アロン・サイス作『織部釉ガラケー型花入れと共箱』
だいぶ前から断捨離が流行っているが、ちょっと前に二週間ほどかけて図書室にしている六畳間を整理した。めいっぱい本棚を置いているので図書室でいいのだが、いらない物をダンボールに詰めて放り込んでいたので実質物置だった。ただなにも考えずにそんなことをしていたら狭い通路まで埋まってしまい、完全に本が取り出せなくなった。これはイカンということで一念発起したんですね。
よくぞまあこんな物まで取っておいたなと自分でも感心するくらい古い物が出てきた。以前骨董屋に「骨董好きは物を捨ててはいけません」と言われたが、限りあるスペース、そうも言っていられない。どんどん捨てていくことにした。
服などにはほぼ興味がないのでたいていはノートやデバイス類である。文学以外の仕事で使っていた物が大半だが大量のフロッピーディスクやMO(懐かしいですね)が大きなダンボール三箱くらい出てきた。後のダンボールの山は大量のノートやプリント類である。
なんでそんなものを取っておいたのかというと、まあ半端な未練である。もう内容は思い出せないがFDやMO、それにノートやプリントには未完成の詩や文章が入っていた。読み返したことはないがいつか役に立つんじゃないかと思って後生大事に取っておいたのだった。それらを全部捨てた。清掃局の人は引越があったんだなーと思ったでしょうね。清々した。ちょっと大げさだが過去の自分にサヨナラできたような気がした。
ゴミを捨てたら本棚の整理である。これがまた大変でランダムに詰め込んでいた本を整理するために壁際に積み上げていたら崩れて来た。本に埋もれて死ぬなんて冗談じゃない。本棚は耐震用の棒で固定してあるが部屋に入るたびに「今地震が来て倒れたら確実に死ぬな」と思う。必要だがあんまり長居したくない部屋である。本もじょじょに処分しなくっちゃね。本をたくさん溜め込んでいる方はお気を付けあれ。
ただ嬉しいこともあった。骨董品などを入れた箱が数個出てきた。あることはわかっていたが奥に押し込んでしまい、取り出せなくなっていたのだった。その中にアロン・サイスさんの作品があった。「あーここにあったのか」という感じで十数年ぶりの再会でありました。
アロン・サイス作『織部釉ガラケー型花入れ』表
縦四・一×横七・六×高八センチ(最大値)
アロン・サイス作『織部釉ガラケー型花入れ』裏
『共箱 蓋表』
『共箱 蓋裏』
『共箱 箱内側底面』
『共箱 箱底面』
サイスさんはニュージーランド出身の陶芸家である。日本の志野・織部焼きに魅せられ来日して益子で作陶していたが、二〇一一年の東日本大震災を機に母国に帰って今も制作を続けている。いかにもサイスさんらしい楽しい花入れだ。作家が自分の作品のためにあつらえた箱を共箱と呼ぶが箱の絵も素晴らしい。
日本と欧米では陶芸のあり方がずいぶん違う。欧米では陶磁器は基本的に工芸品である。そのため作家(創作者)と認められている陶芸家は非常に少ない。これに対して日本の熟練陶工はみな作家である。言うまでもなく茶道の伝統だ。そのため大家はもちろん中堅くらいの陶芸家でも自分の作品を桐箱などに入れて箱書きする。いわゆる作家モノである。
サイスさんが来日した動機には日本では陶芸家が作家として認められているということもあったようだ。具体的には自分の作品を箱に入れて箱書きしたくてたまらなかったようである。そのため初期作品は凝った箱に入っている物が多い。離日前には雅印だけ捺した簡素な箱になるが、かなりの数の作品を作ったわけだからいちいち凝った箱をあつらえているわけにはいきませんよね。
サイスさんは一九九五年に来日して九七年から益子で作陶している。『織部釉ガラケー型花入れ』の共箱には制作年が書かれていないが恐らく九七年から二〇〇〇年代初期に作られた物だろう。ガラケーが新鮮だった時期の作品だと思われるからである。
携帯電話は今や電気水道ガスと並ぶ生活インフラだが、ガラケーがインターネットに繋がったのは一九九九年のことである。スマホの普及率がガラケーを上回ったのは二〇一三年。携帯電話が情報デバイスとして活用され始めてからまだ二十年くらいしか経っていない。
スマホが普及する前の携帯は画面が小さかったせいか、ネットに繋がっていてもたいていの欧米人はちょっと便利な電話くらいの扱いだった。しかし日本人はポケベル時代から通信デバイスをめいっぱい活用して携帯でも次々に着メロや絵文字などのお遊びを生み出していった。日本独自のガラケー文化である。携帯電話への執着も欧米人より遙かに強かった。
