鶴山裕司さんの『現代詩人論』『番外編 入澤康夫が現代詩だった。』(中編)をアップしましたぁ。金魚屋から『夏目漱石論-現代文学の創出』を好評発売中の、鶴山さんによる入澤康夫論です。入澤さんは二〇一八年十月十五日にお亡くなりになりましたが、単なる追悼ではなく、戦後の詩史を総括した上で入澤氏の詩業について論じておられます。中編から具体的な入澤康夫論に入ります。全3回で、下編は来月4月2日に掲載します。
『入澤康夫が現代詩だった。』の『。』は言ってみれば鶴山さんによる断定ですね。この人、こーゆーことをへーきで書くから詩人さんたちから嫌われるんだな。鶴山さんは本質的に現代詩と呼べるのは入澤康夫と岩成達也だけであり、それ以外の詩人たちは戦後詩と現代詩の中間、あるいは抒情詩と現代詩の中間的作家であると書いておられます。正しいです。でもガン無視されている。がんばってちょーだい(爆)。
戦後詩人を自称する詩人はほとんどいないでしょうが、多くの詩人たちが現代詩を称しています。しかし歌誌や句誌を読んでごらんなさい。歌人や俳人は現代詩は見る影もないなぁ、現代詩の時代は終わったなぁ、と言っております。「文學界」の巻頭はずっと現代詩でしたが、いつのまにか短歌や俳句、あるいは詩的エッセイなども載せるようになってます。詩の世界のみならず、文学の世界で現代詩が前衛だった時代は名実ともに終わっている。現代詩の可能性が尽きたことを認めないのは詩人さんたちだだなぁ。取り残されてますねぇ。
もち一番大事な問題は、ある文学動向の影響力が尽きたときにどうするのか、新たに何を生み出すのかということです。そのためには、一度はっきりとした姿勢で近過去を総括する必要があります。詩で一般受けするのは抒情詩ですが、詩人たちの大半は戦後詩や現代詩に代表される、いわば前衛的な試みを最も重要な詩の仕事だと認知してきました。それをうやむやにして売れるかもしれない抒情詩にすり寄るのは堕落ですね。詩人としての矜恃があるなら、なんとしても新しい前衛の旗を掲げなければならないわけです。
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