No.120 伝教大師1200年大遠忌記念特別展『最澄と天台宗のすべて』展
於・東京国立博物館 平成館
会期=2021/10/12~11/21
入館料=2,100円[一般]
カタログ=3,000円
ちょっと前に取り上げた東博開催の聖徳太子展も凄かったが、『最澄と天台宗のすべて』展も凄まじい内容の展覧会だった。まず東博で開催され、その後九州国立博物館(2022年2月8日~3月21日)、京都国立博物館(同4月12日~5月22日)に巡回する。展示品の古さでは聖徳太子展にかなわないが平安時代中心の優品がこれでもかというほど並んだ。平安時代の遺物が残っているのだって奇蹟的だ。コロナ禍での一時閉館や入場制限のもどかしさを吹き飛ばすような展覧会だった。
ただ同じ凄いといっても当然その質は異なる。聖徳太子時代は日本史上でまとまった文章、文物資料両方が残っている初めての時代である。いわば日本国、あるいは日本文化の始まりを告げる時代だ。聖徳太子は仏教を実質的な国教として定め、それに基づく国是として十七条憲法を施行した。また日本国のアイデンティティとなる史書、『天皇記』『国記』の編纂を開始した。後の『古事記』『日本書紀』である。蘇我氏が失脚したことでこの時代の業績すべてが太子に帰せられた気配があるが、日本国・日本文化の礎としてその後聖徳太子はじょじょに聖化されていった。聖徳太子は政治家としても文化人としてもスーパーマンのように見做されるようになったわけだ。その意味で聖徳太子顕彰は広義の個人崇拝である。
対する伝教大師最澄(天平神護二年[七六六年]~弘仁十三年[八二二年])は聖徳太子より二百年ほど後の平安時代初期の宗教家である。飛鳥・奈良時代に日本国とその文化はほぼ盤石なものとなり仏教も貴顕中心に深く根付いていった。最澄は天台宗の開祖として崇敬されているが、同時代の弘法大師空海と共にその後の仏教の発展に決定的な影響を与えた。むしろ後世への影響力の方が甚大かもしれない。現代まで続く日本の仏教は最澄天台宗と空海真言宗を基盤にしている。
とはいえ天台宗の歴史は恐ろしく長い。最澄没後から数えても約一二〇〇年である。この間に天台宗は数々の優れた宗教家を輩出した。各時代を代表する宗教家たちを一人ずつ取り上げても簡単に一回分の展覧会が開けるだろう。その意味で『最澄と天台宗のすべて』は一二〇〇年の歴史をぎゅっと凝縮したいささかムチャな展覧会である。ただ長い歴史にも関わらず今も開祖最澄の教えは受け継がれている。
絵画展などと同様に、今回の展覧会も展示物を見て好き嫌いを感覚的に楽しむことはできる。しかし本質的にはそれでは済まない。展示品と歴史が密接に結びついている。とはいえそんなに簡単なことではない。なかなか大変な作業になるが、大量の仏教美術に眼を慣らしながら天台宗の大まかな流れを肉感的に把握するにはうってつけの展覧会である。
国宝 伝教大師最澄像(聖徳太子及び天台高僧像十幅の内)
十幅 絹本着色 縦一二八・八×横七五・八センチ 平安時代 十一世紀 兵庫 一乗寺蔵
まずは最澄さんのお顔から。最古の伝教大師最澄像だがこれは『聖徳太子及び天台高僧像』十幅の一枚である。仏教では仏道を切り拓いた先人を崇敬するために数多くの祖師像が作られた。『聖徳太子及び天台高僧像』には聖徳太子、インドの龍樹、善無畏、中国の慧文、慧思、智顗、灌頂、湛然、日本の最澄と円仁が描かれている。慈覚大師円仁(延暦十三年[七九四年]~貞観六年[八六四年])は最澄の弟子で第三代天台座主なので、円仁時代以後に描かれた像である。
