No.124『空也上人と六波羅蜜寺』展
於・東京国立博物館(本館特別5室)
会期=2022/03/01~05/08(東博)
入館料=1,600円[一般]
カタログ=2,300円
東京国立博物館はえらく広い。大規模な特別展はたいてい平成館で開催されるが本館はほとんどのフロアが常設展だ。考古のフロアなどは展示替えが少ないが、書画は頻繁に展示替えが行われるので楽しい。で、一階の特別五号室でときおり小規模な展覧会が開催される。今回の『空也上人と六波羅蜜寺』展は特別五号室開催でこぢんまりとした展覧会だった。
とはいえ日本の仏教美術は古いものは飛鳥時代にまで遡る。飛鳥仏は金銅仏が多いが平安・鎌倉の優品の多くは複雑で脆い木彫なので移動するだけで大変だ。つまり費用がかかる。どうしたって予算が豊富な国立美術館の独断場になりますな。また展覧会は長い目で見れば一連のシリーズとして開催されている。
少し前に東博で『最澄と天台宗のすべて』展が開催され、『興福寺金堂再建記念特別展 運慶』展が開催された。小説やドラマなどでは弘法大師空海さんが頻繁に取り上げられるが、一般に普及した日本の仏教の土台を作ったのは伝教大師最澄さんである。杓子定規に言えば空海さんの仏教は密教で最澄さんの仏教は顕教。秘密の仏教とわかりやすい仏教という区分になる。もちろん最澄天台宗はその後密教も取り入れた綜合的なものになっていったが基本は顕教中心に発展した。
また日本の仏教美術は鎌倉時代に一つの頂点を極めた。これはほかの伝統文化・工芸についても言える。能楽は室町時代初期、茶道・華道は桃山から江戸初期が最盛期である。工芸も同様で唐津焼きはおおむね桃山時代から江戸初期、伊万里の技法的全盛期は江戸中期になる。全盛期を過ぎると伝統文化・工芸はゆるやかに衰退し、その時々に優れた文化人・工芸家を輩出する個人作家の時代になってゆく。
なぜ伝統文化・工芸に全盛期があるのかはそれぞれ固有の理由がある。ただ精神的な盛り上がりと技術的成熟が合体して全盛期が訪れるのは共通している。仏教美術では平安後期には寄木造などの技法が完成していた。複雑な形の仏像を巨大な大きさで作ることができた。そこに栄耀栄華を極めた平家が根絶やしにされた社会的大動乱と、源氏による勢いのある新たな武家文化が加わって全盛期が訪れた。『平家物語』には平安仏教の煌びやかな密教的心性と鎌倉以降の禅的無常観が両方流れている。密教的幻想(妄想)空間から現れる異様なイメージと禅的無常観が、動的だが残酷なまでに切迫した厳しい仏様の造形を生んでいる。仏師運慶がいち早く鎌倉の貴人たちと親交を結んだのはよく知られている。
今回の展覧会の主人公空也上人は平安中期の延喜三年(九〇三年)に生まれ天禄三年(九七二年)に七十歳(数え年)で没した宗教家である。天台系の顕教を代表する高僧の一人である。天皇の御代で言うと醍醐、朱雀、村上、冷泉、円融天皇の時代に当たる。空也三歳の延喜三年(九〇三年)に藤原時平と対立して太宰府に左遷された菅原道真が没した。その後道真が天神様として神格化されたことからもわかるように、えっらい古い時代である。また六波羅蜜寺は上人ゆかりの寺だが、空也生前よりも没後の方が多くの人々の信仰を集め平安末から鎌倉初期にかけて最も栄えた。六波羅蜜寺には東博が定期的に開催している顕教系の仏教の流れと、仏像彫刻の最高峰である運慶(慶派)の流れが合体した遺物が残されている。
六波羅蜜寺の場所
『空也上人と六波羅蜜寺』展図録より
京都は広いようで狭くて、大原などに足を伸ばさなければ平野部は自転車で走り回って観光することができる(体力があればですが)。六波羅蜜寺は広大な敷地の建仁寺にほど近い場所にある。六道の辻の石碑のすぐ近くで、初めて行った時は「げっ」と思った。言うまでもなく古代にはこの世とあの世の境目と考えられてきた土地である。清水寺の方に行くと平安時代の葬送の地だった鳥辺野になるので、六道の辻あたりが現世と冥界の境目と考えられてきたのだった。平安後期になると北嶺仏教の滲透もあって貴人の間で火葬が行われ始めるが、多くの庶民は死体をそのまま安置して葬っていた。火葬は費用がかかりますからね。鳥辺野という地名からわかるように風葬(鳥葬)だったのである。当然様々な怪異譚がここから生まれた。
