No.108『日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和』
於・東京国立博物館
会期=2020/01/16~03/08
入館料=1600円(一般)
カタログ=2500円
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが「神々の首都」と呼んだように、出雲は日本古代史の謎がてんこ盛りに詰まった土地だ。ただその実態はよくわからない。次々に新たな考古学的新発見が為されているのだが、点と点を結んではっきりとしたラインを引けるところまではいかない。歴史時代のヤマト王権の記録では出雲の役割はかなりわかっているのだが、時代を下ってその起源を探ると分厚い闇に閉ざされてしまう。まあ古代ロマンではあります。
『日本書紀 巻二』
一巻 紙本墨書 縦三一・六×全長一四〇・六センチ 南北朝時代 永和元年~三年(一三七五~七七年) 愛知・熱田神宮蔵
今回の展覧会は『日本書紀成立1300年』記念でもあるので、会場を入ってすぐのところに『日本書紀』の写本が展示されていた。『日本書紀』は天武天皇の命で編纂が始まり、養老四年(七二〇年)に舎人親王によって元正天皇に奏上された。少し前に成立した『古事記』と併せて朝廷が編纂した日本初の歴史書として名高い。
『古事記』は序と上中下巻から構成され、日本の建国神話から始まって第一代神武天皇から第三十三代推古天皇までの事跡を編年体で記している。歴史時代に入っても神話や伝承が入り交じっており、歌謡なども収録されている文学的要素の強い史書である。『日本書紀』は全二十巻。第一、二巻は神代で第三巻以降は神武天皇から第四十一代持統天皇までの事跡を記す。『古事記』に比べ神話や伝承が少なく客観的記述が多いのが特徴である。
『記紀』いずれにも重要な建国神話として出雲の「国譲り神話」が登場する。出雲の大国主神は天孫(天皇家)に葦原中国(日本国)の支配権を譲るのを承諾する代わりに、ヤマト王権から出雲の高い神殿(出雲大社)に祭ってもらうことになった。図録には『日本書紀』よりも格調高い『古事記』の国譲り神話の箇所が掲載されていたのでダイジェストで引用しておきます。
此の葦原中国は命の随に既に献らむ。唯、僕が住所をば(中略)とだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱太りし、高天原に氷木高しりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍らむ。亦、僕が子等、百八十子神は(中略)神の御尾前として仕へ奉らば、違神は非じ
ザッと現代語訳すると、「この葦原中国(近畿中心の日本国)はおおせの通り天皇家に差し上げましょう。ただわたしの住まいは大きな石の上に太い柱を立て、高天原に千の木を組んだ高い場所してくだされば、わたしはくねくねとした道の先の場所(出雲)に隠れましょう。またわたしの子どもの多くの神々(百八十子神)は、先頭に立ちしんがりに立って天つ神にお仕えします。背く神はいないでしょう」である。大国主神は日本国を天皇家に譲る代わりに高い高い場所に祭ってくださいと言ったわけである。
大国主神がヤマト王権と葦原中国の支配権を争った首長だったのは確実だろう。敗れて(講和して)出雲に隠棲(遠島)になったわけだが、ヤマト王権が出雲を隠棲の地に定めたのか元々大国主神の本拠地が出雲だったのかはわからない。
ただ長い間『記紀』の大国主神国譲りは単なる神話だと考えられてきた。神話が現実そのままを記述していないのは言うまでもない。実際出雲大社は巨大だが棟高はそれほどでもなかったのである。しかし最近の考古学発掘調査でもしかするとある程度の史実が元になっている可能性が出てきた。
『宇豆柱』
島根県出雲市 出雲大社境内遺跡出土 鎌倉時代 宝治二年(一二四八年)
島根・出雲大社(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
