以前この連載で書いたことがあるが、文学金魚の墨書は、ニュージーランド人の陶芸家、アロン・サイス氏の手になるものである。僕らの依頼は四文字で『文學金魚』と書いてほしいというものだったのだが、送られて来た荷物の中に大量の金魚の絵が含まれていた。予想外の作品で、またとても独創的な絵だったので、墨書に加えてこの金魚の絵も金魚屋のロゴとして使わせていただくことになった。
セザンヌは『林檎一個でパリを驚かせよう』と言ったそうだが、美術家にとって何が発想のきっかけになるかわからないものである。なんの変哲もないモノが作家の琴線に触れることもある。サイス氏の場合、金魚がその一つだったようだ。その後、次々に金魚の絵が入った陶器や絵をお作りになるようになった。
先日、サイス作品を扱うトラッドマイスター倶楽部の小川嘉彦さんから、『金魚はサイスさんの新しいキャラクター表現に定着したようです。元はといえば文学金魚さんの依頼で生まれたイメージですから、〝文学金魚紋〟という名称を付けさせていただけないでしょうか』という嬉しいお申し出をいただいた。金魚の絵画表現はサイスさん独自のものだが、それを〝文学金魚紋〟と名づけていただけるなら、僕らにとっても望外の幸せである。
で、ニュージーランドへ帰国してほぼ二年目の今年三月に、サイスさんの新しい作品が到着した。小川さんから『面白い作品がありますよ』と聞いていたのだが、トラッドマイスター倶楽部に行ってみると、確かに度肝を抜かれるような作品があった。一匹の金魚が正面に描かれた巨大な陶器製のバッグである。
『文学金魚紋バッグ型花入れ』 2013年 バッグ部分の縦28.4(取っ手の部分を含めると43.7)×横36.1×幅12.4センチ(いずれも最大値)・重さ約6キロ 陶器 著者蔵
この花入れ、売れ筋のエルメスのバーキンくらいの大きさである。しかし今のところ値段はバーキンの数十分の一だ。思わず笑い出し、『サイスさん、まったくどうかしてるね』と小川さんに言いながら購入することに決めた。僕は中途半端な作品など欲しくない。作家が自己の創作意欲に正直に制作し、勇気をもって世界に提示した作品が好きだ。文学でも絵画、陶芸でもそれは変わらない。作家がその時々の全力を尽くして制作したエクストリーム(極端)な作品が最上なのだ。『どうかしてる』は僕の最高の誉め言葉である。
これも前に書いたことだが、サイスさんは日本の陶芸家のような職人(クラフトマン)ではない。多くの欧米の陶芸家がそうであるように、アーチストが自己の表現媒体として陶芸を選んだのである。日本の陶芸家は陶芸の原理に忠実に、土と釉薬の相性に神経を集中させがちである。しかしそこに絵という要素が加わると、途端に何かがおろそかになりバランスを崩してしまうことがほとんどだ。だがサイスさんの場合、絵を描くと決めたら全ての要素が総合的かつ調和的に構築されていく。『文学金魚紋バッグ型花入れ』で言えば、裏行きの表現がこの作品の要だろう。
同
表側に大きく金魚の絵を入れた作品の場合、当然だが裏をどう作るのかが作家の腕の見せどころになる。サイスさんはそれを過不足なく表現している。裏には浮き彫りのアルファベットや模様が彫られ、その上から濃い緑色の織部釉が刷毛を使って塗られている。表の絵を目立たせながら、裏は裏で変化に富んでいるのである。画家や彫刻家が細部にまで神経を尖らせるように、サイスさんは模様や釉薬で変化を表現している。しかし作家の〝手の跡(アウラ)〟で満たされた造形を火で焼き固め、浄化(ピューリファイ)しなければ気が済まないところにサイスさんの陶芸アーチストとしての資質があると思う。
昨年サイスさんのニュージーランド帰国一年目の作品を見たとき、正直なところまだニュージーランドの環境に慣れていないな、おっかなびっくり作品を作っているなという印象を持った。それは当然で、日本とニュージーランドでは土や釉薬が決定的に違うのである。しかし今回は格段に完成度が上がっていた。小川さんによれば、サイスさんはテストピース(様々な陶土と釉薬を組み合わせて試しに焼いてみる陶片サンプル)の鬼だそうだから、短期間に試行錯誤を積み重ねられたようだ。その一つの結実がニュージーランドで作られた織部茶碗である。今回の新作に入っていたので文学金魚紋バッグと一緒に購入した。
