『わがテスト氏航海日誌』はB5版ノートに記された安井氏の創作ノート。巻頭に「1971.5.30→」とあるので昭和四十六年中に書かれた創作メモのようだ。高山時代の創作メモである。
物故なさり文学史上の作家になってしまわれたので書いてしまうと、安井氏は昭和三十五年(一九六〇年)に日本歯科大学を卒業してから足かけ十年勤務していた赤羽第一歯科を昭和四十四年(一九六九年)二月に退職し、岐阜県の飛驒高山に転居した。ある女性を伴っての出奔だった。昭和四十七年(一九七二年)十一月三十日に高山を去り、秋田市で歯科医院を開業するまでの三年弱を高山で過ごした。安井氏三十三歲から三十六歳のことである。
この高山時代に第三句集『中止観』を刊行した。また秋田帰郷後の昭和四十九年(一九七四年)に第四句集『阿父学』と初の俳句評論集『もどき招魂』を同時刊行している。両著が高山滞在中に構想が練られた作品集であるのは言うまでもない。『わがテスト氏航海日誌』には安井氏らしい俳句を巡る哲学的思考が綴られているが、当時の苦しくも研ぎ澄まされた心境が色濃く反映されている。
なお安井氏の未発表原稿はダンボール箱十箱近くあり、それらをあらかじめ精査した上で「安井浩司研究」として未発表原稿を明らかにしてゆく時間がない。従ってランダムにダンボール箱を開けその都度原稿を整理して発表してゆくことにする。最終的に俳句や俳論別に原稿をまとめ、時系列に沿って並べ替えて本にできればよいと思っている。なお判読不明文字は■で表記した。
鶴山裕司
わがテスト氏航海日誌(その三 最終回)
抒情に就いて(佐々木■■)
抒情――主として作者の内面世界の表出。
歌は非日常的言語表現であるゆえに言霊信仰に支えられた霊力ある〈行為〉として存在した。
神や霊――超人間的な何かに呼びかけるには日常語では駄目なのである。日常語にはない力に歌が求められた。
* *
抒情――心の原初的な感情のひとつ。
美しいものであるという思いのもとで情を抒す。
詠嘆という表現をとるか。
表現方法によって抒情となったり反抒情となってしまう。
抒情に対するものとして観照的なあり方、思惟的なあり方、意志的なあり方
↓ ↓
情 知
↓
わび、寂び、園流
俳諧心、俳、こっけい
抒情俳人としては、
与謝蕪村
「愁ひつつ丘に登れば花茨」「菜の花や月は東に日は西に」
「花茨故郷の道に似たる哉」
水原秋櫻子 高屋窓秋――(?)
抒情と若さ
抒情と〈老い(枯淡、いぶし銀の味)〉は結びつかない
抒情――人の心のもっとも弱い部分(つまり意志的ではない部分)――それだけ純粋である――と結びつく。
泪ぐましい、美しい、若々しい。
日本歯科大学時代
三橋敏雄の作風
現代俳句の問題点
項目別にいえば、
・季語 の問題
・定型 〃
現象的にいえば、
・美学の問題
伝統回帰
芸術
・価値基準の混乱
・若い俳人の傾向
現象的に言えば、
① 有季定型派として古典をなぞる
飯田龍太、森澄雄等
② 俳諧技法をなぞる
加藤郁乎、三橋敏雄
遊びの世界
これらに共通していえることは〈我〉の喪失
何をかくかではなく、書く追求力の密度の中に発現してくる。
私は多くの〈私〉(他人)に溺れている
私は〈定型〉との対向、かかわりの中にしかありえない。
阿部完市の〈個〉というものがある。
→自然の状態におくという。
純粋の状態におくという。
そうすれば、
意味よりも〝音〟の世界、リズムの世界へ近づかざるをえない。
それは判る。
しかし、
人間の自然とか純粋とかいうものは、そういう〝生理〟〝反応〟において捉えたものをのみ言うのであって、人間は本質的に割り切れない存在としてある。
私の考えは人間とは摩か不思議な存在であり、魔的存在である。
そういうものに対向するとき一元的な表現方法ではだめなのではないか。
とすれば、俳句が人間の本性に対応できる形式か。
私は、俳句という形式がもっている独特の定型性は人間の不思議さと充分対応できると考える。
