No.123『特別展 ポンペイ』展
於・東京国立博物館
(2022年12月04日まで京都市京セラ美術館、宮城県美術館、九州国立美術館を巡回)
会期=2022/01/14~04/03(東博)
入館料=2,100円[一般]
カタログ=2,900円
「ぽん、ぺい、ぽん、ぺい」と呟いて軽快にスキップしながら鷗外先生のパネルの前を通り、町田久成さんの胸像に軽くご挨拶して平成館にポンペイ展を見に行ったのでした。ちょいと久しぶりの美術展ですからね。
コロナが少し落ち着いて美術館の企画展が再開されると思いきや、ここにきてまたオミクロン株の流行で水を差されています。国立西洋も静嘉堂文庫も横浜美術館も大規模改修工事や移転のため閉鎖中だ。もちろん美術展は大小開催されているのだが人の往来の制限は物の移動制限にもつながるわけで、美術展も今ひとつ精彩を欠く。そんな中でも日本のフラグシップ美術館・東博さんは頑張っておられる。はるばるナポリ国立考古学博物館からポンペイ出土の名品が運ばれてきた。
それにしても〝ポンペイ〟はなんとなく日本語の語感がいいですね。少し前に文学金魚に加藤郁乎論を発表したが、彼の代表句に「晝顔の見えるひるすぎぽるとがる」がある。やっぱ「ポルトガル」が効いてるんだなぁ。僕の好きな演劇の一つに北村想の『寿歌』があってラストの台詞は「モヘンジョダロは雪やろうか」である。本当にモヘンジョダロに雪が降るのかどうか知らないが妙に印象に残る。日本語の語感がいいので人々の記憶に残る地名などは確かにあると思う。詳しく知らなくてもポンペイという地名を記憶している日本人は多いだろう。
ポンペイの位置
『特別展 ポンペイ』図録より
ポンペイはイタリア南部の古くから交易で潤っていた風光明媚な大都市・ナポリ近郊にあった町である。ポンペイ展はもう何度も日本で展覧会が開催されていて、以前開催されたポンペイ展の薄い図録を古本屋のワゴンで買って電車の中で読み飛ばしたことがある。ヴェスヴィオ山の噴火は八月という解説が記憶に残っていて「暑い夏に噴火なんて難儀なこっちゃ」と思った。ところがこの日付け、どうやら正確ではなかったのである。
よく知られているようにヴェスヴィオ山噴火の日付けは帝政ローマの政治家、小プリニウスの歴史家タキトゥス宛の二通の書簡に基づいている。小プリニウスは父の死後、叔父でかの有名な博物学者・大プリニウス(百科全書『博物誌』全三十七巻を著した)に育てられた。大プリニウスは軍人でもあり、ヴェスヴィオ山噴火の際にミセヌムでローマ西部艦隊司令長官の職に就いていた。湾岸にいた知り合いのレクティナ夫人から陸路では避難できないという救援要請の手紙が届き、大プリニウスはガレー船で出航した。湾に近づこうとしたが噴煙と火山礫で果たせず、大プリニウスはスタビアに上陸した。地図では二十キロ以上離れているが、大プリニウスはそこで火山性の有毒ガスを吸って亡くなってしまった。小プリニウスの手紙には「彼の遺体は、完全で傷もなく、着用の衣服をつけたままで発見されました。その状態は、死んだ人というよりも眠っている人のようでした」(青柳正規訳)とある。小プリニウスは大プリニウスからいっしょに救援に行くか?と誘われたが、大プリニウスに課せられた宿題があるからと断って難を逃れた。
小プリニウスの手紙は原本は失われ写本で伝わっている。最古の写本はメディチ家蔵だったと思うが、それによるとヴェスヴィオ山大噴火の日付けは西暦七九年八月二十四日である。しかし別の写本では十月二十四日、十一月二十三日、十月十七日と様々である。以前からワインの仕込みが終わっている発掘品があることなどからこの日付けは疑問視されていたが、二〇一八年にポンペイで十月十七日の日付けのある落書きが見つかった。それにより噴火は十月十七日以降、小プリニウスの手紙の月だけが誤写だとすれば、十月二十四日の可能性が高まったのだった。専門家には常識なのだろうが展覧会に行くと新たな研究結果を知ることができますな。
いずれにせよ二十四日にヴェスヴィオ山が大噴火して火山灰と火山礫が降りそそぎ、翌二十五日には火砕流が発生して町は一瞬にして壊滅した。周辺のエルコラーノ、ボスコレアーレ、スタビアの町も甚大な被害を受け一部が火砕流の下に埋まった。驚くほど広範囲に火山灰が降り積もり火砕流が流れ込んだのだった。小プリニウスの手紙には激しい地震が起こって家が倒壊しそうなので、火山灰が降る中、外へ避難せざるを得なかったとある。津波も起こったようだ。最近トンガで海底火山が大爆発したが大火山の噴火は想像を絶する威力で恐ろしい。
女性犠牲者の石膏像