『織部茶碗 銘 燦々(山賛)』 2013年 口径12.7×高さ9.9センチ(いずれも最大値) 陶器 著者蔵
茶碗には釘彫り(釘で引っ掻いたような模様のこと)で『山』とあるので、勝手に『燦々(山賛)』と命名した。名前を付けなければ混乱してしまうほど茶碗を持っているわけではないが、こういう言葉遊びも陶磁器好きの楽しみの一つである。気に入らなければ次の所有者が名前を付け直せばいい。器体のぐるりに山の絵が描かれ、内側にも山の絵がある。山尽くしの抹茶碗である。器体が大きく歪んでいるのがわかると思うが、これは織田信長・豊臣秀吉の桃山時代に一世を風靡した織部焼の影響である。美濃の小大名、古田織部が創出した日本独自の陶器の形である。
日本の陶器の歴史は古く、今から一万八千年前の縄文時代には既に陶器が作られていた。ほとんど民族のDNAとして陶芸が受け継がれてきたわけだが、歴史的には幾多の変遷がある。まず紀元前三世紀頃に弥生時代が始まり、弥生土器が作られ始めた。弥生土器の機能性は明らかに大陸伝来のもので、この時期に大量の渡来人が列島に渡ってきたことがわかる。実際、弥生土器は西から列島を北上していて、縄文文化(土器)はどんどん北方に追いやられていった。
日本列島の地勢学的特徴から言って縄文土器の製法は大陸伝来の可能性が高いが、列島はかなりの期間、大陸文化と隔絶されていたようである。その間に原(ウル)日本語や日本文化が形成されたようだ。その一つが縄文土器なのだが、弥生時代以降、日本は圧倒的な中国文化の影響を受けることになった。古墳・飛鳥・奈良時代には白瓷(しらし)、須恵器などが盛んに作られたが初期の作は半島からの渡来人の手になるものである。朝廷はもちろん武士も中国文化とその製品を珍重したので、日本の権力中枢で使われる陶器は中国製かその倣製(模倣品)が多かった。それは足利氏の室町時代まで続いたのである。
しかし桃山時代になるとこの状況は一変する。一つには新たな技術革新が起こったためである。室町末期に九州の唐津地方にかなりの数の朝鮮人陶工が渡来して唐津焼を始めた。素朴なものだが、彼らは陶器の上に鉄で絵を描く技法をもたらした。それまで日本人は、線で模様を描く釘彫りの方法は知っていたが、筆で上絵を描く技術は持っていなかったのである。加えて権力構造の大きな変化が起こった。鎌倉から室町時代にかけて、朝廷と武家の力関係は微妙に拮抗したものだった。しかし桃山時代以降、日本の権力の中枢は決定的に武家の手に渡った。また桃山時代は、明治維新以前の日本の長い歴史の中で、唯一、ヨーロッパに向けて門戸を開いた時代だった。
意外に思われるかもしれないが、日本人が日本人好みの焼物を焼いたのは桃山時代が初めてである。もう少し正確に言えば、原(ウル)日本の表象とでも呼ぶべき縄文文化の伝統が、地下水脈が溢れ出すようにそこに加わったのである。縄文土器の特徴は過剰なまでの装飾性にある。また実用器は別だが、祭器は多種多様な形をしている。中国陶磁器の特徴は洗練された土と釉薬を使った左右対称の美しい造形にあり、土から離れよう、土で作ったことを感じさせない器を作ろうという指向が強い。しかし日本人好みの焼物は、むしろ土で作られたことを強烈に主張している。古墳時代以降、権力者たちは中国の焼物を好んだが、日本的土モノの伝統は、常滑や越前、信楽焼きなどに連綿と引き継がれてきた。それが桃山時代に至って新たな技術と混交し、斬新な造形を生み出したのである。
志野や織部焼に代表される桃山陶は、様々な要因が組み合わさった奇蹟的な作品である。まず千利休がそれまで茶道の中心だった唐物(中国物)に代わる日本人独自の好みを示し、それを利休高弟の織部が継承した。桃山陶は基本的に慶長二十年(1615年)の織部自刃で終焉を迎えるが、織豊政権への利休の登場から織部の死去までは約三十年である。短いと思われるだろうがそんなことはない。歴史を丹念に調査すれば誰にでもわかることだが、新しい文化潮流は、機が熟してからほんの五十年(半世紀)ほどの間にその頂点へと駆け上っている。その後、数十年、数百年をかけて徐々に衰退に向かうのである。
