弘さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■