『模型 出雲大社』
平成十一年(一九九九年) 島根・出雲市
つい最近の平成十二年(二〇〇〇年)に出雲大社境内の発掘調査で巨大な柱が出土した。三本の杉の大木を束ねて一つの柱にしている。大社は九本の柱で支えられていたことがわかっているが、三箇所で柱が見つかった。本殿中心の柱を心御柱と呼び前面中央の柱をと宇豆柱と呼ぶ。展覧会では両方の実物が出品されていた。鎌倉時代の宝治二年(一二四八年)遷宮の際の柱である。
この柱の出土を機に島根県立松江工業高等学校の生徒によって『模型 出雲大社』が作成された。高さ四八メートル、本殿につながる引橋の長さは約一〇九メートル(一町)である。いにしえの出雲大社が相当に高く巨大な本殿だったのは確実になった。
巨大柱の発見でわかったのは『記紀』の記述が意外と信憑性が高いかもしれないということである。松江工業高校の模型は平安時代の天禄元年(九七〇年)編纂の『口遊』にある「雲太・和二・京三」の記述を典拠としている。出雲大社、東大寺大仏殿、平安京大極殿の順に棟高が高いと記述されている。平安時代に四八メートルもの巨大社殿が建てられていれば、当時としては天(高天原)にも届くような高みと捉えられただろう。問題はそんな巨大社殿の存在をどこまで遡ることができるかである。また出雲にかなり力のある豪族がいなければ巨大な建築物は建てられなかっただろう。
『延喜式(九條家本) 巻八』
一巻 紙本墨書 縦二八・八×全長九七八センチ 平安時代 十一世紀 東京国立博物館蔵
『延喜式』は律令国家の施行細目を記載した法令集である。平安初期の延長五年(九二七年)完成で康保四年(九六七年)に施行された。第八巻は「祝詞」で「出雲国造神賀詞」が含まれている。出雲国造が新たに任命された際、あるいは天皇即位の際などに、出雲国造は潔斎した上で都に上り祝詞を奏上して神宝を献上する儀礼があった。その際の祝詞などが記載されている。
この出雲国造奏上儀礼は、言うまでもなく『記紀』記載の大国主神の国譲り神話と深く関係している。『日本書紀』には国譲りの際に大国主神が、天孫は「顕露之事」を治めるが自分は「幽事」を治めようと言ったとある。顕露之事が現世政治であるのは言うまでもない。幽事はまず神事を指す。出雲国造神賀詞は国家安寧と天皇の長寿を祈る祝詞だからである。ただそれと同時に死後の幽冥に関する様々な儀礼をも含むというのが一般的な解釈である。
では出雲国造奏上儀礼がいつ頃から行われていたのかというと、『続日本紀』記載の霊亀二年(七一六年)が最古の記録になる。『記紀』が成立した頃にはすでにあったわけだ。『記紀』がそれまで口誦だった伝承を文字に起こした史書なのだから当然である。
ただ戦後長らく考えられてきたように、出雲が都から遠く離れていて陰陽思想の方角からも都合がよかったので幽事を行う聖地に措定されたのではなく、実際に出雲に何らかの関係がある勢力によるヤマト王権への国譲りがあったとするなら、奏上儀礼はもっと古い時代にまで遡る可能性がある。形は違うだろうがヤマト王権成立直後から始まったのかもしれない。これについては藪の中と言わざるを得ないが、魅力的な傍証がたくさんあるから厄介だ。
『上塩冶築山古墳石室』
手前に大石棺、奥に小石棺がある(島根県出雲市上塩冶町)
『上塩冶築山古墳出土品 金銀装馬具』
一式 鉄地金銀張 [前輪覆輪]高三七センチ 古墳時代 六世紀 島根・出雲市蔵
上塩冶築山古墳は直径四六メートルの円墳で、奥行きが一四・六メートルもある横穴式石室を持っている。石室では山陰地方最長である。発掘されたのは明治二十年(一八八七年)だが未盗掘だったので、二一五点もの副葬品が発見された。金銀装馬具は古墳時代の副葬品によく見られるように新羅製の可能性がある。緊張を孕んだものだったが古墳時代から飛鳥時代は日本史上で日本と朝鮮が最も密に交流した時代だった。遣隋使が派遣された六〇七年以降、日本は中国に顔を向け始めるが、それまでは仏教(宗教であると同時に哲学・文学でもあった)を始めとする様々な文物が朝鮮半島からもたらされた。古墳時時代ほど朝鮮色の濃い時代はほかにない。
