うたうた小説を読み飛ばすのはよござんすね。アテクシの場合は快楽よ。それが楽しいわけ。もちろん自他ともに認める最強オバサンの年になっていて、経験値も耳学問も美魔女のファンデーションくらい厚くなっておりますから、ちっとやそっとじゃ驚きませんことよ。あーこりゃ下手ですわねぇ、ん~このくらいのオチでまとめるかぁ、あらすんごくお上手じゃないとか思いながら読んでるわけでござーます。ただま、小説を読むのが快楽って人種が年々少なくなってるのは確かなことね。肩身が狭いわ。「お局さまぁ、読書ってどーやってもインスタ映えしないじゃないですかぁ」といふかわいこちゃん社員の声が聞こえてきそうですわ。
でもこっぱずかしいって言えば、どんな楽しみだって視点を変えれば恥ずかしいものよ。「地下アイドルの追っかけやってます」って子は、ちょっとはにかんだりするのが普通よね。だけどエヴァについてえんえんと語り始める子って、なんだか自信ありげなのよ。少なくとも毎号オール讀物読んでますっていうよりは現代的な感じがするわね。これってなんなんでしょうね。もちろんアテクシは読書好きで文学好きが高尚な趣味だなんて言うつもりはまったくござーませんわ。でもアテクシのようなコワモテオバサンですら、なぜ読書が趣味ってのが、チクッと時代遅れの感じがするのかってことよ。
アニメなんかのサブカルは、現実にはメインカルチャーと言っていいわけですけど、大きく飛躍し始めたのはそんなに前じゃないわね。それについて語る評論が出始めたのはごく最近のことよ。マスの欲望を直接的に反映したジャンルだから、アニメについて語ると当然のように社会全体を語ることになるわね。それがアニメ論を超えた一般的通有性を持つってこと。だけど表現媒体は文字という古色蒼然としたものだけど、社会の鏡で一般的通有性を持つのは小説も同じよね。質は同じなんですけど小説の方が古びて見えますわ。
比喩で言えば、番茶も出花と出がらしの違いね。アニメなんかがコンピュータを中心とした画像音声表現、つまりマルチメディアと相性がいいのは当然ね。簡単に言うと新しいわけ。今のところまだまだ新しいものに見えるって言ってもいいわね。こういう新しいジャンルって語りやすいのよ。あんまり頭のいい人ぢゃなくても語る余地が見つかるってこと。ほら戦後のある時期、アテクシの若い頃って、現代詩がすんごく頭よさげで新しく見えたわよね。今振り返ると表現として新しくて語るべき余白が大きかったからよ。新しさの余白がなくなった今、現代詩の詩人さんたちって、いまだに現代詩が新しいって信じたい頭悪そうな人たちに見えるわよね。安穏と新規ジャンルによっかかってた面があるのよ。
同じことがアニメを中心としたサブカルにも言えるわね。だけどエヴァやハルヒについてとくとくと語るのは、けっこうご年配で、アテクシと同じ五十代の作家さんが多いわ。もそっときついことを言うと、小説でも文芸評論でもいまいち芽が出ない作家さんが新規ジャンル開拓に乗り出していることが多いわ。でも実は昔ながらの頭でっかちでサブカルを論じてるから、書いてることと現実が本質的なところでズレてるのよ。ただそういうムダな仕事の積み重ねも含めて、サブカルがカルチャーとしての骨格を獲得していくのは間違いござーません。
じゃあどーやっても新しさの余白がない小説というジャンルはこれからどーなっちゃうのかしら。時代遅れの人たちの密かな趣味になっちゃうのかしらね。アテクシは読むだけ~の人ですからそんなこと心配する義理はないんですけど、作家様たちに、なぜ小説でなければならないのかという意識が希薄だと思いますわ。そりゃ今は先が見えない時代ですから、みんな自分のことで手一杯よ。だけど作家の先生くらい、ちょっとはパブリックな意識を持っていただきたいですわね。わたしたちはミーイズムから逃れられませんけど、一方でミーイストが大嫌いでもあります。先生と呼ばれたいならミーイズムを抜けたパブリックな意識を持ってなきゃダメよ。
「本が好きなんだね」
あいかわらず万葉は何も言わない。(中略)
「・・・・・・まなくていい」
突然万葉が口を開いた。
「本なんか、読まなくていい」
「別に楽しくない」
万葉は薄い唇を尖らせて言う。
「じゃあさ、なんで読んでるの?」
「どうしても眠れない夜に、眠らない理由ぐらいにはなる。あと・・・・・・」
「あとは?」
「喋りたくないときに、黙っている理由になる」
(中江有里「万葉と沙羅」)
中江有里先生は女優・タレントとしてご活躍中よ。以前「シャンプー」という作品を取り上げさせていただいたことがあるわ(No.109)。タレント作家様の中では一番小説がお上手かもしれませんわね。「万葉と沙羅」は通信制高校に通う二人が主人公です。決められた単位さえ取得すれば卒業できる高校です。いいわねぇ。アテクシも若い頃にこういう高校が身近にあったら、絶対ふつーの高校やめてたわよ。沙羅はそこで幼稚園時代の友達・万葉に再会します。幼稚園の頃は大の仲良しで家ぐるみの付き合いだったんですが、万葉が引っ越してしっまったので居場所すらわからなくなっていたのでした。
