『興福寺中金堂再建記念特別展 運慶』展
於・東京国立博物館
会期=2017/09/26~11/26
入館料=1600円(一般)
カタログ=3000円
運慶展という、滅多に見られない展覧会だった。さすが東博様。現時点でほぼ確実な運慶作仏像は三十一体だそうだが、そのうち二十二体が展示された。これは驚異的な数字で、今後しばらくこの規模の運慶展は開かれないでしょうな。なおこの展覧会は『興福寺中金堂再建記念特別展』であり、奈良興福寺の中金堂――その名の通り寺の中心となる御堂だが焼失して幕末に仮堂が建てられたままだった――の完全再建を記念したものである。展覧会場にはお坊さんの姿も多かった。
ものすごく初歩的なことを言うと、仏像の素材は最初は石だった。インド、パキスタン、アフガニスタンなどに残る初期仏教遺跡の石仏である。中国に仏教が伝来するようになってから金銅仏(銅製で金で荘厳する)が増えてくる。石や銅で仏像を造るのは仏陀の教えの不朽を表すためだろう。日本では飛鳥時代に仏教が流入するが、法隆寺の仏様を始めとして飛鳥時代の仏像は金銅仏がほとんどである。奈良時代も金銅仏が多いが乾漆仏も造られた。漆を使うので手間も時間もかかる。その代わり優美な造形が可能だった。漆の暖かみのある質感が日本人の感性に合っていたのかもしれない。
ただ文化は上から下へと流れる。平安時代も中期を越えると庶民の間にまで仏教が普及し始めた。石や銅、漆で造っていたのではとても仏像の需要をまかなえないわけで、より加工しやすい木造仏が多くなる。平安後期になると仏師集団が歴史に現れ始めた。定朝がその嚆矢で寄木細工(複数の木材を組み合わせて仏像を造る)の大成者である。確実な定朝作は平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像のみとされるが、かなりの数の定朝様の仏が造られた。お顔や身体にあまり起伏がなく、衣の襞も流れるような曲線でスラリと優美なお姿である。定朝様が一世を風靡したのは造りやすい単純な造形にも理由があったろう。
この定朝を祖としていわゆる鎌倉仏師の集団が生まれた。定朝の直系(息子たち)は院派(仏師の名前に「院」がつく)と円派(「円」がつく)、それに奈良仏師の三つの流派に分かれた。この奈良仏師系の康助の弟子が運慶の父・康慶である。康慶の息子や弟子の多くは名前に「慶」がつくことから、運慶一門を慶派と呼ぶ。奈良仏師の主流は康助の後を継いだ康朝のはずだったが、慶派は定朝系一門を凌ぐ有力仏師集団になった。政治的に巧みであったというよりも、誰が見ても明らかに頭抜けて優れた仏師集団だったのである。
『大日如来坐像』 運慶作
一軀 木造、漆箔、玉眼 像高九八・八センチ 平安時代・安元二年(一一七六年) 奈良・円成寺蔵
円成寺『大日如来坐像』には台座裏側に運慶の墨書があり、それによると安永元年(一一七五年)十一月二十四日に造り始め、翌二年(七六年)十月に完成して注文主に引き渡したとある。代価も書かれていて上品八丈絹四十三疋である。和製の貨幣は造られてはいたが、平安時代にはまだ貨幣経済が一般化していなかった。貨幣は室町になってようやく流通するようになるが、和製ではなく中国から銅銭を輸入していた。
この仏像は運慶二十代の作で、奈良で父康慶の元で修行していた時代の物ではないかと考えられている。約一メートルの仏像を造るのに十一ヶ月もかかっているからである。試行錯誤を重ねたのだろう。運慶としてはおとなしい部類の作である。ただ作者が運慶だと知らなくても、パッと見ただけで尋常な仏ではない。仏像は無数と言っていいほどあるからどれもこれも同じように見えてしまうが、ある程度の数を見てゆくとやはり優劣はある。
そのあたりの機微を説明するのはなかなか難しい。もちろん学問的に細かな技法を検証してゆくことはできるが、要は精神性である。ほんの少し俯いたお顔、スラリと伸びた腕とキリッと結ばれた印相など、一ミリ二ミリの高い低いの配置、肉の厚い薄いによって生じる不調和を人間の眼は見抜いてしまう。この仏像はほぼ完璧だ。運慶作には高い精神性があるとしか言いようがない。
『毘沙門天立像』 運慶作
一軀 木造、彩色、玉眼 像高一四八・二センチ 鎌倉時代・文治二年(一一八六年) 静岡・願成就院蔵