それは、人間が自分からはみ出している部分、逆転している部分(いわゆるカイギャク)そういうものに対応する形式。
未来の形式ではないかもしれないが、近代の形式である。
俳句とは、自分にとって、一つの世界に対して一つの世界が対する、意外性、不意打ち、笑うものに対する笑い返し、反日常の世界、反意味性の世界、無の世界、である。
金子兜太がいう伝統感も承知できない、造形論も。
虚無主義を外しては肯定できない。
人間とは本性的に虚無的な存在である。
何故俳句形式が自分と切れないのか。
① 俳句がもっている〝切れ〟の世界
② 短いということ
沈黙している
何も語らない
自己生理ともかかれる。
季題
季語 という美しさは副次的。
③ 五七五のリズムは
律――として考えたくない。
韻――として〝切れ〟として考えたい。
切れは切れ字だけでなく語感としても切れを考えたい。
俳句とは、男がやる世界だ、と思っていたら、■迎は俳句はみな女手によってかかれている。
(雄物川の河口でこれを書いているが、人間とは昔みたセのへ帰ってゆく)
詩の原野をよむ
俳句とは75論でありながら、それに対向し、否としようとする。それは切れによる。
俳句は発句、直句と否としたところにある。
同
〈現代俳句の諸問題〉
・漠然としたテーマ *座談的発展
*結論に至らず
・アトランダムに列挙(問題集として)
形式の側――定型、季語、言葉、物と言葉
伝統と芸術、俳句性、俳句とは何か
定型詩とは何か
主体の側――何を詠うか(テーマ)
何を求めるか(俳句形式に)
価値基準の混乱
土俗志向、俳謔志向
・私自身の問題集
俳句形式をどう捉えるか――認識の問題
・サブテキスト――「海程」――定型と非定形
・最近の傾向
・俳句形式の固有性の否定
・俳句形式を流動的に考える――形式の変容
・過渡の詩
・金子兜太(最短定型詩)、阿部完市(最短定型)、坪内稔典(過渡の詩)、高柳重信、小川双々子、攝津幸彦、しょうり大 etc.(参考「海程」2頁)
・フレーズ句、最短定型
・現象として、
俳句の中に自分が立つ――という風景ではない。
俳句を――下僕、家来とし、俳句形式をこれの主情に利用する。
・結果として、
俳句定型との対向、格闘、克服。
定型の中で見事に存在したというリアリティがない。
逆にいえば、それだけ自由で、感性的で、自己支配的で明るい。
早々と日々めぐり会っている。
・彼らの主張
俳句は変貌しつつある形式である。
俳句の技術論、形態論、歴史論が主張され、俳句の認識論、思想論がおそろか。
・何故、自分にとって俳句なのか。
◎ 俳句定型詩の自縛
〈個〉の普遍性、普遍化ということでなく、俳句の詩型は、
・己の魂を鼓舞し、■■威を呼び、自己の存在を醒まさせた。
・外的圧力のある形式。
・それは、慰めの文学ではない。
・俳句形式の短いというしめつけと、語れない形式の中での自己燃焼。
・実在に対する厳しさ。
◎ 〝俳句の切れ〟
◎ 575で後がない――断絶と空白
75調の呪縛とは違う。
連句連歌の世界。
日本美学の蔵するところとちがう。
宇宙論的志向。
(寺山修司の「歌論」とは別である。認識の世界へゆく)。
立つ志向。
垂直の志向。
俳句とは何か――認識論
◎ 対向としてあること
世界に対する――反世界性。
整序態――に対するアンチテーゼ。
それは単なる対向ではなくて、自分へ世界を呼び込む。
彼の〈シテに語りかけ、誘いかけ、シテが神をして示験したり、幽霊、幽魂として自らの本性をあらわすように仕向けるがワキのワキたる務めである〉。
〝もどき〟の思想
単なる自己偽装ではなく、反世界、つまり世界に対する自分の思想をこちら側に立てること。(※数頁後に整理)
・そのためには
・俳句形式を体制側のものとして認識してはならない。
・進歩の概念で抱えてはならない。
・進歩や、革新のイメージで捉えてはならない。これなら、他のジャンルに敗れる。