一軀 西暦七九年/型取り一八七五年 ポンペイ出土 石膏 長一五七×幅五二×高五〇センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
ポンペイで最も有名なのは火砕流で亡くなった人の石膏型だろう。このエリアの発掘の歴史は古くエルコラーノでは近世の一七三八年、ポンペイとスタビアでは一七四八年から四九年の間に発掘が始まっている。それらが最終的にナポリ国立考古学博物館に収蔵されることになった。
火砕流で壊滅したポンペイの発掘ではしばしば地中に空洞が見つかった。石膏を流し込んでから掘り出すと火砕流で亡くなった人の姿が現れたのである。「女性犠牲者の石膏像」はその初期のもので一八七五年の型取りである。髪型や衣服までわかるが遺体は火砕流の高温で消滅してしまった。しかし骨などが一部残った遺体もある。お母さんが我が子をかばって亡くなっている石膏型などもあり、まったくもってお気の毒なことである。ただ二千年以上前の惨事なのに、亡くなった人々の姿も含めてタイムカプセルのように当時の生活がそっくりそのまま残っているからポンペイ遺跡は貴重なのである。
僕が小学生くらいの頃は今より世界が広かったせいもあり、『世界怪奇物語』とか『世界の七不思議』といった子どもを怖がらせる本がたくさん出版されていた。エジプトのミイラやポンペイの石膏型遺体などは定番で、夜になると死者が歩き回るとかまことしやかな怪奇譚が書かれていた。もちろんそんなことがあろうはずもないが、古代と言っていい時代の発掘品なのに、生々しい人間の生活や生への執着などが手に取るようにわかるから怪奇譚を書きやすかったのだろう。
金のランプ
一個 ユリウス=クラディウス朝時代(六二~六四年) ポンペイ、ウェヌス神殿(Ⅷ 1、3出土) 金(打ち出しと彫り) 高一三・二×胴部高六・九×長二六・六五×胴部径一二・八五センチ 重さ八六九・九七g ナポリ国立考古学博物館蔵
エメラルドと真珠母貝のネックレス
一本 ポンペイ、ボッターロ地区、ヴァリアンテ農園出土 金(鋳造、圧延、フィリグリー)、真珠母貝、エメラルド 長三四・五センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
「金のランプ」と「エメラルドと真珠母貝のネックレス」は、ポンペイで出土のいわゆる〝金銀財宝〟の一部である。驚くべき精巧さである。この時代の装飾品加工技術は決して現代に劣らない。むしろほんの一部の特権階級の装飾品だったので、現代作よりも手がかかっている物も多い。
ピラミッドでもトロイ遺跡などでもそうだが、初期の発掘は金銀財宝目当ての盗掘が多かった。それがじょじょに権力者によって禁止され、戦後になると各国政府によって文化財指定され専門家以外の発掘が厳しく禁じられるようになった。ただ黄金に対する執着は凄まじかった。ヨーロッパ人として初めて中南米に到達したコロンブスも、パトロンのスペイン・イザベル女王宛に「もうすぐ黄金が見つかるはずです」という内容の手紙を何度も出している。古代遺跡発掘も大航海時代も黄金を求めてという側面があった。
そういった貴金属、それにギリシャ文明の名残を残すローマ彫刻などが初期に発掘されて王室の美術館に収蔵された。モザイクやフレスコ画などの壁画が珍重されるようになったのはだいぶ後である。貴重な絵画だが壁画を取り外すには高い技術が必要だった。たまたま剥がれ落ちたフレスコ壁画の断片を稀に古美術市場で見かけるが、戦前に盗掘で日本に運ばれた物である。ヴェスヴィオ系の発掘フレスコ画で汚れを落としていない物は灰が表面に残っている。戦後はほぼ盗掘品ということになり、盗掘ルートをたどることができれば日本の美術館に収蔵されていてもイタリア政府から返還要求を突きつけられることになる。
ポンペイの時代にはすでに貨幣経済が深く滲透していて皇帝の横顔が浮き彫りにされた金貨、銀貨が鋳造されていた。石膏で型取りされた遺体の傍から大量の金貨、銀貨が見つかることもある。急いで身の回りのお金や貴重品を持って避難しようとしていたわけだ。人間のやることは太古の昔から変わらない。
今さらの確認だが、ポンペイが埋まった西暦七九年はテイトゥス皇帝の御代である。暴君ネロの治政、もう少し遡ればカリグラ、ティベリウス、そしてローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの時代も遠い過去ではない。ギボン大先生の『ローマ帝国衰亡史』でも最も筆に力のこもった皇帝たちの時代である。
