Interview:荒木経惟 (1/3)
荒木経惟:昭和五年(一九四〇年)東京市下谷区(現・台東区)三ノ輪に生まれる。父・長太郎は「にんべんや履物店」を営む下駄職人。母は上州(群馬県)の人。東京都上野高等学校、千葉大学工学部写真印刷工学科を卒業後、電通にカメラマンとして入社。三十九年(六四年)写真集『さっちん』で第一回太陽賞受賞。四十六年(七一年)青木陽子と結婚。四十七年(七二年)電通を退職しフリーになる。平成二年(九〇年)陽子氏死去。二十二年(二〇一〇年)愛猫・チロ死去。陽子氏、チロの死の前後撮影した写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』、『チロ愛死』が大きな話題を呼ぶ。二十年(〇八年)に前立腺癌の手術を受けるが現在も旺盛に活動中。オーストリア科学芸術勲章、毎日芸術特別賞など受賞多数。
荒木経惟氏の芸術の評価は高い。特に欧米での評価は絶大である。また現代アートでもコマーシャル・フォト、ドキュメンタリーでもなくその全てを含み、かつ写真と現代アートといった芸術ジャンルの敷居を軽々と超えてゆく荒木氏の芸術は空前絶後である。荒木氏のように自由な芸術家は世界中を探してもいないだろう。また荒木氏は「私写真」を原点にしており、それは私小説に代表される日本文化の根幹に迫るものである。今回は現時点での荒木氏のお考えや思いをできるだけありのままに語っていただいた。なおインタビューは金魚屋アドバイザーの小原眞紀子氏と鶴山裕司氏にお願いした。。
文学金魚編集部
■インタビューについて■
荒木 文学金魚の文字はいいね。あれが気に入ったから、インタビュー受けることにしたんだ。
───ニュージーランドの陶芸家、アロン・サイスが書いた書なんです。織部焼きはご存知ですよね。
荒木 俺は織部賞獲った人だよ、知ってるに決まってるじゃないか。そういうくだりから説明しなきゃならないから、インタビューは嫌いなんだよ。
───そうでした。すいません。サイスさんは織部焼きが好きで日本に来て、益子で焼物を作っていたんですが・・・。
荒木 帰っちゃったんだろ。
───そうです。3・11で窯が壊れてしまったりして。
荒木 あの字はいいよ。そうそう、今日できあがってきた写真集があるんだ(『写狂老人日記 嘘』[ワイズ出版]を紙袋から取り出す)。これあげる。去年出す予定だったんだけどね。タイトルは『嘘』だよ。
『写狂老人日記 嘘』ワイズ出版
平成二十六年(二〇一四年)十二月二十五日刊
───ありがとうございます。なにかお飲みになりますか。
荒木 飲まないよ。ここ(インタビューは新宿のBar Rougeで行われた)では飲まなくてもだいじょうぶなんだ。だいたいアタシの現在近辺について知らないだろ。酒は飲まないとか女やらないとか、みんな知れ渡ってることだよ。そういうことを何度も言わなきゃならないからインタビューは嫌いなんだ。最近こうだからこういうことを聞きたいとかじゃないと、インタビューやる意味ないじゃない。去年、『往生写集』(平成二十六年[二〇一四年]、平凡社刊)出したときにも、さんざん話したことだからね。
───資生堂ギャラリーと豊田市美術館、新潟市美術館の合同開催の写真展ですね。
荒木 もう終わったけどね(平成二十六年[二〇一四年]四月から十二月まで三ヶ所を巡回)。
───荒木さんの撮り下ろしポラロイド写真展をやっている、下北沢のLA CAMERAさんに行ってみたんですが、閉まってました・・・。
荒木 閉まってるわけないよ。アタシの場合、毎月一日から十日まで必ずやってるんだから。正月はやらないけどね。企画展とかなかったら、開けてもしょうがないから開いてなかったんだと思うよ。アタシも一日以外は行ったことないからわからないけどね。
───東京・淸澄のタカ・イシイギャラリーで開催された展覧会を何度か拝見しました。
『遺作 空2』
新潮社 平成二十一年(二〇〇九年)十二月二十一日刊 より
