今月号の特集タイトルは「ヘビーヴァース」で「人間を差し出す歌」というサブタイトルが付いていますが今ひとつピリッとしませんでしたね。その理由は特集の意図が二つに分かれてしまっているからです。一つは原理的問いかけです。短歌には人間が表現されていなければならないという原理ですね。もう一つは論争的問いかけです。
「人間を差し出す歌」という議論は若手歌人を前にしても一歩も引かない恐い恐い馬場あき子さんが「そんなへなちょこ歌詠んでどうする恥も外聞もかなぐり捨ててちゃんと作家の人間性が出た歌を書け」というニュアンスの批判をしたことから始まります。それに対して若手歌人から反論もあったわけです。論争になりかけた。
でも特集には言い出しっぺの馬場さんが登場しておられない。馬場さん不在だと代理戦争になってしまうわけですが代理戦争はいつだってつまらない。もちろんそれは若手歌人にも非があります。同様のテーマで角川短歌で討議が開かれたこともありますが実際に馬場さんを目の前にすると若手歌人は意外に物わかりがよくおとなしい。つまりせっかく場を設けたのに肩すかし。文学には芸の側面もあるわけですからもうちょっと芸を磨いた方がいい。観客の反応を見ながら臨機応変に座を盛り上げるのが芸というものです。興行主に「うーんいまいちウケけてないな」と言われ続けると角川短歌さんからお座敷がかからなくなってしまいますよ。
馬場が「人間」を考究の対象として設定してきたのに対し、永井(祐)はその内実を一括して把握できるとは考えず、いちいち現実にそくして補充すべきものととらえている、という構図が明らかになる。そして、既存の短歌らしさを抜け出してより徹底した現実主義を目指すために、既存の短歌らしさを構成していた文体の改良が必要となる。そこで新たに構築されようとしているのが最新の口語的な文体ということになるだろう。以下、具体的に見たい。
名画座のラブロマンスに酔ったけど酔ったというと言いすぎかなあ
五島諭『緑の祠』
だいなしの雨の花見のだいなしな景色のいまも愛なのかなあ
阿波野巧也「羽根と根」四号
ビルをつくるひとはやる気があるんだなあ
悲しい時はジャンプしてみる
橋爪志保「羽根と根」四号
最近の口語的と言われる短歌のなかに、しばしば語尾の「なあ」の意識的使用を見る。詠嘆の調子を伝える終助詞として、「な」でもほぼ意味が変わらないものを、引き伸ばしたような印象である。(中略)
阿波野の二首目にも、「だいなし」の反復において意味の希薄化の作用が確認できる。(中略)橋爪の場合には建設現場の様子を「ビルをつくる」と素朴に言いなすことで、一首の視点がはるかに「ビル」を見上げる低層にあることを感じさせ、なおも「ジャンプしてみる」と垂直方向への成長や延伸のイメージへの未練を思わせる働きを示す。目前の状況を内面化することなく、賛否もとりあえずそれを見つめる、という働きの「なあ」である。
(寺井龍也「口語に、乞うご期待」)
文学は個人=私の表現であり「短歌には人間が表現されている」という議論はその単純な了解からでもいくらでも思考を紡ぎ出せるので論争的評論を取り上げることにします。
寺井龍也さんが「口語に、乞うご期待」で「「なあ」の意識的使用」を論じた箇所です。しかしちょっと期待外れですねぇ。「なあ」使用の意図は「意味の希薄化の作用」と「目前の状況を内面化することなく、賛否もとりあえずそれを見つめる」という二点に集約されます。要するに決定的な何事も書かないことが「なあ」の用法。それ以外の読解は深読みと言われてもしょうがない。
いろんな議論に振り回されて過ぎていますね。馬場さんが仮想敵なのでしょうが実はそれは問題ではない。寺井さんが本当に主張したいのは「より徹底した現実主義を目指すために、既存の短歌らしさを構成していた文体の改良が必要となる」。そのために「最新の口語的な文体」が「新たに構築されようとしている」ということです。
例にあげた「なあ」による「意味の希薄化」の判断留保では当然のことながら「徹底した現実主義」にはならない。今現在(現代)の現実を捉えられていない作家の姿が浮き彫りになるだけです。
批評が作家の夢を語るツールであるのは一面の真理です。特に詩人の場合は創作者が批評家を兼ねるのでそんなふうになりやすい。ニューウエーブ系の歌人は議論(評論)に熱中しすぎですね。文学ではどんな場合でも作品が先行して理論がそれをパラダイム化してゆく。しかし肝心の実作短歌が弱ければ絵に描いた餅です。深読みによる夢語りになってしまう。
