商売の基本はモノを仕入れて(作って)それを仕入値(原価)よりも高く売ることですわね。太古の昔から現代の仮想通貨に至るまでこの仕組みは変わりません。投機は楽して稼ぐイメージがありますが、実際はホントに大変なのよ。ドッカンと相場が下がった時に買って上がった時に売ればものすごく儲かるわけですが、FXを含めて日々の相場の動きは小さい。だからある程度まとまった資金がなければまとまった利益も出ないわけです。もち読み間違えれば大きな損につながります。
じゃもっと確実な儲け方はないかということで、アテクシ随分前に美術品についてのレポートを書いたことがござーますの。お金はキャッシュで持っていれば融資が受けやすいですが、資産というレベルになれば運用が必要になります。金融資産、土地・建物、ゴールドなどに分散投資してゆくのがいいわけですが、そこに美術品を加えられるかどうかということね。
結論から言いますと、美術品を資産運用に組み込むのは難しいわね。バブルの頃みたいに、ちょっとした美術品でも担保になってかなりの融資が受けられた時代は別ですけど、今はよほどのモノでなければ銀行は渋ります。美術品売買で儲けるのはなお難しいわ。3億でルノワールを買って、5年後にそれを4億で売れるかどうかってことですけど、税金とかを考えれば利益はほとんど出ませんわ。表で美術品を動かして利益を出せるのは大手の画廊と大店の古美術商だけかもしれません。
だけどニューヨークのアートシーンはちょっと考えちゃうところがござーます。数年で利益を出す投資は難しいけど、2、30年単位の投資と考えれば十分利益が出る可能性がございますわ。ニューヨークのアートシーンはおっそろしいのよ。あそこでエスタブリッシュした画家の作品は、日本に限らず欧米の作家でも、ゼロが一桁二桁三桁違ってくることがございます。これは魅力的投資に映るわよね。100万で買って20年後に1,000万円になれば確実に利益は出ますわね。高止まりした画家の作品を買うのではなく、上がりそうな画家の作品を買うってことよね。問題はもち、そういう画家の作品をどうやって見つけるかだわね。
欧米の富豪は桁違いの資産を持っていますから、コレクションを集める専門のキュレーターを雇っていることがあるわね。もちろんコレクションの集め方もそれぞれで、高止まりした名品ばかり欲しがる富豪もいらっしゃいます。アテクシが注目したのは新進作家とか無名作家の作品を集めるコレクターね。高くても一点300万くらい、安ければ5、60万くらいの作品を買うの。で、これはいけるという作家は大人買いしてゆく。目利きのキュレーターがいれば、勝率3割5分くらいでびっくりするような利回りになるわ。もちある程度の資金は必要ね。千円のモノが1万円になれば10倍ですが、50万なら500万でしょ。相場とはまた違う思い切りの良さが必要よ。
あるパーティで、長年に渡って実績を上げている個人や企業のキュレーターの方にお会いしたことがあるけど、やっぱ優秀ね。人のお金でモノを買うという緊張感を持っていらっしゃるのは当然ですけど、それプラス自分の審美眼を信じる強さがあるのね。「有名作家の作品だと贋作もありますね。見分けるコツはありますか?」とうかがったら、「そうだねぇ、情報は必要だけど、情報を信じすぎちゃいけないね。モノをちゃんと見ないと」とおっしゃっていました。
誰が持っていたか、どこから出たかは重要だけど、鵜呑みにしちゃいけないということです。「表面から裏側まで目で確認できることは全部確認し尽くして、それから「ああいい作品だね」になるんです」とも言っておられたわ。美術は感覚的なものですから、自分の好みとかの感覚にのめり込んじゃダメってことよね。俺はわたしは目利きだって吹聴したがるコレクターは、たいてい目が利かないものよ。
車の中で円空の話が出たのは、蓑石に円空が彫った仏像があるからだ。
蓑石への移住は、無人となった村からまだ実用に耐える家屋を選び、市が業務を委託する不動産業者を介して、地権者が移住希望者に空き家を貸すという形で行われた。(中略)
空き家の中には家財が残っている家も多く、それらはたいてい、家に附属する形で貸すことになった。(中略)中には神棚や仏像まで残していった家もある。問題の円空仏は、そういった残された品の一つだ。
(米澤穂信「白い仏」)
米澤穂信先生の「白い仏」の主人公は、市役所の公務員・垂水です。過疎を通り超して無人になった蓑石の再生を目指す蘇り課に配属されていて、移住してきた人たちの面倒を見るのが仕事です。部下に観山遊香という女性がいて、「学生の癖が抜けない軽々しい後輩」と描写されます。かたや垂水は公務員のコンプライアンスに杓子定規に従う男で、民家におじゃましてもお茶にすら手をつけない堅物です。垂水は独身ですから遊香とのデコボココンビのラブコメがあるのかな、と期待させますね。
もちろんそれだけでは小説にならないわけで、蓑石の住民の間でちょっとした騒動が起こります。若田一郎と公子夫妻が借りた民家に、元の所有者が残していった円空仏があるのです。それを知った、これも蓑石に移住してきた長塚という男が、「知名度は抜群。しかるべき機関に持っていけば、重要文化財は堅い。そうなったら大変だ。僕はね、あの円空仏を柱に、ミュージアムを建てるべきだと思う」、と若田夫妻の家にある円空仏を見たがります。ところが若田一郎は見せたがりません。