荒木 タカ・イシイでは、アタシは必ず毎年五月の誕生日(荒木氏は五月二十五日生まれ)に展覧会をやるんだよ。
───平成二十一年(二〇〇九年)十二月から二十二年(一〇年)一月に開催された『荒木経惟 「遺作 空2」』だったと思いますが、ものすごく大きなパネル作品を展示されていました。あれはどこかの美術館に入ったんでしょうか。
『往生写集』
平凡社 平成二十六年(二〇一四年)四月二十五日刊 より
荒木 パネル作品は記憶ないなぁ。だいたいアタシが作品を発表する時は、発表場所や担当者とのコラボレーションだからね。アタシの撮った作品が、担当者とのコラボレーションでまた違ったモノになるわけ。アタシは自由に撮ったら、ほっぽっちゃうくらいの気分なのよ。
だからウイーンで展覧会をやった時なんて、ポラロイドで撮った写真を床にばらまいて、適当に拾った写真を飾りつけたりした。それをいっしょに行ってもらったやつらにやってもらったわけ。そういった行為は記憶してるんだけど、なにを展示したかの記憶はあんまりないね(笑)。
最近タカ・イシイでやった展覧会は、『荒木経惟「左眼ノ恋」』(平成二十六年[二〇一四年]五月二十五日~六月二十二日)だよ。ちょうどその頃に右目を失明したからね。その時その時の日記ってことになってるけど、日記の気分じゃないんだね。〝時記〟だね。時の記憶っていうかさ。そういうのをずーっとやっているわけだ。去年の『往生写集』展で、なんか追悼みたいな、死んじゃったみたいなタイトルの展覧会をやっちゃったわけだけど(笑)。
───でもお元気でよかったです。
荒木 元気に見せてるだけなんだ(笑)。
■写真の日付について■
───ずっと昔から、荒木さんの写真は日記のようなところがあったと思います。
荒木 写真は日記のようなものだからね。『写狂老人日記 嘘』は、日記のトドメのような写真集なんだ。これからもシリーズで、年に一冊はこういう写真集を出そうと思ってるけど、もともと何をやっても、写真はその日その日のことだよ。そういうことがわかるように日記的な写真集を年一冊まとめていこうと思うんだ。
『写狂老人』てのは、葛飾北斎の「画狂老人卍」の号をふまえてるんだ。北斎は七十五歳から画狂老人の号を使い始めたんだけど、今年、アタシは七十五なんだ。北斎は七十五で頂点に達したわけだけど、俺もその頂点に達したことを祝う展覧会を、今年のバースデーにタカ・イシイでやるよ(笑)。
でも『写狂老人日記 嘘』は、まだイタズラしてるわけよ。写真に年月日が入ってるけど、全部「’14 4 1」だろ。一日でこんなに撮れるわけがない(笑)。
───撮影日とカメラの年月日を、ちゃんと合わせておられた時期もありますよね。
荒木 ちゃんと合わせるよと言っているのに、またこういうイタズラをやり始める(笑)。
───最初に写真に年月日を入れた時は、四月一日のエイプリールフールの日付でしたね。
荒木 そう。最初に日付入りの写真を出したのは『荒木経惟の偽日記』(昭和五十五年[一九八〇年、白夜書房刊])で、ものすごく四月一日の日付が多いから、これはウソだなってすぐ気づくじゃない(笑)。その後をめくると八月六日の広島原爆記念日で、九日が長崎原爆投下記念日、十五日の終戦記念日になってる。そういう記念日ばかりに写真が固まっているわけ。そういうのを偽日記って名付けたんだ。それを五十年やってきたんだけど、『写狂老人日記 嘘』でもまだやってる(笑)。
『荒木経惟写真全集8 私日記・過去』
平凡社刊 より
───けっこう本気にした方もいらっしゃったんじゃないでしょうか。お父様の形見のイコンタの中にあったフィルムを現像したら、愛人とのツーショット写真が出てきたっていう文章がある『イコンタ物語』(昭和五十六年[一九八一年]、白夜書房刊)になると、さすがにこれはウソだなってわかると思いますが(笑)。
荒木 そういうウソってのは、カワイイんだよ。これはオヤジが撮った写真だなんていうのは楽しいじゃない、遊んでるんだから。