名だたる高僧が描かれているが、天台宗では中国随時代の智顗を開祖とする。その起源をさらに古いインドの龍樹などまで遡らせ、日本では聖徳太子を仏教の祖として並べた十幅である。インド、中国、日本をマージした日本天台宗の権威付けのための図像だが、東洋文化では起源を確認しながらそこに現代性を付加してゆくのが王道的道筋である。能楽、茶道、儒教(儒学)でも最古の基盤に立ち返りながら各時代の変化を取り入れている。東洋文化発展の大きなパターンである。
ただ最古の最澄像とはいえ、似顔絵という意味で実在した最澄さんに似ているかといえばそうではない。最澄像は他にも残されているがパターン化されていて開祖・智顗の像とあまり変わらない。生前のお姿を写した似せ絵は平安中期頃から現れてくるので、奈良時代に片脚を突っ込んだ最澄さんはやはり古すぎるようだ。ただ文書資料では最澄さんの息吹を感じさせる遺物がたくさん残っている。
国宝 伝教大師入唐牒
一巻 紙本墨書 縦二九・七×長一三四・二センチ 中国唐時代 貞元二十、二十一年(八〇四、八〇五年) 滋賀 延暦寺蔵
最澄は延暦二十三年(八〇四年)、三十九歳の七月に遣唐船に乗って仏教求法の旅に出た。今で言う留学である。目的は天台宗を極めることで、短期間だが台州(現・臨海市)の天台山などで修行して翌延暦二十四年(八〇五年)六月に帰朝した。
『伝教大師入唐牒』は最澄が唐から持ち帰った文書である。二通が継がれた文書で図版は中国国内の旅行認可証明書(公験)である。冒頭に「日本国/求法僧最澄」の文字が見えるが、楷書部分は最澄自筆で台州刺史(知事)陸淳に通行許可を求めている。後半部分の草書は陸淳による許可である。
最澄入唐は他の資料からも裏付けられるが、『伝教大師入唐牒』はその生々しい機微を伝える文書である。最澄が通訳と行者、それに人足四人の七人で中国国内を移動していたことがわかる。また当然だが外国人は勝手に中国国内を旅行できないわけで、かなり厳密な通行許可が発行されていた。最澄の楷書は謹厳だが当時の台州刺史陸淳の書は闊達で立派である。大唐帝国の威信が表れているような書だ。
国宝 光定戒牒 嵯峨天皇宸筆
一巻 紙本墨書 縦三七×長一四八センチ 平安時代 弘仁十四年(八二三年) 滋賀 延暦寺蔵
最澄は平安京に遷都した桓武天皇の厚い庇護を受けていた。当時の仏教は時の為政者の庇護なくしては成り立たなかったわけで、これは空海らも同様である。最澄は桓武に続く平城、嵯峨天皇三代の庇護を受けたが、嵯峨天皇時代がいわゆる平安国風文化の揺籃期である。
古代天皇は政治家としてだけでなく文化人としても一流であることが求められた。嵯峨天皇は最初の勅撰集として漢詩集『凌雲集』(弘仁五年[八一四年])を編纂させた。これが約百年後の勅撰和歌集『古今和歌集』(延喜五年[九〇五年])の下地になった。『古今和歌集』以降、国風文化が百花繚乱の勢いで花開いたのは言うまでもない。
ただいつの時代でも変革派と保守派(守旧派)はせめぎ合うもので、桓武崩御後に平城天皇が即位したが、平城天皇はその名の通り旧都・平城京の利権集団と密接に結びついていた。平城天皇は病気のためわずか三年で嵯峨天皇に譲位したが直後に(藤原)薬子の乱が起きた。朝廷内での権力闘争だが嵯峨天皇派と対立していた平城上皇が、薬子らに担がれて平城京遷都の詔勅を出して復権を試みたのだった。この乱は失敗に終わり薬子らは自刃して平城上皇は旧都平城京での蟄居となった。なお平城天皇の孫が日本で一番有名な冷や飯食いの貴公子・在原業平である。最古の歌物語『伊勢物語』の作者に擬せられている。光源氏にも業平の面影はある。
