前回はまったり系のコンテンツ(小説)を取り上げましたが、今回はその逆のリアリズム小説です。平穏無事な日常を描くまったり系のコンテンツ最大の魅力はノスタルジーでございます。美化されていなければノスタルジーは成立しないわけで、まったり系コンテンツにはハピーエンドがおおござーます。それに対してリアリズム小説の主人公は現実の残酷に直面して辛酸をなめることが多い。もちそれを通過してハピーエンドになる場合もありますが現実の残酷が描かれているのが普通です。
ですから乱暴に言えば、まったり系のコンテンツはハピーエンド、リアリズム小説は悲惨を描く作品ということになりますわね。じゃ、ハピーエンドと悲惨を両方描くことはできないのでしょうか。できなくはないですがちょっと難しそうね。リアリズム小説で悲惨を通過したハピーエンドが描かれることはありますが、正確に言うとそれは一種の救済よね。作家の優しさと読者のニーズが救済になると言ってもいいわね。
そういう意味では小説は短編であろうと長編だろうと一個の器よ。テーマに関して言えば小さな器だと言うことができます。いろんなテーマを詰め込むことはできないの。小説作品で描かれるテーマは基本的に一つ。だから作家様、特に大衆作家様は次々にお作品を書いてゆかれるのですわ。
けれど、皆が皆、「いい子」というわけじゃない。この学校で働き始めてすぐに知ったことだった。ゴミをゴミ箱に捨てない。廊下には踏んづけられたガムが貼り付いている。トイレの落書き、そのひどい使い方。時には吸いかけの煙草が落ちていることもある。それらを綺麗にするのは、自分のような清掃員の仕事だ。
「何か考えちゃだめだよ。ただ、目の前にあるゴミを拾い、トイレや窓や廊下を綺麗にする。そのことだけに集中して」
清掃の仕事を始めたとき、リーダーの広瀬さんにそう言われた。
窪美澄「赤くて冷たいゼリーのように」
窪美澄さんの「赤くて冷たいゼリーのように」の主人公は高校で清掃員をしている70歲近い男です。「偏差値と学費がやたらと高い文武両道の学校」で何人も東大に現役合格し、スポーツではインターハイに出場しているとあります。しかし清掃員をしていると学生たちのいろいろな面が見えて来る。
トイレを汚しても平気な子、隠れて煙草を吸っている子もいる。「皆が皆、「いい子」というわけじゃない」とありますが特に荒れていない学校でも似たようなものです。主人公は清掃員のリーダーの広瀬さんから決して生徒の言動に口出ししないよう何度も釘を刺されます。それは先生たちの仕事です。ただし「何か考えちゃだめだよ」という言葉が反語であるのは言うまでもありません。
主人公は妻を亡くして一人暮らしです。子どもはいません。ただ主人公にはずっと秘め続けていることがあります。「つきあおうと思えば、女性とつきあうこともできた。性行為もしようと思えば(多少の苦痛を伴ったが)することができた。ほんの少し変わっているところもあるけれど、自分は「普通」の人間なのだと思い込もうとした」とある。年を取り苦悩は薄れてきましたが、それでも男には「自分は真っ黒ではない。けれど、グレイなところがある」という苦しさがつきまといます。
「あのね、あのとき、本当にありがとう。結、うれしかったのに、あんまり痛くてなんにも言えなかったの。ごめんね。おじさんも蹴られたじゃん。それ、結のせいじゃん」
「そうじゃないよ」
「いや、結のせいだよ。結をかばってくれたから」
「・・・・・・もういいんだよ。そんなことは」
「よくない。本当に、本当にありがとう」
「・・・・・・もういいから」
「結、おじさんにお礼をしなくちゃいけないと思う。あの、あそこのカフェでお茶をおごります!」
腕をまっすぐ上にあげながら結が言う。
同
清掃員のリーダーの広瀬さんに止められていたにも関わらず、男はある日、校内でイジメられ殴られていた結という華奢な生徒を救います。清掃員のいるプレハブに連れてゆき怪我の治療をしてやったのですが、結は逃げるように立ち去ってしまった。しかし結は男に助けてもらった恩義を忘れていませんでした。
夏休みのある日、男は街で声をかけられます。振り返ると「ピンク色の髪、ピンクのハート型のサングラスをした女の子」が立っていた。もちろん結です。結は助けてもらったお礼を言い、男にカフェでお茶をおごると言います。それをきっかけに男と結の交流が始まります。70前の男と孫の年の高校生との交流ですから精神的なものです。