───あれはお父様の供養とかいう意識があるんでしょうか。
荒木 そういう気持ちとか、ぜんぜんないんだよ。誰かのためとか供養とか、そういうのはいっさいない。だから続けて写真を撮ってこれたんだよ。ひとつだけ心がけてるのは、人を撮ったら、その人が喜ぶような写真を撮ることだね。イヤなところは撮らない。写真だから、そういうところが写っちゃうときもあるけど、出さない。いいところしか出さないし、いいところをより良く出してあげる。だからアタシはものすごくうまいメイクアップアーチストなんだ。特に女性を撮る時はね。アタシの写真では、女の人たちは、みんな生き生きしてるじゃない(笑)。生き生きしてるのが美人の一番の要素なんだ。
コンセプチュアルとか、なにかを追求している人っているじゃない。なにかを主張するとか表現しているとか、そういうのはまったくない。またそんなこと、するもんじゃないの。アタシの場合は写真だから、写真を提出するだけよ。そりゃ撮る時は複雑な思いとかはあるよ。でもその複雑な思いったってねぇ。
たとえば今、歩くのがイヤだから、タクシーに乗って車の窓から街の風景なんかを撮るじゃない。『クルマド・トーキョー』(『荒木経惟 クルマド・トーキョー』平成十七年[二〇〇五年]がDVDとしてクエストから発売中)とかいうタイトルにするわけだけど、別に風景ばっかりを集めたピュアな作品じゃないわけ。その中には女の子の裸が出てきたりするわけよ。昨日の女の裸を思い出しながら、車の窓から街を撮ってるんだとか言ったりしてるけど、それは言い訳というか、ちょっとだましてるようなところがあるんだな(笑)。アタシの表現にはそんな意味なんてないんだ。意味は写真が作ってくれるからね。そういうつもりでやってるから仕事が続くんだね。
───写真を見ると、どうしても意味を考えてしまうところがあります。
荒木 写真に限らず表現の意味を考え始めたら大変だよ。どうせわかりっこないんだから(笑)。だから作品を提出しちゃうんだ。意味は見るヤツが考えればいいんだよ。これはウソだとかホントだとか、どう考えてもいいっていうふうにやって来てるわけだから。
───でも荒木さんの写真はとても抒情的です。
荒木 だって抒情の人だもん(笑)。写真はhonest、正直で、写真機も正直だよね。なんでも写真に写っちゃうわけ。それはそうなんだけど、ウソということに正直ってことだってあるわけよ。それでぜんぜんいいんだ。ちょっと前までは、関東ローム層まで写真で撮るって言ってたけど、もう今は上っ面だけよ。おっぱい撮って、背中まで写しちゃうってのでいいの(笑)
───レントゲンみたいじゃないですか(笑)。
荒木 レントゲンは通り過ぎるだけで、おっぱいも背中も写んないじゃないか。レントゲンは、ここんとこ前立腺癌の治療で放射線治療を受けたけど、あれでこりたよ。患部とは違うところにまでレントゲンが当たっちゃって、それで血尿が出るようになったのよ。ピンポイントでは当たらないんだな。
───もっといいお医者さんを探しましょうよ。
荒木 そんな名医、いるわけないじゃない。どこもダメだって。上手い下手じゃなくて、放射線自体が悪なんだ。放射能を利用して爆弾作るヤツだっているわけだろ(笑)。
───時代がようやく荒木さんに追いついてきたんだから、長生きしないと損ですよ(笑)。
荒木 長生きして、それで面白ければいいんだけどね。ここんとこ、北斎の気持ちがわかるんだ。今、写真に関しては、かなりいいところに行ってるぞっていう思いがある。そうすると、あと最低でも七、八年はって思ってる時期だね。アタシは最初から天から才能を授かっちゃったけどさ(笑)、今がなんか、総合的に一番いい時期なんだよ。このいい感じのまま行きたいなって思ってる。ホントはトップに立っちゃいけないんだけどね。富士山も八合目から御来光を見るのが一番いいんだ。一番てっぺんに立っちゃったら、あとはすべり落ちるだけだから(笑)。北斎は龍になって昇っていったけどさ。今、ホントに調子いいから、これはもったいないなぁって、自分で自分に言ってるわけよ。
