世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十三、ありがとう
トイレで用を足していると電話が鳴った。俺のスマホではなく、店の電話の方。特に焦らなかったのは、今日はもうやる気がなかったから、ではない。これでもう四度目だからだ。
店長がスッキリした顔で店を出て行ってから二時間弱。その間三十分おきに店の電話が鳴っている。一本目は店長の奥さんで、二、三本目は無言電話だった。そう、焦ることはない。俺はゆっくりと手を洗う。留守電に切り替わるタイミングでトイレを出ると、電話は切れていた。
もうかかってこないかな、と予想したのは、今のも、そして二度の無言電話もきっと店長の奥さんだから。滅多に使わない電話が三十分間隔で鳴るなら、かけているのは間違いなく同一人物だ。普通の神経ならもうかけないだろう。
何人か客は入ってきたが、いまだ売上はゼロ。こういう時でもネットの方には注文が来ているのだろうか。詳しくは知らないのでただの勘だが、きっとそうではないはずだ。あんな地味なサイトで服を買いたくなるもんか。
暇なのは珍しくないけれど、それにしても床がピカピカだ。本当、腹が立つ。汚れた靴で歩き回ってやろうかな。最近、下北には古着屋が増えているらしい。決まった店にしか行かないので、ちっとも気がつかなかった。一時期減ってたよね? と尋ねたことは覚えているのに、肝心の場所と相手が思い出せない。どこだっけ、誰だっけと考えていると来客……ではなく、顔馴染みのマッチョで頭の薄い宅配屋が入って来た。こんにちは、という明るい声が客のいない店内に響く。
「あ、ご苦労様です」
「今日はひとつだけですね。あ、こちらお宛名がお店ではないんですが……」
「あ、店長宛てですね」
「では、こちらのお名前でサインをお願いします」
受け取った箱はそんなに大きくない。厚さ十センチほどのA4サイズ。重さはペットボトルより少し重いくらい。プライバシー配送、という記載が想像力を刺激する。あの人、自宅に送られたらヤバいモノを注文したのかな。
バックヤードに入り、机の上に箱を置く。さすがに開けて中を確認したりはしないが、浮かんだモノがエロDVDやアダルトグッズ、怪しげな精力増強剤……とそっち系なのは、この部屋にうっすら漂う残り香のせいだ。もしかしたらそんな匂いはなく、俺の記憶が鼻を刺激しているのかもしれないが。
ほんの数時間前に、そのドアの蝶番の隙間から覗き見た安藤さんの横顔――口一杯に店長のを頬張った苦しげな表情や、「トウコさあああん」と叫びながら足の指を舐められている姿が、脳のどこかで再現されている。そこに重なるのは、同じようにトウコさんの名前を叫びながら俺に挿し込まれているあの夜の綺麗な顔。乱暴に頭を振って、脳内の映像をオフにする。今、俺は最高に物欲しそうな顔をしているはずだ。
バックヤードから戻っても客の姿はない。椅子に腰掛けて考えるのは、ファミレスに残してきた二人のこと。俺はまだ物欲しそうな顔のままだ。気分転換にコンビニ覗いてこようかな、と財布に手をかけたタイミングで電話が鳴る。本日五回目。もうかけてこないだろう、と予想はしたがハズレ。こうしてかけてきたなら、きっと同一人物に違いない。
「はい、もしもし、『フォー・シーズン』……」
「もしもし、今、そこに店長さん、いないんでしょ?」
「はい?」
「いいのよ、私、知ってんだから」
間違いない。店長の奥さんだ。こう開き直られると更に面倒くさい。
「あなた、バイトの子でしょ?」
子、という歳でもないが一応「はい」と答える。今、真実は必要ない。
「ねえねえ、今忙しい?」
「いや、あまり……」
その落ち着いた口調に気圧された訳ではない。もし目が回るほど忙しくても同じように答えたと思う。これだって仕事じゃないかと考えたら気が軽くなっただけだ。実際、今だって時給は発生している。
「私が誰かは分かってる?」
「まあ、何となくは、はい……」
「本当に? じゃあ言ってみてくれる?」
酔っ払ってるのかな、と思いながら「店長の奥様ですよね?」とやや遠慮気味に答える。少しの間があって「ピンポーン」と甲高い声が聞こえた。正体が判明した瞬間から、この電話の意味は変わる。顔こそ見えないままだが、お互いの立場はきっちり晒されてしまった。もう適当なことは言えない。少なくともシラフで勤務中の俺の方は。
「実はね、さっき何度か電話したの、私。ごめんね。びっくりしたでしょ?」
「いえ……大丈夫です」
「本当に? もしかしたら私だって分かった?」
「いや、それは分からなかったですけど」