同上半身
「うーん、こりゃスゲーや」と唸ってしまう作品である。静岡の願成就院に創建当初から伝わった。願成就院は鎌倉幕府初代執権・北条時政の氏寺である。時政は願成就院の仏像造営のために奈良興福寺で仕事をしていた運慶一門を呼び寄せたのだった。運慶にとっても東国での初めての仕事だった。
各仏像の性格(その定義)から言っても、御本尊になる釈迦如来や阿弥陀如来像などは、造形的にあまり工夫を凝らすことはできない。中尊の左右に置かれる脇侍の方が自由に造形できる。毘沙門天は多くの場合脇侍の一つだが、運慶作としてはこれでもまだおとなしい。ただ丸々とした顔、どっしりと肉厚の体躯など、平安仏にはほぼ見られない斬新な造形である。毘沙門天は武神だが闘志を漲らせた像ではなく、堂々と立ち邪気を払う門番のような威圧感である。恐らく時政の要望に応えた解釈だろう。戦いは終わったのだ。
和暦で治承、寿永と聞くと悲しくなってしまうことがある。『平家物語』の時代である。治承四年(一一八〇年)には平重衡による南都焼討があり、文治元年(一一八五年)に壇ノ浦で平家が滅びた。二十代から三十代の運慶は源平騒乱の世を生きたわけである。
網野善彦さんなどの研究で、鎌倉時代は完全に武者の世であったわけではなく、西(京都)と東(鎌倉)に二つの政府(権力)があったという考え方も出てきている。突拍子もない学説ではなく、当時京の力はまだまだ強かった。鎌倉開幕は平家が滅びた文治元年ということになるが、その翌年に運慶は北条氏の元に下った。伊豆は今でも山深い鄙である。運慶の人となりや行状はほとんど伝わっていないが、まだ若いとはいえ腕のいい仏師が伊豆に下るには、それなりの覚悟と期待があったのではなかろうか。
もうだいぶ前になるが、東博で興福寺阿修羅像展を見た後に、同時期に世田谷美術館で開催されていた平泉中尊寺仏像展を見た。単体で見れば違ったと思うが、興福寺の仏を見た後の眼には中尊寺の仏像は明らかな田舎仏に見えた。奥州藤原氏は黄金採掘で潤沢な資金を持っていたが、京都奈良から一流仏師を呼び寄せることはできなかったようだ。
もちろん中尊寺造営は運慶の時代から半世紀近く前で、鎌倉伊豆は東北よりずっと京に近い。しかし南都焼討などからの再興が進む奈良でたくさんの仕事があったわけだから、進んで東国に行こうという仏師は少なかったのではないか。腕が良ければなおさらである。仏像に表れる高い精神性から言って運慶が報酬で動いたとは考えにくい。実際仕事は単体で終わらず、願成就院の仕事を端緒に運慶は鎌倉の貴人と濃密な人間関係を築いている。新たな武家の気風に惹かれるものがあったのだろう。運慶の仏像は鎌倉の仕事を契機に変わっている。
『八大童子立像』 運慶作
六軀 木造、彩色、戴金、玉眼 像高[烏倶婆迦]九五・一[清浄比丘]九七・一[恵喜]九八・八[矜羯羅]九五・六[制多迦]一〇三[恵光]九六・六センチ 鎌倉時代・建久八年(一一九七年) 和歌山・金剛峯寺蔵
同上半身
四十代になった運慶が、弟子たちを率いて制作した最初の仏像群だと考えられている。元々は高野山一心院谷にあった不動堂に安置された、不動明王坐像の眷属だったようだ。現存は六軀のみ。一心院は行勝上人創建で、上人は源頼朝と懇意だったので、頼朝の意向で運慶が仏師となったという説がある。運慶は京都奈良だけでなく、鎌倉の貴人たちからも重用されていた。
不動明王はあの焔に包まれて、怒った怖い顔をした仏様である。平たく言うと、焔で煩悩を焼き尽くして衆生を導き救済するのである。その眷属なので八大童子も厳めしいお顔である。ただ頭の先からつま先まで隙がない。まあなんて写真写りのいい仏様だこと、と思われる方もいらっしゃるだろうが、運慶仏はどれもこれも写真写りがいい。絵は小品でも写真に撮ると大きく見える作品は傑作だが、運慶仏は大きな作品をクローズアップしてもアラがない。それどころか遠くからではわからない新たな魅力が見えて来る。
造られた当時の位置に八大童子を並べてみると、童子たちの視線が不動明王の前に座った者に集中して注がれるのだという。平安鎌倉の仏師たちは仏像を見る人々の視線を本当に細かく分析していて、例えば仏様の左右の目の位置をほんの数ミリ上下させて彫ったりする。完全に左右の目の位置が同じ人間は少ない。わずかに違っていた方がリアリティが増すのだ。そういった視線の計算でも運慶は頭抜けている。魂が入っているような仏像を造る。