政治の中心は平安京に移ったが嵯峨天皇の時代、仏教はまだまだ旧都・平城京の南都六宗の力が強かった。また古代の僧侶は数少ない宗教者兼知識人だったので強い権力を持っていた。そのため誰でも僧侶になれたわけではなく、受戒して僧侶になる手順や人数が厳密に定められていた。最澄の天台宗(空海の真言宗も同じだが)は当時のいわゆる新興宗教であり、しだいに南都仏教と対立するようになった。具体的には南都仏教の受戒制度(僧侶認定制度)とは別に、天台宗独自の受戒制度を設けたいと嵯峨天皇に請願したのだった。
最澄は弘仁十三年(八二二年)六月四日に入寂したが、同月十一日付けで嵯峨天皇から大乗戒壇設立の勅許が下った。南都六宗も反発しにくい絶妙のタイミングである。これにより天台宗独自に僧侶の授戒ができるようになり、天台宗は南都六宗と同等の権威を得た。仏教の中心が平城京から平安京に移ったということでもある。翌弘仁十四年(八二三年)に比叡山一乗止観院(根本中堂)で最初の戒会(僧侶出家儀式)が行われ、最澄高弟の光定も出家した。『光定戒牒』はその際に嵯峨天皇が光定に与えた宸筆(天皇直筆の書)である。嵯峨天皇は空海、橘逸勢と並んで三筆と称される能書家だが、自由闊達で立派な書である。嵯峨天皇は最澄の死を悼んだ漢詩「哭澄上人詩」を詠み延暦寺の寺号を与えるなど天台宗を積極的に庇護した。
国宝 尺牘(久隔状)
一巻 紙本墨書 縦二九・三×横五五・二センチ 平安時代 弘仁四年(八一三年) 奈良国立博物館蔵
最澄で避けて通れないのが同時代の優れた宗教家、空海との関係である。『久隔状』は最澄唯一の自筆尺牘(漢文の手紙)で、「久隔清音」(「ご無沙汰しております」くらいの意味)で始まるのでその名がある。正確には最澄弟子で、後に空海の弟子となった泰範に宛てた手紙で、空海の詩に自分の知らない書物の名前があったが、その大要を聞いて教えて欲しいと依頼している。空海は最澄より七歳年下だが礼を尽くした手紙である。
仏教の教義・宗派の違いを言い出すときりがないが、乱暴にいえば顕教と密教に大別できる。顕教は理解しやすい教えのことで、南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも成仏できるといった衆生済度思想が代表的である。中核経典は『法華経』や『華厳経』で、最澄は入唐の際に天台山で摩訶止観を修めたのでどちらかと言えば顕教重視の人だった。平安期を通して仏教が庶民にまで浸透したのは分かりやすい顕教のおかげである。
ただ仏教が一般化して普及すれば熱心な修行者の中からより深い叡智を求める動きが出て来るのは当然で、それが密教である。これも単純化すれば密教はその名の通り秘密の宗教である。厳しい修行による精神修養を経なければ体得できない高次の境地を目指す。中核経典は『大日経』や『金剛頂経』である。空海の入唐期間は短かったが長安青竜寺の恵果から主に密教を学んだ。
しかし顕教と密教は相反するわけではなく、むしろ不即不離である。最澄は天台僧は摩訶止観(顕教)と遮那業(密教)の両者を学ぶべしと定めた。だが最澄は密教の教義や作法などに精通していなかったので空海に教えを請うた。当初両者の関係は良好だったが、空海が最澄の『理趣釈経』の借覧を拒んだことで決裂したと言われる。弟子の泰範が空海の元に去ったのも影響した。宗教家としてのプライドや政治的判断が複雑に絡んでいるだろうが、まあ両雄並び立たずといったところである。
天皇を中心とした当時の貴顕の空海帰依は最澄を上回るほど厚いものだった。これも乱暴に言えば密教の秘密の効用を期待してのことである。病気になっても治療法が少ない時代だから、とっておきの加持祈祷はどうしても密教系になった。人は自分だけが知っている(自分だけに明かされる)特別な秘密に弱いのである。ただ空海真言密教は専門僧侶の宗教という側面が強く、仏教の普及に多大な貢献を為したのは顕教寄りの天台宗だった。
