今月号は、なんといっても井上荒野先生の「好好軒の犬」よ。荒野先生は井上光晴先生のご息女で、直木賞作家でございます。光晴先生はいわゆる無頼派ね。原一男監督のドキュメンタリー映画『全身小説家』をご覧になった方はおわかりですわね。アテクシ若い頃に、吉祥寺の飲み屋さんで光晴先生をお見かけしたことがござーますわ。
光晴先生はもんのすごい嘘つきよ。ただ社会的には非難されるでしょう光晴先生の嘘を責める人はいないわね。フィクショナルな嘘で出来上がった小説家像が光晴先生の肉体と化しているのよ。普通の感覚では理解しにくいけど、そうなんだから仕方ないわ。同じようなタイプに中上健次先生がいらっしゃるわね。中上先生が紀州の被差別部落出身なのはホントですけど、ドカタ仕事などで社会の底辺から小説家として身を起こしたetc.ってのはほぼ全部嘘ね。おっきな土建屋さんのボンボンだって言っていいですわ。
荒野先生の秀作を読むたびに、なぜこの先生が直木賞作家、つまり大衆小説作家に分類されているのか不思議でなりませんわ。荒野先生と江國香織先生は直木賞作家でいらっしゃいますが、どー見ても純文学作家だわ。「好好軒の犬」は、杓子定規に言えばお父上の光晴先生がモデルとして設定されています。でもそれは大した問題ではありません。この小説で描かれているのは小説でしか絶対に描けない女の心の揺らぎよ。大衆小説的なスッキリ爽快な物語展開とはまったくもって無縁です。しかもそれが三十枚くらいの小説に凝縮されていますの。どうしたって純文学よね。
好好軒は小さなラーメン屋で、光一郎がいない昼間などときどき出前を取ることもあったのだけれど、先週、火事を出して全焼してしまった。(中略)
駐車場の端には大きな檻があって、そこも延焼したらしくひどい有様になっている。私は檻をなるべく見ないようにするけれど、「わんちゃんたちは?」と海里が聞いた。
「逃げたんじゃないかしらね」
私は海里にというより、むしろ自分のためにそう答える。檻の中には二匹のダルメシアンが飼われていた。閉じ込められたまま焼け死んだなどと考えたくはない。実際には、店の人たちの安否についてさえ知らないのだけれど。
(井上荒野「好好軒の犬」)
「好好軒の犬」の主人公は小説家光一郎の妻の私です。時代設定は戦後まもなくで、幼稚園に通う一人娘の海里とお手伝いのアヤちゃんと住んでいます。決して美男子とは言えない光一郎に私はどうしようもなく惹かれています。「小説は光一郎にとって、革命の手段だった。けれども運動の矛盾点を批判する小説を書いたことで、党から除名された。その後も彼は世界を変えようとしている。もう、どこにも属さず、ただ小説を書き続けることで。このひとはぞっとするほど孤独だと、ときどき感じる。たぶん彼の、この世界に対する怒りや失望が、あまりにも純粋なせいだ。人間が純粋な部分を持ち得ることの貴重さと悲しさを、私は光一郎という男から知ったように思う。だから私は、せめて自分だけは彼のそばにいようと思う。それが私が、光一郎の妻でいる理由のひとつだ」とあります。
しかし極度な純粋さを持つ男はえてして現世的な矛盾にまみれた存在です。光一郎は何度も浮気します。モテるんですね。またそれは過去の話ではありません。家にいた私が電話を取ると、「柏田光一郎さんのお宅でしょうか」「私は鐘堂といいます。鐘堂るり江の姉です。柏田さんは今日帰ってくるんですか」と荒い声で女が尋ねます。不在だと言うと女は要件を言わずに電話を切ってしまいました。
私の心はざわつきます。夫に鐘堂るり江の姉から電話がかかってきたと伝えると、そっけないふりをしていますが明らかに動揺しています。光一郎は唐突に二三日旅に出ると言い出します。私は女がらみだと思いますが何も言いません。ただ私は夫の留守中に小説を書き始めます。光一郎が常々「あんたは絶対、小説が書けるはずだ」と言っていたからですが、それだけではありません。夫が「世界を変え」るための「純粋」さを持っているように、私もまた純粋です。ただ私の純粋さは夫に向かっている。小説を書くことで自己顕示したいという欲望は私にはない。しかし書けば何かが露わになってしまう。小説を書くことは、破ってはならない禁忌を犯すことだということを私は知っているのです。
