アテクシ最近テレビでネットにはまってますの。加入してるのは今のところamazonプライムとHuluね。amazonが月500円でHuluが933円でござーます。これに比べるとNHKさんの受信料はすんごい高いわねぇ。アテクシもちNHKさんの受信料も払ってますけど、地上波と衛星合わせて年払いで38,670円よ。月額3.223円ですわね。もう一つか二つ、ネットテレビに契約できちゃうわよ。
先の選挙ではさすがにNHKから国民を守る党さんには投票しませんでしたけど、NHKさんの受信料設定が時代に合わなくなってるのは確かね。海外だと先進国はもちろん、新興国でもテレビ番組を見たいときは有料放送に加入するのが一般的ね。ただしBBCもそうですけど、国営放送はあってもいいと思います。ニュース番組などは、NHKさんが一番幅広いトピックを扱っていますからね。
でも今後ますますネットが普及していって、誰もがネット経由で情報を入手するようになるわけでしょう。視聴者受動型でコンテンツが選択できない今のテレビは相対化されるわね。問題はそうなった時に、NHKさんが今現在得ている受信料収入を減らさないで放送システムを変えられるかどうかね。以前、アメリカ軍の基地でもテレビでNHKが映るので、受信料を払えって話がありましたわ。アメリカ政府の立場は、アメリカ軍基地は免税であり、NHKの受信料は実質的にタックスなのだから、払う必要がないといったものでした。
この考え方を使ってNHKさんはニュースだけ誰でも見られるようにして、その代わり国民一人当りに低額の受信料を天引で課す、そしてドラマやバラエティを見たい人には有料放送に加入してもらうというシステムを構築するのは不可能ではないわね。今は世帯ごとの受信料になってるけど、働く国民全員にタックスとして受信料を課すというシミュレーションをしてごらんになるとどうかしら。そういうストラテジーが大好きな経営コンサルは山ほどいるわ。もしかすると、今より収入が増えるかもしれませんことよ。
ほんで有料放送ではまるのは、やっぱテレビドラマね。休日は休日で忙しいですから、パッとテレビつけて漫然と見られるのは正味45分くらいのドラマが多くなるのよ。アテクシ、ご多分に漏れず『クリミナル・マインド』にはまりましたわ。FBI行動分析課(BAU)のおなじみのメンバーが、連続殺人事件を解決してゆくお話よ。リーダーのホッチナーが物語からいなくなった時は、「ダメよ~」と叫んじゃいましたわ。制服のオフィシャルが登場する物語ですから、背広が似合う捜査官が必要なのよ。
でもホッチナーがいなくなってからも、けっこう楽しんで最後まで見ました。だけど最近のシーズンは女性捜査官が多くなって、なんだかなー、なのよね。これはなんでなんでしょうね。自分でも不思議だったんですが、はたと思い浮かんだことがございます。
テレビってやっぱ、社会の窓なのよね。男か女かという実際の性別とは関係なく、法や不文律的なルールって、本来的に男性的なものだと思いますわ。社会を秩序あるものにしてゆくためのルール、つまり現実利害はもちろん、人間の感情まで一定のルールを課して平穏なものに保ってゆくのは男性的世界分節なのよ。
そういう意味で、テレビドラマは男が悪戦苦闘している物語の方が面白いってところがありますわ。もち女性が主人公で大ヒットするドラマもござーますけど、半沢直樹みたいに社会現象にまでなるドラマは男モノがおおござんす。これはアテクシにとってはちょっとした発見でしたわ。
アテクシ、小説ではフェミニンな作品の方が好きですの。型にはまった時代小説なんかは楽しんで読みますが、読んだ端から忘れますわ。心に残るのは女性作家のフェミニンな小説が多いのです。でもテレビは逆。このあたりに小説的なものとテレビ的なものの分かれ目があるかもしれません。