「つまり、あの仏さまを広く公開してほしいということですか」
「いえ、一般にということではありません。この蓑石に移住した人たちに向けて、内々に見学する機会を設けることは出来ないかというご相談なんですが」
一郎さんは、口許を引き締めて答えた。
「お断りします」(中略)
「そもそも、私があの仏さまの側に来ることになったのも、ただの偶然とは思えません。人に見せるとなると慎重に扱わなければいけませんが、私は古いものの専門家ではありませんから何か間違いがあってはと思うと、とてもお申し出をお受けする気にはなれないのです」
(同)
若田一郎には、家族にも自分の身にも次々に辛いトラブルが襲いかかる時期があり、ふとした気まぐれで占い師に見てもらったところ、「すぐに転居しなさい」と言われて蓑石に移住してきたのでした。で、借りた家に住んでみると貴重で珍しい円空仏がある。円空仏との出会いは何かの啓示としか思えないので、みだりに他人に見せたくないと言ったのでした。つまりここで、垂水と遊香のラブコメ、円空仏の霊力、一郎が見せたがらない円空仏のお姿という、三つの要素が小説展開の可能性になったのです。
結論を先に言うと、垂水と遊香のラブコメはありません。垂水は役所から与えられた仕事をキッチリこなす公務員で、ヒーローに求められるような大胆な行動力や、鋭い洞察力や推理力を持っていません。遊香も同様でヒーローの知性を補うような鋭い感覚を持った女性ではない。途中まで読めば「この二人の恋愛はないな」とすぐにわかります。次の円空仏の霊力は、一郎が超自然的な力を信じている人である以上、起こります。ただしオカルト的なドッタンバッタンは起こしようがないですから、気の迷いと言えばそれで済んでしまうような怪異現象がそこはかとなく起こる。残るは円空仏の正体ですね。
「違う。偽物だ」
「えっ」
思わず一郎さんが持つ仏像をのぞき見る。雑と言えば雑、しかしどこか優しげな顔が彫られている。一郎さんはこちらに気づくと、その像の一部を指さした。
「・・・・・・白い?」
「そうです。白い」
生木の色ではない、もっと不自然な白さだ。
「なんでしょうか」
「決まっています・・・・・・塗料が剥げたんだ」
一郎さんが仏像をノックすると、くぐもった軽い音が響いた。手の中の仏像をじっと見つめ、一郎さんは心ここにあらずと言った顔で呟く。
「樹脂製です。偽物だ。このあいだまではそうじゃなかった・・・・・・。すり替えられてる!」
(同)
円空仏を中心に蓑石にミュージアムを建てたいと言っていた長塚が、一郎の家から円空仏を盗み出していたことが発覚します。蓑石に円空仏があることは昔から知られていて、そのレプリカも作られていました。長塚はレプリカを悪用して、こっそり一郎の家に忍び込んで本物とすり替えたのでした。
で、ここまで読んで、アテクシ「んー」と唸ってしまいましたわ。長塚は「しかるべき機関に持っていけば、重要文化財は堅い」と言っていますが、国宝・重文に指定された円空仏はございませんわね。そして一郎の家にあった円空仏は生木を彫った白い仏様です。本物が白木の木製の場合、樹脂で作れば一瞬で偽物とわかります。質感も重さも違う。さらにその上、樹脂の上から白い塗料を塗ることは、なんぼなんでもありませんわ。レプリカとかけ離れてしまう。
アテクシ岐阜に旅行した時に、円空美術館や円空がたくさんあるお寺を観光したのよ。誰でも気がつくと思いますけど、円空仏には煤で真っ黒になった仏様と白木のままの仏様がございます。地方の美術館の学芸員さんって、東京と違って気軽に来館者の質問に答えてくださるから、アテクシ「なんで黒い円空と白い円空があるんですか」と聞いてみたのよ。
黒い円空は、お寺の本堂でお線香や蝋燭の煤で黒くなったモノと、円空さんが農家なんかに泊めてもらって一宿一飯の恩義で彫った仏様が、民家の台所の竈の煤で黒くなったモノがあるそうです。お寺の黒い円空仏には一メートルを超えるような作品もあるけど、民家に伝わってものはたいてい小さいらしい。
で、白い生木の円空仏はお寺にしかないそうです。白木(生木)の円空仏はたいてい千体仏の一つで、お堂の中にしまいっぱなしになっていた場合が多いから白いままだそうです。すんごい雑な円空仏もあるので、「あれって本物かどうか、どうやって見分けるんですか?」と聞いてみたの。お寺の人が言っていたことですが、白木の円空仏がもしお寺から流出したとしても、真贋を見分けるのは難しいということでした。円空さんは、仏様の背中に梵字でお経を書いたのですが、白木の千体仏にはそれがないそうです。雑で真似しやすいので、○○寺から出たという相当に信頼できる保証がなければ真贋はほぼ判定できないそうよ。蓑石の円空仏は一体だけで、しかも白木です。白木の円空仏が古くから民家に伝わっていることはないわね。最近買ったモノならなおのこと真贋の判定は難しい。
小説は伏線を張りながら進むものですけど、複数の伏線を張ってもそれが有機的に機能してくれないことがあるわね。「白い仏」に関しては、少なくとも仏さまを円空仏という実在の仏さまにしない方が、説得力が増したと思いますわ。
佐藤知恵子
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