それはやっぱり不安の物語になる。好好軒の犬にまつわる陰惨な噂。(中略)以前は、夫の恋人が自殺未遂した。語り手の女は夫に言われて、恋人の病室に向かった。彼女の入院費を払ったり、彼女に湯飲みとか、甘いものとか、きれなタオルなどを渡すために。それからたぶん、彼女の恋人は、こういうときに妻を寄越す男なのだということを彼女に知らしめて、絶望させるために(それは語り手の女の思惑というよりは夫の思惑だ)。
あの時と同じようなことがきっとまた起こっているのだろう、と語り手の女は考えている。(中略)気がつくとなぜかいつもは通らない裏通りを歩いていて、そこには朽ちかけたような産院がある。産院。そうか、そういう可能性もあるわけだ、と語り手の女は大笑いしたいような気持ちで思う。(中略)
夫が、突然旅に出る。明後日には帰るよ、と言い残して。本当だろうか。本当に帰ってくるのだろうか。(中略)夫は帰ってこないかもしれない。「姉」や、その姉が口にした名前の女のところから、戻ってくるかもしれないが、私の元へ帰り着く前に、血に飢えたダルメシアンたちに襲われて、殺されてしまうかもしれない。自分がそれを望んでいるのかどうか、やっぱり語り手の女にはわからない・・・・・・。
(同)
書いてしまった小説には、私の絶望が色濃く表現されています。夫のように、私が世話してやった夫の恋人のように、私もまた深い絶望の中にいます。ただ最も絶望しているのは私と夫の光一郎なのです。その意味で二人はもう切り離すことのできない有機体です。私の書いた小説は私のものであって私のものではない。
「あなたの名前で出すならいいわ」
「そっちのほうがいいの?」
光一郎には、私の答えがわかっていたようだった。
「ええ、そっちのほうがいい。小説家にはなりたくないの」
「じゃあ、そうするか。きっと批評がたくさんつくぞ。みんな俺の小説だと思って評を書くから、面白いことになるぞ」
その科白も、あらかじめ用意されていたように感じられた。大丈夫なのに、と私は声を出さずに夫に言う。私はあなたの妻以外のものにはなりたくないのだから。
両親の手を握る海里の手に力がこもる。私たちは好好軒の前に差しかかる。大丈夫大丈夫、悪い犬が来たらお父さんがやっつけてやるから。光一郎は娘に言い、悪い犬じゃないんだよ、かわいそうな犬なんだよ、と海里は言う。
(同)
私の小説を読んだ光一郎は、出版社に約束していた小説がまだ出来ていないので、新人作家の作品として私の小説を渡していいかと上機嫌で聞きます。内容には一切触れずに。私は光一郎名義で出すならいいと言ったのでした。
夫は私が何を言うかわかっており、私は夫の答えを予想しています。これは小説でしか描けない。論理では決して説明できない。私は好好軒の犬のように檻に閉じ込められ、火事で焼け死んでしまう存在なのかもしれません。あるいは子供たちの間で密かに語られているように、店主によって定期的に屠殺され、チャーシューに加工されて食べられてしまう存在なのかもしれません。だけどそんなことはどうでもいい。
この自己顕示欲のない、だけど強い意志を持った囁きとして世界の底を流れており、確実に世界を裏側からしっかりと支えている女のエクリチュールの意味や感覚を、ほとんどの男の作家は理解できないんでしょうね。だから井上荒野先生の小説を正確に評価し読み解けないんだわ。「好好軒の犬」は傑作でございます。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■