■生と死について■
───『写真時代』の頃ですが、荒木さんは末井昭編集長に、「結婚式と葬式の写真をごちゃまぜにして掲載してくれないかなぁ」っておっしゃったって、どこかで書いておられましたよ。
荒木 そんなことあったかな(笑)。でも今は半々くらいになってるんじゃないかな。やっぱり死が絡んでこないと生の魅力がわからないからね。
『荒木経惟 東京物語』
平凡社 平成元年(一九八九年)四月二十九日刊 より
───(『写狂老人日記 嘘』を見ながら)この字は魅力的ですね。
荒木 一文字の『嘘』ってタイトルがいいだろ。金魚に匹敵するね(笑)。最近、書をやらされちゃったんだよ。西荻窪の商店街の町おこしかなんかで、ある骨董屋が文字を書いてくれって言ってきてね。西荻の十二ヶ所で書が展示されたんだ。
───荒木さんの生まれ故郷の三ノ輪に、荒木経惟記念写真館が建ってもいいと思いますけど(笑)。
荒木 記念になんてならなくていいよ(笑)。この間、『往生写集』のトークイベントで瀬戸内寂聴さんとお会いしたんだけど、その時に「往生」の意味を教えてもらったんだ。往生って、死んであの世でもう一度生きることなんだって。だから『往生写集』を出しちゃったアタシとしては、今年はもう、あの世からの目線で撮ってるね(笑)。今度の五月二十五日に七十五歳になるから、北斎の画狂老人にならった写狂老人日記の頂点の展覧会をやるよ。去年から、今年の五月二十五日に日付を合わせて写真撮ってるんだ(笑)。
───わたし、荒木さんと同じ五月二十五日が誕生日です(笑)。
荒木 え、そうなの(笑)。
───『写狂老人日記 嘘』のような写真集を出せるのは、荒木さんだけですよ。
荒木 出せないだろぉ(笑)。でもこういうのが写真なんだ。
───荒木さんの写真は極めて現代的ですが、パソコンとかはお使いになるんですか。
荒木 携帯持ってないし、パソコンもやらないよ。でもなんでそんなこと知ってるのって驚かれるくらい、情報の入手は早いんだ(笑)。
───今現在日本中で撮られている写真、現代の写真を巡る状況は、間違いなく荒木さん的なものになったと思います。
荒木 うん、俺で写真家は終わりだから(笑)。デジタル時代に写真家ってのは、もう存在しないね。
───荒木さんのお仕事は、八〇年代頃から断続的にですが追いかけていますが、荒木さんの写真集はアルバムだと思うんですね。それぞれの写真集に、出版された時代の日本が写っています。
荒木 もちろんそうよ。同じことを、ひとつも進歩なくやってる(笑)。
───進歩や進化という言葉は違うかもしれませんが、深化なさっているんじゃないでしょうか。今拝見したばかりですが、『写狂老人日記 嘘』はすごいことになってますね(笑)。
荒木 今、自分でイケてるって確信しちゃってるから強いんだ(笑)。写真を撮るその時その時で、被写体にオマージュするじゃない。写真を掲載してくれる雑誌にも、付き合ってあげるわけさ。そういうのが全部入ってる。
───写真は被写体あっての他力本願であるという意味のことを、昔からおっしゃっていますね。
荒木 写真はもう、完全に被写体が決めるものだからね。アタシの場合は、交差点を撮ろうとすると、ドラマチックに雪とか降ってくれるわけだ(笑)。そしたら雪の街を撮ればいいわけさ。でも極端なことを言えば、デジタル時代は晴れの交差点撮って、雪を降らせたりすることもできるだろ。それは写真とは違うね。そういう意味でも俺が写真家としては最後なんだ。
───いや、カメラがデジタルになって、誰もが簡単に写真を撮れるようになった現代では、荒木さんが二十一世紀的な最初の写真家だと思います。
荒木 最初で最後の写真家なのかな(笑)。
───でも荒木さんの真似をしてダメになった写真家が、多分一万人くらいいますよ(笑)。
荒木 それはよく言われる。アタシの言ってることをまねしちゃダメよ(笑)。