ただ結は学校を辞める決心をしていると言います。服装も彼の性自認に合ったものになっている。男は自分を押し殺して生きて来ましたが「今の時代に自分が若かったら、自分は自分のままで生きることができたかもしれない。あの頃はLGBTQという言葉もなかった」と思っている世代です。物語は淡い形で結と主人公の男の、遅ればせのビルドゥングスとして進みます。
それがどんな結末を迎えるのかは実際にお作品を読んでお楽しみください。ヒントは「赤くて冷たいゼリーのように」というタイトルで示されています。「赤」は血、「冷」は暴力です。そして「ゼリー」は食べるものです。男は彼の世代の、彼のそれまでの人生を背負った形で血と暴力を食べる(受け入れる)のです。
ものの数秒の出来事だったのに、百合には漕いでいる人間の顔がはっきりわかった。黒の短髪、筆でさっと刷いたようにしなやかな肩のライン、大きな瞳と濃いまつげ、細く尖った鼻、走行を楽しんでいるようにうっすら開かれた唇。美しい造作だった。今までリアルで、テレビや雑誌で、ネットで見たどんな男より整った顔立ちをしていた。夢を見ているのかと思うほど、現実離れした容貌だった。
百合はすぐに振り返ったが、男の後ろ姿はぐんぐん遠ざかり、小さくなる。男が背負った四角いバックパックと、「Meets Deli」の赤いロゴがかろうじて見て取れた。
一穂ミチ「ロマンス☆」
今号は直木賞の発表号で、一穂ミチさんの単行本『ツミデミック』が受賞なさいました。そそ、芥川賞は「文學界」、直木賞は「オール讀物」といずれも文藝春秋社の文芸誌が発表号なのでございます。芥川賞受賞作は文藝春秋社の「文藝春秋」にも再録されます。今号には受賞作『ツミデミック』から「ロマンス☆」が再録されています。
主人公は百合で四歳の娘さゆみがいます。百合は街で「現実離れした容貌」の若者を見かけます。「Meets Deli」の宅配の仕事をしている若者でした。ウーバーですね。その若者の美貌が目に焼きつきます。忘れられなくなる。百合は「Meets Deli」に宅配を依頼すればあの若者にまた会えると考えそれを実行します。
さゆみが幼稚園に行っている間に、ミーデリを頼むのが百合の日課になった。(中略)日に二度、三度と注文する時もあったが、依然あの美形には再会できていない。(配達員の)アイコンが表示されるまでの「結果待ち」の間には胸が躍り、全身の細胞が活性化するように感じられた。大げさでなく、「生きている」という痺れにも似た実感があった。そして外れても、未来への希望は残されている。次の注文では、あしたの注文では、会えるかもしれない。今こうしている間にも町内を駆け巡っていて、わたしのオーダーが彼のスマホに通知されるかもしれない。希望は百合の心に余裕を与え、雄大のいやみもさゆみのわがままも大らかに流せるようになった。
同
百合はミーデリ(Meets Deli)に頻繁に宅配を依頼するようになります。「日に二度、三度と注文する時もあった」とあるように、それはアディクションの域になっています。美形の男の子に再会したいからですが浮気心からではありません。アイドルなどに入れあげる推し活と同じです。ただ百合のアディクションは夫との不和が原因です。夫は美容師ですがコロナの影響で店が不景気になりいつも不機嫌です。まだ四歳の娘の面倒を見なければならない百合に働いて金を稼げとしつこく言いつのります。そのフラストレーションがアディクションになったのです。
この百合のアディクションは大きな事件を引き起こします。それについても実際にお作品を読んでお楽しみください。ただ百合のアディクションは実は根深い精神の病にまで達しています。短編ですからあっさり描かれていますが、パトリシア・ハイスミスの『愛しすぎた男』や『イーディスの日記』のような長編になり得る主題です。
窪美澄さんの「赤くて冷たいゼリーのように」は大衆小説ではジャンルとして確立されているイジメが主題の小説です。それに昨今のLGBTQが付加されています。一穂ミチさんの「ロマンス☆」はパンデミックを背景として最近の推し活の危うさを極限的に描いています。いずれも大衆小説作家様ならではの時宜を得た、スマートで手馴れたお作品でございます。
佐藤知恵子
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