出雲の古墳独自の特徴に方墳や前方後方墳がある。弥生時代中・後期に出雲では四隅突出墓という台形の墳墓が盛んに造られたが、方墳はそれを受け継いでいるようだ。また古墳時代中期には仁徳天皇陵に代表される巨大な前方後円墳が造られ、ヤマト王権への帰順を示すように全国に普及していった。出雲でも前方後円墳が造られたが畿内での全盛期である古墳時代中期ではなく後期に集中している。出雲では方墳と前方後方墳の造営が盛んだった。土器も出雲独自の様式が知られている。
よく知られているように『記紀』には黄泉国(死後の世界)の記述がある。イザナギは死んだ妻イザナミを追って黄泉比良坂を越えて黄泉国に赴くわけだが、『古事記』には出雲の伊賦夜坂がそれだとある。しかし『日本書紀』にはイザナミが葬られたのは熊野であり、理性の書らしく注には黄泉国は実在しないと書かれている。
黄泉国があるかないかは別として、イザナギの墓が出雲にあるのか熊野なのかは証明しようがない。ただ上塩冶築山古墳に見られるような長い横穴は黄泉比良坂になぞらえることができるという説がある。畿内の古墳の多くは竪穴式石槨である。古代では暗く長い横穴は黄泉国そのものだったろう。出雲の長い横穴式の墳墓から黄泉国神話は生まれたのかもしれない。
もちろん大国主神の国譲りとその役割(幽事)が古墳時代には既に広く知られていたので、出雲では畿内とは違う様式の古墳が造られたのかもしれない。しかし出雲独自の古墳は、この地にヤマト王権とは異なる文化様式の共同体が存在していた可能性を示唆している。
『勾玉・管玉』
四一個 島根県松江市上野一号墳出土 石製、ガラス製 [勾玉]最長四・一センチ 古墳時代 四世紀 島根県教育委員会蔵
縄文時代から石製の玉は盛んに作られていた。現代ならちょっとした病気や怪我でも人が亡くなってしまう時代に、石の不朽性を神聖なものとする心性は世界中で見られる。ただそれが日本で神聖な玉=魂となり、王の権威を荘厳する玉となってゆくのは朝鮮半島経由で中国との交流が始まった弥生時代中期以降である。漢字文化圏ならではの貴石である。
出雲では弥生時代前期頃から玉が作られ始め、古墳時代末から飛鳥時代初期の六世紀中頃以降は、出雲が全国の玉作りを独占するようになった。それは九世紀の平安時代初期まで続いた。
図版の『勾玉・管玉』は松江の上野一号墳出土で古墳時代初期の作である。勾玉は右から瑪瑙、ガラス、翡翠製。縄文時代から大珠を含む玉は盛んに作られていたが初期は翡翠製が多く、新潟の糸魚川で採掘された石などが全国に流通していた。出雲で玉が作られるようになると碧玉や瑪瑙、水晶など様々な素材が使われるようになり、一気にその種類が増えた。大量の玉を作るには石の知識と研磨技術を持った工人が必要である。律令国家になると工人は玉造部に組織されるが、初期には先進技術を持つ朝鮮半島からの渡来民が多かったかもしれない。
出雲製の玉が全国区になったのは、律令時代の出雲国造奏上儀礼の際に祝詞と同時に玉を献上したからである。出雲の玉はいわばブランドだったのだ。もちろん幽事を司る出雲で作られたから人々は玉に強い霊力があると考えたわけだが、古墳時代に遡るくらいではその起源は見えて来ない。大国主神の国譲りが出雲の特権的地位のすべての始まりだと仮定すれば、さらにヤマト王権成立の頃まで時代を遡らなければならなくなる。これはもう古代ロマンそのものである。
日本人は飛鳥時代にならないと文字(漢字)を使いこなせなかったので、古墳時代はもちろん、それより古い弥生時代になると日本人の手になる文書記録は皆無である。頼りは朝鮮や中国の史書のわずかな記録だけになる。