十数年ぶりに会った万葉は背の高い少年になっていましたが、無口で無愛想でした。沙羅が積極的に声をかけるのに、ちゃんと返事すらしてくれません。万葉に興味をもった沙羅はひそかにあとをつけ、彼が図書館に通っていることを突き止めます。ただ彼は単純な本好きの少年ではないようです。しつこく話しかける沙羅に「本なんか、読まなくていい」と答えます。ちょっと陰のある少年ですね。
「ぼくは両親が別れて、母さんが死んで、再婚した父さんとも一緒に居づらくなって・・・・・・。誰の世話になるのもやめようって決めた。今は叔父さんの世話にならざるを得ないけど、働きながら勉強して、早く自立しようと思って今の高校に入った」(中略)
「こないだ知多半島に行って、母さんの墓参りをしたあと、『ごん狐』に出てくる山のモデル(中略)の近くを歩いたんだ。(中略)ぼくは物語くらい幸せに終わってほしいと思うから『ごん狐』を読むと、無性に悲しくなる・・・・・・でも沙羅は言った。ごんは兵十に気づいて貰って嬉しかったんじゃないかって。(中略)物語は変わらなくても、解釈が変わったらこれまで感じたことのないような、とても幸せな気持ちになった。そういう風に思えたのは沙羅のおかげだ・・・・・・沙羅は、役たたずなんかじゃない」
(同)
二人は図書館で会い本を通して交流を深めていきます。なぜ万葉が本好きなのかという理由も明かされます。両親の離婚と母の死、父の再婚と海外赴任で居場所のなくなった万葉は、古本屋を経営している叔父と同居することになったのでした。古本屋の手伝いをすることになったので本が好きになったわけです。沙羅はゲームばかりしている少女でしたが、万葉へのほのかな恋心からじょじょに本を読むようになります。また彼女が普通の高校をやめた理由はいじめを受けたことにあります。自分はドロップアウトしたダメな子だと悩んでいる少女なのです。
沙羅と万葉は子供の頃に読んだ『ごん狐』について話し合います。兵十が獲ったウナギをごん狐は盗みますが、それは兵十の病気の母親に食べさせるためのものでした。母親はウナギを食べることなく亡くなります。悪いことをしたと思ったごん狐は兵十の家に栗やキノコを運ぶようになります。ある日家の中にごん狐がいるのを見つけた兵十は、火縄銃で撃ち殺してしまいます。もしかしてごん狐が栗やキノコを持ってきていたのではないかと思った兵十が尋ねますと、死ぬまえに「そうだ」とごん狐が答えた、というよく知られた話です。
万葉は『ごん狐』は悲劇だと思っていましたが、沙羅は違いました。「ごんは兵十に気づいて貰って嬉しかったんじゃないか」と言ったのです。万葉は「解釈が変わったらこれまで感じたことのないような、とても幸せな気持ちになった。(中略)沙羅は、役たたずなんかじゃない」と少女を励まします。小さな恋のメロディ的な展開ですが、この小説のテーマは少年少女の淡い恋にはありません。いじめなどの社会問題でもない。〝本と読書〟がテーマです。
「食べ物の味を表す言葉は、まろやか、こくがある(中略)数え切れないほどあるけど、その食べ物が美味しければ美味しいほど一言では収まりきれない。読書だって同じで、面白いだけじゃなくて、言葉をかき集めて面白さを表そうとするけど、言葉が、自分の語彙が足りないって感じるんだよ。結局読み終わっても、ずっとその本のことを考えている」(後略)
「読書は一人でするものだし、物語も言葉も解釈は人の数だけある。その解釈は自分の頭の中にとどめておくけど、感想として書くこともあるし、こうして話すのは合評というひとつの読書で・・・・・・どれもとても面白い」
そこまで言うとハッとした表情を(万葉は)うかべた。「じゃ、じゃあ」と背を伸ばした独特の走り方で行ってしまったあとに、正体不明のクラムボンのような光がキラキラと飛び交って見えた。
(同)
「万葉と沙羅」という小説は、〝わたしたちはなぜ読書をしなければならないのか、なぜ読書は楽しいのか〟という問いを巡る一種の教養小説でござーますわ。万葉君が語る読書の意義はアテクシたちの世代にとってはごく一般的な考え方で、とりたて新鮮味はございません。でも新鮮さもまた相対的なものよ。古着を新しく感じるのと同じで、世代が変われば文学を新鮮なものとして感受できる人が現れてくるの。サブカルを新しいと感じる人ほど多くはないと思いますが、文学を新鮮な目で見る人だっているってことよ。
中江先生の世代は、わたしたちとはちょっとだけ違う視点で文学を捉えておられます。でもそのちょっとだけ違うってのが重要なの。新鮮さって一種の熱気よね。熱気があるからお作品に勢いが出ますの。ただ多かれ少なかれ少年少女の頃から小説家になりたいと頑張ってきた作家さまには、そういう熱気はないと思います。そういう意味で、芸能人として才能のある皆様が文学の世界に参入しておいでになるのはいいことよ。新鮮な目で文学を見て、面白い表現として楽しんで小説を書き、読者に提供することができるのよ。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■