寅間心閑(とらま しんかん)さんの連載小説『助平(すけべい)ども』『三十三、ありがとう』をアップしましたぁ。店長の奥さん、それに謎めいた学校の先生、五十嵐さんが新たに登場しました。この物語、どこに着地するんでしょうね。石川にも謎で興味津々です。ただまだまだ波乱が起こりまくるのは確実だと思います(笑)。
久しぶりに書きますが、小説には彼や彼女、あるいは一郎や花子などの三人称を主人公にした小説形態があります。たいていは主人公は一人なので、これを三人称一視点小説と呼びます。これ以外の小説の書き方でメジャーなのは私を主人公にした小説で、多くの場合は私小説と呼ばれます。ただこの二つの分類は絶対ではありません。構造的に三人称一視点になっているのか、私小説になっているのかで最終的に分類可能になります。
三人称一視点小説の場合、主人公はいてもその存在格は他の主要登場人物と基本的には等価です。作家が作品世界より上位の審級にいて、主人公を中心に登場人物たちから構成される世界を動かして、構造的に一つの物語的結末に導くわけです。
これに対して私小説は、基本的には作家とイコールの小説です。もちろんリアルに作家とイコールという意味ではありませんが、読者が作家とイコールだと感じなければ私小説としては失格です。また私が主人公なので、作品は私の内面独白が中心になります。私の自我意識が肥大化して他者を呑み込んでゆくわけですが、他者は私の自我意識に呑み込まれ尽くされたりはしません。特権的でもあり不遜とも言える私の自我意識が他者によって手痛いしっぺ返しを食らうのが私小説のあり方です。簡単に言えばハピーエンドで終わる私小説はまがい物です。これはやってみればわかります。私小説でハピーエンドはたいていは嘘を書いている。プロの作家でもそれは同じです。また嘘の結末の私小説を書いてしまうと、その後、間違いなく小説を書き悩むことになる。私が見たくない地獄を見てしまうのが私小説です。
寅間さんの『助平ども』は俺が主人公ですから、杓子定規に言えば私小説です。ただ構造的には三人称一視点小説にとても近い。俺の自我意識が作品内で極端に肥大化しておらず、主要登場人物たちの存在感が大きいからです。つまり俺という主人公は、作品を上の方から見て全登場人物を操っている、作家にとっての駒の一つということです。
ただなぜ俺が主人公になっているのかと言えば、最終的には俺の内面変化が物語的帰結になる(可能性を残している)からでしょうね。いわば三人称一視点と私小説のハイブリッドの可能性を残して作品が構想されているわけです。これはけっこう高度な小説の書き方です。私小説的な書き方の可能性を残しているという意味で、地獄はこれからかもしれません(笑)。
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『三十三、ありがとう』縦書版 ■
■ 寅間心閑 連載小説『助平(すけべい)ども』『三十三、ありがとう』横書版 ■
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