───電通入社の翌年(昭和三十九年[一九六四年])に写真集『さっちん』で第一回太陽賞を受賞しておられますね。でも電通ではあまりお仕事がなかったとか。
『荒木経惟写真全集 完結記念 限定写真集 さっちんとマー坊』
平凡社刊 より
荒木 あんまりどころじゃないよ。大きい会社ですから、そこいらの冷蔵庫とかグラスなんかは撮らなくてもいいっていう感じだった(笑)。
───でも電通でコマーシャルフォトの業界の内情などを肌身でお感じになったことが、その後フリーの写真家として活動される際に役立っているのではないでしょうか。
荒木 そういうところはあるだろうね。でも当時からアタシの写真は変わっていないな。写真集に平気で『嘘』なんてタイトルを付けちゃうんだから。アタシ自身は嘘つきじゃないんだけど、カメラが嘘をつくんだよ。
───写真はホントだと言われるとウソっぽくなるし、ウソだって言うとホントに見えてくるところがあります。
荒木 写真はそういった、いい意味での曖昧なところを持ってるんだ。でもそこが面白いんだ。人間と同じだよ。人間も虚実と生と死と善悪がごちゃまぜになった存在だろ。
■『荒木経惟写真全集』『荒木経惟文学全集』について■
───荒木さんはパソコンなどはおやりにならないですが、今の若い人たちは、荒木さんが写真集である種のアルバムを作られたように、みんな携帯やスマホの中に日記的な写真を持っているわけでしょう。
荒木 そうなんだ。一九七〇年代頃にデジタルカメラがあったら、きっと今の人と同じようなことをやってただろうね。若い人たちは、ツイッターなんかで写真をアップしたりしてるだろ。あんなこと、やってもしょうがないのにって思うけど、七〇年代初め頃のアタシは、そういったムダみたいなことをやってみたい気分だった(笑)。アタシの場合、傍にデジカメじゃなくてフィルム式のカメラがあったってことだよ。
───すごく初期の文章で木村伊兵衛さんについて書いておられて、その中で伊兵衛さんのポラロイド写真が面白いって書いておられます。ポラロイド写真はカメラ技術じゃなくて、撮る行為がクローズアップされるから面白いんだという意味の内容でした。
荒木 それはインスタントカメラが登場した時期だな。その頃、俺がなんかの企画で、写真家を何人か集めてインスタントカメラで撮ってもらうってのをやったんだ。木村さんは大先輩だけど、インスタントカメラで撮ってくれないかなってお願いしたことがあった。木村さんのポラロイド写真が面白いって書いたのは覚えてないけど、インスタントカメラは被写体に接触するだけだからね。なんでそんな昔の文章知ってるんだよ(笑)。
───『荒木経惟文学全集』(平凡社刊、全八巻)を全部読んだんです。
荒木 ええっ、全部読んだヤツがいるんだ(笑)。
───『荒木経惟写真全集』も揃いで持ってます。『文学全集』は第八巻の『書き下ろし小説』が最高に面白かったです。あれはけっこう苦労してお書きになったんじゃないですか。
『荒木経惟文学全集 八 書き下ろし小説』
平凡社刊
荒木 書くのは疲れてイヤだったねぇ(笑)。
───平凡社さんの編集部と、最後に書き下ろし小説を作るってお約束で『文学全集』をお出しになったんですか。
荒木 いや、そんな約束はぜんぜんなかった。平凡社から『荒木経惟写真全集』(全二十巻、平凡社刊)を出したから、ついでに『文学全集』も出そうってことでね。その時その時の出会いがいいわけだ。いい編集者と出会うとかさ。
───出会いだけじゃ『写真全集』と『文学全集』は出ませんよ(笑)。生きてる間に写真と文章の全集が出た写真家は荒木さんが初めてです。また今後、荒木さんのような扱いを受ける写真家は出ないんじゃないかな。それに平凡社さんが出さなくても、どこかの出版社が出したと思います。お世辞ではなく荒木さんの評価は高いです。『書き下ろし小説』の、全部詰め込んでいく文章は面白いですね。最初は永井荷風の『断腸亭日乗』みたいに日記から始まるわけですが、撮影現場での荒木さんの言葉を入れたり、批評家が書いた文章なんかを引用されてたりしている。あれは面白い。ごちゃまぜなんだけど調和があります。