『運慶願経(法華経巻第八)』
一巻 紙本墨書 縦二六・八 全長八六三・六センチ 平安時代 寿永二年(一一八三年)
有名な運慶発願の法華経である。奥書は運慶自筆で願経制作の経緯を書いている。僧侶二人が書写したが、一行書くごとに結縁する人(願経制作を通じて仏により深く帰依する人を指し、運慶門の仏師の多くが名前を連ねている)は三度礼拝して念仏を唱えた。墨を刷る水は比叡山、園城寺、清水寺の霊水を使い、経の軸木には焼け残った東大寺の柱を用いたとある。完成するまでに相当な時間がかかっている。ここまで徹底して清浄な願経を作った例はほかにないようだ。仏師は当然仏教に帰依していた。しかし『願経』から運慶が度外れて信心深い仏師だったことがわかる。
『大日如来坐像』
一軀 木造、漆箔、玉眼 像高六一・六センチ 鎌倉時代 十二~十三世紀 東京・真如苑蔵
同X線写真
今回の展覧会の目玉展示物の一つが真如苑『大日如来坐像』だった。クリスティーズで十四億円強で落札されたことで有名になった。風の噂によると旧蔵者は初め文化庁に購入を働きかけたが、提示価格があまりにも安いのでクリスティーズに出品したのだとか。真偽はわからないが、海外のオークションハウスで売った方が高い値段が付くのは間違いない。日本国内の値段は億には届くが一桁前半だろう。真如苑所蔵になってから重文指定された。お国の許可なく売買しちゃダメよ、ましてや海外流出は勘弁してね、ということですな。今のところ運慶作とは断定されていないが、運慶自身かその指導によって作られた仏像だろう。運慶作と確定すれば国宝に格上げされるかもしれない。
真如苑『大日如来坐像』はX線写真や内視鏡による調査が行われている。それによって内部に五輪塔形の木札、蓮華と茎がついた水晶珠、袋入の紐束が納入されていることがわかった。また内視鏡で見ると像内に金箔が貼られている。それ以上の解体調査は行われていない。仏像は生きた信仰の中にあり学術調査の名の元に無闇なことはできないのだ。ただ仏様の中に仏の世界(仏の本体とでも言うべきか)があるような構造である。
木造の仏像は木割れなどを防ぐために内部が抉られている。その空洞に施主や制作者の名前を書いた木札や経典、仏舎利(仏様の遺骨を収める容器で、骨に擬した水晶珠が入っている)を納入することは、平安時代後期から盛んに行われるようになった。ただ室町に入ると下火になる。納入物があっても簡素なものだ。選りすぐりの納入物を入れるのは、平安から鎌倉時代までの特徴だと言っていい。
確実に運慶の手になる仏像納入物は他にも知られているが、相当に計算され尽くされたものである。敬虔を遙かに通り超した熱心な仏教徒として、運慶は仏像の外面だけでなく内面をも考えていた。それは彼自身の内面表現でもあっただろう。源平騒乱を生きた人ではあるが、現実の悲惨に反比例するように運慶の中では荘厳な仏の世界が広がっていたのかもしれない。なおこの仏様は栃木あたりから出たらしい。そうだとすると、やはり北条氏ゆかりの品だろう。驚くべき保存状態の良さから言っても鄙のお寺で制作当時から長く伝承されてきたのだろう。
後白河法皇を始めとする京の貴人たちは板東武者の粗暴を嫌った。平氏は驕慢だったが都の貴族武士だった。平氏が滅びて初めて京の人々は、自分たちの文化的価値観をものともしない板東武者という異文化に直面することになったのである。それは後鳥羽上皇に引き継がれ、国家的文化事業である『新古今和歌集』であからさまに板東武者を冷遇して京の文化水準の高さを誇示した。ある意味承久の乱は起こるべくして起こった。
しかし運慶は早々と鎌倉の貴人たちと友誼を結び、その求めに応じて斬新な仏像を造った。彼が希求する仏の世界と新たな鎌倉武士の精神世界が、どこかで重なっていたのではなかろうか。定家最大の愛弟子は源実朝である。新たな鎌倉文化は京と板東武者との交流から起こった。運慶の仏像が鎌倉彫刻を代表しているということは、そこに鎌倉時代の精神が凝縮されているということである。
鶴山裕司
(2018/03/08)
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