ただ今は往時の面影は全くなく、普通の民家の間にお寺が点在している。六波羅蜜寺はこぢんまりとしたお寺で外観はお稲荷さんのように赤くて建物も新しく見える。しかしこのお寺には尋常ではない寺宝が伝わっている。
重要文化財『空也上人立像』
木像 彩色 玉眼 像高一一七センチ 鎌倉時代 十三世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
今回の展覧会のメインは言うまでもなく『空也上人立像』である。学校の歴史の教科書には必ず掲載されていて多くの人が目で記憶しているだろう。その実物がはるばる東京までお越しになった。なお今回の展覧会は出品物が少ないこともあって図録が充実している。大規模展覧会なら写真一枚になるが、上人像などは様々な角度から撮影されており写真で細部まで確認することができる。掲載図版はその一部である。
パッと見てわかるように上人は異様なお姿である。製作当初は彩色されていたはずだが現在は線香などの煙でいぶされて全体に黒ずんでいるのも異様さをいや増しにしているかもしれない。
まず目につくのは上人の口から伸びた銅線と小さな仏像である。これは上人が南無阿弥陀仏の六字名号を唱えると、その声が阿弥陀如来になったという伝承(神話)を造形化している。また痩せ細って粗末な法衣をまとい、鐘を叩きながら身体を鹿角のある杖で支えるお姿も強烈な印象を与える。ただお顔はうっすらと法悦の表情を浮かべている。仏の功徳を説いて回ったお姿を再現しているのだろう。
ただしこの像が造られたのは上人没後から約二五〇年ほど後の鎌倉時代初期である。解体修理の際に像内から「僧康勝」の墨書が見つかったので運慶の四男・康勝作である。慶派は動的な仏像製作で知られるが、その他の確実な康勝作から彼が生前の高僧のお姿を再現した肖像彫刻にたけていた仏師だということがわかっている。二五〇年も前の高僧なので、当時は似せ絵が残っていたかもしれないが康勝が上人生前のお姿を忠実に再現したとは考えにくい。ただ康勝の時代にも空也上人のような市聖は存在していて上人の法灯は受け継がれていたのだろう。しかしその実像は茫漠としている。
重要文化財『空也誄』
[原本]源爲憲撰 紙本墨書 縦二七×長二四八・一センチ 平安時代 十二世紀 愛知・真福寺(大須観音宝生院)蔵
『空也誄』は上人一周忌に合わせて源爲憲が書いた伝記である。そんなに長い文書ではない。爲憲は官位は低いが漢詩・和歌に秀でた文人貴族で『本朝麗藻』と『類聚句題抄』に漢詩が、『拾遺和歌集』に和歌一首が収録されている。原本は残っておらず鎌倉時代後期の書写である。唯西という僧侶が書写した。巻末に「愛宕護山月輪寺毎月十五日念仏、上人被始也」とあるので愛宕山月輪寺の僧侶だったようだ。鎌倉時代には月輪寺で毎月十五日に念仏講が行われていたことがわかる。
爲憲によると空也の出自はまったくの不明である。出自も出身地もわからない。空也自身もそれを語ることがなかったのだという。ただ若い頃から畿内を巡り東北地方にまで行脚して仏道を説き、各地で托鉢してそれを困窮した人々に与えた。三十六歳の天慶元年(九三八年)に平安京に現れ主に市で布教し始めた。空也の衆生救済の姿勢は変わらなかったので人々はいつしか空也を市聖と呼ぶようになった。
京都は地震が少ないと思われているが、天慶元年に大地震が起こって多くの建物が倒壊した。鴨川が氾濫して甚大な被害をもたらしてもいる。翌天慶二年には以前から不穏な動きをしていた平将門が遂に関東で挙兵して新皇を僭称した。それに呼応して南海で藤原純友が挙兵した。天慶三年には将門の乱は鎮圧されたが、空也の時代には天災と急速に台頭してきた武士勢力の新たな価値観で社会が動揺していた。
