金魚屋から『夏目漱石論―現代文学の創出(日本近代文学の言語像Ⅱ)』を好評発売中の、鶴山裕司さんの『美術展時評』『No.107『永田耕衣展』』『No.108『出雲と大和展』』をアップしましたぁ。鶴山さんは自在に書けるようになっていますな。美術批評『永田耕衣展』といふより永田耕衣論は、身辺雑記からスッと文学的な高みに文章が舞い上がってゆく。文学の〝芸〟の面がこなれてきたんですな。
文学は〝学〟であると同時に〝芸〟です。どんなに学=知識として重要なことが書かれていても、読んでもらえなければしょうがない。学者なら学に終始していいのですが文学者はそうはいかない。なんとかして読者を惹きつけ読ませなければなりません。どうすれば読者に読んでもらえるのかを意識的に考え始めると、だんだん芸が上達してゆきます。
読ませる芸の基本は〝楽しさ〟です。楽しそうでなければ人は寄ってこない。もち楽しさも様々で、怖いとかイヤだなーという嫌悪感も楽しさに含まれます。そこへ読者を惹きつけ読ませるには、自己と世界を客観的に捉えるのが第一歩です。怖いとかイヤだ(嫌悪)が生じる仕組みを客観的に把握した上で、ドキドキさせながら読者を導いてゆくわけです。事実であってもナマモノの恐怖や嫌悪は露骨すぎて多くの人の心を惹き付けられません。
では芸の上達方法ですが、近道は自己と世界の客観化を前提に数を書くことですね。うんうん唸って一年に数十枚書いているようでは芸は上達しない。書く枚数が少ないということは、ほぼ必然的にそこに全てを詰め込もうとする無理につながるからです。詰め込みすぎの文章は自己と世界を客観視できていないことの表れです。大胆に世界を切り捨てていかないと文章の余韻は生まれない。余裕が感じられる文章というのは、余白に贅沢な切り捨てが感じられる文章といふことでもあります。
もちろん書きたいことのストックがなければ一つの原稿で「今回はここまで」という切り捨て、つまり文章の余韻は生まれない。常に書きたい内容をストックしておくことも大事です。後は慣れということになります。最初はどうしても詰め込みすぎの文章になりがちなので、ここで初めて継続的に書き、発表できる場所を確保する必要性が出てくる。内容のストックと、継続的に書き、発表すことが読ませる芸を磨くことに繋がるわけです。この修練を積んでゆけば創作でも批評でも文学の芸の側面は上達してゆきます。
ただどんな場合でも、一番ダメなのは「僕が、わたしが」が常に目立ってしまう文章です。短くてもいつも「わたしは」で始まる文章を書く人っていますよね。そういう文章は鼻につきます。文章は自己表現ですから、んなことわかりきっている。自己と世界を客観視できていれば、「僕はわたしはこう思う、僕はわたしはこんなことした」という過度の自己主張は必然的に少なくなってゆくものです。
■ 鶴山裕司『美術展時評』『No.107『永田耕衣展』』 ■
■ 鶴山裕司『美術展時評』『No.108『出雲と大和展』』 ■
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