本当に老若男女を巻き込んでヒットするコンテンツは、テレビや小説を問わず、社会問題に密接に関係しているものが多いと思います。でもテレビが社会の窓口という切り口に特化すれば、すぐにパターン化してしまう。反対に小説はもっとプライベートな男女関係や家族関係を描くのが得意です。だけどそこに特化すると小さなパイしか得られない。
この構造は今に始まったことではないですが、今後ますますハッキリしてくるかもしれません。テレビも小説も一頃とくらべると厳しい状況になりつつありますが、ある程度の棲み分けを考えて実践すれば、相乗効果が生まれるかもしれませんわね。
三月三日
やばい。
もう会いたい。
別れてから五分も経ってないね。さくらが乗った新幹線、走って追いかければ追いつけそうな気がする。
ホームでこのメールを書いています。見送って、ひとりになった瞬間にがっくり心が折れて、待合室のソファに座って。ひとりの部屋に戻りたくない。日曜の夜が一番つらいね。また一週間、もしかしたら二週間? さくらに会えないと思うと、正気でいられる気がしない。(後略)
*
わたしもあっという間にさびしくなって、メールを書こうとスマホを取り出したら、一也さんからのメールが届きました。
先を越されてちょっと悔しいw こんなにさびしいのに。きっと、ぜったい、私の方が何倍も寂しいのに。(中略)
(井上荒野「緑の象のような山々」)
「みなさーん、みなさんが大好きな井上荒野先生の絶望小説よーっ!」と叫びたくなっちゃうわね。「緑の象のような山々」は、三月三日のひな祭り、つまり女の子の日から始まるさくらと一也のメール交換体小説です。昔なら書簡体小説。ラブラブな男女のやりとりが書かれていますが、荒野先生ですから普通の恋人関係でござーませんわ。一也とさくらは仙台にある会社の上司と部下で、一也は既婚。仙台から東京に単身赴任することになった一也の元に、月に何度かさくらが訪ねてゆきます。冒頭は東京駅で東北新幹線に乗って仙台に帰るさくらを見送った後の二人のメールです。
一也は下の男の子が中学生になるまでは妻との離婚を待ってくれとさくらに言っていて、さくらもそれを了承しています。たいていの読者が「ん?」と思ってしまいますわね。その通りのベタな展開になります。ただこのベタな展開の中に井上荒野先生の魅力がギッシリ詰まってるのよ。
四月一日
心配かけてごめん。
昨日、メールもらったときはもう寝てました。やっぱびっくりしたし、ひとりになってからいろいろ考えて、考えすぎて脳が痺れたw
産んで育てるのはさくらだとは言っても、責任は男の方が重いからね。とくに、俺たちみたいな関係の場合は。(後略)
*
まだそれほど焦らなくてもいいんじゃないかしら? 赤ちゃんが産まれるのは何ヶ月も先なんだから。パパ、落ち着いて。
お昼休みが終わるので、またあとで。今日は「樅の木」に行ったんだけど、揚げ物の匂いにウッときて、ほとんど食べられなかった。つわり、早い人はもうはじまるらしいから。ミカちゃんたちには「胃が痛い」ということにしておいたけど、対策を考えないと!(後略)
(同)
さくらは妊娠したというメールを一也に送ります。一度一也の子を堕胎しているので、シングルマザーとして子供を育てたいと書いたのです。いつもと違って一也からすぐにメールの返信が届きません。そそ、ご察しの通り、一也はさくらと距離を取り始めるのです。さくらの妊娠が発覚してから、この二人、二度と会うことはありません。メール交換だけが続きます。
四月十七日
どういうことだ?
