みなさーん、『アナ雪ぱーと2』はどうなさいますぅ? アテクシあまりの人気に興味そそられて、ぱーと1は映画館に見に行ったのよ。映画館のおっきなスクリーンで見る『アナ雪』はとってもキレイでしたわ。アテクシが行ったのはレイトショーだったのでカップルが多かったですが、『アナ雪』人気を盛り上げたのは女の子たちよね。特にローティーンの子が夢中になったんじゃないかしら。
『アナ雪』情報を追っかけてらっしゃる方はご存じでしょうけど、劇団四季様がミュージカル版『アナ雪』を絶賛上演中でござーます。で、四季様は子役はいないようで、ヤングエルザとヤングアナはオーディションでの公募なの。このオーディションが大盛況のようなのよ。舞台で『雪だるまつくろ~』って歌えるんだから当然よね。劇団に子役で所属してる子はもちろん、ぜんぜん演技の素養のない子も「やりたひぃぃ」とその気になって、ボイトレスクールとかがプチバブルになってるそうよ。ちっちゃい女の子はバレエとかフィギュアスケートを見ると「あたしもやる~」になりやすいけど、『アナ雪』にもそういう要素があるのね。
『雪だるまつくろう』って劇中歌は『アナ雪』の最初の要よね。両親が亡くなってからエルサは部屋にこもってしまいます。自分の秘密に人知れず悩んでいるからですが、そんなエルサに妹のアナが、「いっしょに雪だるまつくろう」ってドア越しに呼びかけるわけです。このシーンが重要なのは、ここで歌われた雪だるまが雪だるまを擬人化した大人気キャラ・オラフになることからもわかりますわよね。ピエール瀧さん、やっぱコカイン吸っちゃダメよぉ。
で、アテクシのチャートを読む時の達観主義を活用しますと、『アナ雪』は大局的にはアナとエルサ、それにオラフの物語よね。アナとエルサの姉妹共同体を外部世界とつなぎ、外部世界から襲いかかる危機をいちはやく知らせるのがオラフの役割だわ。そんでオラフは宮廷の道化っぽいけど男性キャラよね。姉妹の間に入り込める男は、本質的にはオラフだけと言っていいかもしれません。
もちろんちびまる子的な妹キャラのアナは、あっさりニセモノの王子様ハンスにたぶらかされたり、山男ハンスにほのかな恋心をいだいたりします。『アナ雪』は姉妹の友愛物語ですが、それだけじゃ物語は成り立ちませんことよ。男性は必要なんですが、普通のボーイ・ミーツ・ガール用の男性ではありませんわ。姉妹愛を高めるための異和として男が機能しているわけでもないわね。男は異和であり外部でもあるわけですが、それが現実存在を超えて抽象的な〝男性〟として一種のイデア化されている気配があるわ。女が求める男って、本質的にはそんなものよ。理想の王子様が現実世界にいるわけではないわね。
「母はついさっき帰ったの。先生の説明を一緒に聞いてくれて」
「うん、それで体はどう」
荷物をかばんから取り出しながら聞いた。夜子は「うん」と頷いてから少し考えこみ、僕から目をそらして口元だけで笑うと、
「ねえ、あと二ヶ月しかない」
と言った。
(佐々木愛「夜の子」)
佐々木愛先生のお作品は、先生がオール新人賞を受賞なさった時から読んでる気がしますわ。ちょっと失礼な言い方かもしれませんが、先生のぶきっちょな感じの小説が好きなのよ。大衆小説はテーマをこれでもかってくらい噛み砕いて、すんなりスッキリしたお作品に仕上げるのが王道ですけど、噛み砕ききれないモヤモヤが表現されているから好きなのね。
「夜の子」というお作品は主人公の僕とその妻・夜子の物語です。冒頭は夜子が病院に入院する場面です。「ねえ、あと二ヶ月しかない」という言葉にはドキッとさせられますわね。当然、夜子さんは余命二ヶ月なんじゃないかしら、と考えてしまいます。ということは短い命の前に燃えあがる、どっかで読んだことのある夫婦の純愛物語になるのかしらという予感を抱いてしまうということでもあります。でもぜんぜんそんな方向に物語は進みません。
「分からない。妊娠してからずっと、頭の中に砂糖がぱんぱんに詰まっているみたいな感覚があって、前のように考えることが出来ないの。直観的にそう思う、としか言えない。もう半分、死んでるのかもしれない。あと五ヶ月なんだ、五ヶ月しかないんだ、残された五ヶ月で何かをしなければって、すごく焦りながら思うのに、体も頭も重くて何をしたらいいのかも分からない。戻りたい、五ヶ月が怖い、あんなに子供が欲しかったのに、子供のことは考えられないの。もうすぐ消える自分のことばかり考えてしまう」
