鶴山裕司さんの『安井浩司研究No.004』『わがテスト氏航海日誌(その三 最終回)』をアップしましたぁ。『わがテスト氏航海日誌』は安井浩司さんの創作メモです。『わがテスト氏航海日誌』は最終回で、来月からはまた別の未発表草稿の掲載になります。今回の草稿で安井さんは、
私は、俳句を絶望の形式として捉える。
絶望のないところに、人間の真の実存をさぐりうる志向があろうか。
従って、俳句は、俳句自身がつちかってきた俳句形式であるべきである。
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俳句に主流はない。
私は(それがあるとすれば)主流認知を否定する。
要するに、秀れたものが、主流である。
その秀れたものが、飛翔して、断続的に存在するにすぎない。
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正統と異端
そういう区分はない。
正統こそ異端であって、異端のみが正統となりうる。
安井浩司『わがテスト氏航海日誌』
と書いておられます。厳しくも原理的な認識です。石川、岡目八目で歌壇・俳壇・自由詩詩壇を見ていますが、これら短い表現世界では詩人はほぼ誰でもいっぱしのことを言います。まーなんて言うんでしょ、誰もが簡単に〝ご立派〟なことを口にする。これは詩というジャンルの特性でしょうね。詩はたいてい短いですが、読んですぐその良し悪しがわかるある種の直観的断言です。詩人さんたちはそれを知っているから詩について問われるとみな立派なことを言う。作品が低調でも散文では立派なことを口にしがちです。
でもぜんぜん信用できない。たいていの場合、創作と理論と現実行動が一致していない。安井さんは信用できる詩人でしたが創作・理論・現実行動が一致し過ぎていたから生涯冷や飯食いだったんでしょうね。ただ安井さんが書いておられるように俳人に限らず詩人は詩に〝絶望〟しながら〝要するに、秀れたものが、主流である〟という信念を抱き続けるべきだろうと思います。
で、もうすぐ鶴山さんの新句集『聖遠耳』、『おこりんぼうの王様』と『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規――日本文学の原像』が金魚屋から刊行されます。石川、『正岡子規論』は桑原武夫の〝俳句第二芸術論〟以来の衝撃的俳句論だと思います。異論はあるでしょうが俳句文学を完全解明して定義しておられる。また安井さんと同様に鶴山さんも「俳句は絶望の文学だ」と何度も書いておられます。表現ジャンルは違いますが安井さんと鶴山さんが深く共鳴したのは偶然ではありませんね。
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