荒木 前は荷風を意識して「包茎亭」を名乗ってたからね。〝剥けば真実〟だね(笑)。今は北斎で写狂老人だけど。
───写真と同じように、小説でも特定の意味はありませんね。
荒木 写真を見た人が、勝手に意味を読んだり感じたりすればいいんだ。万物はなんでも素晴らしいんだってことを、写真を見た人がわかればいい。そこにどういう意味があるかってことじゃなくて、その時その時の時間が、一番生きていることなんだ、それが人生だってことを、ずっとやってるだけだよ。こういう人になれとか、こういうふうにしろとか、そういうのはないね。
■テレビ出演について■
───バックに素晴らしい花があるので、それを背景に写真を撮らせてください。
荒木 この花、いいでしょ。ここでNHKの取材を受けたんだ。このBar Rougeは、名前はもちろん、壁とかコースターとかまで全部俺のデザインだからね。NHKのスタッフが、ここの花がいいっていうんで誰が活けてるのか教えてくれって言ってさ。ここのマダムが頼んで活けさせてるんだけど、なんとか華道家とかじゃないんだ。NHKは『日曜美術館』でこの花を活けてるヤツを使ってくれたよ。『日曜美術館』は、必ずバックに花を活けてるだろ。今、この花をやってる人が、『日曜美術館』の花を担当してるんじゃないかな。円山応挙なら応挙風に、ピカソならピカソに合わせて花を活けるんだけど、それがいいんだな。早朝から山に登って草木を取ってくるみたいだよ。
───この力強さは養殖の切り花ではないと思います。荒木さんはNHKがお好きですよね。いや、NHKさんが荒木さんのことを好きなのかな(笑)。記憶してるだけでも、三、四回はメインで出演されていると思います。
荒木 今はもうテレビはあんまり出たくないね。生だったらいいんだけど、録画だと収録時間が長いだろ。
───NHKでお昼から生放送している『スタジオパークからこんにちは』にも出演しておられました(平成二十一年[二〇〇九年]十一月)。
荒木 あれは主婦向けの人気バラエティ番組だろ。見学者をスタジオの中に入れたりしてさ。そうなると、そういう場所だなと思って、こうやると喜ぶぞっていうような芸はできるんだ(笑)。
───プロデューサーから「だいじょうぶですよね」とか言われたりしないんですか(笑)。
荒木 ぜんぜんないよ。「どうなるかわかんないよ」とは言うけどさ。でも俺が行くと、向こうも張り切っていろいろ仕掛けてくれるわけ。悪ノリして、アナウンサーなんかも頑張ってくれてさ。
───もうだいぶ前になりますが、NHKの『アラーキー センチメンタルな夏』(平成二十二年[二〇一〇年]九月二十三日放送)も拝見しました。あの中で確か「銀座のホコ天で天国を探そう」っていうシーンがあって、その時の写真は素晴らしかった。寝ちゃった女の子がお父さんに抱えられてる写真でした。
荒木 ああ、あれか。あんないい写真を撮っちゃダメなのよ。でもつい撮れちゃうんだよね。そういうふうに、世の中がアタシのためにセッティングしてくれるんだ(笑)。ただいい写真が撮れたからって、編集でここで終わりにするなよって担当のプロデューサーに言って、歌舞伎町に写真撮りに行ったんだ。でもそっちの方はかなりカットされちゃったね。「天国を撮る」なんていう口当たりのいいところじゃなくて、いい加減な終わり方にしなきゃダメなんだ。長期間、テレビの取材を受けたのはあのあたりが最後かな。スタジオ出演は、北野武の『たけしの誰でもピカソ』(テレビ東京系列で平成二十一年[二〇〇九年]三月まで放送)に付き合ってたくらいかな。
NHK『アラーキー センチメンタルな夏』 より
───でも荒木さんは、なぜかNHKが似合うんですね(笑)。
荒木 電通とかNHKとかの大企業が似合うんだ(笑)。