また『久隔状』をパッと見れば感じ取れるだろうが、最澄の書はあまり特徴がない。書家としてはそれほど優れた字を書いた人ではないわけだ。学究の書と言えるかもしれない。これに対して空海の書は三筆と称されるほどの魅力を備えている。持って生まれた書の才能というだけでなく、密教寄りの心性が影響している。密教は神秘主義的宗教なので、文字(意味伝達)を超えた意味を図像などで積極的に表現しようとする。それは文字にも影響するわけで、空海の書は密教的美意識に裏付けられている。当時の貴顕が密教に惹かれたのも、摩訶不思議な曼荼羅などの図像の影響という面も大きい。密教美術は煌びやかである。
国宝 円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書
一巻 紙本墨書 縦二八・八×長一五八・八センチ 平安時代 延長五年(九二七年) 東京国立博物館蔵
最澄の死後、天台座主は初代・義真、二世・円澄、三世・円仁、四世・安慧、五世・円珍と受け継がれるが、円仁は九年、円珍は五年に渡って唐で修行した。円仁、円珍らは最澄時代には不十分だった密教の教えを取り入れた。台密である。天台宗の教えは円仁、円珍らによって完成されたのだった。なお空海真言宗の密教は台密と対比させて東密(東寺密教)と呼ぶ。
『円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書』は円珍の死後、醍醐天皇がその業績を称えて大和尚の位と智証大師の諡号(死後の名誉名)を贈ることを定めた勅書である。伝教大師や弘法大師、慈覚大師(円仁)も歴代天皇から贈られた諡号である。この勅書で特筆すべき点は小野道風の書であることだ。言うまでもなく藤原佐理、藤原行成と並ぶ平安中期の三跡である。道風が右筆とはなんとも贅沢である。料紙も含めて超一級の美術品だ。平安中期に天台宗は教義面でも朝廷内権威でも盤石になっていた。
重要文化財 往生要集
三帖 紙本墨書 各縦二七×横一五センチ 平安時代 承安元年(一一七一年) 京都 青蓮院蔵
円仁、円珍以降も天台宗は優れた宗教者を輩出したが、平安中期に現れてその後の仏教に決定的な影響を与えた僧侶に恵心僧都源信がいる。言うまでもなく『往生要集』の著者である。『往生要集』は寛和元年(九八五年)に脱稿したと言われるが、図版は最古の写本である。念仏による極楽往生の方法を説いた書だが、今簡単に手に入る岩波文庫版でも上下二巻の大冊でこれでもかというくらい地獄の描写が続く。現代人が読んでもけっこう怖い。当時の人々が怖い物見たさと極楽往生を願って熱心に『往生要集』を読んだのは想像に難くない。
平安中期には藤原道長を始めとした埋経が盛んになり朝廷貴顕の仏教帰依が益々盛んになる。その背景に『往生要集』の影響があった。人々は地獄に堕ちることを心底恐れ、心からの極楽往生を願った。それは庶民の間にもどんどん広がっていった。源信がひたすら念仏を唱えれば往生できると易しく説いたことも影響した。
源信の教えが浄土宗の基礎になったのは言うまでもない。最澄が説いた衆生済度思想をより分かりやすく説いた教えである。鎌倉時代になると比叡山で修行した僧侶の中から法然、親鸞、日蓮、一遍らの浄土教系の優れた宗教者が現れてくる。どの組織でもあることだが母胎が大きくなるとそのトップ(座主)はじょじょに官僚的になり、改革を求める者は傍流から現れることが多いということでもある。もちろん専門僧侶は厳しい修行を求められたが、衆生に分かりやすく仏の教えを説いたことで仏教の教えは末端まで浸透し膨大な数の信徒を集めることになった。