ポンペイのウェヌス神殿から発掘された「金のランプ」はネロ帝が六四年にカンパニア地方を訪問した際に神殿に奉納した品物の一つではないかと考えられている。ポンペイのあるカンパニア州では六二年にヴェスヴィオ山大噴火の前兆である火山性大地震が発生していた。ネロ帝の寄進はポンペイ復興を願ってのものだったようだ。「ネロって実在してたのねー」と遠い目になってしまいますな。
パン屋の店先
五〇~七九年 ポンペイ(Ⅶ、3,30)、タブリヌム(e)出土、西壁 フレスコ 縦六九×横六〇センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
炭化したパン
一個 ポンペイ出土 食品 直径二〇センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
「パン屋の店先」はその名の通りの画題である。ただしパン屋ではなく、高位公職者による庶民へのパンの施与の場面を描いているという説もあるそうだ。「炭化したパン」はその実物。こういった物が残っているからポンペイは面白い。噴火当時のポンペイでは三十四軒のパン屋が営業していたのだという。
ヴェスヴィオ山が大噴火した西暦七九年は日本では弥生時代で、プリミティブな土器を作ってほとんどの人は竪穴式住居で暮らしていた。海を隔てたお隣の中国は後漢時代で素晴らしい文化が華開いていたから、中国人がポンペイ展を見れば「なーにうちだって」と思うかもしれない。しかし日本人が見ると「やっぱローマ文明はすごいなー、それに比べてウチは・・・」と思ってしまうだろう。
実際帝政初期とはいえローマ文明のレベルは恐ろしく高い。精巧な貴金属や彫刻、絵画だけでなく土木技術も優れていて、下水道はなかったがポンペイには上水道が敷かれていた。商取引システムも完成していて銀行もあった。古代社会で広く使われていた蠟を塗った板に尖筆で取引内容を書いた帳簿類も発掘されている。貸家業の広告文字も出土している。食べ物も豊富で現代社会とあまり変わらない面も多い。そういった点ではポンペイ展は出品物を見るだけでじゅうぶん楽しめる。「すごーい」と唸ってしまうような物だらけなのだ。ただ今から二千年前の社会である。現代とは異なる面も当然多い。
プリセイスの引き渡し
一面 五〇~七九年 ポンペイ、「悲劇詩人の家」(Ⅵ 8,3.5)、アトリウム(3)出土、東壁、南の区画 フレスコ 縦一六〇×横一三九・九センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
今回の展覧会の目玉の一つは、ポンペイでも有数の豪華さを誇る「ファウヌスの家」「竪琴奏者の家」「悲劇詩人の家」の出土物がまとめて展示されたことである。ファウヌスの家はポンペイ最大の邸宅で「踊るファウヌス(ギリシャ神話のサテュロス)」のブロンズ像が発掘されたことからその名が付いた。竪琴奏者の家もポンペイ有数の広い家で有力者ポピディウス家所有だったことがわかっている。「竪琴を弾くアポロ」のブロンズ像が発見されたことからその名がある。敷地面積から言うと悲劇詩人の家が一番狭い。ただ悲劇詩人の家の壁面にはギリシャ神話やトロイア戦争を題材とした大きなフレスコ画が八点も描かれている。仮面劇の準備をしている場面のモザイク画もあることから芸能や神事に関係した人物の家だったのかもしれない。
「プリセイスの引き渡し」は悲劇詩人の家の壁画の一枚で、アキレウスの元から連れ去られるプリセイスを描いたフレスコ画である。言うまでもなくトロイア戦争総大将アガメムノンと英雄アキレウスの反目となった事件である。トロイア戦争の褒美にアガメムノンは美女プリセイスをアキレウスに与えたが、再び彼女を奪って自分のものにしてしまった。怒ったアキレウスは船に閉じ籠もりトロイア軍との戦いが膠着状態に陥った。
ポンペイ埋没の七九年にはユダヤ教はもちろんのことキリスト教も成立していた。が、ネロ帝のキリスト教迫害もあったようにローマ帝国はキリスト教を国教にしていなかった。ファウヌスの家、竪琴奏者の家、悲劇詩人の家からはたくさんのブロンズ像や石像、フレスコ画などが出土しているが大半がギリシャ神話などに基づいたものである。ローマ人はギリシャ文明から受け継いだ理知的で合理主義的な思考方法を持っていたが、一方で濃厚な多神教世界を精神的バックグラウンドにしていた。