嘘をつくのも仕事のうちだ。これも接客業、やってやれないことはない。
「あのさ、店長ってどんな人?」
「はい、えっと、よくしてもらっています」
「本当に? いいのよ、本当のこと言って」
「本当です、はい」
微かに演じるのも仕事のうちだ。きっと彼女は俺のことをずいぶん年下だと思っている。ドアを開けて客が入ってきた。俺と同世代らしいポニーテールの女性がひとり。受話器を持ちながら軽く会釈をする。もちろん、これも仕事のうち。耳元で液体を飲み下すコクンという音が聞こえた。
「まあ、あの人は外面いいしね。元々小心者なのよ」
またコクンという音がする。やはり酔っているのかもしれない。はあ、と小さく返すと「そう思うでしょ?」と重ねてきた。心なしか、声もだらしなくなっている。
「まあさあ、バイト君にこんなこと言っても仕方ないんだけどさあ、色々あんのよ、夫婦って」
遂に「バイト君」呼ばわりだ。これでもう、店長より一歳年上だとカミングアウトすることはなくなった。経緯はどうあれ、お客様に恥をかかせてはならない。
それから十数分、コクンコクンと酒を呑みながら、俺でも知っているような結婚生活の大変さを彼女は語り続けた。退屈な話だが仕方ない。大切なのはその内容ではなく、コクンコクンの方だ。このお客様は、シラフでは吐き出せないことを腹の底に抱えている。気付けばポニーテールのお客様は何も買わずに出て行った。
「うちも色々あるんだけどさ、そもそもあの人ってお婿さんなのよ、婿養子」
へえ、と密かに驚いていると「婿養子って意味、分かってる?」と気を遣われた。まさか学生のバイトだと思ってるんじゃないだろうな。
そのままコクンコクンと呑み続け、声を更にだらしなく崩しながら、四歳の娘・すみれちゃんの話を始めようとしたところで、また店のドアが開く。立っていたのは初老の男性。しかも堅苦しいスーツ姿。一目でこの店の客らしくないことは分かる。店長の知り合いかな、それとも飛び込み営業かな。その人は小さな会釈を何度かしながら、レジで座っている俺目がけてゆっくりと歩いてきた。思わず椅子から立ち上がる。少し怖い。
「すいません、お客さんなんで」と電話の向こうに告げ、返事を聞かずに受話器を置いた。
「仕事中に突然、申し訳ございません。私、イガラシと申します。五十の嵐、で五十嵐です」
男性は近くで見ると意外に背が高く、髪の毛の分け目の辺りが頼りなかった。ファミレスの客、さっきの宅配屋に続いてこれで三人目。今日は髪の毛の薄いヤツに縁がある。まあ、お客様ではなさそうだ。
「いらっしゃいませ。御用件の方は……」
「実は私、小学校の教員をしておりまして……」
五十嵐先生は名刺を持っていないことを丁寧に詫びた後、勤務する学校の名前を告げた。店から歩いて十分ほどのところにある小学校だ。
「はあ……」頑張ったがこれ以上言うことがない。
「それでですね、今日はお願いごとがありまして」
「?」
小学校の教師がこんな古着屋に何のお願いだろうか。ちょっと予想がつかない。以前、店の前に自転車を放置していた小学生男子数名に注意をしたことはあるが、まさかそれに対する抗議ではないだろう。そういえば昔、「教師ほど世間知らずな連中はいない」と安太に言われたことがある。ずっとガキに囲まれているから成長しない、という理屈だったはずだ。
「私は今、四年生を受け持っているんですが、今度色々な仕事をしている人たちの話を聞く、という授業があるんです」
「色々な仕事?」
「はい。毎年うちの学校の四年生に経験させている授業なんですが、たとえば警察官とか駅員さんとか……」
「ああ、なるほど」
俺も小学校の時に同じようなことをした記憶がある。何人かで班を作って、近所の魚屋のおじさんに色々な話を聞き、役割を決めてみんなの前で発表をしたはずだ。その話をすると五十嵐先生は「そうそう、それですそれです」と嬉しそうに頷いた。
「毎年、街の方々にはお世話になっておりまして、子どもたちも本当に喜んでいるんです。で、今日お願いにあがったのは、もしよろしければ『フォー・シーズン』さんにも御協力頂けないかと思いまして……」
聞けば生徒たちの間から、うちの店の話を聞いてみたいという意見が出たという。普段、子どもの客なんてほとんど来ないので不思議な感じがするが、そう言われて悪い気はしない。いや、俺が店長だったらこの場で快諾しているだろう。
「今日はもう帰ってしまったんですが、店長には伝えておきますんで」
「本当ですか。ありがとうございます」