古墳時代初期に朝鮮半島は高句麗、百済、新羅、任那に分裂していたが、高句麗好太王碑に三九九年に百済が倭(日本)と結んで新羅を侵攻し、新羅と高句麗の連合軍がこれを打ち破ったとある。とすると三九九年には原ヤマト王権は成立していたわけである。世界中どこでもそうだが新しい統一国家が誕生した当初の勢いは破竹である。また渡海して軍を送るには相当な技術と経済力が必要で、三九九年から五十年から百年遡った時期にはヤマト王権の基盤ができあがっていたはずだ。三九九年以前にさらに遡ると、中国の史書『魏志倭人伝』「東夷伝」邪馬台国の記述が手がかりになる。
今も邪馬台国九州説、畿内説には決着がついていないが、女王卑弥呼は二三九年に魏・呉・蜀の中国三国時代の魏に朝貢している。卑弥呼の後を継いだ壱与は二六六年に西晋に使節を送った。超大国で圧倒的先進国だった中国から日本国王の称号を得ようとしたのだった。邪馬台国は広大なエリアを傘下に収めた倭の大国だったろう。
邪馬台国が原ヤマト王権の母胎になったのか、原ヤマト王権が邪馬台国を帰順させたのかはわからないが、三世紀には統一国家が出来上がり始めていた。とするともし大国主神の国譲り神話の元になった史実があったとすれば、三世紀以前になる。
これもよく知られているが日本が中国の史書に初めて登場するのは『漢書』「地理志」である。五七年に倭の奴国王が後漢の光武帝に貢献し「漢倭奴国王印」を授けられた。江戸の天明年間に今の福岡県志賀島で発見された金印がその実物だとされる。弥生時代中・後期には朝鮮半島経由で中国王朝に接触できるほどの力を持った小国家が現れていた。出雲にもそんな小国家が存在した可能性はある。
『荒神谷遺跡出土品発掘状況』
島根県出雲市 荒神谷博物館HP
『荒神谷遺跡出土 銅剣』
全一六八本 青銅製 最長五五センチ 弥生時代 前二~前一世紀 国宝 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
『荒神谷遺跡出土 銅鐸』
全五個 青銅製 国宝 最大高二三・七センチ 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
今回の展覧会の目玉はなんといっても荒神谷遺跡と賀茂岩倉遺跡の出土品だった。東京では二十何年かぶりの一括展示になる。いずれも弥生時代中期頃の作である。
荒神谷遺跡は昭和五十九年(一九八四年)に発見され、まず銅剣三五八本が発掘された。翌年には七メートルほど離れた場所で銅鐸六個、銅矛一六本が見つかった。
『荒神谷遺跡出土品発掘状況』を見ればわかるように、銅剣は刃を上に立てた状態で整然と四列に並べて埋められていた。銅鐸と銅矛もそれぞれ固まって埋まっていた。なんらかの目的で一括埋納されたのである。その後の調査でもそれは証明されている。
銅剣はほぼサイズや重さが揃っているが、これは荒神谷に埋納するためにまとめて作られたためである。また三五八本の内三四四本の根元の突起部(茎という)に「×」印が鏨で彫られていた。これも一括埋納の意図を示している。
銅鐸と銅矛は各地で作られた物が集められていた。ただ銅鐸のサイズはほぼ同じでいずれも模様が摩耗して全体に丸みを帯びている。長期間実際に使用した(鳴らした)物が埋納されたのだった。また銅矛は最も格が高い青銅器祭器と考えられているが、銅鐸と銅矛が一緒に発掘されたのは荒神谷遺跡だけである。
荒神谷が非常に重要な聖地だったのは間違いない。また銅鐸は使用されていただけでなく最も古い型のものだった。弥生時代を通して銅鐸は貴重な祭器だったが特に初期は希少性が高かっただろう。
『模型 賀茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元』
一点 樹脂製等 横三〇〇センチ 令和元年(二〇一九年) 島根県立古代出雲歴史博物館蔵
『賀茂岩倉遺跡出土 銅鐸(小)』
全十九個 青銅製 最大高三二・三センチ 弥生時代 前二~前一世紀 国宝 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
『賀茂岩倉遺跡出土 銅鐸(大)』
全二〇個 青銅製 最大高三二・三センチ 弥生時代 国宝 前二~前一世紀 文化庁(島根県立古代出雲歴史博物館保管)
