鶴山裕司さんの荒木経惟論『【荒木経惟論 Ⅰ】 写真そのものであること』をアップしましたぁ。昨日、金魚屋インタビュー『ほぼありのままの荒木経惟(上編)』をアップしましたが、インタビューの掲載に合わせて荒木経惟論を掲載してゆきます。まず鶴山さんに口火を切っていただきました。荒木さんは写真家でアートの世界に属するお方ですが、昨日の編集後記で書いたように、ある意味最も文学金魚が指標とする作家のお一人です。特定の表現ジャンルを軽々と超えてゆく自由さ、その根底にある反逆性、にも関わらず社会(世界)と調和を保ちながら作品を世に問うてゆく姿勢は見習うところ大でありまふ。
鶴山さんは、「彼の最良の作品は〝聖痕〟なのである。傷を見るとそれを付けられた時の記憶が疼く。しかしもはや痛みはない。だが傷を消し去ることは決してできない。それは過去の傷であり現在の傷でもある」と書いておられます。また「荒木は負の焦点のようなところがある。・・・本質的に空虚なのである。しかしこの求心点としての空虚が存在しなければ世界は成立しない。世界を統御する唯一の原点(原理=神)が存在しないにも関わらず、崩壊もせず調和を保って世界を構築し続けているという意味で、荒木は明確にポスト・モダンの作家である」と論じておられます。焦点の合った荒木論だと思います。
荒木論に限りませんが、鶴山さんの評論を読んでいるとポスト・モダン以降の文学や批評がどこに向かおうとしているのかおぼろに見えてくるようなところがあります。鶴山さんは「写メールを開発したのは確か日本のメーカーのはずで、なぜ日本人がそれに熱狂したのかを考える方が、荒木の写真を考察する際には有効だろう。またバルトは母の写真を絶対化し、デリダはそうではない、写真はむしろ時間軸を混乱させ根底の不在を露わにする装置だと言った。どちらも正しい。しかし最も正しい写真論は、荒木経惟の作品世界で表現されている」と書いておられます。ああ知恵熱のようなポスト・モダン批評の時代は完全に終わったんだなぁと不肖・石川は感じたのでしたぁ。
■ 鶴山裕司 荒木経惟論 『【荒木経惟論 Ⅰ】 写真そのものであること』 ■