一九九〇年代に来日した外国のビジネスマンが最初に覚える日本語は「ケータイ」だという冗談が当時あった。いっしょにランチになどに出かけた日本人同僚が「あ、携帯忘れた!」と青ざめた顔で言うのがとても不思議だったようだ。んなもん忘れてもどうってことないだろ、ということである。日本人を真似て〝Where is my KEIAI?〟と言う外国人がよくいた。ちなみに当時アメリカ人のビジネスウーマンが、さもうんざりした様子で〝Japanese girls always say, Cute,Cute,Cute.〟と言うのを聞いたことがある。しかし今やKawaii文化は世界中で一定の市民権を得ている。時代は変わるものですなぁ。
僕は異文化同士が衝突して生まれた美術品が好きだ。自由詩などという日本文学では新参の表現に関わっているからかもしれない。日本の自由詩は中国文化(江戸時代までの外国文化)の受け皿としてあった漢詩に代わり、明治維新後に欧米文化の受け入れ窓口として新たに生まれた。出自は争えないもので自由詩の詩人にとっては今でも藤原定家や芭蕉よりもマラルメの方が遙かに親しい。自由詩は日本文学の前衛であることを宿命づけられているということでもある。
十九世紀末にフランスを中心に日本文化の一大ブームがあったのはよく知られている。ジャポニズムである。当時を代表する作家の一人であるエミール・ゾラは同時代を「科学の時代」と呼んだ。実生活に直結したところでは写真や電話(電信)が実用化され一気に世界が狭くなった。視覚や音声によって情報が具体化した時代に欧米人がユーラシア大陸最後の秘境、極東の日本を発見したのだと言ってもいい。この時期はもちろん日本が本格的に欧米と出会った時期に重なる。
科学技術は二十世紀を通じて発展し続けたが一九九〇年代になって質的に大きく変化した。インターネットによる情報革命である。情報伝達は従来とは比べものにならないほど早く正確になった。情報量も膨大である。その衝撃の大きさと革新性は十九世紀末の写真や電話(電信)の普及に比肩するだろう。もう後戻りできない圧倒的変化である。
サイスさんの『織部釉ガラケー型花入れ』などはさしずめ現代のジャポニズムといったところだ。来日して作陶していたのだから当たり前だが情報不足による幸福な文化的誤解はなく見事に日本の焼物の本質を捉えている。十九世紀末ジャポニズムのような大きなブームは起こっていないが現代では多くの外国人がより的確に日本文化を理解している。
文化は特定の民族・宗教共同体の中に閉じている間はその特性が明らかにならない。異文化と接触、時には衝突して初めてその独自性が見えてくる。約百五十年前のジャポニズムで欧米は日本文化に出会い日本は国を挙げて欧米文化を受容した。が、日本人がそれによって自国文化の理解を深めたかというと覚束ない。相変わらず日本文化の本質は侘び寂であり言葉では説明し尽くせないと言って平然としているようなところがある。またこれもよく知られているがヨーロッパではジャポニズムの前にシノワズリ(中国趣味)の時代があった。
焼物は陶土の質に大きく影響される。ペルシャ(現イラン)を中心とするイスラーム世界では陶器制作が盛んだったが土の質が今ひとつで壊れやすい軟陶しか焼けなかった。このペルシャ陶の技法がイスラーム帝国の領土拡大によってイタリアからスペインに拡がっていった。マジョリカ陶である。ただヨーロッパの陶土の質も低く、またガラスや金属器を珍重して陶器を重視しなかったので焼物作りはあまり発展しなかった。この焼物軽視は大航海時代に中国からもたらされた磁器によって激変した。
乱暴なことを言うと焼物には必ずカオリンと呼ばれる成分が含まれている。カオリンの含有量が高くなれば磁器になり低いと陶器になる。中国には純度ほぼ百パーセントの高嶺山(言うまでもなくカオリンの語源)があり薄くて頑丈で汚れが付きにくい磁器を焼くことができた。中国ではおおむね明時代以降は磁器中心になる。
この中国磁器がオランダやイギリスの東インド会社からヨーロッパに輸入されると中国趣味の一大ブームが巻き起こった。真っ白で太陽にかざすと光を通し、割れにくく染付(ブルー&ホワイト)だけでなく色絵も可能だった磁器を王侯貴族が争って買い求めたのだった。
高値で取引される磁器に目をつけたのがザクセン選帝候兼ポーランド王のアウグスト二世(アウグスト強王)である。錬金術師ベドガーを使って磁器の生産に乗り出した。錬金術師と言うとうさん臭いが当時の優れた科学(化学)者である。いかにも理詰めのヨーロッパらしいが以後ヨーロッパでは化学者と陶工がタッグを組んで磁器を生産してゆくことになる。
ベドガーは磁器生産に成功し一七一〇年に国立ザクセン磁器工場が設立された。マイセン窯の始まりである。当初は門外不出の秘伝だったがじょじょに情報が漏れフランスのリモージュやセーヴル窯などヨーロッパ各地で磁器が生産されるようになった。