ただ広い意味で天台宗の流れに属しているが、浄土教は別の切り口、別の展覧会で総覧しないと収拾がつかなくなる。また鎌倉時代には延暦寺で修行した僧侶の中から道元、栄西が現れた。言うまでもなく日本の禅宗の中興の祖である。天台宗の顕教、真言宗の密教に禅宗を加えれば現代まで続く日本人の精神基盤がはっきり見えてくる。天台宗の裾野は驚くほど広い。
天海僧正像 [絵]木村了琢[賛」天海筆
一幅 絹本着色 縦二〇五×横一一五・六センチ 江戸時代 寛永十五年(一六三八年) 栃木 輪王寺蔵
時代はドンと飛んで江戸時代の天台僧侶、慈眼大師天海僧正像である。平安末頃から比叡山延暦寺は僧兵を組織して武装化するようになった。これが元亀二年(一五七一年)の織田信長による比叡山焼き討ちに繋がるわけである。超俗の山岳信仰と結びついた比叡山延暦寺がなぜ武装化していったのか、また焼き討ち後の延暦寺復興に尽力した優れた僧侶の事績もあるが、これも別の文脈(展覧会)でたどった方がいいだろう。政治の季節である戦国時代を経て江戸開府以降は泰平の世が続くがそれを盤石にした僧侶が天海である。
天海は天台宗の僧侶だが家康の懐刀として知られる。秀忠、家光と徳川三代の将軍に仕えた。大坂夏の陣を誘発した方広寺鐘銘事件にも関わったとされる。家康の死後、東照大権現として神格化して日光東照宮に祀ったのは天海である。
東博に行くときは上野駅公園口から出て上野公園の中を歩くことが多いと思うが、すぐ右手に折れて科学博物館の裏を通ってゆくと寛永寺の旧房表門の前を通ることになる。この寛永寺の開祖が天海で、芝の増上寺と並んで歴代徳川将軍の菩提寺になった。また寛永寺輪王寺の住職は代々朝廷から派遣されるようになり、徳川幕府と朝廷側の公式・非公式の協議の場になった。徳川幕府最後の将軍慶喜が朝廷への恭順の意を示して蟄居したのも寛永寺である。天台宗寛永寺は江戸時代を通じて時の権力と密接に結びついていた。
国宝 普賢菩薩像
一幅 絹本着色 縦一〇〇×横四三センチ 平安時代 十二世紀 鳥取 豊乗寺蔵
展覧会には素晴らしい仏像、仏画が展示されていたがほとんど紹介しなかったので最後に一点だけ優品を掲載します。鳥取の豊乗寺蔵の『普賢菩薩像』である。東博や奈良博などが所蔵する普賢菩薩像の優品はしばしば観覧することができるが、今回の展覧会では全国の天台系寺院から選りすぐりの寺宝を集めて展示していた。豊乗寺蔵『普賢菩薩像』は初めて見たように思う。
普賢菩薩は『法華経』に現れる仏様の図像化だが、いずれも優美で完成度の高い作品が多い。象の上に乗って現れる仏様である。仏像や仏画に顕密の区分を当てはめてもしょうがないところがあるが、普賢菩薩は濃厚に密教系だなと感じさせる。薄暗い伽藍の中で見たこともない象に乗った白い肌の菩薩様はなまめかしくさえ感じられただろう。実際、軸の普賢菩薩像は平安時代と時代が古くても損傷の少ないものが多い。秘仏として伝わってきたからだろう。霊験あらたかであり禁欲の僧侶には目に毒ということでもある。
今回の展覧会は文書資料はもちろん、仏像、仏画でも国宝、重文クラスの優品がズラリと並んだ。まあなんとも贅沢な展覧会だった。最澄平安初期の一二〇〇年前から時代的にはつい昨日のことと言ってよい江戸時代までの遺物を眺めれば天台仏教の変遷がなんとなく伝わってくるだろう。
鶴山裕司
(2021 / 11 / 05 19枚)
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