日本人は律儀なところがあって明治維新で西洋文明が大量流入すると、西洋は自分たちよりも圧倒的に進んでいるというコンプレックスもあって必死になってその文化を源流までたどって理解しようとした。僕は一九八〇年代に文学部の学生だったが欧米文学を理解するにはギリシャ神話は必読といった雰囲気があった。野上弥生子訳のブルフィンチ著『ギリシャ・ローマ神話』などがまだよく読まれていた。
ところが読めば読むほど混乱してくるところがある。ギリシャ・ローマ神話は多神教で一神教キリスト教世界とはぜんぜん違う。西側ヨーロッパ世界にとってギリシャはその文化的母胎だが東方異教世界なのだ。単純化して言えばポリフォニックな声とモノフォニックな声の違いである。杓子定規に言えば複数の神々の声がある(聞こえる)世界と唯一の神の声しかない世界の違いである。
怒りを歌え、女神よ、ペーレウスの子アキレウスの、
おぞましいその怒りこそ 数限りない苦しみを アカイア人らにかつは与え、
また多勢の 勇士らが雄々しい魂を 冥王が府へと
送り越しつ、その骸をば 犬どもや あらゆる驇鳥のたぐいの
餌食としたもの、その間にも ゼウスの神慮は 遂げられていった、
まったく最初に争いはじめて 武夫らの君アガメムノーンと
勇ましいアキレウスとが 仲たがいしてこのかた。
さればこの両人を 闘争へと抗いあわせたのは何のおん神か。
『イーリアス』「第一書」ホメーロス著 呉茂一訳
ギリシャ文学を代表するのはなんと言ってもホメーロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』である。ただこの二作、だいぶ質が違う。『イーリアス』はトロイア戦争を題材にした作品だが、英雄アキレウスやアガメムノンなどの登場人物たちは神々の声を聞いてそれに従っている。オリュンポスの神々が人間たちの耳に言葉を囁き意のままに操っていると言ってもよい。それは『イーリアス』冒頭にハッキリ示されていて、「アガメムノーンと勇ましいアキレウス」「この両人を 闘争へと抗いあわせたのは何のおん神か」と書かれている。
これに対して『オデュッセイア』は人間の物語である。オデュッセウスは智者だがずる賢い人間である。神々の声より自分の意志で行動する。『イーリアス』も『オデュッセイア』もホメーロス作となっているが、『イーリアス』伝承の方が古いか、あるいは異なる系統の口誦として受け継がれて来た二つの物語をホメーロスが文字にまとめたということなのだろう。ポンペイの人々が好んで壁画に描いたのは『イーリアス』のトロイア戦争の場面だった。ローマ帝国初期のポンペイの人々は濃厚な多神教精神世界に住んでいて、神々の声が聞こえていた(もしくは聞こうとしていた)気配がある。それが多種多様なブロンズ像や壁画になって現れている。
もちろんオリュンポスの神々とキリスト教に共通点がないわけではない。オリュンポスの神々は人格神でかつ非常に人間臭い。迷い嫉妬し時に間違いを犯す。乱暴な言い方をすればそれが無謬かつ唯一の人格神に統合されたのがキリスト教だと言えないことはない。ただギリシャの古代的神々は西側一神教文化の底流に流れていてキリスト教文化が危機に瀕すると顔を覗かせる。近世の幕開けを告げるゲーテの『ファウスト』などがその代表だろう。二〇世紀に入って神の解体が始まると、再び混沌としているようで調和を保っていたギリシャ的精神世界が注目されるようになっている。
黒曜石の杯
一口 前一世紀 スタビア、「サン・マルコ荘」、冷浴室(フリギダリウム)(37)出土、黒曜石、サンゴ、ラピスラズリ、孔雀石、金(象嵌) 高一二・五×直径一八・三センチ ナポリ国立考古学博物館蔵
今回の出品作でちょっと驚いたのは「黒曜石」の杯である。ポンペイではなくスタビアの冷浴室(フリギダリウム)で発掘された。一塊の黒曜石から彫り出されていて陰刻した隙間にサンゴ、ラピスラズリ、孔雀石、金などが嵌め込まれている。模様は誰がどう見てもエジプト人である。制作時代も前一世紀と古い。
この杯はアレクサンドリアで作られたようだが、単なるローマ人のエキゾティシズム好みなのかエジプトプ文化が流入していたのかはわからない。しかしポンペイの壁画にはナイル川の風景を描いたモザイク画などもある。初期ローマ帝国にはギリシャ文化だけでなくエジプト文化も流入していたと考えた方がよさそうだ。文化の交流点というか坩堝になった時代は面白い。タイムカプセルのようなポンペイ展を見ていると史上空前の大帝国、ローマ帝国の文化的奥行きの深さが見えてくる。
鶴山裕司
(2022 / 02 / 16 18枚)
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