ヨーロッパで初めて磁器生産に成功したのはドイツだが、シノワズリを広めたのはプロテスタント国のオランダだった。中国は鎖国していたのでオランダは商館のあったジャワ島などで密貿易した中国陶を輸入していた。中国が明から清に王朝が変わる動乱で焼物生産が途絶えると代換品として日本の伊万里焼を輸入し始めた。徳川家康が貿易とキリスト教布教がセットのカトリックのスペインやポルトガルを嫌ってヨーロッパの国々ではオランダだけに貿易を許可したからである。伊万里の生産地有田でも良質のカオリンを採掘できた。
オランダは窯業が盛んでデルフト地方で旧宗主国スペインからもたらされたマジョリカ系の陶器を焼いていた。中国や日本の磁器の輸入が始まるとそれを真似るようになった。陶器だが白い釉薬をかけて磁器のように見せかけ、コバルトで青い模様を絵付けしたのである。やがて色絵も生産するようになった。いわば中国・日本磁器のパチモンである。
ただデルフト陶の面白いところはヨーロッパで磁器の生産が本格化しても陶器を作り続けたことである。磁器は高価でほんの一握りの金持ちしか買えなかったので、比較的安価でかつ本家の中国や日本の様式を真似た倣製品を大量に作って売ったのである。このデルフトの倣製品がヨーロッパ各地に中国・日本磁器様式を広めた。
『陽刻四面中国人と犬図壺』
デルフト窯 陶器 十八世紀後半頃 口径七・九×胴径十三×底径九・四×高二十五・四センチ(最大値)
『陽刻四面中国人と犬図壺』は既にヨーロッパで磁器生産が始まっていた十八世紀後半頃の作である。轆轤整形した後に型で陽刻を施し、器体の四面に犬を連れた中国人と中国風の建物を描いている。見てすぐわかるようにヨーロッパ人が想像した〝中国風〟の絵付けである。イギリスのシノワズリ模様の定番となったウイローパターンまであと一歩というところだ。比較的精緻な作りだがこの手の倣製品は決して珍しくない。
シノワズリの全盛期は一七五〇年代から二、三十年ほどだが、デルフトはもちろんリモージュ窯などでも当初は忠実に中国・日本磁器の器形や模様を写していた。が、じょじょに本歌とは似ても似つかない絵付けになっていく。中国・日本文化の本格的受容には至らなかったということである。それもそのはずで東アジアや極東はあまりにも遠かった。本格的な東西交流はシノワズリから約百年後のジャポニズムの時代を待たなければならない。またジャポニズムと呼ばれるようにその主役は中国ではなく日本だった。それには理由がある。
中国は古代から現代に至るまで強力な中央集権国家である。広大な国土をただ一人の王が治めるのがいわば中華民族の総意である。そのため中国文化は皇帝の周囲で花開いた。文化・文物もまた中央集権だった。中国では権力中枢に近づかなければ最高の文人・文物に接触できない。しかし皇帝はもちろんそれを取り巻く文人たちに接近するのはとても難しかった。漢文はヨーロッパのラテン語と同様に東アジア圏の共通言語(書き文字)だったので中国文化は東アジア全域に浸透していた。だがその文化のあり方は極めて特殊だった。
この日本人でも捉え難い中国文化の本質を、当時的確に直観把握していたのはフランス軍の船医で詩人・小説家だったヴィクトル・セガレンだけだったと言っていい。セガレンは一九一二年に北京で詩集『碑 (Stèles)』を出版したが漢字の碑文をタイトルにした詩集である。内容も中国文化を巡るものだ。
彼は中国文化の中心が一神教的な神ではなく象形の漢字で表象されることを見抜いていた。小説『ルネ・レイス』の主人公はなんとか紫禁城の奥深くに潜入しようとする。北京の真の名は紫禁城の地下道の濡れた壁に刻まれているとも書いている。紫禁城最高の宝物が王羲之の書であるように中国文化の本質は無から有を現出させる象形の力にある。セガレンが夭折してしまったのは本当に惜しまれる。
またセガレンがフランス人だったのは偶然ではない。シノワズリブームはヨーロッパ各地の宮廷で起こったがジャポニズムの中心はフランスだった。王侯貴族ではなく多くの画家や文学者たちが熱狂した。一八五六年に画家のフェリックス・ブラックモンが日本から送られてきた陶器の緩衝材に使われていた『北斎漫画』を発見したのがその端緒だと言われる。画商サミュエル・ビングらが本格的に浮世絵を輸入し始めるとマネやモネ、ゴッホやゴーギャンらの画家たちが敏感に反応した。
モネ『印象・日の出』が描かれたのは一八七二年だが印象派の誕生には写真だけでなく浮世絵が大きく影響している。フランスで最も権威ある文学賞とされているゴングール賞を創設したエドモンとジュールのゴンクール兄弟は熱心な浮世絵コレクターだった。エドモンは『北斎』と『歌麿』についての本も書いている。明治維新後の日本の自由詩がボードレールやマラルメの象徴主義から大きな影響を受け、小説ではゾラの自然主義が一世風靡したように日本とフランス文化は出会ってみればとても相性が良かった。