夜子は涙を流れるままにしながら言った。泣く姿はそれまで見たことがなかった。
「きっと疲れてるんだ」「別に何もしなくていいんだよ、仕事だって、しんどければ休んでいい」「おかしくなったわけじゃないよ。体の変化に気持ちが付いていってないだけだ」
ありきたいな言葉で慰め続けたが、効果はなかった。
(同)
世間的な通念から言うと、夜子はマタニティー・ブルーになっているということになりますわ。でも夜子という名前からわかるように、彼女の内面は元から暗い。夜子は僕に、「わたしはいっそのこと、ヨーコが良かったです」と言い、「オノヨーコ、アラキヨーコ、ノサカヨーコ・・・」と自作の「ヨーコ並べ歌」を歌います。彼女は「『ヨーコはいい男に愛される』。これを、わたしは『ヨーコの定理』って呼んでいます」と言うわけですから、夜子はいい男に愛される女ではない。少なくてもそう思っている程度には自己評価が低い。
一方で僕は夜子と「あなたにもできる! たのしいネーミング」講座で知り合いました。日本全国で施設や動物園の動物の赤ちゃんなどに付ける名前の公募が行われていますが、それに当選するためのノウハウを教える講座です。夜子は妊娠中でも公募ガイドを病室に持ち込み、ネーミング公募に応募し続けています。彼女は新しく何かを名付けたい、あるいは作り出したい。しかしそれは愛する夫・僕との間の子供では必ずしもありません。
夜子は僕に「なんでも、どんなに短いのでもいいから。毎日書いてお見舞いに持ってきて。だって、あと二ヶ月しかないんだから」と言います。僕はサラリーマンをしながら小説を書いていて、苦労して新人賞を受賞しました。しかしその後、小説が書けなくなって苦しんでいます。自分には物語を作り上げる素質がないのではないかと考えるほど追いつめられています。そんな僕に夜子は毎日短い小説を書いてお見舞いに持ってきてとせがむのです。
これも文学的クリシェで言えば、夜子には、女性には柳田国男的な〝妹の力〟があるはずです。少なくとも文学ではしばしば妹の力が援用される。しかし夜子は自分の中にそんな力がないことを知っています。では夜子はいわば〝男の力〟によって自己の内面の空虚を満たそうとしているのでしょうか。あるいは僕に「小説を書いて」とせがむことで、自分の中にあるはずの妹の力を確認したいのでしょうか。このあたりが「夜の子」というお作品の正念場ですわね。
夜子の声を思い出す。
書きたい、書かなければと、ひとりで座っていた時間、素直にお見舞いに行っていたら、ふたりで静かに、どれほどの会話ができただろう。もっと笑わせられたんじゃないか。むくんだ手や脚をさすり、少しでも楽にしてあげられたんじゃないか。彼女が僕の書いたものを待っていたとしても、ただの人間である僕がすべきことは、そっちではなかったのか。ふたりの時間は、終わるのだから。僕はヨーコを愛する男じゃなくて、夜子を愛する男なのだから。
(同)
僕は夜子のリクエストに応えようと必死に頑張りますが、結局一編の小説も書けません。でも夜子は落胆することも僕を責めることもない。僕が「今日は、だめだった」と言うと、いつも「了解了解」と答えるばかりです。
そうこうするうちに赤ん坊が産まれます。夜子は初産ということもあり、少し問題があって早めに産婦人科に入院した女性ですが、元気な赤ん坊を普通に産む。それはお目出度いことなのですが、僕と夜子が抱える問題は何一つ解消されません。すべて先送りされたわけです。
妊娠しても赤ちゃんが生まれても、何も起こらない、何も変わらないという意味で「夜の子」は絶望小説です。夜子や赤ん坊が死んだりするという展開よりも、当然絶望は深くなります。ただ読者の勝手な感想を言うと、絶望の追いつめ方が足りませんわねぇ。
エンタメ小説で絶望小説はアリです。それが夫婦やカップルなら、相乗効果で絶望を深め合ってドツボにはまるという展開もアリです。そして絶望の底は希望につながることを数々の優れた文学作品が証明しています。
モヤモヤとしたテーマを抱えているという意味で、佐々木先生のお作品は魅力的です。でもテーマの外縁をなぞっている気配があるわね。ドツボにはまった人たちを描いた小説の方が読者は楽しめるものです。外縁ではなく内面に頭から突っ込んでいった方が、スッキリとした絶望になるような気がしますわね。
佐藤知恵子
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