空也は入京から二十年後の応和年中(九六一~六四年)に東山に西光寺を草創して没するまでこの寺で過ごした。西光寺が六波羅蜜寺に移行したのである。そのため六波羅蜜寺には上人ゆかりの仏像などが伝来しており空也を踊り念仏の祖として祀っている。しかし上人が実際にどのような布教を行ったのかはわかっていない。
空也上人ですぐに連想されるのは上人没から三〇〇年以上の後の鎌倉時代中期に現れた一遍上人である。言うまでもなく時宗の祖だ。ひたすらに念仏を唱え、踊りまくる踊り念仏によって誰もが極楽浄土に成仏できると説いた遊行上人である。このわかりやすい教えが念仏を唱えれば誰もが平等に往生できるという浄土宗・法然の専修念仏や、他力本願の親鸞浄土真宗に多大な影響を与えたのは言うまでもない。ただし空也は独自の宗門を立てていないので空也と一遍時宗との直接的な繋がりは見出せない。
鎌倉から室町時代になると仏教は質的な変化を遂げる。平安時代の顕密の差よりも新たに流入した禅宗との違いが大きくなるのだ。禅宗は死ぬのも仕事の内の武士の台頭によって急速に広まっていった。平家の公達たちの無惨な最期も禅の普及に拍車をかけた。禅は仏の存在を認めない点が従来の仏教と決定的に違う。悟りの境地に至るのを目的とするが人間は悟りの境地に決して安住できないと説く。禅者が悟りの境地で見るのは窮極の無常とも言える残酷なまでの世界本質である。そして世界本質(真理)の認識を抱えて修行者は猥雑で矛盾だらけの現世に戻ってくる。
この仏の存在を認めない、ということは往生や救済も認めない禅的無常観が実質的に室町時代以降の日本人の精神性を形作ってゆく。それに反比例するように南無阿弥陀仏を唱えれば往生できると説く簡便な一心専念が庶民の心を捉えていった。一心専念は最も顕教(わかりやすい仏教)らしい教えである。
しかし天台宗は早い時期に顕密を統合していた。一遍の踊り念仏は密教的でもある。踊り狂ってトランス状態になることで仏との一体化を夢想し極楽浄土を幻視する――つまり禅のように無が世界本質ではなく仏の救済を世界本質としている。幻視的な密教的境地を目指す姿勢は空也にも見られる。『空也上人立像』の法悦の表情がそれを示唆しているだろう。鎌倉中・後期に花開く顕密一体の法然、親鸞、日蓮、一遍らの源泉は空也上人にまで遡ることができるということである。
重要文化財『四天王立像』
木像 彩色 向かって右から[持国天]像高一七五・七/[増長天]像高一七九・四/[広目天]像高一六九・七/[多聞天]像高一七六センチ 平安時代 十世紀(持国天、広目天、多聞天) 鎌倉時代 十三世紀(増長天) 京都・六波羅蜜寺蔵
『空也誄』には西光寺創建とほぼ同時期に、上人が「金色一丈観音像一体」「六尺梵王、尺帝、四天王像各一体」の像造と「金泥大般若経一部六百巻」の写経を発願したと記されている。「金泥大般若経」は十四年に及ぶ勧進(仏道のために多くの人から金額の多寡を問わず寄付を募ること)の結果で、完成の際には六百人の僧侶を請じて鴨川西河原で法要を行ったと『日本紀略』にある。大勢の庶民が押しかけたのはもちろん左大臣以下の貴人も参列した。仏像造営も経典書写も多大な費用がかかるが、西光寺創建時には空也が貴人から庶民に至るまでに絶大な帰依を受けていたことがわかる。
また「金色一丈観音像一体」は六波羅蜜寺秘仏御本尊の十一面観音菩薩立像として今に伝わっている。像高二メートル五八センチの巨大な仏様で辰年にしか御開帳されない。「四天王像各一体」は増長天のみ鎌倉時代の補作だが、持国天、広目天、多聞天は創建当時のまま六波羅蜜寺に伝わっている。六波羅蜜寺は何度も焼失しているので空也上人発願の仏像四体がそのまま伝わっているのは奇跡的である。
空也は独自の宗門を開かなかったのでその死後西光寺は六波羅蜜寺と改称され天台宗の天台別院となった。現在は真言宗智山派寺院である。空也は時宗の祖とも見なされている。しかし空也の説いた仏道は天台系とも真言系とも微妙に違う。それが六波羅蜜寺に創建当時の仏像が残った理由かもしれない。また六波羅という場所の特異性が六波羅蜜寺に数々の寺宝が伝わる背景になった。
重要文化財『地蔵菩薩坐像』