日仏文化の相性の良さは焼き物作りにも現れている。徳川幕府は開国を決めるとすぐに文化的にも国際舞台にデビューした。ナポレオン三世の招きに応じて一八六七年(慶應三年)開催のパリ万博に参加している。明治政府になってからもウイーン(七三年[明治六年])、フィラデルフィア(七六年[九年])、パリ(七八年[十一年])万博などに立て続けに参加して日本製品や文物を展示した。
絵画や漆器も展示されたが最も好評を博したのは陶磁器だった。薩摩や鍋島焼、九谷焼などである。それらは当時の名工が超絶技巧を駆使した新作で、かつヨーロッパ人の好みを強く意識した絢爛豪華なものだった。当時万博で賞を受賞した作品は東京国立博物館などで見ることができる。その後博覧会出品作を模した陶磁器が盛んにヨーロッパに向けて輸出され明治の殖産興業に一役買った。しかしそれらは決して日本人好みではない。大量生産されるようになると過度にエグゾティスムを強調した俗悪なものになっていった。横浜焼きなどと呼ばれる。ただフランスの日本陶磁器受容は少し違った。
日本美術を積極的に紹介したフランスの美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」編集長ルイ・ゴンスは一八九八年の講演で「日本人の眼には、陶磁器は自然の化学のレベルにまで高められているはずであり、その主体は火である。そして、この火が作品を生み出しているに違いなく、作品の輝き、美しさ、豪華さは自然界の産物と競い合っている。日本の芸術家は施釉された見事な炻器を窯から取り出すが、それは自然の窯である大地から出てくる宝石のようである。日本のみが高火度焼成される陶磁器の根本原則を理解したのである」(「日本美術とヨーロッパの趣味におけるその影響」)と述べた。
焼物には陶器と磁器のほかに炻器の区分もある。いわゆる焼き締め陶のことで日本では信楽焼や常滑、越前、唐津焼などである。施釉することもあるが窯の中で溶けた灰が器の表面に降りかかって自然釉になったりもする。高温で焼かれるので非常に固い。
ゴンスは日本の焼物最大の魅力をなんの変哲もない炻器(焼き締め陶)に見出した。シンプルに土を火で焼き固める炻器には偶然生じる要素が多く「自然界の産物と競い合っている」。最上の作品は「自然の窯である大地から出てくる宝石のよう」だとも言っている。それは正しい。
お隣の中国や朝鮮ではおおむね十七世紀以降は軽くて汚れにくい磁器が焼物の主流になる。しかし日本人は相変わらず陶器と磁器を並行して焼き続けた。欧米と比べれば日本は焼物王国である。また最も珍重したのは茶道などで使う地味な陶器である。ゴンスはそんな日本人の美意識を見抜いていた。
もちろんヨーロッパでも古代から炻器は焼かれていた。いかにもドイツらしい質実剛健なライン炻器などが有名である。ただしそれらは日常雑器だった。しかしフランスではジャポニズムの時期に高い芸術性を持つ炻器が盛んに作られた。エルネスト・シャプレやジャン・カリエスらが優美だが装飾性を排した炻器を制作している。ゴーギャンも短期間だが彫刻的な炻器を作った。文化は複数の要素が寄り合わさってその時代特有の表現になるがジャポニズムが彼らの炻器制作に影響を与えたのは確かである。
十九世紀末から二十世紀初頭のフランスはアール・ヌーボーの時代でもあった。エミール・ガレが代表的作家で陶芸からガラス、家具にまで制作範囲を拡げていった。ガレ芸術はイスラームの草花文なども取り入れた複合的なものだが、大胆な余白を残したその表現には日本の陶器や絵画の影響が見て取れる。
フランス人は日本文化を深く理解していた。そこには浮世絵から始まる五十年近いジャポニズム受容の歴史がある。貿易の長さと陶器模様の絶大な影響にもかかわらずオランダで日本文化が浸透した気配はない。
ただ実際に来日したフランスの文化人は少ない。フランスのジャポニズムは一八七〇年代から八〇年代にピークを迎えるが、十九世紀末から二十世紀初頭になるとジャポニズムの中心はアメリカに移ってゆく。来日したアメリカ人が日本の文人たちと密に交流し始めたのだった。(後編に続く)
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2023 / 10 / 17 19枚)
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