賀茂岩倉遺跡は荒神谷遺跡にほど近い場所にある。ここで平成八年(一九九六年)に三九個もの銅鐸が発見された。銅鐸の一括埋納の例はそれまでも知られており、滋賀大岩山遺跡で二四個、兵庫桜ヶ丘遺跡で一四個がまとめて発掘された。しかし賀茂岩倉の三九個はそれを大きく上回り今のところ最大級である。
それは従来の仮説を覆す大発見だった。哲学者で文化史家の和辻哲郎は彼の時代の発掘調査結果から、「九州地方は銅剣・銅矛文化圏」、「近畿地方は銅鐸文化圏」という仮説を立て長い間支持されてきた。しかし九州からも近畿からも離れた出雲で大量の銅鐸が発掘されたことは、銅剣・銅矛、銅鐸で文化圏が区分されるわけではないことを示している。
『模型 賀茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元』からわかるように銅鐸は横の羽根のような部分(鰭と呼ぶ)を上にして規則正しく埋納されていた。また銅鐸は小型のものと大型のものがあり、大型銅鐸の中に小型銅鐸を入れる形になっていた。
出土した銅鐸のうち高さ三〇センチ前後の小さめの銅鐸は一九個ある。荒神谷発掘銅鐸のように使われた形跡はないが、簡素な模様なので比較的早い時期に作られたと推定される。高さ四五センチ前後の大型銅鐸は二〇個あり、上部に動物などが鋳られている物もある。銅鐸に限らないが大型で絵や模様が細緻になるものを作れるようになるのは制作技術が確立されてからである。大型銅鐸は小型銅鐸より時代が下る(新しい)だろう。
また発掘された全三九個のうち二七個の銅鐸が、十六組の同じ鋳型から作られていた(同笵関係と呼ぶ)。一四個には荒神谷遺跡発掘銅剣と同じ「×」印が彫られていた。賀茂岩倉と荒神谷は密接に関係していたことがわかる。
もちろん文書資料等が一切ないわけだから、誰が何のために大量の青銅器祭器を一括埋納したのかはわからない。出雲では今のところ弥生時代の巨大集落は見つかっていないので、九州や近畿の力のある首長が出雲を神域・霊域とみなして青銅器祭器を埋納した可能性はある。
しかし一方で出雲の有力首長が埋納した可能性も皆無ではない。ヤマト王権がまだ成立していない弥生時代なので、出雲地方に強大な小国家が存在していたことの証左と考えることもできる。
やつめさす
出雲
よせあつめ 縫い合わされた国
出雲
つくられた神がたり
出雲
借りものの まがいものの
出雲よ
さみなしにあわれ
出雲出身の詩人・入澤康夫は詩集『わが出雲・わが鎮魂』(昭和四十三年[一九六八年])で出雲を「よせあつめ 縫い合わされた国」であり「借りものの まがいもの」であると描写した。これはまあその通りだろう。
飛鳥時代後期の律令時代には神々の国・出雲という共通理解(共同幻想)ははっきり確立されていた。それ以降の出雲の地位は不動で一直線である。しかし時代を遡れば遡るほどその根拠は曖昧になってゆく。神域・出雲の根底は不在なのだ。にもかかわらず出雲がわたしたちを惹き付け詩人が詩のテーマに選んだのは、出雲が強い求心力を持っているからである。
僕は古美術が好きでときおり骨董を買うが、骨董を買い始めた頃、古い壺や鏡をひっくり返して裏を見ると「日本」と書いてあるのではないかという幻想を持っていた。それはまったくの幻想に過ぎないが、求心力がなければ人間の思考はまとまらない。体系化しない。出雲神話はその典型だろう。
核のない生成があり得ないのは古代人も現代人も同じである。ある核を中心に古代人は神話を紡ぎ祭器などを作った。現代人はそれを元に神話や考古学的成果を体系化し、長い歴史を束ねて日本文化の本質を明らかにしようとしている。ただ核の正体を探れば根底が不在なのは古代人も現代人も同じである。強力な求心力だけが根底にあるのであり、その先に進めば必然的に高天原や黄泉国といった完全な不可知になる。
鶴山裕司
(2020 / 02 / 17 21枚)
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