今月号の特集は「江戸の元気」よ。大衆文芸誌で時代小説が掲載されない号ってほとんどないけど、オール様はホントにお好きね。で、「江戸の元気」っていう特集タイトルには二つの意味があるわ。一つは文字通り読むと元気になるってこと。もう一つは時代小説を掲載すると雑誌や本が売れやすいってことね。もちろんこの二つは密接に関係してますわ。じゃあ読むと元気になるって、具体的にはどーゆうことでしょうか。
水戸黄門的クリシェっていうと、バカにする方もいらっしゃるけど、人間って安心できるコンテンツが好きなのよ。「ドクターX」の「私、失敗しないので」とか、「メロンです、請求書です」と同じね。ほとんどの時代小説、特に長く続いているお作品にはそういったクリシェがありますわ。人はハラハラドキドキしながら、最後は安心できる落としどころで終わるコンテンツが大好きなの。多少受動的で自堕落な快楽ですけど、物語の中でも緊張を強いられるのはイヤって人が案外多いのよ。大衆小説はエンタメですからね。
もちろん現代モノでそういうクリシェ小説を書いておられる作家様も大勢いらっしゃるわ。これもたいていは続きモノね。作家様それぞれに読者が付けば売れっ子ってことになりますけど、時代小説の場合はたくさんの作家様たちによって作らる、大きなパイがあるって言ってもいいですわ。
時代小説は歴史や町の地理に詳しくなくちゃならないとか、髪型とか小物とか、当時の人たちが使った道具に関する知識がなくちゃならないとか、なんとなく書くのが難しい印象がありますわね。でもそーじゃないわ。かなりの決まり事が最初にあって、それさえ飲み込んでしまえば現代小説よりもはるかに書きやすいっていう面がございますの。
時代小説は大きく二種類に分類できるわね。一つは史実を扱った小説よ。関ヶ原の合戦とか織田信長とか、歴史上の史実や人物をテーマにした小説ね。時には大胆なフィクションを設定することもござーますけど、史実は変えられないので大枠は最初から決まってるわ。時代考証も意外とピンポイントで調べがつきます。ただ史実がテーマである以上、そんなにいつまでもお作品を引っ張れないわね。徳川家康全十巻とかになるわけでございます。
もう一つはその気になれば、いつまでもシリーズ化できるお作品よ。一時間連続テレビドラマと同じでいつものメンバーが現れて、事件を解決してゆく時代小説が典型的ね。じゃあ現代モノと何が一番違うのかと言うと、秩序よ。江戸は封建社会ですから、身分による序列がしっかりあります。身分差は基本的に越えられません。ですから旗本とか盗賊改とか、ある組織の中でトップに立つ人(たいてい主人公ね)が人格者で頭が切れると、すんなりと物語を動かしやすいの。主人公の〝徳〟が社会に秩序をもたらすという、エンタメでかつ理想的社会倫理を表現したお作品でございます。
ただあんまり身分社会フレームがきついと物語のダイナミズムが失われるわね。そのため史実に即さないフィクショナルなヒーロー、ヒロインが登場する時代小説は、幕末が舞台ということが多ございます。具体的に言うと天明から天保時代頃ね。天明以前になると資料が少ないし、まだ戦国時代の遺風が残っていますから、泰平の世の事件解決モノには適さないのよ。天保以降になると多かれ少なかれ明治維新の足音が聞こえてきますから、これも別の問題が起こるわね。
天明から天保時代にかけては江戸文化の爛熟期で、まだまだ泰平の世なの。だけどじょじょに現代に近い人間の自我意識が芽生えている時期でもあるわ。結局は身分社会フレーム(社会倫理秩序)に物語の落としどころが設定されていても、それなりに強い人間の自我意識は物語を泡立たせるアクセントになります。戦国や明治維新といった社会全体の動乱に巻き込まれず、現代と同じような平和な世の中で起こる事件を解決してゆくのに都合のいい時期なのね。時代小説ですからもちろん緻密な立証は不必要で、スパンと倫理で物語を締めることができる爽快感も演出できるのよ。
時代小説の特集を組んだり時には雑誌の半分以上のページを時代小説で埋められるのは、それだけ時代小説の書き手の数が多くて、書きやすい小説ジャンルだってことです。理由は時代小説自体に案外簡単なクリシェがあって、それを踏まえれば書けちゃうからですけど、それだじゃ普通の時代小説作家様よね。入れ替わり立ち替わり参入してくる時代小説作家群の中で目立つには、多かれ少なかれ時代小説のクリシェを崩す必要がございますわ。