「徹底した現実主義を目指す」なら逃げではなくザラザラとしてとりとめがなく残酷で愛おしくもある現実に直に向き合わなければなりませんね。まず納得できる作品を書くのが先です。そんな覚悟が決まってしまえば「短歌には人間が表現されている」かどうかはどうでもいい問題になるはずです。作家が見つめる問題の審級が確実に上がるからです。
物事はまず単純に考えた方がいい。そうしないととんでもない方向に結論がズレてしまいます。どんな形であろうと文学作品には必ず作家=私性が表現されます。だから問題の本質は「どうやってそれを行うのか」になる。古典的な方法もより現代社会に即した方法もある。軽い歌で表現する方法も重く表現する方法もある。表面的(言語的)には私性を表現しない方法もあります。もちろんテニオハは口語でも文語でもかまわない。こだわりすぎはかえって思考の自由を奪います。
従来的歌人が短歌文学で私性の表現を重視しすぎると批判するのはムダ。もっとじっと自分の手を見た方がいい。ほとんどのニューウエーブ短歌は何か言いたげなのに一向に勇気を持って思い切った表現に赴かないから尻を叩かれているのです。歌壇では短歌の益になる新しい表現が生まれれば確実にそれは高く評価されます。評論を使って仕手戦のように仲間内の作品評価を上げようとする試みは絶対にやめた方がいい。仲間内以外ではさっぱり思うような評価が得られない時は黙々と作品を工夫しレベルを上げるのが基本です。
うまいだけの歌なんていくら歌っても仕方ない。あれはお粥みたいなものだ。うまくとも、腹の足しにはならない。短歌は所詮三十一文字。料理下手でもいつかはうまいお粥くらい作れる。技術がある人ならなおのことだ。
でもやっぱりタンパク質だって欲しくなる。いい歌を食べると力がでる。じゃあなにが歌のタンパク質なのか。ということを馬場あき子に聞いたら、「人間が差し出された歌だよ」と言われた。なるほど。とそのときはしたり顔でうなずいたが、考えれば考えるほどわからない。どうやれば人間を差し出せるのか。そもそも三十一文字に人間が収まるわけないだろう。いくらぼくが怠惰な日常を送っていようとそれ以上の情報量はある。(中略)
心が動いて歌にしてみたが、なにに動かされたのかよくわからないということがある。でも多くの場合はそこに自らの希求があるのだと思う。自分の歌と向き合って、無意識や心の底が求めているそのなにかの輪郭に触れてみることが必要ではないか。
(佐佐木定綱「希求の歌」)
特集からもう一つ。ポスト・ニューウエーブ短歌の旗手かもしれない佐佐木定綱さんの論考です。ただちょいとこれはこれで問題かも。物わかりが良すぎるんだなぁ。「どうやれば人間を差し出せるのか」という問いかけが答えに行き着いていません。「無意識や心の底が求めているそのなにかの輪郭に触れてみることが必要」というのは答えではないですね。キレイにまとめただけという感じです。
短歌を読んでも評論を読んでも佐佐木さんが強い美意識を持っておりキレイにパッケージにまとめたがる性行があることがわかります。しかし優等生になり切るのは危険です。作品論理であろうと評論論理であろうと破綻ギリギリのところまで攻めなければ作家の独自性は露わになりません。
歌壇は俳壇や自由詩の詩壇と違って問題児や反逆児を端っから排斥することのないリベラルで恵まれた文学フィールドです。それは本当に幸運なことで小説文壇を含めて普通の〝壇〟はもっと息苦しい。歌壇の長老というか重鎮の皆さんは本当に偉いと思います。頭から口語短歌に突っ込んでいった歌人たちとは質が違いますが佐佐木さんもある種の壁を大胆に乗り越える時期なのかもしれません。
親の意に添はず生きたる若き日の 身のかなしみは 独り耐へきぬ
妻も子も知らぬ歎きを 老いの果てこころ潰えて 吾はうたふなり
継ぐべかりし三十五代神主を 継がで過ぎしを 父は許さず
さくら散り マロニエの木は枯れにけり。この古き家に 独り生きゆく
九十 なかばの命なほ生きて 夜ふけ 朝明け 身は疼くなり
たましいは澄みてさびしき。言の葉のおのづからなる 歌生まれこよ
祖の世の また祖の世の沁みいづる しらべ哀しと 身はうつつなし
ひと日黙せば ひと日むなしく過ぐるなり。心したたるごとく 歌はむ
眼とづれば 老いの姿はうづくまる。この年にして 父は逝きたり
夕まぐれ ひそかに父が座りゐし 古木の株に われは依りゆく
山峡に息ひそめあふ 一家族。わがちち ははに 幸ふかくあれ
(岡野弘彦「恩愛の家」)
今月号の巻頭は岡野弘彦さんの「恩愛の家」連作。ほとんど祝詞ですね。お見事。
高嶋秋穂
■ 佐佐木定綱さんの本 ■
■ 岡野弘彦さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■