鶴山裕司さんの『安井浩司研究No.002』『わがテスト氏航海日誌(その二)』をアップしましたぁ。『わがテスト氏航海日誌』は安井浩司さんの創作メモです。安井さんの評論は凝縮して難解になっているものが多い。しかし創作メモでは生の安井さんの声を聞くことができます。安井文学に賛否あるのは当然ですが、ここまで真摯に俳句について考えた作家は稀有です。鶴山さんには激しく安井さんに共鳴するものがあるんでしょうね。
で、もうすぐ鶴山さんの新句集『聖遠耳』、『おこりんぼうの王様』と『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規――日本文学の原像』が金魚屋から刊行されます。『正岡子規論』は「正岡子規論」と「子規派作家論」の2部構成です。「子規派作家論」で論じられているのは高濱虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節、夏目漱石です。このような構成になっているのは、鶴山さんが子規文学を俳句に限定せず綜合的に捉えているからです。
日本文学は現状では官庁縦割り行政のように、短歌、俳句、自由詩、小説のジャンル別に成立して考えられています。しかしこの現実制度的かつ思想的枠組みには大きな問題がある。子規は自分の文学にとって俳句は一部分に過ぎないと何度も書いています。もちろん病気で志半ばで斃れ、まとまった仕事が俳句に集中したので子規は俳人ということになっています。しかし彼はその後の短歌、小説(散文)に大きな影響を与えた。鶴山さんの子規論が「子規論」と「子規派作家論」から構成されるのはそのためです。子規派作家の仕事に〝可能性としての子規文学の継承〟を見なければ子規文学を正確には捉えられないということです。
これは漱石にも言えることです。漱石文学は重箱の隅をつつくほど研究され論じられています。しかし漱石が日本文学(文化)で最も影響を受けたのは俳句、漢詩、禅です。んなこたぁ漱石を読めば誰にだってわかる。本人が何度もそう書いているわけですから。しかし漱石は欧米文学との対比で論じられることが多い。だけんどほぼすべての優れた日本の作家は自己の文学のヴィジョンを摑むと、若い頃に影響を受けた外国文学を相対化して日本文学の核心を表現しようとします。漱石が文豪と呼ばれるのはもちろんそれを持っているからです。しかし漱石論ではズッポリと肝心の日本文学の受容理解の側面が抜けている。なぜか。小説批評家や研究者が俳句や漢詩はぜんぜんわからないからです。なぜかそれでいいと思ってしまっている。禅についてもお手上げ。それに斬り込んだのが鶴山さんの『漱石論』です。
鶴山さんの新詩集『おこりんぼうの王様』は51篇を収録した抒情詩集です。単純な抒情詩集ではありません。抒情詩の書き方の可能性をほぼ網羅している。第1詩集『東方の書』、第2詩集『国書』から意図的に大きく書き方を変えたわけで、吉岡実の『神秘的な時代の詩』になぞらえることができる詩集です。それは同時刊行される『聖遠耳』によりハッキリと表現されています。彼は『聖遠耳』をまとめなければ『おこりんぼうの王様』を刊行しなかったでしょうね。『聖遠耳』は2,172行の長篇詩です。今後もその影響は残るでしょうが作品試行として現代詩時代の終焉を告げ、新たな21世紀詩への強い意欲を表現した詩集です。
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