兄が突然に逝ってから、三年が経つ。(中略)
兄、新里結之丞が背を割られた無残な姿で見つかったのは、三年前のその夜だったのだ。(中略)
母の都勢も妻の七緒も、心を炙る業火に耐え忍ばねばならなかった。三年が過ぎた今も、兄を息子を夫を失った痛手に耐え続け、ときおり呻き、歯を食いしばり、こぶしを握っている。
ただ、新里家の当主となった林弥が若年であること、結之丞の死に様が士道不覚悟と見做されたことを訳合として、減じられていた家禄は、兄の命日の前に戻された。
(あさのあつこ「新樹、きらめく」)
あさのあつこ先生は少年小説の傑作『バッテリー』で有名ですけど、いろいろなタイプを書き分けることができる作家様でございますわ。「新樹、きらめく」には多くの時代小説に感じるような臭みがないわね。あさの先生独特の青春小説の新鮮さがあります。
主人公はまもなく元服を迎えようとする十五歳の新里林弥です。十五歳年上の、父親代わりの兄結之丞がいましたが、何者かに殺されてしまいました。物語は林弥が結之丞の墓参りに出向くところから始まります。この出だしだと、読者は当然仇討ちモノを予想するわね。もちろんあさの先生は、そういった単純なクリシェには向かいません。
林弥の許に誰かが嫁してくれば、七緒はどうなるのか。前当主の寡婦という立場は、あまりにあやふやで危うい。(中略)
「林弥どの、でも、いずれはそういう日が来るのですよ」
七緒が僅かに前屈みになっていた身体を起こす。
「来るのです」
眸の奥に火が点った。蒼い火がちろちろと揺らめく。
(同)
「あたしが身体で稼いだものさ。お武家さまってのは嫌がるだろう。女郎の穢れ銭なんか触るのも嫌だってお人もいるからさ。(中略)けど、あの人はそんなこと言わないよね。あたしの稼いだ銭で買った線香を手向けても、迷惑だなんて言わないよね」
「言うものか。むしろ、喜ぶさ。おそでの線香だ。十本も二十本も立ててくれってせがむに決まってる」
「あはは、それじゃ煙たくてどうしようもないね」
おそでが口元を押さえる。
目尻から涙が一粒だけ零れた。
(同)
読み進めると「新樹、きらめく」が、本質的には女の物語だということがわかってきます。林弥は兄嫁の七緒から元服を機に嫁をもらうよう強く勧められます。そうなれば七緒の立場は危うくなる。実家に戻されるか、新里家に残っても肩身の狭い思いをしなければなりません。ただ「林弥どの、でも、いずれはそういう日が来るのですよ」「来るのです」という七緒の言葉には、自ら結末を、いずれ来る困難を早く受け入れてしまおうという覚悟があります。
また林弥は兄の墓参りを終えると女郎屋に遊女おそでを訪ねます。政変に巻き込まれ非業の死を遂げた親友の源吾が愛した女郎です。おそでは二十歳も年上の商人に身請けされることになったと話し、源吾の墓に線香を手向けてほしいとお金を渡します。「おそではわざと、下卑た女を演じている」とあります。またおそでは「あの人と行徳の爺さんだけが、あたしのことを本気で気遣ってくれた」と言います。死んだ兄と親友の死は取り返しがつきませんが、それを受け入れ、耐えながら、先に進もうとする女二人がいます。当然、十五歳の若者林弥も何かを決断しなければなりません。
「嫂上にはずっと、新里の家にいていただきます。母上のためではなく、それが・・・・・・わたしの望みです」(中略)
都勢がゆっくりと立ち上がった。(中略)
老いた頬を涙が伝った。
「母上」
「母に構うことはありません。お行きなさい」
「はい」
(同)
林弥は兄結之丞の妻の七緒を嫁にもらうことを決心します。フェアリーテールと言えないことはないですが、林弥の十五歳という年齢が少し低く設定されているだけで、江戸時代にはこういった結婚は皆無ではありませんでした。つまり「新樹、きらめく」は江戸的な抑圧された女性の立場と心をきっちり描きながら、大衆小説的結末に物語を落としているわけです。ムリがなく新鮮です。さすがだわぁと感動しましたわ。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■