木像 彩色 玉眼 像高八九・七センチ 鎌倉時代 十二世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財『伝運慶坐像』
木像 彩色 玉眼 像高八九・七センチ 鎌倉時代 十二世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
重要文化財『伝湛慶坐像』
木像 彩色 玉眼 像高七九・五センチ 鎌倉時代 十二世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
六波羅蜜寺境内には運慶が建立した十輪院があったことが知られている。江戸時代の地誌『山州名跡志』に十輪院には本尊地蔵菩薩象と運慶、湛慶像が安置されていると記されている。仏師は自身剃髪した僧侶であるのが普通だった。運慶が熱心な仏教徒だったのもよく知られている。功徳を積むために寺院を建立して自ら製作した仏像を安置したのだった。
ただ別の資料では十輪院は京都八条高倉にあったと記載されている。鎌倉時代末までは八条高倉にあったようだ。ただ運慶作菩薩坐像と運慶、湛慶坐像がいっしょに伝わっていることから、この三体はなんらかの理由で散佚せずにまとめて六波羅蜜寺内十輪院に移転・安置されたようだ。六波羅がキーポイントなのかもしれないが詳細はわからない。
地蔵菩薩坐像は平安時代の作と比べれば厳しいお顔で、天上の仏というより人間っぽい雰囲気がある。が、動的な運慶代表作と比べると大人しい。仏師は依頼者の要望に応えて様々な仏像を造るが、運慶は自ら創設した寺に地蔵菩薩坐像のような端正な仏を本尊に据えたわけだ。また運慶、湛慶(運慶長男)坐像は〝伝〟であって彼らの肖像彫刻だという確証はない。しかし製作手法は慶派のもので運慶、湛慶没後に慶派仏師によって造られたと考えられている。これら坐像が運慶、湛慶の肖像彫刻だとすれば日本では最古の仏師生前の姿を伝えていることになる。運慶仏師のお顔は柔和で知者だが政治とは無縁な宗教者・芸術家を感じさせる。
重要文化財『伝平清盛坐像』
木像 彩色 玉眼 像高八二・七センチ 鎌倉時代 十二世紀 京都・六波羅蜜寺蔵
六波羅蜜寺には伝平清盛坐像も伝わっている。この像も歴史の教科書で見た方が多いだろう。『平家物語』でお馴染みだが六波羅は平家武士たちの牙城だった。最盛期には六波羅から三十三間堂まで平家の屋敷が並んでいたのだという。寿永二年(一一八三年)の平家都落ちの際に平正盛が火を放って焼失したが新たな覇者、源頼朝はここに六波羅探題を置いた。京都の警護と朝廷監視のために設置された鎌倉幕府最重要の役所の一つだった。
空也上人創建の西光寺の方が先だが、六波羅という土地柄、六波羅蜜寺に清盛像が伝わっているのは自然のように思われる。しかしその経緯もわかっていない。ただ慶派の手による像だろうと推定されている。六波羅蜜寺(西光寺)が運慶を始めとする慶派と深い繋がりがあったお寺だったのは確かなようだ。
平安時代後期から焼失を繰り返しながらも今に至るまで続いている寺なので、六波羅蜜寺に様々な仏像・仏画、仏具、文書が伝来しているのは当然のことである。しかし創建当初から鎌倉時代にかけての仏像がこれほど残っている寺は稀だろう。空也が京都でさらし首になった将門を供養したという伝承もある。将門、清盛と時の権力者の敵となった武将にも縁故があるわけだ。
六波羅蜜寺はちょっと謎めいている。鎌倉時代くらいまでの六波羅蜜寺は特定の宗門の影響よりも空也的衆生救済志向が強く、世俗的なしがらみを超えた信仰と鎮魂の寺だったのかもしれない。空也を継承したと言われる時宗が室町時代に能楽師の観阿弥、世阿弥、同朋衆の芸阿弥、相阿弥などの芸人や貴人の趣味に関わる知識人を輩出していることもちょっと引っかかる。神に捧げる遊芸の徒との関わりが深かったのは確かであり、宗教と世俗との間にぽっかりと空いた空白地帯のようだ。空也六波羅蜜寺は想像力を掻き立てる面白いお寺である。
鶴山裕司
(2022 / 04 / 01 17枚)
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