───日本政府から、勲章をあげますよとかっていうお話はないんですか。こんなことをお聞きするのは、荒木さんは天皇陛下や美智子妃殿下が大好きでしょう。勲章なんかをもらったら、もしかして写真を撮れるチャンスがあるんじゃないかという素人考えなんですが。
荒木 勲章はオーストリア政府から科学芸術勲章をもらってるよ。昭和天皇は大好きだし、美智子妃殿下は御成婚の時からの追っかけだからね(笑)。でも一対一の写真撮影とかは絶対ムリだよね。ホントは愛子内親王が撮りたくてたまらなかったんだけどさ。愛子内親王はいいねぇ(笑)。
■生まれ故郷三ノ輪について■
───荒木さんのお名前は経惟で、ちょっと経帷子に似た文字です。それもそのはずで、浄閑寺の和尚さんがおつけになったんですよね。浄閑寺の和尚さんと荒木さんのお父様はお友だちだったとか。
荒木 浄閑寺は三ノ輪のあたりじゃ有名なお寺だからね。和尚さんも近所じゃ有名人だった。今は代替わりしちゃったけど。浄閑寺は新吉原の遊女が亡くなったら捨てられる、投げ込み寺として有名なんだ。遊女供養のための新吉原総霊塔があるしね。永井荷風の詩碑もある。花魁や落語家の墓も多いんだけど、アタシの家の墓も浄閑寺にあるんだ。アタシの家の墓の近くに首洗い井戸があって、これはウソっていうか伝説だと思うんだけど、白井権八に返り討ちにあった本庄兄弟の弟・助八が、兄・助七の首を洗っていた時にまた権八に討たれちゃったっていう井戸でね。そういうところでアタシは子供の頃遊んでたのさ。
───遊女の無縁墓の墓室に入りこんで、骨壺の中の骨をごちゃまぜにして遊んでたってエッセイで書いておられましたよ。あそこはいろんな霊能者が、必ず出るって言う場所のはずなんですけどね(笑)。
『荒木経惟写真全集17 花 淫』
平凡社刊 より
荒木 そうなんだけど幽霊なんて見たことないよ(笑)。昔、夜の番組で、最後の晩餐で何を食べたいかっていう企画があってさ、俺は新吉原総霊塔のところで酒盛りがしたいっていう企画を立てたわけよ。そのときに前の住職が付き合ってくれたんだ。いろんな用意をしてくれたりしてね。それはとっても受けたんだけど、檀家が怒っちゃってさ。よく考えりゃそうだよな。人んちの墓があるところで大騒ぎしたわけだから(笑)。
それと最初に写真を撮ろうと意識して撮ったのが浄閑寺だったんだ。彼岸花を撮ったんだ。お彼岸から一週間くらい経つと、お供えの花がみんな枯れるだろ。それを墓守が片付けて捨てちゃうんだ。アタシは墓守と仲が良かったから、枯れかけた彼岸花を取っておいてもらって、白バック持っていって死ぬ間際の花を撮ったの。それがアタシの写真の始まりなのよ。生と死の合わせ目みたいなところを撮ってるの。そういうことをやっても浄閑寺は許してくれた。俺がそんなことしても許されるタイプだったのかもしれないけど(笑)。
それから二、三十年後に、テレビが入ったこともあって、こういう花から俺の写真が始まったんだっていうことで、浄閑寺でまた撮影したことがある。そしたらまた長い長い手紙で檀家から怒られちゃってさ。人んちのご先祖様が眠る墓の前で、そんな撮影するなんてとんでもないってね。手紙をくれたのは七、八十歳のお婆ちゃんで、文字がすごくキレイなわけ。そうすると、これはやっぱり俺が悪いんだろうなと思うわけよ。文字がへたくそだったり、今みたいなワープロだったら気にならなかったかもしれないけど、品のいい平安朝の平仮名文字みたいな手紙だったからさ(笑)。
■下町っ子について■
───荒木さんのお母様は上州の方で、お母様についてはいろいろお書きになっていますが、お父様についてはカメラが好きだったということと、にんべんや履物店という下駄屋さんをやっておられたということくらいしか書いておられないように思うんですが、お父様は江戸っ子だったんですか。