五十嵐先生は深々と頭を下げた。教師からこんなに感謝されるのは初めてだ。二、三日したら連絡をくれるように頼むと、再び「ありがとうございます」と頭を下げ、何度も振り返りながら店を出て行った。
忘れないうちに、と今聞いた話をメモに書きつけてはみたが、どこか落ち着かない。出来るだけ早く店長に知らせておきたいし、きっと出るはずのOKを五十嵐先生にいち早く伝えたい。理由は自分でも分からないが、俺はこの話に前向きだ。やはり店長には電話で伝えておこうかな、いや、でも帰った後にするのもな、と迷っていると電話が鳴った。もしかしてと驚いたが、こんな時だけ以心伝心するはずはなく、相手は彼の奥さんだった。
「もしもし、私。もう大丈夫?」
「あ、はい。先ほどはすみませんでした」
「いいのよ、お客様は神様なんだから」
すみません、ともう一度謝りつつ気になったのは、彼女の声のことだ。徐々にだらしなく崩れていったあの感じと、今聞こえている声は確実に違う。更に距離が近いというか、遠慮がないというか、とにかく堂々としている。こんな風に電話をするのが当たり前、という感じだ。
「でね、さっきの話でなんとなく分かっちゃったかもしれないけど、今、旦那とギスギスしちゃってんだよね。バイト君はそういう話とか聞いてる?」
そのギスギスの原因を少し前にバックヤードで目撃したばかりだが、優しいバイト君は「いや、全然」とだけ答える。
「そっかあ。まあ、そりゃそうだよねえ」
溜息を吐き、彼女はコクンコクン、コクンコクン、コクンコクン、と大量に飲み下した。さすがに少し心配だ。
「ねえ」
「はい」
「もう一人、バイトの子、いるんでしょ?」
そうか、この質問が彼女にとっての核心なのか。だからあれだけのコクンコクンが必要だったんだろう。俺は「はい」となるべく軽い感じで答える。
「女の子、よね?」
「はい」
「どんな子?」
彼女がどこまで知っているかは分からないが、バイト君は何も知らなくてもおかしくない。だから「仕事を覚えるのが早いです」と鈍い答えを返す。
「可愛い?」
「え?」
「バイト君がどう思うかでいいのよ」
「その子、可愛い? 綺麗? 魅力的?」
あえて何も答えず、「うーん」と悩んでいる振りをする。バイト先の店長の奥さんから、そんなことを訊かれた場合、これがごく普通の反応だ。
「もしかしてさ、その子と付き合ってたりする? 付き合ってなくても好きだったりする?」
「いや、そんなことは……」
「そうなんだ。そっか」またコクンコクン、そして「で、その子可愛いの?」
「……はい」
今度はまた長めのコクンコクン。明らかに呑み過ぎだ。ただ、今以上に声が崩れる感じはない。コクンコクンの正体が、水やウーロン茶の可能性もあるのだろうか。
「やっぱり若い女の方がいいの? バイト君はどう?」
その子と旦那の仲を疑っている、とは言いたくないのかもしれないし、案外本当によく知らないのかもしれない。純粋な好奇心から尋ねてみた。
「何かあったんですか?」
「そうよ」声が強い。「あったのよ」
「何があったんですか?」
「……グイグイ来るわねえ」
「すいません。でも……」
「私、三十五なんだけど、どう思う?」
予想に反して彼女は店長より、そして俺よりも年上だった。「どう思う?」という質問の模範解答はなかなか見つからない。
「ねえ、答えてよ。三十五の女の人はどう?」
ふと「店長の奥さん、すごく胸が大きいらしいですよ」という安藤さんの言葉を思い出したのは、その声のせいかもしれない。わざとかもしれないが、さっきよりも相当柔らかくなっている。
「お酒、呑んでるんですか?」
「うん、呑んでる。あのね、バランスが崩れる瞬間ってあるのよ。分かる?」
「バランス、ですか」
「そうそう。今が崩れてる状態なんだけどね。呑めば呑むほど酔っ払うっていうのが、普通でしょ? でもさ、バランスを崩しちゃうとおかしくなるのよ。呑んでも呑んでも酔っ払ってくれない、みたいな」
それ分かります、と答えたのは本心だ。バイト君ではなく、来年三十歳になる俺本人の見解だから、ちょっと照れ臭い。
「本当に? 分かってくれる? ありがとう」
今日は忙しい日だ。ハゲとよく会うだけではない。さっき生まれて初めて教師から感謝されたばかりなのに、今度は巨乳の人妻に礼を言われている。
「ねえ、ちょっと眠くなってきちゃった。あのさ、また電話してもいい?」
時給が発生する限り、職種にはこだわらない。大丈夫ですよ、と言うと彼女はまた「ありがとう」と柔らかい声を出した。
(第33回 了)
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