・私は、俳句を絶望の形式として捉える。
・絶望のないところに、人間の真の実存をさぐりうる志向があろうか。
・従って、俳句は、俳句自身がつちかってきた俳句形式であるべきである。
・俳句定型の問題集
・575定型
・575調律の詩型
どんな句でも575として読む。
「ただみる起き伏し枯柳の起き伏し」――誓子
444――16
①「ただみる起き伏し」②「枯柳の」③「起き伏し」
3句断続
・リズム、韻律、切れ
・意味性の切れ
・語感の切れ
・積極的切れ
・自分が積極的に切る
・3句断続
・17音量 ・575調律 ・旋律 ・575拍数律
・自由律
「咳をしてもひとり」――放哉
(これを支えているのは人生論である)
同 右安井氏
もどきの思想
一般には
もどき芸(角川源義)、がんもどき(金子晋)、なぞりにせもの(上月章)
単純なフィードバック
「偽物」を作る。
ということは、「本物」があり、それを真似るかそのパターンの中で遊ぶ。
(単純なフィードバックにすぎない)
しかし、私の思想は、
「本物」とは何か、という問いかけにおいて、「本物」は幻想的に存在するのみで実在しない。
つまり、俳句は、何人もその本態を規定できない。
それは言葉の芸術、形式であり、あくまで個人のかかわりの中にあるものだろう。
◎ だから、俳句とは、かくかくの如きものではないかという問いと追求の中にしか、存在しない。つまり「本物」は追求力の中にしかないし、文芸として幻想的、幻影的にしか存在しえないのだ。
「偽」の意識をもち、
「偽物」をつくることによって、あるいは追求することによって、「本物」と思われる幻影的存在を逆転する。
「偽物」が「本物」だったのではないか。
骨とうの世界では、価値の良否にかかわらず、「偽物」と「本物」は確然とされるが、言葉の世界、形式では、そういう逆転の世界こそ意味がある。
「俳句文学原論」湊楊一郎
・17音詩――(18音詩、19音詩、もある)
・長歌――57、57、57・・・・・・・・・7
↓
和歌――57577
↓
俳句――575
最短詩型の成立
定型最短詩――俳句
不定型最短詩――自由律
長歌→短歌(和歌)→連歌→連句→発句→俳句
俳句とは、変とするものだ。
――一元的
一乗的把握
喪失の中で捉える
――二重構造の把握
加藤郁乎――亜流――志摩聰
むしろいつか逆転
加藤←亜流←志摩
という思いで書くべきであり、俳句は結局――もどきの思いに徹した果に、それらしき姿を自分で掴む。(虚無の思想)
俳句とは近親相姦をおかす形式――時として畸形を産むらん。
短歌(形式)発生論
吉田弥寿夫
・旋頭歌は文字のあらわすように、集団の中でかけあい詠唱されたであろうから、たいていは問答形式になっている。そして対話は一方が問いかけ、他方が答えるのを、そのやりとりの間に空白の時間が生じると感興の高揚をそこねるから、片歌の最後の七音の部分はくりかえしになっている。
・ところが、時代の進行とともにこの靱帯がゆるみ、共同体から阻害された孤独は精神が、ひそかに単独で自己の内奥をうたいあげるようになると、リフレインの必要がなくなり、脱落して、五七・五七・七の短歌形式が生れる。
(「雁」四号)
河原への答え 電話
アウトサイダー
俳壇
この二者択一。しかしいずれも見通しは暗い。
俳句に主流はない。
私は(それがあるとすれば)主流認知を否定する。
要するに、秀れたものが、主流である。
その秀れたものが、飛翔して、断続的に存在するにすぎない。
(そうでなければ、私の方法論はみな水泡に帰す)
野呂田稔へ
正統と異端
そういう区分はない。
正統こそ異端であって、異端のみが正統となりうる。
主流認知を軽々しくしてはならない。
(『わがテスト氏航海日誌』了)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■