萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評 No.008 古谷田奈月「うた子と獅子男」(文藝2025年夏季号)、連載小説『春の墓標』(第13回)、連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第02回)をアップしましたぁ。『春の墓標』は一つのクライマックスに達します。
いずれ来ると思ってはいた。だがこれほど早く訪れるとは想定外だった。尿漏れの張本人もやはりこの男だったのだ。つなぎ服の上から指を巧みに這わせてオムツを緩め、引き下げているところが見えた。それでずっと眼を光らせていたのだ。そうしたら、とうとう件のホックを外してしまった。スイートスポットを正確に押下できたときにのみ立てる「プチッ」という金属音をともなってホックが外れると、まるで未解決問題の証明にひらめいた数学者が、ひとたび道筋さえ見えてしまえばあとは余裕綽々とそのプロセスを祖述していくように、すらすらとかろやかにファスナーを下ろしていく。下ろし切ったところでようやく我に返り、「このヤローやりやがったなッ」と廊下の向こうからわめきながら駆けつけたぼくを訝しそうに、いったい何か起きたのかなと言いたげな涼しい表情で眺めている。父親の全面勝利だった。アルツハイマー型認知症をはじめ認知障害のあるひとには、このホックを外すのはまず不可能と言われていた。ヘルパーも看護師もケアマネも口をそろえて否定し、服を売ったお調子者の店長も「いやあそんなことムリムリ、外せたひとなんてこれまで見たことも聞いたこともありませんな」と断じたそのホックを誰の手も借りることなく、みごとに外したのである。
萩野篤人 連載小説『春の墓標』
主人公には悪いのですが、〝お父さん、ついにやりましたね!〟と言いたくなってしまひました。わたくし、「このヤローやりやがったなッ」を読んで笑ってしまった。主人公が怒髪天を抜いて怒るたびにけっこう笑っております。もち笑い事ではない辛くて大変な状況です。しかし底に近づけば近づくほどある種の黒い嗤いが生じる。優れた私小説です。
■萩野篤人 文芸誌批評 萩野篤人 文芸誌批評 No.008 古谷田奈月「うた子と獅子男」(文藝2025年夏季号)■
■萩野篤人 連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第02回)縦書版■
■萩野篤人 連載評論『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』(第02回)横書版■
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