荒木 そう江戸っ子。トークショーで、誰かがアタシん家の家柄を調べて持ってきてくれたことがあるんだけど、家系とかに興味ないから忘れちゃったんだ(笑)。にんべんやがどういう意味かも聞きそこなったな。最近、再開発事業の一環で日本橋に福徳神社が新しくできたんだけど、日本橋にはにんべんっていう名前の鰹節屋の老舗があって、そこのご主人に「先生の家と同じにんべんやです」って言われたことがあるよ。どういう意味が聞いときゃよかったな。江戸っ子はシャレが好きだから、なんかのシャレなんだろうけどさ。
三ノ輪の家には、裏地に龍の刺繍のある着物があったり、尺八が転がってたりしてたけど、なんでそんなものがあるのかは聞かなかったな。オヤジも俺に家の由来とかの話をする男じゃなかったしね。でも当時下町の三ノ輪から上野高校に進学する子は少なかったから、俺がいないときに近所で自慢したりしてたらしいよ。太陽賞をとったり電通に入社したときも、近所に触れ回ってたみたいだね(笑)。
『荒木経惟写真全集6 東京小説』
平凡社刊より 三ノ輪の生家 にんべんや履物店前
───僕の母親の実家は魚屋で、大学に進学した時に爺さんが「うちからついに大卒が出るのかぁ」って言いましたけど(笑)、荒木さんの時代は僕の時代よりもさらに、商売屋の家から大学に進学するのが珍しい時代だったんじゃないですか。
荒木 商人の家はそんな感じだね(笑)。金持ちの家じゃなかったから、大学に進学するなら国立じゃないとダメとかいう条件はあったけどね。
オヤジの話が出たから言うけど、いまだに取れないひっかかりみたいなものがあるんだよね。オヤジが入院した時、どんな病気だったか知らなかったんだけど、俺が前立腺癌になって、医者から「前に癌になった親族の方はいませんか」と聞かれて調べたら、オヤジが前立腺癌だったんだ。
オヤジは下町の病院に入院したんだけど、俺は見舞いに行かなかったわけ。オヤジは弱ってるところを見られるのが絶対イヤな人だからなあって思ってたから。でもそういうもんじゃなかったんだな。何回忌法要とかで親戚のオジサンから、オヤジが「ノブはなんで来ないんだ」って言ってたぞって聞かされちゃうと、やっぱりそうだったのかって思っちゃうよね。ちょっとは顔見せてほしかったんだろうね。それがどうも気になってね。なんかで落とし前をつけてあげたいよね。
俺の写真展を日本の現代美術館とか、ロンドンやパリのでっかい美術館でやるじゃない。そういう時に、ふとここにオヤジを引っ張ってきたかったなぁって思うんだよ。温泉にさえ連れて行ったことがないんだ。お互い照れ屋で家族旅行をするような家でもなかったから、誰か他の人がいて、いっしょに行こうって誘わないとオヤジは来ないだろうけどさ。おっきな写真展をやると、まずオヤジはどう思うかなってのが頭に浮かぶね。
───下町っ子独特の難しさとか繊細さはありますね。詩人の吉岡実さんが入院して、これはもう危ないって時にお見舞いに行こうとしたんですよ。
荒木 来ないでくれって言うんだろ。でも俺もオヤジに似てるところがあって、入院したとき一人も病院に呼ばなかったもの。元気ないところを見られるのがイヤだってだけの理由じゃないんだけど、なんか見舞い客が来るってのはダメなんだな。それよか看護師のナースとイチャイチャしてた方が楽しいしね(笑)。
───それはそうです(笑)。荒木さんの前にインタビューさせていただいたのが、脚本家の山田太一さんなんです。山田さんは浅草六区と道一本隔てた五区のお生まれで、五区って言うと誰もわからないから、「浅草六区生まれです」とおっしゃっているとお話されていました(笑)。
荒木 ああそう(笑)。
───山田さんは、下町独特の気むずかしさについて話しておられました。優しいんだけど、どこかですごく醒めている、白けているといったような。
荒木 そうなんだ。でもだから俺は写真家向きなのかもね。写真家と被写体、相手との間には膜があるんだよ。相手とべちゃっとくっつかない。写真家は熱いんだけど冷たいんだな。
(2015/01/14 中編に続く)
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