織部焼の左右非対称でゴツゴツとした器形、過剰とも言える装飾は、世界中どこを探してもない。日本独自の焼物の表現である。美術館や新作陶芸店などで、僕は嫌になるほど現代作家の織部焼(桃山陶の写し)を見て来た。正直に言えばそのほとんどに魅力を感じなかった。今さらと言われるだろうが、例外は加藤唐九郎だけだった。彼は正統な意味での日本の陶工であり職人(クラフトマン)である。唐九郎は絵付けよりも無地の陶器の焼成の方が圧倒的に素晴らしい。彼は土と釉薬の組み合わせという陶芸の本道を究めることで、桃山陶に肉薄する作品を作り出したのである。
しかしサイスさんの桃山陶の素晴らしさは唐九郎とは全く質の違うものだった。彼は忠実に真似ることをしていない、写していないのである。桃山陶の自在な精神を的確に把握して表現している。サイスさんの作品を初めて見たとき、陶芸家でもないのに『ああ、この手があったのか』と呟いていた。ただ頭で理解したとしても、それを手の経験として実践するのはとても難しいだろうと思う。
日本の土モノ(陶器)の至上概念は〝作為を感じさせない作為〟にある。従って無地の焼き物の方がそれを表現しやすい。典型的なのは黒楽茶碗で、ちょっと感じのいい黒楽は市場にゴロゴロしている。綻びが一番見えにくい焼き物なのだ。しかしいったん器形を歪め、絵を描き始めたらもう後戻りできない。明らかな作為を焼き物に加えることになるからだ。この道を進むことを選んだのなら、もはや作為によって作為を越えるしか方法はなくなる。だがこの道は非常に険しい。
同
写真を見ればわかるように、サイスさんの作品は作為だらけだ。釉薬は黄色と黒と、茶色、白の四色を使っている。器の内側と外側に絵付けしているが、それだけでなく釘彫りで器の表面を削って変化を与えている。高台(茶碗の底の部分)は土見せ(釉薬を掛けず土そのものの質感をあえて見せている)になっているが、白と茶色の釉薬を飛散させ、焼成する時の支柱(焼き物とそれを乗せる土台がくっつかないようにするための支柱)には貝を使っている。作為だらけなのである。同じことを他の陶工がやれば収拾がつかなくなるか、見るも無惨なほど嫌味な作品になってしまうだろう。サイスさん独自の精神性が、過剰なまでに手を加えたこの作品を、作為を感じさせないものにしている。
欧米人には空間表現に優れた作家が多い。個々の作品はもちろんだが、壁に絵を掛ける場合でも、広場に彫刻を立てる際でも、その空間全体を引き締めるような作品を生み出している。サイスさんも器全体の調和を保つ能力を持っていると思う。それと同時に、恐らく極東の文化から学んだのだろう、ミニマルな世界をそこに創り出す技術に秀でている。
日本人は昔から、小さな作品に宇宙そのものを閉じ込めるようなミニマルアートが得意だ。焼き物はその最たるもので、その気になれば小さな茶碗に世界の諸相を見る(閉じ込める)ことができる。世界を表現するのに世界に匹敵するような巨大な作品は必ずしも必要でないのである。しかしそれは技術によって達成できるものでなく、結局は作家の精神によって支えられるものである。そうでなければもっと多くの優れた織部焼が現代に生み出されているだろう。サイスさんには桃山陶を作り出した人々と同じような世界の捉え方があるのだと思う。異文化に触れた時の新鮮な驚きを持続・深化させることができるのも、創作者の明らかな能力(才能)の一つである。
サイスさんはまだ42歳の若い作家だから、これからもどんどん変わっていくだろう。また実際、サイスさんは多作な作家である。小川さんによれば、来月(2013年5月)には文学金魚紋の絵や焼き物ばかりを集めた作品展がトラッドマイスター倶楽部で開かれるそうだ。僕は単なるコレクターに過ぎないが、陶芸の世界で同時代人として初めて出会った優れた作家として、これからもサイスさんの仕事に注目していきたい。
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■ トラッドマイスター倶楽部(アロン・サイス作品取り扱いギャラリー) ■
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