佐藤知恵子さんの文芸誌時評『大衆文芸誌』『オール讀物』の2連投です。『No.128 井上荒野「好好軒(はおはおけん)の犬」(オール讀物 2018年03月号)』、『No.129 黒川博行「上代裂(じょうだいぎれ)」(オール讀物 2018年04月号)』を取り上げておられます。
今回はなんといっても井上荒野さんの「好好軒(はおはおけん)の犬」ですね。大衆作家として作品は量産しておられませんが、素晴らしい小説家です。つーかなぜ井上荒野が直木賞作家で、暗黙の了解として大衆作家に分類されてるんでしょ。どー見たって読んだって荒野先生は純文学作家だなぁ。本が売れてるから、あるいは女性作家で男性作家中心の文学者賞選考委員にはよくわかんないから大衆作家分類といふのは、ちょっと問題があります。
もちろん純文学と大衆文学の区分は読者にはあまり関係がありません。面白い本、スリリングな本が売れるだけのことで、読者は文学業界のルールや書店の棚の占有率を気に留めていない。だけど作家は意外なほど文学業界の区分に苦しむのです。純文学作家という色分けなら内容にあまり口出しされない代わりに本があんまり売れない(笑)。大衆作家区分ならとにかく作品量産できるのが当たり前でしょ、となって内容も売れるモノでないとダメ。内容に対するダメ出しもキツイです。
じゃ中間はないのか。一昔前は純文学でデビューして、中間小説に幅を拡げてゆく作家がたくさんいました。中間小説って純文学と大衆文学の中間にある作品といふ意味です。遠藤周作の『沈黙』なども出版当時は中間小説でした。しかし現在では昔より純文学と大衆文学作家の区分がハッキリしています。一握りの突出した大衆文学作家を除けば、大衆文学のあり方は明治時代からちっとも変わっていません。変わったのは純文学作家の方です。誰もよく把握できていない〝文学的価値〟にがんじがらめになって、かえって純文学の書き方や社会的ステータス(んなものあるんかいな)に固執しているように見えます。
この現実制度を作品としても批評的パラダイムとしても壊し、新しい文学の姿を提示するのが文学金魚の一つの目標です。作家の多くはそれはムリだ、既存制度に乗っかる方が得だと言います。石川はそうかもしれませんね、と答えることにしています(爆)。だけど物事は変えようと思わなければ変わらない。変えようという強い試みがあって初めて、当初の目標の十分の一くらいの現実が変わるのが世の中といふものです。ただ何もしなければなんにも変わらない。じょじょにじり貧になっている文学の状況がいつまでも続くといふことです。
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評 『大衆文芸誌』『No.128 井上荒野「好好軒(はおはおけん)の犬」(オール讀物 2018年03月号)』 ■
■ 佐藤知恵子 文芸誌時評 『No.129 黒川博行「上代裂(じょうだいぎれ)」(オール讀物 2018年04月号)』 ■
■ 第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
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