病院で聞いてみたら、早川さくらという名前はカルテにないと言われた。偽名を使った可能性とか、個人情報を守るためにそういう返答になるのかとも考えてみたけど、そもそも今日は、××病院で中絶手術が行われる日ではないと。
嘘だったのか? 病院には行ってないのか? 今どこにいるんだ?(中略)
何を考えてるのかわからないけど、堕胎っていつまでもできるものじゃないんだろう。できなくなる時期を待っているってことか? はっきり言うけど、そうやってなし崩しに産もうと思っているなら、もう俺に頼らないでくれよ。俺は責任取れないよ。認知もしない。(後略)
五月十五日
久しぶりです。長い間連絡しなくてごめんなさい。
先月、高円寺に行かなかったこともごめんなさい。一也さんは会社まで休んでくれたのにね。もしかしたら、また一也さんの子供がケガするとか、奥さんが急病で倒れるとかして、来てくれないかなとも考えてたんですが、ちゃんと来てくれたんですね。来ないと私が子供を堕ろしたことを見届けて安心できないものね。だから来てくれたのね。きっと。(中略)
妊娠したというのは嘘だったの。ごめんなさい。(後略)
(同)
妊娠発覚直後のメールでは優しいことを言っていたのに、一也はだんだん子供を堕ろしてくれ、さくらとの子供を育てる経済的な余裕はないと言い出します。それまで一也にベタ惚れで、なんでも言うことを聞いてきたさくらは堕胎を承諾して、そのための病院と手術の日時まで連絡します。しかし一也が病院に行ってみるとさくらの姿はない。さくらは堕胎するための病院にかかったことすらなかったのです。じゃあさくらは本当に妊娠していなかったのか。一也の気持ちを確かめるために妊娠したと嘘をついたのか。そのあたりはお作品を最後までお読みになってご確認ください。
「緑の象のような山々」という小説はものすごくベタな展開のお作品です。そうなるだろうなぁという展開で物語が進みます。表面的に物語のストーリーをたどればそう言わざるを得ないのですが、井上先生のお作品には迫力がございます。ほんのちょっとの、ささいなところが並みの大衆小説家とは違うのです。
一也という人はとことん脇が甘い。そういう風に描かれています。しかし悪人ではない。このどこにでもいる男の底の底まで、さくらという女性は見極めようとします。そのためにはさくらある時期まで、一也の思い通りの物わかりのいい女でいる必要がある。で、一也の本当の気持ちがわかる。いちおうは、底の底まで男の本性がわかる。それは絶望的な現実をさくらに突きつけます。でもこの絶望は救いでもあります。すべてが見えてしまえば絶望は希望に変わります。
「緑の象のような山々」というお作品はとても短い。30枚くらいじゃないかしら。このベタな展開のストーリーを選んだのなら、大衆小説作家ならもっと引っ張って、5、60枚は書かなきゃなりませんわね。でも井上先生はエッセンスしか書いていない。あるいはエッセンスしか書きたくない。文学の、あるいはこのお作品のテーマの〝純〟な部分しかお書きにならないのです。アテクシが井上先生は純文学作家だと思う理由がそこにあります。
井上先生の描く女性は、たいていはさくらのようにおとなしく物わかりがいい。男に追いつめられても強い女に豹変して男に逆襲することもありません。事態はもっと深刻なのです。井上荒野的な女は男の底の底まで見ようとする。優しい男でも、暴力的な男でも、犯罪者の男でも同じです。そして底の底まで見てしまった女は絶望的な現実を突きつけられます。しかしそれが井上荒野的な女の愛なのです。男が抱えるザラザラとした混乱と身勝手がどうしようもなく深いものであるなら、井上荒野的な女は男を愛することができます。さくらは一也と別れることになりますが、それは一也が示した絶望が浅いからです。
この井上荒野的な女がどこから生じているかと言えば、やはりお父様の井上光晴先生との関係からではないかと思います。光晴先生は子供の頃から同級生に〝ウソつきみっちゃん〟と呼ばれるほど虚構を組み立てるのがうまかった。井上荒野先生はたいていの男については底の底まで見極められる。見えてしまうと、これもたいていの場合、井上荒野的な女は男に興味を失う。しかしこの世で唯一底が見えなかったのがお父上の井上光晴先生だったのではないかと思います。これはファザコンといったものではありません。純文学に必須な抽象的理念=テーマです。井上荒野先生の世界には決して解けない謎があるのです。
佐藤知恵子
■ 井上荒野さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■