青山YURI子さんの連載小説『コラージュの国』(第10回)をアップしましたぁ。ラウレン・ブリクセンという架空の人物が登場します。ナイロビ町国に唯一住むことを許された外国人女性で、『彼女は可能性から生まれ、可能性を追うために死んでいったような人物だった。女は可能性について書き続けた。主題はひたすら可能性、可能性の可能性、可能性の可能性の可能性の可能性。『可能性の17乗』という論文を仕上げた次の日、彼女は死んだ』とあります。
ラウレンはナイロビ町国に新たな物語をもたらし(通常の意味での物語ではないようですが)、そのため町の人々は『ストーリーを取り入れて、あと100年は可能性の枯渇、民族の滅亡を身近に感じず暮らせるとみなは喜んだ。子供たちの将来は安泰だ。可能性バブル、憂いなし、豊かに暮らせた時代があった』のでした。
主人公の一人であるアンヘラは、ラウレンのように町国に可能性をもたらしたいと考えるのですが、ナイロビ町国で知り合った教授は『物語はラウレンが書き尽くした。あらゆるお話は彼女によって既に書かれてしまった。町は彼女以降、誰一人受け入れてない。やはり大きな変化を町にもたらすことはリスクなんだ。事実、ラウレンは町の様々なことを変えた。でももう100年経っている。100年に一度の風は歓迎だ』と言います。
教授はまた、『私はもっと、我々が内に蓄えてきた可能性が、資源として外で活用できないかと願うんだ。我々は可能性を生み出すことばかりに関心を持ってきた。それが先祖から受け継がれる営みであり、ただ従ってきた。でも、可能性だって熱があり、消費されるべきものだ。我々はエネルギーを無駄にしている。(中略)もう柔らかくはない、きっとだんだんと硬い全体になっていくんだ。町の一部の人間はそれを危惧して、可能性を少しずつ横流しできないか、よそ者との積極的な交易を作って、できたらこの資源で一儲けできないか、という邪な気持ちを別としても、民の将来のために対策を練っているんだよ』とも言います。
面白いですね。青山さんの思考と感性は確実に現代を捉えています。わたしたちは過去100年間の20世紀に可能性を生み出し続け、それはもう尽きかけている。ただ別の見方をすれば、可能性はほとんど無限大に貯蔵(ストレージ)されている。しかし昔のような可能性の活用方法ではもうダメなのです。青山さん的に言えば、『可能性を少しずつ横流し』することが新たな可能性なのかもしれません。
20世紀的な過去文学、もっと言えば戦後文学などを一生懸命お勉強した若い作家は、従来通りの文学的アトモスフィアに精神と知性を取り籠められているようなところがあります。しかし青山さんのような21世紀的な思考と感性を持つ作家も現れ始めている。この作家は〝新たな野蛮人〟でしょうね(爆)。青山さん的な文学の方向性は正しい。あとは野蛮な自信をもってさらに突き進むことでしょうね。
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第10回)縦書版 ■
■ 青山YURI子 連載小説『コラージュの国』(第10回)横書版 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■