佐藤知恵子さんの文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』の4連投です。『No.139 佐々木愛「夜の子」(オール讀物 2019年02月号)』、『No.140 島本理生「かたとき」(03・04月合併号)』、『No.141 井上荒野「緑の象のような山々」(05月号)』『No.142 米澤穂信「白い仏」(06月号)』です。今回佐藤さんが取り上げた作品では、やっぱ井上荒野さんの「緑の象のような山々」が一番の秀作かな。
井上先生の描く女性は、たいていはさくらのようにおとなしく物わかりがいい。男に追いつめられても強い女に豹変して男に逆襲することもありません。事態はもっと深刻なのです。井上荒野的な女は男の底の底まで見ようとする。優しい男でも、暴力的な男でも、犯罪者の男でも同じです。そして底の底まで見てしまった女は絶望的な現実を突きつけられます。しかしそれが井上荒野的な女の愛なのです。男が抱えるザラザラとした混乱と身勝手がどうしようもなく深いものであるなら、井上荒野的な女は男を愛することができます。さくらは一也と別れることになりますが、それは一也が示した絶望が浅いからです。
この井上荒野的な女がどこから生じているかと言えば、やはりお父様の井上光晴先生との関係からではないかと思います。光晴先生は子供の頃から同級生に〝ウソつきみっちゃん〟と呼ばれるほど虚構を組み立てるのがうまかった。井上荒野先生はたいていの男については底の底まで見極められる。見えてしまうと、これもたいていの場合、井上荒野的な女は男に興味を失う。しかしこの世で唯一底が見えなかったのがお父上の井上光晴先生だったのではないかと思います。これはファザコンといったものではありません。純文学に必須な抽象的理念=テーマです。井上荒野先生の世界には決して解けない謎があるのです。
佐藤知恵子
ああなるほどという批評ですね。佐藤さんは「井上先生はエッセンスしか書いていない。あるいはエッセンスしか書きたくない。文学の、あるいはこのお作品のテーマの〝純〟な部分しかお書きにならないのです。アテクシが井上先生は純文学作家だと思う理由がそこにあります」とも書いておられますが、石川も同感です。
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』『No.139 佐々木愛「夜の子」(オール讀物 2019年02月号)』 ■
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』『No.140 島本理生「かたとき」(2019年03・04月合併号)』 ■
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』『No.141 井上荒野「緑の象のような山々」(2019年05月号)』 ■
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』『No.142米澤穂信「白い仏」(2019年06月号)』 ■
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